愍諭盲破記:7(日念上人)
自他共に罪有って徳なき事道理彰灼なり。本尊の濁派の所持となるは譬えば柿梨等の菓のしばらく淤泥の中に落ちたるが如し。 清水を以て濯ぎ洗う時は人これを食う。 淤泥のつける菓をそのまま食う人なきが如し。 本尊もまたかくの如く清派の僧清浄の法水を以て開眼すれば礼拝するなり。 この喩えを以て得心すべし。 いかほど内信と施主を目掛けても開眼とはならず。 本尊の体は濁法の所持なれば光用従って劣る義なり。 なんぞこの道理を開覚せずして導師に執着し、?繋せられて惷愚を遂ぐるや。 これほどの道理は了角の嬰児も解了すべき事なり。 天魔の所為か、宿世の業因か、嗚呼悲しいかな。 一、堯了状第九段にいわく、袋臭きを以てその金を捨つることなかれとはかようの事か、濁法内心に宝珠を懐く何ぞ捨つべけんや。 已上堯了状 日講能破にいわく、この喩えを引くことは誠に不覚の至りなり。 これは本大論四十九の文なるを止観弘決等に引用して師の外相に拘わらず内徳を敬うべき趣を述べたる文なり。 これ則ち破戒にして正見なる師を捨てざる譬えなり。 されば吾が祖祈祷抄にも行者は必ず不実なりとも、智慧は愚かなりとも、身は不浄なりとも戒徳は備えずとも南無妙法蓮華経と申さば必ず守護し給うべし。 袋きたなしとて金を捨つることなかれ。 伊蘭をにくまば栴檀あるべからず。 谷の池を不浄なりと嫌わば蓮を取るべからず。 行者を嫌い玉わば誓いを破り給うなんと判じ玉えり。 破戒は世罪なる辺あるが故に、正見の真金を捨つべからざる道理至極せり。 外相一向他宗に同ずる謗法者一身を以て、袋臭きに比することは未だその例を見ず。 謗法の人は身心共に不浄なること歴然なれば、外相の一向濁れるに望めてしばらく内心の清浄を許すといえども、それ実にはつつむ処の物体信者内信の宝珠真金とは混同すべきにあらず。 然るを喩えの似たるに僻依して自義の潤色とせること曲会私情に非ずや。 およそ彼の濁徒を内心清浄と名を与うといえども全分の清浄にはあらず。 その故は外儀すでに他宗に同ずる上は内外違却し外の不浄また内心を汚す失あるが故なり。 例せば爾前の円三教と並立してこれを会することあたわざるが故に円にもまた失つくが如し。 妙楽の釈にいわく、細人粗人二倶に過を犯す。 過の辺に従って説いて倶に粗人と名づく。 已上 この釈の意本善人にても悪人にくみして彼の悪を改めしむることあたわざれば善人もその過を蒙る義になりて倶に悪人といわるる如く、爾前の円本善人の如くなれども三教の悪人にくみしその相手と成って彼を会することあたわざれば三教と同じように粗法と名付くるぞと合譬し玉える意なり。 これに依ってこれを思うに色心の二法既に違却して心法の善色法仮判の悪を改むることあたわざれば心法も色法に引かれて濁る義あれば一向清浄とは各別なる故に、奪って云わば不浄の名を得べし。 さきにも示すが如く内外の中に外相の他宗なることは公儀はれての義なり。 内心法義を信ずることは隠密にして一己の私なれば、外は強く内は弱きが故に外悪に内善は奪われやすく、外悪を降伏して内善の方へ従えることは難し。 業は秤の如く重きものまず引くの道理にて外悪の悪因によりまず悪果を招くべきことは必然なり。 されば彼の仮判の徒改悔懺悔の作法をつとめて一向清浄の法水を外にも汲まざる内は実の内心清浄の義に非ず。 ただ一向の他宗に対してしばらく内心清浄の名を与え慈悲摂取の便とする分齊のみなり。 