梅花鶯囀記-4(日念上人)
亭主のいわく、この事は伝記にのせて具にこれあり。伝記広博なれば詳しくは申し尽くしがたし。 されども肝要を取ってあらあら申すべし。 そのころは人皇百七代正親町院の御宇なり。 将軍家は太政大臣秀吉公伏見の御城に御隠居の時なり。 天下の事をば内大臣家康公御さばきの時なり。 京都の所司代は天台宗の僧徳善院玄以法印なり。 その次は板倉伊賀守所司代をつとめらる。 その頃太閤秀吉公東山大仏を造立なされ、その開眼によせて御先祖の御弔の為東山妙法院門跡において諸宗の僧に仰せ付けられ千僧供養の御法事これあり。 文禄四年未の年所司代徳善院より諸宗へ申し渡さるる趣は、この度秀吉公妙法院門跡において当たる九月二十五日より千僧供養の儀仰せ付けられ候。 一宗より百人ずつの出家妙法院門跡へ御出仕有って法事つとめられ、一飯を参らすべきよし申し渡さる。 これは八月の事なり。 仰せの趣に付き法華宗本寺がた寄り合いたびたび談合これあり。 一宗の大事たる故に本満寺日重聖人智徳の老僧なりし故にこの判断を日重の分別に任せらる。 この日重智徳ありと雖も地体臆病の僧なりけるがこの判断を申さるるようは、たとえ将軍たりといえどもその供養を受くれば祖師の御法度をやぶる事眼前なり。 もし辞退し受けじといわば公儀のおきて流罪か死罪かになさるべし。 この両條何れも至極の難儀なり。 この両條に付いて分別するにしばらく誘引の義を以て祖師の制戒を一日やぶり一度出仕を遂ぐべし。 さて次の席御法事前に至り訴訟申すべきようは、先月の御法事に出仕致し候事はひとえに公方様御意の趣故に祖師の制戒を受け申さざる趣にて候間当月よりは、出仕の儀御放免成され祖師の制戒を守り候様に御詫言申し上げると申し上げ候わば定んで御放免これ有るべし。 この詫び言の上にも御放免これなきに於いては祖師の制戒を守り不惜身命の行を立つべし各々その覚悟あるべしと指図せられたり。 この終わりの談合は本圀寺に於いて諸寺集まり談合相きわまる。 この時妙覚寺日奥三十一歳の時なりしが本圀寺へ相談の為に参らるる。 諸寺の諸聖人日奥に向かって申さるる様は最早談合相きわまれり。 日奥も一日出仕致さるべしと申されければ日奥のいわく、この義は誰の指図にて候や。 合点参らず。 千僧供養の御事は尊氏将軍六代普光院殿義教将軍の御時執行せられ候。 この時法華宗一同に申し上げ候は、祖師の制戒にて候故国主の御供養とても受け申す事成りがたく候。 この旨御披露下されと申し上げ候えば義教将軍御聞き届けなされ、祖師の制戒とあれば最もの事なりとて御折紙を下され御放免なされ候。 この趣を以て秀吉公へ御詫言然るべく候。 もし御放免これなくば祖師の制戒を守り不惜身命の行をたつべし。 常々檀家に少しの謗法これ有る時はきびしく戒めながら今身の上になりて臆病を致し候わば檀那の前に恥ずかしく候。 各々御談合これ有るべしと強く申されければ諸聖人承引なき故に、然らばそれがしは出仕を得致さず候とて妙覚寺へ帰られ、その日に妙覚寺を出でられて流浪致され候。 さて日重指図の談合も相違してついに御放免の詫言もこれなく、日奥よりは何とて御詫言これなきやと責められしかどもついにその儀なく、日奥聖人は霜月の頃より丹波の国小泉へ隠居せらる。 諸寺の聖人もいじわるく成って何とぞ日奥をも出仕させ同類にせんとたくみて家康公へその段を申し上げ、日奥も出仕致すべしと仰せ付けらるべしと訴状をしたため申し上ぐる故、小泉へ隠居より五ヶ年にあたる慶長四亥年霜月二十日家康公大坂の城へ日奥を召し寄せられ仰せ渡さるるようは、この度秀吉公の御法事大切の事なれば礼儀の為ただ一度出仕あるべし。 