不受不施二派分派の由来

不受不施二派分派の由来-4(中川古鑑)

一、内心清浄之方へ遣候御本尊不拝と云事是を拝すれば謗法なる故に不拝歟また能持之人濁法なれば御本尊も濁不浄なる故に不拝歟若謗法と成と云わば授与之僧も可謗法歟何ぞ不難之但難本尊耶成謗法御本尊何ぞ口入之所望遣す耶また能持之人濁法なれば御本尊も濁本尊と云わば内信清浄之人は本来他宗と同き歟若然也と云わば何ぞ加様の悪人に口入して遣耶若本来他宗とは各別と云わば何ぞ授与の御本尊不拝耶受不悲田之御本尊と同する事非招謗罪耶可悲濁法方々御本尊遣事大に有子細不明本枝葉に附て定無儀法式前後相違本末不対之謬なり能案授与之根本不可有不審 已上堯師之文

凡法儀一統繁昌之時に候え共少も濁りたる者をば是を誡て本尊をも不与其人を折檻して改悔の儀を催促し且また一人を堅く禁じて万人の誡と致し候筋目に候え共元祖以来終に無其例天下惣滅之巨難出来之時に候えば以別途之儀濁法へ本尊之授与新法出来申事に候依之其能授之人之心入之至拝不拝等之段も異義可為区別事無余義事に存候堯師之御事流聖と申殊に常々法儀堅固之思入野僧談林己来無二之入魂にて濁底令存候然ば此一事に付堯師縦令御工夫未練之折にても輙く誤とは難申候偖貴師も退寺以来法儀相続之御心入厳重故日精とも各別に成候事殊勝之儀に存候えば近年無隔心内外申談候故此小事に付正轍に不相当評判御座候共余所に見申候事成がたく候奥師の御筆跡にも有大功者下挙小疵之古記を御引被成候て折々に被成御示候殊に法滅の時分下流の異議区々なるをさえ浅間敷と誡来候て今更法灯之内万一異議出来候わば普天内心清浄之者信力令退転而己ならず当世の嘲弄後代の瑕瑾不可過之候然ば野僧雖為非器之身当時法灯の一分に候えば右之段加料簡日堯筆跡之通局と貴師落居之趣と妨碍無之様に令評判其上向後末代◇の格式定置申度念願に候其趣内々編立道理尽難など認置候誡法滅大善之時に候故心底無腹蔵申進し候間貴師も随分御思案前後の始末能々御工夫急度御報待入候加様之大事他人と御相談は必御無用にて以御一心御究御尤に存候野僧事野呂にて出世致し候えば只今他門の様に候え共根本像流之枢機抜群の筋目御座候故先年上京の砌も衆中之評判にて鳥羽の宝蔵一覧をも蒙免許候本山代々列祖之書籍は勿論典師奥師御一代之著述大形披見申候えば少々門流の瑕瑾に成候事たる制法を立中間敷候條其段御賢察専一に存候猶以本山之法式にも異体同心者繁栄之洪基於立破者思強弱と御座候また本山妙覚寺十世住師之御書物にも一派の行者誤り有之時内証にて異見をば不加彼に恥を与え改悔をも不許他宗杯になるは無慈悲之至也唯世間之意趣を以て事を法義に寄せて彼を痛むる手段とする者可有之既に本化之門人と成ぬる上は如何様の誤有之とも三度までは摂取して改悔を可許之趣分明に被示置候間左様之事をも能々被成御比校此度之改悔之義御許御尤に存候日指方改悔之義無異義相調候わば備中より一右左次第不義緩怠之次第輙く改悔許容難被成義に候え共第一法滅之時分に候えば諸事御堪忍其上日講より言葉を被添候故以別義之憐愍改悔御免有之旨彼者共へ被仰渡急度致首尾候様に頼存候定て御聞伝る可有之候備作より累年種々之事尋訪候え共貴師之御化境に候えば貴師の指図可然様に存候故此方より存分之通不図申遣候て小事に付異議杯出来申候わば談合可為狐疑之基と存候故一向兎角之義申遣候事令停止候され共今度は惣滅に臨て小水之魚之如く明りをも難期時節に候えば一人の信者永く令放捨候事大節之義に存候故今度之義随分肝煎申事に御座候其上濁法本尊授与之義新法に候えば其義をも治定し候て巨細の法式をも次手に遂相談定置申度候仮  から謗不謗の義は門流の制法のみならず天下永代之通規に候條道理窮疑細を会し候て法式定置度存候初心の僧俗は種々の異見を起し或は我情を帯して申事に候えば御取上御無用に存候仏滅後未幾時さえ法句経の偈を誤り誦して阿難導者御教示候え共結句阿難を謗して誤りを不改故阿難も既に尽たりとてはやばや入滅と見え申候況や末世辺鄙之風俗殊法滅之時分に候得ば毎年下克上之挙動而己にて法灯とも不存は不及是非事に候流人は不及申貴師も御浪人之上一処不住之為体にて公儀不晴御身に候得ば仏法繁昌之時分御在寺之節厳密に被仰付候時とは遙に替り可申時間其筋目を慕い来り候者を一人も正路へ引入被成候事可然義に存候野僧も内々之所存は流人の身にて候えば加様之事に一向拘り不申看経学道一辺之勤にて自行を進候覚悟にて殊に述師よりも筑紫日延之義に付内証御示之趣も御座候え共今度は日了より問訊之義に候えば不能黙止其上日堯之筆跡なる一覧申候えば兎角無沙汰にては一向不埒明事に候流人の身の程をも令忘却候而及内談事に御座候本仏違背之者を他仏摂取して終に本仏に帰せしむるためしも御座候えば兎角貴師之為め悪敷様には相談申間敷候間能々御内得の上にて早速御領掌頼入候以上
貞享二年丑五月二十一日
  日講
日相貴師