然るを彼の内心清浄を一向清浄の行者の内心に例同するは大なる誤りなり。 已上能破 他書にこの破文を会していわく、止観弘決に引入の文、師の外相に拘わらず内徳を敬い、破戒の正見なる師を捨て給わざる譬え、さてまた吾が祖祈祷抄に戒徳を備えざる正見の真俗を捨つべからずと引き玉いて、破戒は世罪となる辺を両聖知り玉うべからずと思えるは頑愚なり。 今ここに引き玉える意は濁法は色汚るる故に謗法と云いながら仮判の心なれば軽罪なり。 その上施主を以て滅罪生善の祈りをなし、内心は根本の不受に毛頭相替わらざる受を以て袋臭きを以てその金を捨つることなかれとはかようの事かと例に引き玉う。 全く譬えと云うには非ず。 正路に得意し玉え。 もちろん包む処の物体信者と仮判と不同これ有りといえども、内心の宝珠は真金にて不同有るべからずと。 云云 報じていわく、他書に堯了状の大論の文を引けるを例にして譬えには非ずと云えり。 例も譬えも同じ意なり。 能破にもその例を見ずと云えり。 また他書に濁法は色汚るる故に謗法と云いながら仮判の心なれば軽罪なりと云えり。 今濁法の堕落の罪を軽罪と云うはいかなる僻見ぞや。 公儀の仰せを恐れ、妻子家財に耽着し信心退転して法敵の他宗に首をのべて彼の宗門に移り、判形をもらいて公難を遁れたる臆病不覚の謗法人なり。 武士の戦場に臨んで臆病の故に一戦にも及ばず甲をぬぎ弓の弦をはずして忽ちに降人と成って怨敵の幕下に属するが如し。 かような臆病人をば武士の風上にも忌むが如し。 かくの如きの類を軽罪として仮判の咎に依って悪道には落つべからずと云わば、謫戮の難を顧みず不惜身命を立つるも詮なきことなり。 たとい外相は濁りたりとも内心に不受の法を信じ、朝暮罪障懺悔の為に読経唱題して悪道へ落ちず、遅くともついには得道することならば、心安く家に居て一生を過ごしたき事なり。 されども謗法罪の恐ろしき仏祖の制誡を正路に信じたる人は、法難の砌自害餓死せる人もありき。 これらの人を不覚とは云うべからず。 実に信心強盛の行者なり。 先年信長公の時江州安土に於いて浄土宗と当宗と法論ありて、当宗法門には勝ちたれども公儀浄土宗贔屓の故に頂妙寺の日b聖人等を牢獄にくるしめられたり。 日b臆病にして身命を捨つることあたわず、一札を公儀へ捧げて籠舎を許されたり。 日bもこの謗法罪を深く悔いて髪をもそらず懺悔の為に昼夜読経して隠れ居られたり。 その後妙覚寺日典聖人万部の御経執行あり。 時に彼の日b妙覚寺へ参られて先年一札を公儀へ捧げて籠舎を許されたる謗法罪悲歎限りなし。 願わくば今度の万部の人数に加えられ、小僧の下座にても彼の謗法罪懺悔の為に読経の儀を御免し下され候えと落涙して懇望ありしかども、日典上人ついに許容し玉わざれば、是非に及ばず、後に中山へ引き籠もって謗法懺悔の為に昼夜読経ありしが、ついにこの謗法の罪に依って現に癩病を受けられ、臭き臭い室内に充ちて臨終の時は骨肉ともに蕩け流れたりと古記にあり。 謗法の軽罪にあらざることかくの如し。 日bは智者なれば懺悔も勇猛なるべし。 また日bは一札を捧げられたれども宗門をば替えられず今の濁徒は公難を恐れて宗門を替えたり。 元祖の教誡自余の罪をば呵責なく専ら謗法罪を呵責し玉うは謗法の罪科莫大にして堕獄多劫を経歴するを哀憐し玉うが故なり。 しかるを仮判の心なれば軽罪なりと云えるは、元祖の教誡を蔑如し、先師の謫戮の難にあい玉うをもなみする大罪筆にもつくしがたし。 仮判とて仮初めの義にはあらず。 