供養の御膳になおりはしを取る迄にてなりとも出仕あるべし。 その事宗旨の障りに成り候わば文体は日奥の好みの如く宗義の障りにならざるように家康公直に御一札をしたためられ相渡さるべし。 これ程にやわらいで申す処を辞退これあるに於いてはその身は申すにおよばず一門檀那迄曲事に申し付くべしと老中を以て仰せ出さる。 この時日奥申さるるようは、五箇年以前寺を出で候時より覚悟仕り候。何程御一札を下され候いても出仕は仕りがたく候。 この御咎によって一家檀那中迄曲事に仰せ付けられ候ともそれに驚き申さずと申し上げる。 家康公御立腹なされ御前へ召し出さる。 御前を見るに妙顕寺日紹等数十人列座せり。 家康公仰せらるるようは、この出仕の事諸僧は苦しからずと云う。 汝一人若輩として出仕をきらうは法華宗の魔王なり。 日奥いわく、邪正に付いては人数多少には依らず候。 一人にても正義を立て候こと大切にて候。 家康公仰せらるるようは、妙法と云うは善悪不二と承る。 善悪不二に付いては他宗の供養をきらうべからず。 善悪不二の上に他宗の供養を嫌う義あらず。 当座に申すべしと。 日奥のいわく、善悪不二の上に他宗の供養を受けざる義これ有り候。 妙法如来一代のかんじんにて候故天台妙楽の釈広博に候。 誠に聞し召さんと思し召し候わば判者記録者を立てられ、双方の申す事を書面にのせられ、他宗の智者にその評判を御尋ね有るべしと。 その時日紹等いわく、当座に問答申さんと。 日奥のいわく、御辺たち記録を嫌うは誑惑の心見えたり。 経文釈義を言い紛らかさんとの企みなり。 誠にこの道理を聞かんと思し召し候わば記録者を立てられ候いて道理を具に御聞きなされ候えと申されければ、家康公道理につめられ、かように強義を申すものは大事をする者なりとて奥の座へ入り給う。 これに由って日奥も座を立って次の座へ出でられければ日紹等の大勢取りかかりて日奥の袈裟を奪い取る。 かようの事を致しても公儀の御にくみの人なれは御咎めもなし。 その時御奉行衆日奥はまず宿所へ帰らるべしと申さるるに依って座を立って宿所へ帰らるる。 翌日使僧を以て所司代善徳院へ申さるるようは、流罪死罪の儀如何に仰せ付けられ候や、待ち居り申し候と。 徳善院のいわく、まず小泉へ御入り候えと申さるるに依って丹州へ帰らるる。 その後何とも沙汰なく打ち過ぎて明くる慶長五子の年六月一家檀那中へも御構いなく日奥一人対馬へ流罪と仰せ出さる。 この時日奥三十六歳なり。 則ち六月発足。 対馬に十三年の間在島なり。 この大仏供養本願の秀吉公は慶長三戌年八月十八日御他界なり。 御子秀頼公この時六歳なり。 この大仏供養相続すること文禄四年より慶長十九年迄二十一年修行せらる。 日奥在島十三年にして慶長十七子の年家康公より帰参仰せ付けられ、これに由って対馬を出船し筑紫の博多へ船をつけられ問答山勝立寺唯心院日忠の所に逗留。 それより京都へ帰られ妙覚寺脇の坊円蔵院に入らせらる。 その時所司代板倉伊賀守殿申さるるようは、公儀より御赦免なされ御帰洛の上は妙覚寺本坊へ移らせ給うべき所何とて御移りこれなきやと御尋ねこれあり。 日奥のいわく、帰参仰せ付けられ候え共以前の法敵顔前に居られ候間今一度問答仰せ付けられ邪正糺明の上にて本坊へ入り申すべく候。 