愍諭盲破記:6(日念上人)
これを死人に口なしと云わんや。また日了の状にいわく、既に両義に分かれ候上は法灯の批判には強き方に随い候が本意にてこれ有るべく候。 この文言深重の義殊勝有難く感歎仕り候と。 云云 この状に両義に分かると云うは、日指方法灯の下知を受けずして別派となれる事なり。 その日指方の目当てとする処は、日堯の信謗一列授与の本尊同拝同行の義に委託し、春雄院の本尊をも無理に日堯の義に引き落とし、書き誤りを幸いとして、日雅逝去なれば死人に口なき故にこの二幅の本尊を同致の義にして目当てとせり。 かくの如く両派に別れたる時は法灯の批判には強き方に随うが本意なりと云う義なり。 日了の状にこの文言深重の義殊勝有難く感歎仕り候とあれば、日講の不拝不与同の弘の批判を無二に信仰の筆跡なり。 否と云うべからず。 かくの如く日講への返状には丁寧に同心しながら他書の下に引ける貞亨四年卯二月四日日了より覚驩@へ遣わす状を見れば日了の心底たちまちに顛倒せり。 その状にいわく、日講より極月七日の書札このころ参り候。 格式立てたく候に二幅の本尊障りに成り申す間、裏書してなどと申し越され候。 格式入らざる義と存じ候。 何の子細もこれ無く日相は大いに障り、日講また障りたき義共申し越され候。 我等は一円合点参らず候。 已上 この覚驩@への状と上に挙げたる貞亨二年乙丑八月の状と見合わせれば、丑の年の状は格式の事を別して結構なるる事申し宣べ難しと云い、既に両派に分かれ候上は法灯の批判には強き方に随い候が本意にて候。 この文言深重の義殊勝有難く感歎仕り候と云いて能く納得しながら、覚驩@への状には格式入らざる事などとつぶやかれたる筆跡、日了は正しく両舌の失を犯し玉えり。 但し日講への返書は諂諛せるか。 諂諛して何の益かある。 日講への返書と覚驩@への状は中一年を隔てたり。 一年の間に心顛倒して変ぜり。 これ天魔に侵?せられたり、悪鬼入其身疑いなし。 日堯は大楚忽にして内証にて問訊したる事を広く弘通すべしとの点示もなく、はや立賢へ紙面に顕し申し越されたり。 これまた天魔の所為なり。 魔障の験には日指方一同に能き大将を得たりと悦んで日堯所立の弱の義を尊敬し、日雅の書き誤りの本尊まで無理に日堯の義に取りこして日雅の心も日堯の心と同じと云いて両派と成りて嫉謗せり。 これまさしく魔障の験なり。 その上日堯より立賢への状に濁法の本尊を拝せずと云う人は謗罪を招くと強言せり。 この強言は述、浣、講、庭、養、相まで当たる破言なり。 日指方この堯了の書に依って別派を立て、先聖弘通の正統の人を嫉謗す。 この破法罪堯了の書より起これり。 これに依って日講はこの邪悪を破斥せられたり。 元来日堯より謗罪を招くと云う破言を出せり、何ぞこれを破せざらんや。 これ日講の違変に非ず、過失は却って日堯にあり。 日堯逝去の前年までは述、浣、講、相、庭、養等皆以て強義為正歴代先聖の教化を伝来して弘通ありし事一宗の真俗皆ことごとく知れることなれば諍うべからず。 立賢より両師の義は国方の義に相違すと云える、滅法以来諸聖一同の強義為正の義弘まれる故なり。 この義に何の不足有って俄に新義を弘通して破法罪を作り、隔てなき一派を二に分かちて戦わしむるや。 これ天魔の所為にあらずして何とかいわん。 何ぞ汝今五箇條を立てて日講を破斥するは却って汝が冥途の五無間罪の鉄棒と変じて身体を砕くべし。 悲しむべし、愍れむべし。 上にもほぼ示すが如く世間仏法大事は小事より起こるものなり。 千丈の堤も蟻穴よりくづると云えり。 