説黙日課また鶴城叢書と題する日講上人の日記中貞享二年丑の條下に左之記事あり

五月朔日従備前逢沢清九郎井上三右衛門渡海、閲諸方之状見日了之状方日堯死期病苦痛悩為体知感傷不些云云、二日従江戸飯田長左配所参詣到着金丸久左宅即刻門弥往佐加利接彼客来、対談至夜半、且聞日庭於道中神奈川営六万部塚等事、八日入夜清九三右密来対談移時、比来見彼持来日堯春雄院本尊及日堯状悉了典日相書出違却之趣、且告野僧欲企和融手段之旨及向後可任予指図趣、出起請之案文処両人能諾認越起請故今夜方対話、且為改悔令戴御経及令拝金泥銀泥御経

この時日講上人は二幅の本尊並に日堯の條目を手許に留置れた、日堯の條目と云うは堯了状とも称えて、◇の日堯より内信濁法と法立とは隔なく同行同拝して苦しからぬ旨を備前備中へ指示した、処が日堯の甥で弟子である立賢と云うものが、この指教は国方古風に背き日述、日浣の命にも相違する故、諸人猶予を懐き誹謗の端にもなるべきかという意見を祐甫という者を以て日堯に告げしめた、その時日堯は「当時流僧は不受の随一なり、もしその指教と国方の法式と相違ならば此の方の理由を尋ね究めたる上にて取捨すべし何ぞ直ちに国元の法式を信敬して、此の方の義を軽賎するや」と内信者所持の本尊を拝して苦しからぬ等清濁混乱の法門を認め、日堯日了連判して立賢に与えた即ち前記の條目である。
この條目を書いたのが元和三年のことで、翌貞享元年二月十日に日堯は死去した。
元来この日堯日了等は流僧ではあるが派内では二流以下の人物で流罪に依って漸く世間に名を知られた位の人であるから、かく法義に誤謬を来すに至った。
日講上人はこの條目が世間に流布すれば日堯が折角不惜身命の行為も水泡に帰することを惜しみ、永く手許に條目等を留置き、前顕日了へ与えた書面に縷述する通り、日堯の疵の附かぬようまた日相上人の裁決にも妨なきように取扱ったものである。
而して日相上人は講師の書面に対し左の返書を送られた。

五月十九日の貴翰六月二十二日巨多の趣再三拝閲先以貴体御勇健之旨令大悦候就夫貴師日指方一類堅く御不通檀施等御近習より返辞有之に付今度日了師の御跡を慕い覚驩@等御指図可仰所存候て逢沢清九郎井上三右衛門渡海然れ共先無対面已前改悔の一札誓状被仰付其已後御対面之時御経頂戴罪障懺悔仕候由雖然羊僧先書に如申達候改悔之義不致許容時は我慢偏執之余新受等に可成も難計候賢察御尤に存事に候因茲野僧随貴意候わば其改悔に趣向する僧中之為惣代本柳院一人衆俗之為惣代六人連判之内源七歟市良太夫歟上京改悔之義可被仰付之由覚驩@義は自貴師御本尊被遣其上に一札を御取可被成由覚驩@改悔之義領掌不申時は清九郎三右衛門二人も覚驩@と可致不通趣も一札之内に被載候事兼てまた日了師へも右之思召入趣被仰遣候由委曲得其意令存候乃至羊僧所存如右に候え共貴師の御心入難違背存候間若日指方一流不残捨邪帰正の一ヶ條此旨違背有之時は法義堅く可致不通一ヶ條以誓文連判改悔之義懇望申候わば尤可珍重令存候
一、本尊之通局委曲別紙令注進之候勿論御料簡之趣可示給候猶期後音之時候恐惶謹言
丑六月二十八日   日相
日講貴師

貴酬
一、宗順致濁法導師事誤と云義は法立濁法同座同修清濁雑乱是謗法罪云義にて可有之此義春雄院覚驩@其外真俗一同之義を以令改悔也予而同之然るに春雄院看経講の本尊は法立濁法に通る本尊なれば清濁同修順逆雑乱を勤めたる本尊なり無誤云わば宗順に令改悔事一向我慢可謂悪心耶若亦如僉議宗順謗法罪に落居せば本尊は誤りに可治定也