この義埒明き申さず候わば本坊へ移るまじきの由、これに由って池上日惺上人上洛あって扱い給えども相済まず、五年延引して元和二年筑紫より唯心院日忠上洛し諸寺をかけ廻り邪正の趣を申し渡さるる故に諸寺納得して妙顕寺日紹総名代として六月二十一日に妙覚寺に来たり改悔せらる。 次第に諸寺の聖人改悔勤められ一同に不受不施の気に帰入せらる。 この日に日奥妙覚寺本坊に移り諸寺と和融し喜悦の眉をひらけり。 この時日奥五十二歳なり。 諸寺改悔の肝煎り日忠は備前の人にして才智発明の僧なり。 天下を弘通して筑紫の博多に至りしかば切支丹繁昌して博多の領主も尊敬して寺を建ててあがめらる。 日忠この寺に至りて切支丹の首頭と問答し責め伏せらる。 その時領主きこし召され切支丹を悉く追放して彼の寺を日忠にたまわる。 故に問答山勝立寺と改めて住職を勤められたり。 その後日奥十五年繁昌にて寛永七年庚午三月十日祖師大菩薩の曼荼羅に向かい満山の衆と同音に一座の勤めあって仏前に於いて六十六歳にて御遷化なされたり。 客人のいわく、段々御物語り承り候。 日奥大坂の御城に於いて家康公より宗義のささわりと成らざるように一札を遣わすべし。 出仕せられよと仰せられ候由、一札を賜る上は出仕せられても苦しかるまじきに余り強過ぎたるは如何。 亭主のいわく、さればその座にても本圀寺日禎の弟子感松房と申す人申さるるは国主の御一札ある上は出仕なされても苦しかるまじく色々異見申されしかども、たとえ如何様なる御一札を賜りても出仕の儀一度にも勤め候いては忽ちに宗義の制法に背き謗法と成り候とてついに領掌なかりき。 また家康公は宗義の事はかつて御存じなき所に斯様に仰せらるる事は日紹等家康公へ教え奉りて日奥この御一札を規模として彼の座席へ一足なりとも踏み込みたらば我が同類と云いなし御一札も調わぬ様にしなさんとの謀なりと推量したまえりと見えたり。 深き御分別にあらずや。 この後も節々法難あり。 日奥御遷化のとし四月江戸に於いて受不施不受不施の問答あり。 不受不施は池上の貫主日樹上人を始めとして日賢、日領、日弘、日充、日延都合七人なり。 受不施方は日乾、日遠、日暹等なり。 この日暹はその時身延山の当住なり。 双方酒井雅楽頭殿の座席に於いての問答なり。 日樹問答には勝ちたれども紀州の大守の御母堂養樹院殿大いに身延山をひいき成され、日樹を信濃の国伊奈へ流罪仰せ付けられ、そのほか日賢等の六人の衆をば追放の旨仰せ付けらるる故に各々出寺あって在所へ隠居せらる。 日樹はその明くる年寛永八年五月十九日に遷化なり。 その後三十五年過ぎて寛文五年身延山よりその時の寺社奉行加賀爪甲斐守へまいないを以て念頃に取り入り訴訟を企て不受の一派を流罪せしめんとす。 この時公儀より諸宗の寺領ある寺へ仰せ付けらるる様は、今迄は寺領を仁恩の為下されしかども、今よりは御供養に下さるるの間、その手形致すべき由諸宗へ申し渡さる。 諸宗は別條なし。 法華宗はこの事を受け申さず。 これに由って流罪にせらる。 その時の流人は平賀本土寺の能化日述上人、大野法蓮寺日完聖人は伊予の国吉田の城主伊達遠江守宮内少輔殿あずけとなる。 日堯日了聖人は讃岐の国丸亀の領主京極百助殿預かりとなる。 寺領なき寺は別條なし。 さて翌年寛文六午年また身延山より起こりて日浣日講等をも末寺にせんと訴訟す。 これに由って甲斐守より江戸へ両人を呼び寄せ末寺に成り申すべき由申し渡さる。 両人御請け申さず。 これに由って流罪に仰せ付けらるる。 玉造蓮花寺の能化日浣聖人は肥後の国球磨の領主相良遠江守殿の預かりとなる。 野呂妙興寺の能化日講上人は日向国佐土原の領主島津飛騨守殿の預かりとなりそのほか身延山より訴訟して諸寺を末寺とせり。 