法義一味和順の時は少々の事は相談の上にて弱に随いても強に随いても無事に治まるものなり。 堯了より日講へ拝不拝の問訊は一味和順の時にしてしかも内談の問訊なり。 これを広く内信の人へ披露して自今以後の教化にせんとにはあらず。 日講その時の返状にも万端内証示し合わせ、後代までの支証になる様に格式を定め置きたく候間少しも覆蔵無く御内談もっともに存じ候と申されたり。 これは法中の義を取り越して衆議を料簡し格式を定めたき内存なれば、重慮憶度にも及ばず堯了よりの書状に応じて一往拝の義もっともと返答あり。 自今以後広く弘通あるべしとならば憶度有って料簡もあるべし。 その後堯了より一左右の首尾談合もなく披露あり。 それも当分にはしれず、その翌年堯師逝去の後春雄院日雅の看経講本尊の書き誤りを津寺方より穿鑿し謗不謗の異論多端のみぎり、堯師因州へ授与の看経講本尊を捜し出して日雅の本尊の風儀もこれ有りとて依憑の証拠に出せり。 この時二幅の本尊の同異の諍いありしかども決帰定まらざる処に堯了より立賢への書状出でたるに依って二幅共に信謗一列の授与なること諸人納得せり。 この時堯師存生にて日講より異見あらばかくの如く両派にはなるまじきを、正法衰減魔力興盛の時節にや、堯師も前の年逝去にてその甲斐なく、あまつさえ日指方この堯了の義に依憑する故についに両派に成って互いに城郭を構え嫉謗の矢を放ちて矛盾に及べり。 日雅の本尊も日雅存生の時津寺方よりとやかくと難ずる故に、日雅より日相へ問訊あり。 相師の返書に少し思慮もこれ有るべきかと存じ候。 さりながらさして妨碍に成り候事は有るまじく候と。 云云 この相師の返答も一味和順の時なれば、これ底の事は誰が上にもあるべければ、談合の上にていかようにも事済むべしとの御料簡なるべし。 されども事破るべき先兆にや、日雅も程なく逝去なり。 日雅もし存命あらばかくの如く両派にはなるまじきを。 日雅終焉の後両方の我情強くなり行きてついに両派となれり。 日雅存生にて相師と一味ならば彼の本尊の書き誤りも相談の上にて無事に済むべけれども、日雅逝去の後彼の本尊を取り持って堯師の本尊と一具にし、これを依憑の旗として法灯の相師に違背し、却って誹謗を加えたり。 かくの如く敵となるその根源は日雅の本尊より起こる。 故に日雅の本尊を謗法と決帰し玉えり。 これ根本は小事なれども、与力の人多くなりて異義になる時は大事に及ぶこと世間出世皆以て同じ事なり。 乱世の時は少の遺恨も展転して大事になれば父子兄弟も合戦するが如し。 末法濁悪の世なれば天魔便りを得て、正法衰減の時に則りてかくの如く一味法中を戦わしむること、自他共に悲歎の至りなり。 もっとも一旦は魔障に依って両派となり互いに嫉謗すとも、ただ正路に理の邪正をわきまえ、弘通の師に着することなく、所詮元祖以来の先聖正轍の流れを汲みて未来昇沈の処に心を懸くべし。 ただ自他の偏頗を離れて我情を差し挟む事なかれ。 一、堯了状第四段にいわく、御本尊を拝せば受不悲田等と難ずべしと云う事、受不悲田は内通を知らず一向に他宗に成ると謂うべし。 もししかれば内の御本尊の有無、拝不拝も知るべからず。 何ぞ難ずべけんや。 もし内通を知る者難ぜば答うべし。 これには子細有り、知らんと欲せば帰伏して聞くべし。 申すべし、妨げるべからず。 已上堯了状 日講の能破にいわく、この段別して心行の不正を顕せり。 受不悲田は内通を知らず一向に他宗に成ると思うべしとは、大海を手を以てせかんとする風情なり。 