不受不施の話(40

日奥の手紙

 為春は妹のお万の推挙によって早くから家康に仕え、お万の長男・頼宣を補佐して大坂城の冬夏の陣に従い、偉功を立てている。
 家康はそれを褒め、それまで名乗っていた「正木姓」を改め由緒ある「三浦姓」を許したほどである。
 これより先、慶長五年、つまり日奥が対馬へ流された年、頼宣が紀伊藩初代藩主を命ぜられると、為春は国家老として藩の創設に力を尽くしている。
 この間、和歌をたしなみ、仏学の造詣が深く、文武両道の達人としてその名を高めていた。
 ある日、為春は日奥から、お万宛ての一通の手紙を預かった。
 元和元年11月1日付けの書状で、この中の「身延条」に次のようなことが書いてあったのである。
 「然るに今の日乾は何んぞ。先祖代々の御義に違背するや、人の上さえ戒める可しと定め給う。
 何んぞ自身に謗法の供養を受けながら改悔なきおや。
 悲しいかな。天竺の霊鷲山を移したまえる名山が、日乾の代に至って謗法の地となるとは。
 信心の真俗、誰が胸をたたいて悲しまざらんや」~と。

寺報第193号から転載