この時甲斐守より公儀へ申し上げ、不受不施の一派公儀違背の宗旨たりと申し天下一同滅亡と相定む。 これは身延と甲斐守と内証示し合わせ一向に滅亡したる事なり。 この時の落書に 加賀爪にかき破られし法華宗いたや甲斐やというは不受不施 その後甲斐守は水戸黄門公に切り殺されてその跡絶えたり。 かくの如く天下一同に受不施となること源日乾より起これり。 罪は首悪に止まるという本文あれば、日乾の堕獄無間を出づる期あるべからず。 この時色々と別れたる事あり。 悲田と云う一派あり。 これは寛文五年公儀より寺領を御供養と仰せ出されたる時、日述等は受くべからずと申さる。 日明日禅の二聖人は甲斐守宅へ参って寺領を申し受く手形に御慈悲供養に頂戴仕ると書き候わば請け申さんと申す故に、奉行衆その訳御存じなき故に手形に如何様書くとも苦しからず。 御請けさえ申せばよしと事すみぬ。 この時日述等は流罪に仰せ付けらる。 日明等は心安く寺に安住す。 これは手形に慈悲の二字を入れて公儀をかすめたるなり。 公儀よりは御布施に下さるると仰せ出されたる所また手形にて紛らかし御慈悲に頂戴と書く時は公儀の仰せとくいちがい、役人を掠めたる義なり。 この時の落書に 不受不施の理をまげものにすることもみなひもんやのさいくなりけり 碑文谷の日禅の事なり。 また落書に 日明がおくびょう神の書物は手形がたがた足もがたがた その後身延山日筵この悲田の悪儀を公儀へ申し上げて悲田派を滅亡せり。 この時日明、日禅、日純等或いは身延山の下になり、或いは天台宗になり。 備前蓮昌寺の先住日精聖人、京都紫竹常徳寺住持日猷聖人、上鳥羽実相寺住持了性院日性等皆悲田におちおわんぬ。 また和融方の一派あり。 これは江戸安芸守殿下屋敷に居られたる一樹院日堯等の衆なり。 悲田日明等繁昌の時もし公儀へ訴え安居如何あらんと気遣いをして日明等へ内証を以てその元と和融致すべく候。 左候えば自昌院殿よりその元へ金銀の御音信もあるべし。 御手形成され世間一旦の和睦の様に御したため御越し候わば自昌殿へ申し上げ、自他の為も能く御座あるべく候。 さて内証にては仏法辺迄和睦いたし互いに施物等をも取り通じ申すべしと内証する故に、彼方も勝手のためよき事なれば忽ちに領掌す。 さて自昌院殿へは世間一旦通用の書物を見せて自昌院殿をまどわしその身の安からんことを欲す。 この事日講御聞き及びなされ破門の巻物をしたためられ自昌院殿へ世間不通と申し遣わさる。 自昌院殿女性なれば一樹院等の謀計とも知り給わず、せめて施主を立ててなりとも日講へ通用なされんと思し召し候えども江戸中に施主に立つべき者一人もこれ無しと一樹院かすめ申すに依って是非なく過ごし給いき。 その後悲田滅亡故に一樹院等皆天台宗になる。 その後一樹院京都へ上り法義をも改めしかども、年来の仏罰にや衣食乏しく成ってまた受不施におつ。 ついに丹波の国へ入って死去せられたり。 この自昌院殿と云うは芸州の大守の御母堂にして常憲院家綱公の御姉君なり。 また日題派という一派あり。 これは日述等流罪のまえかた池上日樹等の七人の内日延聖人筑紫へ下り居られたる処に、善学院日高という人日延に謗法ありと云いて日題へ物語りありしかば、日題落胆してこの事を論じ、遂に日述等と別になり一派を立てられたり。 それより日題派と云いて今の世間に多くこれあるなり。 また導師派という一派あり。 これは寛永五年讃州流罪の日堯日了の二人より事起こりて一派を立てたり。 今中国にあり。 