臆病不覚にして信心退転し、妻子家財に貪着して後世の成仏に思い替えたれば内心穢濁の至り放逸着五欲堕於悪道中の者なり。 仏祖の遺誡に背くが故なり。 心の内に得心しても身に行わざれば仏祖に違背するなり。 都の露休は釈迦もどきの戯語を弘め、今の他書は元祖もどきの邪義を弘通す。 師子身中の虫翅を生じて正法信仰の人の眼を抜きとる。 悲しむべし、哀れむべし。 また他書にもちろん包む処の物体信者と仮判と不同これ有りといえども、内心の宝珠は真金にして不同有るべからずと。 云云 報じていわく、濁法心内に包む処の物体には不同これ有りと云いて内心の宝珠は真金にして不同なしと云うは、一連の内詞に相違あり。 包む処の物体とは心内の宝珠に非ずや。 また別につつむ物ありや。包む処の物体不同ありと云うは、謗法罪あるが故に不同を立つるに非ずや。 心内の真金に即ち清濁の不同ある義なり。 一連の句に於いて何ぞ誤るや。 爾前の円を金に喩う。 法華の純円をも金に喩うといえども金に勝劣の不同あるが如く。 今昔の円を混同すべからざること上に奥師の円珠真偽決を引いて示すが如し。 清派濁派の心内の真金の勝劣の不同これを以て知るべし。 また他書に破文の濁法を内心清浄と名を与うるといえども全分の清浄に非ず。 外色すでに他宗に同ずる上は内外違却し、外の不浄また内心を汚す失ありと云えるを会していわく、然らば施主を立てて罪障を悔ゆるは何の為なるや。 外の仮判の罪を滅せんが為にあらずや。 「若欲懺悔者但坐思実相衆罪如霜露恵日能消除」の文の意なれば、施主を以て唱題し仮判を悔ゆれば何ぞ善心に引かれ色の軽罪ついに滅せざらんや。 云云 報じていわく、能破に述べられたるが如く濁法内心に包む処の物体清派と不同あると云うが即ち内外違却し、外の不浄内心を汚す失なり。 一向清浄とならざればこの謗罪滅すべからず。 他書に引ける普賢観経の文はまさしく清派の人の当用なり。 濁派の人も懺悔の為に唱うれども、他門堕落の濁徒の得道の証拠となる文には非ず。 今の清派の人も五濁濫漫の名字即の初心なれば五欲は常に心に離れず、面々過去遠々の悪業あり。 また今持つ所の妙経の難あり。 況滅度後の金言あれば少しも怠慢の振る舞いあるに於いては天魔の障碍を受けて流転すべし。 四魔の内三魔は身の内にあってややもすればきざし起これり。 三魔の強くきざす時天子魔の障碍を受くることなれば、行住坐臥少しも油断すべからず。 もし油断せば得道危うかるべし。 奥師研心鏡に法華受持の行者を誡め玉う文にいわく、もし今生に聊か制伏の思い無ければ世々未来永く苦輪を出づべからず。 もし勇猛心自ら発らずんば精をつくし至心に三宝に祈りを懸け深く道念を起こすべし。 誠に無二の信力に非ずんば永くこの楽邦に至るべからず。 云云 この文に楽邦とは寂光土の事なり。 法華清浄の行者をさえかくの如く誡め玉えり。 今生に着欲の心を制伏せずんば得道難かるべしとなり。 況や今の濁派の人として外の謗法に依って内心を汚しながら、我は施主を立てて懺悔する故に仮判は軽罪なればついには滅して得道あるべしなどと悠々緩々に思いなば、いかほどの多劫を送るべきも測りがたし。 天魔別して法華の行者を浸?することは御妙判に示し玉うが如し。 濁派の人施主を立てて善根を営むはその功徳に依って世出の罪も漸々微薄になることは自他何の諍いあらんや。 この故に濁法の人には随分謗罪懺悔の唱題をすすむることなり。 