仮判の者本尊をひそかに求むるをば世を挙げて知る処なり。 たとい知らずとも知る道理を考えて知るとも苦しからざる義有ってこそ本尊をも授くべきに、一向不知の義とするは不覚の至りなり。 後漢の楊震四知を恥じて金を受けざる事あり。 また転計してもし内通を知る者難ぜば答うべし。 これには子細有り、知らんと欲せば帰伏して聞くべし、申すべし。 と下知せること無顧の遁辞なり。 彼が帰伏を期して子細を談すべしと延引せば帰伏の期あるまじければ、一生疑いを晴らさず此方を譏嫌する失を補わざる咎莫大なり。 その上公庭を恐れて仮判する者なれば、受不等より清派の僧と通用するを知りて尋ぬるとも、公儀へ聞こえんことを恐れて有のままには云うべからず。 虚説なりなどと陳報する分際なるべし。 しかるを強言して帰伏して聞くべしと申せと指図せらるる事、不覚の至りに非ずや。 已上取意 他書に楊震が四知を会通していわく、今は濁法の内証と施主の帳外を随分密する義なり。 何ぞ四知と一例して云うや。 云云 報じていわく、能破に楊震が四知を引ける意は何ほど隠密することも必ず知るるものぞと言う例証に出せり。 濁法内証の事も施主帳外の事も隠しても必ず知るる例に非ずや。 また能破の内通を知る者様子を尋ぬる事あらば、公儀へ聞こえんことを恐れて陳報すべしと云えるを会通していわく、今時の内信はたとい公儀より御尋ねあるとも少しも臆病を構うる覚悟とは見えず、内心には不受不施の立義を尊敬致す由申し上ぐる覚悟の体なりと。 云云 報じていわく、内信の内百人に一両人は強盛の者もあるべきか。押し並べて皆強盛なるには非ず。 多分に従えて云う事なり。 何ぞ押し並べて皆強盛なるように偽るや。 一、堯了状第五段にいわく、濁法の本尊を拝せば法立不法立の分立たずと云う事、内外清浄、外濁内浄これ程大いに分け立て在り。 御本尊は同事なる故に分かつべからず。 已上堯了状 能破にいわく、次上に破する故に再び筆を労せず。已上 一、堯了状第六段にいわく、濁法の御本尊僧を頼み開眼して遣わす。 その後彼の手に渡り候えば拝し申さざる由これまた珍義なり。 開眼の時ばかり拝し、開眼してその後拝せざれば開眼の徳いずくにあるや。 開眼以後いつまでも利生これ有るように開眼す。 当位ばかりあらば何の詮かこれ有らん。濁法の者拝しても何の利益これ有らんや。 已上 能破にいわく、これ本尊授与の師清浄なる辺のみに執して謗人の手へ渡る時本尊も随って転ずる事を知らざるの弊なり。 元祖の御本尊は上行再誕の御直筆なれば末法万年の末までも通轍する最上清浄の開眼なるべし。 何ぞ古来他宗所持受不施所持の元祖の御本尊礼拝を禁じ来たれるや。 如何。授与の師清浄無染なれども半同半異の濁法の手に渡りては本尊の光用微薄なるべきこと必定なり、何ぞ開眼以後いつまでも利生あるように開眼すと自讃せるや。 但し堯了は元祖にも超過せる伎倆これあるや。 これ人法一致の道理を解了せざる失なり。 已上取意 他書にこの能破の文を会通していわく、両聖人何ぞ人法相違の時は本尊の光用随って転じ薄かるべき事を知り玉わざらんや。 何ぞ悪口を本意とするやと。 云云 報じていわく、人法相違の時本尊の光用随って転ずと知らば何ぞ濁法所持の本尊清派の人に拝せと勧むるや。 既に外濁の人の所感なる故に本尊の光用劣れり。 外濁謗法の雲にかくるる故なり。 清派の人拝せば外濁謗法の曇りの罪を蒙らざらんや。 これ堯了は人法相違の時本尊の光用随って転ずることを知覚なき事明らけし。 また能破に元祖の御本尊は上行再誕の御直筆なれば、末法万年の末までも通轍する最上清浄の開眼なり。 