不受不施二派分派の由来

不受不施二派分派の由来-9.end(中川古鑑)

一、濁法内信心の者所持の本尊可拝哉の事是も施主を立候て頼入本尊を申受候はたとえ濁法の手に渡り候とも拝し候ても苦しかる間敷候又本尊仏像等の開眼をも施主を頼み候て申請候は拝候て苦しかる間敷候子細は其本尊仏像等も施主の主分にて候故彼手に渡り候とも汚れず清浄の本尊にて候拝候ても苦しかるまじく候其方達の身上にても申候はここに濁法内信心の者其方達も施主を立て供養致し候は其所へ行き食布施をも受べく候皆施主の方より受る故其方達は何も不汚清浄の出家にて候題目講の時も施主立て勤むる題目なれば内信の者なれども施主の口を借り唱うる義なる故に其題目は不汚清浄の題目にて候始経導師を勤め候ても苦しかるまじく候其の如く濁法所持の本尊なりとも施主を立て申受候わば施主の主分にて候ゆえ本尊も不汚清浄の本尊にて可有候然れば拝候ても苦しかるまじく候讃州より立賢に遣わされ候書に濁法へ本尊を遣わす事大に子細あり能く授与の根本とは施主の事と見え候

問、濁法の者施主の身を借り作善を勤め施主の口を借るも題目を唱うる義ならば内信心の者の功徳には成るべからず哉

答、いかにも功徳に成べく候其故は内信心の者年忌等の志有之施主立ち施物を出し清浄の出家を頼み聖霊に廻向を致させ候えば廻向の功徳に依て亡魂の得道疑なきことに候然れば内信心の者も施主の本主にて候施主を立て清浄の出家を頼み善根を勤めさする功徳広大の儀にて候間功徳に成べく候此事多義あり

一、讃州堯了上人より立賢へ遣わされし書状に濁法へ本尊を遣わすこと大に子細あり授与の根本を案ぜば不審はあるべからざる事又濁法の本尊僧を頼み開眼して遣わし其後彼手に渡し候えば不拝の由是亦珍義なりと有事最前の如し皆施主ある故苦しからざる儀なり

一、日述上人へ春雄院弟子寂照が尋に施主を立て仏事を勤め候時首経の座に濁法も別題目を唱え候えば紛らわしく候様に存じ候と尋候えば各心入別なる故にくるしからず返答のよし是も法立と濁法と列座なれども濁と不濁と各心入別なる故に紛も無之又濁法にも施主有之候えば同座にても苦しからずの返答と見え候

一、春雄院浅島助七に看経講の本尊授与書の事是は我等も其 に居申す時分より聞及びたることにて候本 の内ちに法立内信心両方を書載授与書を助七と致され候由然れば是も本尊の主は助七にて候間法立の者拝み候ても苦しかるまじく候

一、日堯因州看経講の本尊に内信士女に授与すと書かれ候事是も施主有て申受候て有べく候えばたとえ施主の名はなく候とも苦しからず候若し施主無之候わば吟味有べく候施主有之上にも本尊不拝始経導師相勤むる事悪敷由申候わば昔より施主立て有之は苦しからざる事を失念致し候て申す事に候

一、能破條目の事先年志賢秀学 写越候て一遍見申候無理なる事ども被書候い れざる事にて候末々我等共不通に致す由書札候不通にても毫頭程も迷惑に不存候委曲申遣わし度事共多く候え共眼霞み手振い書状認め難く候間残し候猶かさねて便に可申遣候以上
 申三月(元禄五年 ) 佐州  日庭 判

顧ればこの諍論の起りは助七宗順が始経導師せしを謗法なりと一同糺明したのであるが、日指一党は我情を張りて後には導師せざる者を謗法といい終に導師を唱導するに至った。してみれば日指の一党こそ真に矛盾である。自家憧着である。自立廃忘である。破法である。謗法である。世の中に執情ほど恐ろしき物はなし臭糞に付たる蒼蝿の追えども追えども立ち去らで終に臭糞の為に殺さるるといえる諺も宜なるかな覚驩@等一且の人我情に我身をも打忘れ多くの衆生を悪道に陥入る。実に愍むべきものである。この導師派に又奥方、里方という二派がある。これは備前の金川より奥を奥方と云い金川より里を里方と称えたもので奥方は一名先例派と云い、前例を守りて濁法の導師を勤めない。而かも覚驍ニは一味であった。即ち導師派中の不導師派で、所謂二途不摂の鳥鼠であった。併し後に全て不導師派に帰入した一類もある。又里方の中には別紙、不制紙、或は智法院方という三派があったから、日指一党は四派より成立った各々互に我慢を募ったものである。又この導師派を庭門流とも堯門流とも称えた。これが今の金川の不受不施派の前身である。又江戸の日庭と云うは寛文法難の折青山自証寺を出でて不受を立てたが、清濁の同行同音を勤めたもので、後に世罪に依て佐渡に遠島された。彼れは世出共邪謬に陥ったが堯師と同じく導師派の首領と仰がれた。

説黙日課貞享四丁未十月二十九日の項
従日高氏令見覚眼状( 予興覚眼不通為知世出之様体令日高氏◆復書札)披而見之当秋初頃日庭神奈川新地建立之儀依有訴人召出日庭評定所厳密呵責之上剰衣掛縄令廻庭上三遍之後入籠強令逼迫、歴旬余後押入如縛籠物宿送而配流佐州云云。予思惟日庭出寺之後無遠慮出寺請吊亡魂、剰却公儀建立新地事暫時智謀尤垂大法難雖以法難却可落世間誑惑人科條歟、諸宗之嘲弄一家瑕瑾不可過之云云。

その頃同じく佐州阿仏房を出寺して江戸に居った日養と云うが日庭の邪義を認め京都日相師に通知し、日相師と共に日庭方の謗法を改めさせた。それ故江戸でも日養日庭の両派に別れて居ったのである。この日養は日述日浣日講日相等の諸師と同志の清派である備前地方では清派たる津寺方は導師日指方に区別して不導師派と称えた。又日講上人の支配を受けて居ったから講師派とも称えて居った。今の不受不施講門派は即ちこの津寺不導師派の末流である。
以上は導師不導師両派の分派の由来である。
今や本篇を終わるに当たり参考の為の二派異議を論じてある書名を紹介しよう

講門派方
一、日講上人著   堯了状能破條目
一、日念上人著   能破條目追加
一、日念上人著   愍諭盲破記
一、日新上人著   石上物語
一、        法水養老記
一、        清濁弁明論
一、        折弁評答、復評
一、        覚髢オ盾記
一、        破邪顕信録

堯了派即ち不受不施派方
一、日通上人著   除講記
一、        返答記
一、        流布記
一、        評答記
一、        立施主順正義
一、        破語石上掃除記
一、        適時信規論
等の著書あり。是等を比較研究せば各其主張せる教義上の正邪も自ら判明すべきに付、批判は読者の意見に任せん。

問題となりたる、日堯日雅両師の本尊
日雅師より施主浅島助七に授与の本尊

日堯師より因州へ遣わしたる本尊
御本尊の勧請如常略之
授与之因州法華行者内信心如法之清信士女者也
延宝九年辛酉衣更着上旬時正図焉

昭和七年五月一日発行
 東京市下谷区谷中真島町一番地
立正閣
中川古鑑 

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