かくの如く宗旨次第におとろえたることは是非なき事なり。 寛文五巳の年日述等流罪の年より享保十六亥年迄六十六年になるなり。 さて各々方もただ正理を聞き分け日奥聖人の風儀を守り給うべし。 この後法難来たるとも臆病の心を出すべからず。 たとえ一門一家等難儀するともそれに構い給うことなかれ。 法義に依らずとも宿業発る時は大火洪水地震等に依って一家滅亡に及ぶこと家などの滅するに心をかくべからず。 秦の始皇帝は大唐四百余州を掌に握り給えどもこれも二代は続かず滅亡せり。 御書にいわく、妙法を持って成仏するは砂を以て金に代ゆるが如し。 舜は土民なれども堯王より召されて天下を譲りたまえり。 凡夫の仏に成るも同じ事なり。 と示し給えり。 今の時節かくの如く正義滅亡すれども時至りなばまた興隆すべし。 思慮短く退屈を生ずべからず。 平清盛は保元平治三年に源義朝を殺し、源氏ことごとく滅亡し、二十余年繁昌せしかども、源頼朝公伊豆の島より起こり、寿永年中に平家をことごとく滅亡して天下を持ち給えり。 天竺に於いても仏滅後程なく五天竺皆外道となりしかども、世親菩薩御出生ありて外道を悉く滅し仏法繁昌せり。 ここを以て思うに善悪共に時に依るべければ、ただ我が身ばかりを専らとすべし。 客人のいわく、今日の御物語を承りて未来成仏の縁を結び有難き事に候。 この御物語を詳しく筆に記して子孫をも引導せんと存ず。 筆記するに付いては題号なくては叶うまじ。 我等題号をうち申すべし。 この物語はひとえに鶯の囀りより事起こり候えば、梅花なければ鶯も来たらず。 鶯なければ貴翁の物語もなし。 これに由って題号を梅花鶯囀記と名づくべし。 記の字は経家の結集に比すべし。 この題号の五字を法報応の三身にして論ぜば、梅花の法身無説を表す。 この法身より報身の智徳発す。 これは鶯の囀りなり。 この報身の徳応身の舌相に依って説法の音声を発す。 この応身貴翁なり。 かくの如く見る時は三つにして一つなり。 この題号は如何あらんと。 亭主のいわく、この題号面白く理に叶えり。 それがしも御所望に依って所まだらに申したること各々の気に叶いて修行の心を発すれば歓喜これに過ぎたるはなし。 それに付き西行法師の歌に 身をすつるすつる我が身は捨つるかはすてぬ人をぞすつるとは見る と詠まれたり。 今生の身を捨つるは永き未来の世を助けんとなり。 この身に執着有っては未来得道あるべからず。 さればこの歌は不惜身命のありがたき歌なり。 常にこの心を忘るべからずと有りければ客人皆口を揃えて今日の御馳走これに過ぎたることはなし。 早日も漸く黄昏れに及びぬれば私宅へ帰り申さんとて座を立ちにけり。 享保十六亥年三月 日 当歳元祖大菩薩四百五十歳忌御報恩の為仏前に奉る者なり。 作者 安住院 日念 真如とはこころもなくて流石また水の中にも消えぬともし火 稲荷大明神の御詠歌 後のよのくるしき事をおもいかしかりのやどりをいつなけるらむ 古歌に 過去よりも未来へとおる仮のやど雨ふらばふれ風吹かばふけ 後の世と聞けばとおきに似たれども知らずや今日もその日なるらむ 説き置ける言の葉しげき中にてもまことののりの花ぞいろこき 世間の歌にも遊ばされ録外二十九丁に出でたり。 手にむすぶ水にやどれる月かげのあるかなきかの世にもすむかな また はかなくも明日のいのちをおしむかなきのうをすぎしこころならいに 日奥聖人の御作 施主を立て善根最も功徳たるべし 一、針といえ共水に置かば沈むべし。 千人引の大石といえ共船に乗せば浮かむべし。 