今の能破の旨趣はかくの如く内外ともに清派劣れる失ある故に同行同拝して信謗雑乱の作業あれば、清派の人まで彼の濁派の汚れを蒙って流転の業となることを悲歎してこれを糺さるる義なり。 堯了の教化は余り慈悲すぎて能化の人まで流蕩して過失を犯すなり。 寵愛の子をば道を知れる親はなるほどきびしく教誡して悪に落とさざるようにする。 これ親の慈悲の至極なり。 仏菩薩の衆生悲愍の教化もまたかくの如し。 濁徒の謗罪をありのままに説き聞かしめて信心を増進せしむること慈悲の至極なり。 また他書に能破の爾前の円所帯の三教を会することあたわざる故に円も粗法となる妙楽の釈を引いて今の濁法の人他宗判形の謗法を改むることあたわざるは爾前の円の如しと云えるを挙げて会していわく、今の濁徒は施主を立つる故に爾前の円とは別なりと。 云云 報じていわく、施主を立つれば改悔になるや。 眼前の判形謗法を改むることあたわず。 これ信心微薄にして仏祖の遺誡を行うことあたわざれば全く爾前の円の如く実の謗法人なり。 何ぞ曲会するや。 灯炬星月の闇を除滅することあたわざるが如し。 日天子の光用は室内の闇までも除滅す。 不惜身命の清派の如し。 榎実はなりても木は朴の木なりと諍うことなかれ。 また他書に能破の外相の他宗なるは公儀晴れての義、内心法義を信ずるは隠密にして一己の私なれば、外は強く内は弱きが故に外悪に内善は奪われ易しと云えるを挙げて難じていわく、今は公儀より不受禁制に付いて真俗共に隠密に法義を立てて住所不定の体にて艱難を忍び修行を志すは公儀晴れざる故に功徳にならずと云うべしや。 云云 報じていわく、今世法滅の初めに法灯の衆公庭へ諫状を捧げ、祖師の炳誡を守って流刑の身となり玉えり。 それに属せる末々の真俗は敗軍の後残党方々へ引き退きて身をひそめ出陣の時を待つが如し。 今にても名をさして穿鑿あらんには進み出でて謫戮の難にあうべき身なり。 されども一人抜群して諫暁はせざるなり。 今の時節諫暁だてをすれば狂人と云われて何の詮もなく流刑せらるるばかりなり。 一の谷に於いて源平合戦の時河原兄弟抜懸けして何の詮もなく射殺されたるが如し。 また残党の一派所々に身を隠して居ること公儀にもひそかに知り玉うべけれども事起こらざれば穿鑿せられざるなるべし。 他もかくの如く意得たらんなれども、破文を難ぜんとて何がなと思いて云えるか。 今清派は公儀より尋ぬれば進んで出づるなり。 濁徒は公儀より吟味の時も、我は不受の心を持ちたりとて進み出づることはせざるなり。 清派の人こなたより進み出でざるは右の旨趣を以てなり。 されども庄屋名主等は不受の法を汲める者なりと知れるなり。 しからば公儀はれたると同前の義なり。 破文の意は濁徒の外も濁り内も弱きことを述べたる潤色なり。 文の元意を見るべし。 また他書にいわく、心は能造の根本なれば濁法の内心不受を本意とし、善心日夜に生じ、その上に施主を立つる。 彼これを以て内心の善に引かれ外の仮判の悪も次第に滅せざらんやと。 云云 報じていわく、他の云える如く心は能造の根本なり。 故に諸仏菩薩法滅以来の在家出家の堕落の有様心底のきたなき体を御照覧なされては思し召すべし。 哀れなるかな、痛ましきかな、真俗の心底の大愚痴なる、これに過ぎたる大愚痴あるべからず。 一向道理をわきまえざる者は是非に及ばず。 多分は道理を聞き得たり。 今この正法に入りたることは過去遠々の宿善の開発して盲亀の浮き木にあい、優曇華の海上に開敷せるよりも希有なる妙法に値遇し、殊更末法の導師上行薩?