何ぞ他宗等の所持の元祖の御本尊古来礼拝を禁ずるやと云えるを他書に会通していわく、勿論祖師の御本尊は万年の外までも通轍する御本尊疑いなけれども、他宗は権実を知らず法華経に敵対す。 受不悲田も祖師の立義に背き、法華の明文に違背し師敵対となる故に本尊の光用これ無し。 何ぞ法立として拝せんやと。 云云 報じていわく、能破の意は堯了状の開眼の時ばかり拝し、開眼以後拝せざれば開眼の徳いずくにあるやと云えるを破斥せり。 上行再誕の最上の開眼すら所持の人に依って転ずる故に、他宗等所持なれば拝せず。 今また堯了の開眼も半濁の人の所感ならば本尊も随って半濁ならざらんや。 開眼の徳を妄りに誇耀せらるるは元祖の開眼にも勝れたる義になるなり。 能破の義はこの誇耀を打たるるなり。 また能破に授与の師いかに清浄無染なりとも半同半異の濁法の手に渡りては本尊の光用微薄なるべきこと必定なり。 何ぞ開眼以後いつまでも利生これ有るように開眼すと自讃せるや。 人法一致の道理を解了せられざる失なりと云えるを他書に会していわく、今の濁法は前段の如く内信に祖師の立義を本意と思う。 これに依って施主を立て本尊を所望す。 両聖も内信心と施主を目掛けて遣わす本尊なり、いつまでも利生有るように開眼すと云う。 これ自讃に非ず。 向上の見計を起こすにあらず。 何ぞ人法一致の道理を解了せずなど云う。 余りの悪義を云うにあらずやと。 云云 報じていわく、能破に人法一致の道理を解了せずと責むるは、元来人と法とは一致のものなり。 いかほど清浄の僧本尊をしたため開眼して渡すとも、頂戴の人濁法なればその本尊も半濁の曇りを蒙る故に、本尊の光用微薄なる事必定なり。 しかるを開眼以後いつまでも利生これ有るように開眼すと云えるは自讃誇耀にして人法一致の道理を知らざるなり。 これ則ち元祖にも超過せる伎倆有りて抜群の利益これ有りと向上の見計を起こす義なり。 一、堯了状第七段にいわく、散銭の事勿論なり。 此方とても施主無き濁法の布施は受くること無し。何ぞ珍しくこれを云うや。 已上 能破にいわく、この義不審千万なり。 既に濁法を内信清浄の人なりと許し、本尊も清法の僧の書ける本尊なれば清派の人拝すべしと許して信謗法義通用する義ならば、供養の時も施主を立てず直ちに受納すべき事なり。 供養の時の施主を立つるは仮判の濁悪ある故なるべし。 しからば濁法所持の本尊も拝すべからざる事必然の理なり。 何ぞ用捨轍を替えて己情に任せらるるや、もっとも不審なり。 已上 他書会通していわく、施主無き濁法の布施受くること無しと云うを以て濁法の内信心と外の施主に依って知んぬ、本尊を与うと心得玉わば法立として何ぞ拝せざらんや。 供養の時も施主に依って受くる道理分明なり。 何ぞ用捨轍を替え己情に任すと云うやと。 云云 報じていわく、会通の義立たず。 内信心と施主に依って本尊を与うといえども、その本尊感得の人清浄ならず。 不浄人の本尊何ぞ拝せんや。 堯了の義は用捨轍替われり。 その故は内信心と施主に目掛けて与うる本尊なる故にその本尊を清派の者も拝すべしと云わば、濁派清派隔て無く法義通用するに非ずや。 これは用なり。 供養を受くる時は正しく施主を立てて清濁の隔てあり。これは捨なり。 これ用捨轍替われるに非ずや。 施主を立てざれば施物受用ならぬ程の謗罪ある人なれば同行同拝はならぬ道理なり。 それを同行同拝するは信謗雑乱の謗罪と責むる義なり。 一、堯了状第八段にいわく、濁法へ遣わす御本尊は現当二世利益の為遣わす。 