これを宗義の制法に合わせ一飯半盞の小施と雖も直に謗施を受けば無間に沈むべし。 針程の小物なりとも直に水に置けば沈むが如し。 千貫万貫の大施と云えども施主を立てばかつて無間に沈むべからず。 大石を船に乗せて沈まざるが如し。 如何なる施たりと雖も施主の船に乗せば少しも沈まずして生死の大海を渡り寂光の彼岸に至るべし。 法華の持者は如渡得船の妙法の船をたもつゆえなり。 一、謗施は熱鉄にたとえるなり。 これを宗義の制法に合わせば、熱鉄も水に入れて冷やせば手に取り舌の上に置いても口も焼けざるなり。 法華の信者を清涼の水にたとう。 故に経に如清涼池と。云云 謗施の熱鉄も信者の施主の清涼池に入れば豈冷えざらんや。 施主をさえ立てば謗法の熱鉄も更に苦しからざるなり。 一、謗施は不浄の至極なり。 故に仏神も謗施を受け給わず。 況や人間としてこれを受くべきや。 然るに不浄も一度転ずれば清浄に成るなり。 例せば蔓草大根は清浄の者にして五辛の内にも入らず。 故に仏神に供し持戒の僧の食物となる。 然るにこの蔓草大根何を以て養うぞと尋ぬれば不浄を以て養うなり。 然るにこの不浄の蔓草大根の性一度転ずれば清浄に成って不浄の味わいなく、不浄の臭みもなく、故に三宝神明の供物になる。 これにても知んぬ、不浄の施も是乗微妙の清浄第一の信者の手にいり一たび転ぜばいかでか清浄の施にならざらんや。 一、謗施は毒害にたとえるなり。 但し毒も合わせ物によって良薬と成る。 また玄蜻という恐ろしき大毒これを万病円に合すれば大良薬となる。 阿伽陀薬は毒を変じて薬となす。 これを宗義の制法に合わせば謗施は大毒なり。 当宗の信者は是好良薬の大妙薬なり。 謗人謗物は毒といえども信者を施主としてその手に入るれば大善良薬となるなり。 玄蜻という大毒を万病円に入れて大良薬と成るが如し。 日奥聖人御作謗施の四義立 終 右四箇條御筆記妙覚寺万部以後板倉伊州勝重公成田孫右衛門と云う人を以て施主として千部の経を行わるる砌内証に記し置かるる條目なり。 最も一宗歴代の明匠皆施主を立てらるる事隠れなし。 殊に日像門派の法式にいわく、たとえ誘引の方便たりといえども直に謗施供養を受くべからずと。云云 直通の言葉を以て知んぬ、転じて受けば苦しからずと見えたり。 敢えて新義にまようことなかれ。 述師のいわく、法理の善悪は髪筋の違目にて地獄極楽の分かれあり。 吟味せずんば叶うべからず。 久遠成院日親聖人伝灯録にいわく、法灯血脈たえたらば、百千の門葉ありとも成仏は万が一なるべしと。云云 法水の懸樋破れたる下にて何程の道念堅固に不惜身命の立行をなし流罪等にあうとも皆虚仮の行にして武士の犬死したるも同じ事なり。 三障四魔の事 この法門を申すには必ず魔王出来すべし。 魔きそわずば正法と知るべからず。 摩訶止観第五巻にいわく、行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として起こる。 乃至随うべからず、恐るべからず。 これに従わば人をひきいて悪道に向かわしむ。 これをおそれば正法を修する事を妨ぐと。云云 この釈は日蓮が身にあたるのみならず門下の明鏡なり。 謹んで習い覚えて未来の資糧とせよ。 この釈に三障と申すは煩悩障、業障、報障なり。 煩悩障と申すは貪瞋痴等に依って障り出来すべし。 業障と申すは妻子等に依り障碍出来すべし。 報障と申すは国主父母等に依って障碍出来すべし。 また四魔の中に天子魔と申すもかくの如し。 梅花鶯囀記 終 |