一、或師云 仮判濁法人本尊を法立清浄之行者可拝之云々予云此義難信用也妨碍有之故也云く本尊を拝せよと云義は能持之人内証信伏人也本尊亦既に法制堅固之人記之◇に拝せよと云義なるべし若◇は濁法の人働事作善する時直に其供養を可受用事也而るに有施主則受之無則は不受是れ何たる有違慮而求施主耶また云濁法所持の本尊を法立拝せば濁法の人忽法立行者同位等行功徳も斉等之耶見可起非謗法重畳耶亦云法立も濁法を不替と思わば濁法に可還也其上濁法也本尊拝することを許さば謗法の増長縁に成り後には受不新受之本尊をも可拝也亦師云本尊不拝と云わば濁法者と同歟異歟と云云此に可有通局差別不可執一偏法立与濁法功徳の勝劣を論せば法立は如天勝候濁法は如地劣るべし内証信伏の徳あれ共外相既に謗法の誤あり亦古受新受は無間堕在の者なり濁法の人は内心信伏の功徳あり故受不等に勝るる事復如天錐然謗法有が故法立は大きに劣るなるべし右の以道理案ずるに古受新受濁法の本尊は共に不可拝也若又能持の人内証信伏也可拝云義ならば已に濁法なれば半同半異順逆雑乱の誤あり内証なれば難出公儀事若亦本尊授与の師は内外共に清浄也可拝之云わば難云わば諸寺元祖大聖人の本尊多く此本尊は清浄が中の最上の本尊也何禁制参詣礼拝耶亦師説に云能持の人濁法なれば授与する師も謗法なる耶云云会云以正法広く救群類中にも五逆謗法を第一とす是則衆生利益之通規也謗法人に本尊を与うるに何ぞ能持の師の可成謗法耶若約宗義云わば与本尊本尊之為礼物布施を受用すれば謗法也不受無咎但立施主時所論之外也他宗に財施を供する事他宗の供養を受る事を堅禁制すと云え共法施並本尊を与る事各別之義也常仏法繁昌之時には濁法の誤あれば随分加教誡無改転則ち不授与本尊也悲哉天下一同一宗及磨滅公儀の大法難遁時也内心信伏の人も希有事以麟角尤誘引方便を用事今此時なるべし或順或違終因斯脱釈銘肝爾は内証信伏之一筋摂取して可授与本尊也唯今にも一宗之嘉運来たらば濁法何も無故障如願忽に濁法之雲晴満月の光明たる利益無辺の本尊と可顕事広宣流布誠諦の金文有頼若爾は本尊授与して順逆二類を救助せざるまじきや一向の他宗にさえ深志有之人には希には本尊遣わすべきや其例旧記あり況や内信心の輩に於ておや欲払未難以求人短是予元兆庶幾也難然彼師の可拝本尊之一義は予が公事批判と相違して料簡既に成邪義諸人を令迷惑故所難黙止也因以令染毫

右の條々為非義は加教誡云  との返書は相師より京都心鏡の手を経て貞享二年丑七月二十九日講師の許に達す
〔説黙日課貞享二年丑二十九日の項に〕二十九日従京都心鏡飛脚来伝日相之返書披見之野僧和融曖之段半諾半不諾之文章也明日令認相応之再答而付飛脚云云且従心鏡送大分伽羅云云

此の相師の返書に対し講師は更に次の返書を送らるる
六月二十八日の貴札七月二十九日到来先以貴師益御堅固に御勤之由珍重に存事に御座候野僧いよいよ無恙令看経候

一、此方より申進候日指方改悔之義に付貴師御所存之通委曲示給逐一令拝閲候彼徒重々貴師へ敵対悪逆之段絶言語候此方第一不審に存候は彼両人野僧指図の次第能々令得心帰国已後早々遂相談讃州へも程近に候間急度申通早速以飛脚爰許へ一左右申由領掌申候に◇今其沙汰無之義右之通も難相調故延引と令野察候貴師御望の如く一々連判誓句等の義は中々相調間敷候難成事を申懸け候而も結句難題の様に存候えば無詮事に候真俗の惣代として両人参候えば外相分明の改悔にて候内心までの御吟味は入ざる事に存候勿論惣代と申惣の内へは覚驍燗申候然も此方より本尊を遣わし一札を取候えば惣別二重の改悔に成候故野僧分別にて彼方も相調候様に亦貴師へも少は不足の所御堪忍被成候様に中分相計候て右之通に指図仕たる事にて御座候彼方さえ右の指図に相済改悔の義領掌申候わば以無二之御道念改悔之義御許容所庶幾御座候改悔之義さえ表むき相済候えば彼等内証にて如何様之悪念悪業御座候ても可同泡味の改悔御許之上彼等邪心を不改自然と不通の様に致し懸候ても少しも貴師の越度には不罷成事与存候

原本がガリ刷りのため、かすれて文字が判別できない部分は一文字につき◇マークを1つ記しています。