もし正体無く利生無くば反古に同じ、授与して何の詮有らんや。 もし利生有らば濁法さえ利生有り。 法立の人拝して何ぞ利益無けんや。 已上 能破にいわく、およそ仏法繁昌の時は法水少しも濁りあれば本尊を授与せざる格式なれども、今度宗旨開闢以来ついにこれなき大法難競い来たれり。 身命を捨つるに堪えざれば僧は年来の風儀を改めて邪徒にくみし俗は他宗の判形を求めて公儀を繕う。 その法灯の人は左遷の身となり、或いは流浪の姿にやつれて利他の願望を絶せり。 されば別途の理を以て彼の内浄外染の濁徒を摂取して本尊授与を許し、現未の勝縁を結ばしむる手段とせり。 これ則ち彼の濁徒外相はやむことを得ずして轍を替ゆれども、内心深志有って清法の僧の本尊を頂戴し滅罪の依止と憑める故なり。 尋常の格を守って捨てめぐまずんば却って無慈悲の至りなるべし。 然りと雖も彼の濁徒外相他宗に混ずる大科ある故に、清法感得の本尊に望むれば濁法感得の本尊の利生は従って劣るべきこと必然の理なり。 吾が祖御妙判にいわく、露の命の消えがたさに或いは心ばかりは信じ、或いは兎角す。 難信難解と説かれて候が身に当たって貴く覚え候。 已上 吾が祖の如く色心の二法に歴て堪えがたき難を忍び玉うは真実の法華信解の道理なるを御身の上に引きうけ、経文にかなえることを感じ玉うに就いて、弟子檀那の中に難を忍ぶにたえず、ようよう心ばかりに信じ、或いは品を替えて難をのがれ、しかも法華を信ずる由をする者を別して出し玉えり。 かくの如きの類は実に法華を信解する義にてはなきに依って、この退転の類と御自身の上と二の心を含めて経文を感じ玉えり。 この御妙判今の内信の者をば実に法華信受の義と許し玉わざる的証なり。 また当世の古受新受等もこの責を遁るべからざる明鏡なり。 また日朗上人土籠御書にいわく、今月七日に佐渡の国へまかる。 各々は法華経一部ずつあそばして候えば我が身ならびに父母兄弟存亡に廻向しましまし候らん。 已上 この御書は朗師等色心の難を忍びて籠に入り玉えるを真実の法華一部ずつ遊ばすと印可し玉えるを以て知んぬ、心ばかりに信じ口でのみよむは真実の持経に非ざること分明なり。 また御書にいわく、始中終捨てずして大難をとおす人如来の使いなり。 已上 またいわく、師子王の如き心をもてる者仏になるべし。 例せば日蓮が如し。 已上 心あらん人もっとも肝に銘ずべし。 かくの如き等の深旨をも了せずして清濁同じく現当の益を得るように書きなせるは理不尽の義に非ずや。 また濁法さえ利生あり。 法立の人拝して何ぞ利益無けんやとつのれること甚だ曲解なり。 清法の人自得の本尊あり。 何ぞ猥りに濁法の本尊を求めて拝せんや。 さきにも示すが如く半濁の本尊と清法の本尊と混雑して拝する時は半濁の不潔を蒙るのみならず、信謗雑乱の過に依って自身所持の本尊も利生薄くなるべきこと必然の道理なれば害有って利なし。 然るを濁法の利生を以て清法の利生を況出せるは顛倒の義に非ずや。 已上取意 他書この能破の文を会していわく、勿論法義繁昌の時は法水少しも濁れば堅く誡め改悔せざれば本尊をも授けざる格式なり。 然るに今法義総滅の時なる故に信心深き人も是非なく国法に随い他宗の判形を求むる故に色けがるるを以て濁法と云う。 判形を求むるといえどもしばらく仮判の心なり。 自余の謗法は少しもこれ無きようにして内心に法華の金言、祖師の御立義を尊敬し、その上に施主を立てて三宝を供養し罪障消滅の題目を唱うる者を一向他宗受不悲田と同意に授与する本尊、或いは現未の勝縁を結ぶ手段と云い、或いは他宗逆縁と同等にのたまうは内信心の者たのもしからざる教誡、却って信心も失うべし。 