の末流を汲める真俗なれば、この臭き身を妙法の為に捨てたらば過去遠劫の罪垢たちまちに消滅し、順次生には金剛不壊の浄身を感得し、六根清浄の徳用を振る舞いて、過去曠劫の間たがいに親子夫婦となりし恩愛の者をも漸々に済度し、今生の父母眷属朋友までも楽邦に引入して自他倶安の境界となるべきを、今生僅かの露命を期し、妻子家財に?繋せられて常々聴聞せる道理をばわきへ打ちやりて、法華経の敵となりて衆生を悪道へ引き落とす邪師の門に入り、彼の旗下に属して公難を遁れたる有様誠に昇沈苦楽の道理をわきまえざる大愚痴、言葉を以て述べがたし。 これ皆身内の業、煩悩魔の発揮して外の天子魔に障えられ、順魔逆魔に蕩されてまたまた三途の古郷に帰り、六道のちまたに迷わん事不便至極なりとて慈悲の御眸に哀憐の御涙滴々たらん。 御妙判には臭き頭を法華経に奉るは沙に金を替ゆるなりと示し玉えば、道を知って行わざる大愚痴、譬えをとるに物なし。 そもそも愚痴は畜生の因なれば、業は秤の如く重き物まず引くの理にて、まず畜生道を感ずべき道理必然なり。 これ則ち心は能造の根本なるが故なり。 かくの如く内外に失ある濁徒なれば随分痛わりて懺悔の修行を一偏にすすめて一人ずつも清派に引入の方便をするこそ自他の為なるに、彼の内外の失ある濁徒と同行同拝して信謗雑乱の行をなし、清派も半濁与同の汚れを蒙って功徳を失い、濁徒も清派を汚す失を犯さしむる教えをなすは何なる意ぞや。 師となる人も流転し、教えを受くる人も流転す。 その師の堕つる処に弟子また堕つ。弟子の堕つる処に檀越また堕つと云えり。 あさましき勧めなるかな。 かくの如き道理は自他を離れて閑静に居して得意あるべし。 また他書にいわく、濁法もまた法立の如く成らずとも責めて内心は法義深重に志し、判形は公役仮判と思い施主を以て信心を取り玉う。 中にも法立へ帰する者たちまちにこれ有り。 たとい縁熟し来たらずとも内信と施主との功徳を以て外の仮判の罪も内の善心に引かされ滅し、ついには未来の得道もこれ有るべしと。 云云 報じていわく、判形は公役仮判と思うとはいかなる顛倒ぞや。 公役と云うはその所の神事祭礼等に就いて先規より有り来たれることをば廃す事あたわざる故に、公儀よりその所の町役にかけてさせ玉うことあるを公役と云うなり。 これは臨時の役暫時の事にして家なみにかかれる事なれば、妙覚寺九箇條の法式の中にも、謗法の堂社に於いては参詣致すべからざる事。 但し見物遊覧公役等を除くと一箇條を立て玉えり。 これは家役になりてその神事等の入目の銭を出す役なれば謗法には成らずと決帰するなり。 今度の法難は永く宗旨を替えさするの法難なり。 これを彼の暫時の公役と同ずるは山をさして蟻塚と云うが如し。 大儀を蔑如して小事とする心底、愚盲の至り悲歎すべし。 彼の日乾が書に大仏供養を受けたるは小節にして大節の義に非ずと邪会せるを奥師制法論に強く破し玉えり。 今他書に公役仮判と思うと云えるは日乾が義に同じ。 その上に堯了師の御勧め今時内信心に相応せりと募れり。 極重の罪を軽罪と云うはいかなる邪侫ぞや。 たとい実に軽き罪にても重しと云うはその人の為には懺悔心強く発る故に忠言なるべし。 しかるに重罪を軽罪と偽るを今時分に相応せりと云うは濁徒を諂諛して甘き毒を食わしむるものなり。 元祖の一生涯謗法罪の重き事を弘通し玉える筋目をばありのままに説き聞かせて清派へ帰入の心を生ぜしむるを今時相応の勧めと云うべし。 愍喩盲破記 終 |