両師の勧めは内信心の衆中の仮判はしばらく方便にして内に不受を本意とし、施主を立て信心深重ならば仮判の罪に依って悪道には落つべからず。 未来の得道も清法の如く早くはこれ無く遅くともついには得道有るべしとの教えたのもしく、濁法にさえ得道利生あり、法立にはなお以て利生有るべしとはもっともに候わずや。 またいわく、然るに御妙判の露の命の消えがたさに或いは心ばかりは信じ、或いは兎角すとある御文体と今の内信施主を立つると同列し玉うは如何、諸人能々案じ評判し玉え。 またいわく、日朗上人土籠御書等の御文体は如説の行者なれば自他共に何の異義あらん。 今ここに論ずるは濁法の義に就いて両聖の勧めは今総滅の砌なれば、濁法内信心ある故に施主を立つるに依って御本尊を遣わす。 何ぞ濁法も二世の利生なからんや。 随分信心を取るべし。 清法の行者も濁法の本尊を内心と施主とを目掛けば法体清浄の本尊なるに依って拝せば何ぞ現当の利益なからんやと募るを曲解と云うは苦々しき心底かな。 勿論濁法の本尊清法の本尊光用の不同は上にあり。 しかりと雖も本尊の体は不同これ無しとのたまう。 他の心得は清法の者は我が所持の本尊ばかりを拝すべしと思えり。 もししからば法義堅固の仏前へ参詣するは功徳を増進し未来の得道を願うにあらずや。 その如く、濁法の本尊を施主目掛けて拝せば何ぞ功徳なからんや。 濁法も内信心増進せざらんや。もししからば自他の功徳自然と備わるにあらずや。 何ぞ顛倒の義と云うや。 已上他書 報じていわく、他書に日講の能破に濁法に授与する本尊を現未の勝縁を結ばしむる手段とする等の語を挙げて難ぜり。 彼法滅に及んで信心弱くして身命を抛つにたえず、なくなく他宗の判形を求めて外相他宗となれり。 法繁昌の時の格を替えて彼の濁徒を摂取して本尊を授くることこれ逆縁に同じ。 これまた現未の勝縁を結ぶに非ずや。 上にも云うが如く一向の他宗受不等と今の濁法と一向清浄の人と三段の異あり。 今の濁法は内に信心ある故に一向の他宗受不施に勝れたり。 一向清浄の人は今の濁法に勝れたること莫大なり。 他書今の濁法を、他宗の判形を求むと雖もしばらく仮判の心なり。 しばらくの方便にして仮判の罪に依って悪道には落つべからずと云えり。 今の濁法内に信心有って経文御妙判の義を信仰すといえども信心弱くして妻子家財にほだされ未来の大事を捨てて世法に思い替え、他宗の判形を求めて公儀の難を遁れたり。 これしばらくの仮初の事に非ず。 一生涯の謗法の判形なれば軽罪と云うべからず。 今総滅の時にして人数同類多き故に目にもたたず。 もし法繁昌の時一両人にても今の濁法の如き振る舞いあらば諸人呵責して義絶に及ぶべし。 同類多きとて罪は軽くなるべからず。 またしばらくの方便にもあらず。 方便と云うは一の法に背きても十の功徳を得ん為になすを方便と云うなり。 これ則ち自身より始終を覚悟してなすことなり。 武蔵坊弁慶が戸樫の関に於いて主君の義経を打擲して主君の命を救うが如し。 今の濁法の判形は一の法度を破って十の功徳を得ん為に自身覚悟してなす判形にあらず。 公庭より強く責めらるる故に心の内には謗法堕無間の罪を作ることを合点して悲歎限りなしといえども、寵愛の妻子に離れ、家財を抛って謫戮の難を忍ぶことはならざる故に、常ににくむ処の法敵に手を束ねて面に糞をぬられたる如くにして是非なく判形を求むるなり。 しかるをしばらくの仮判、しばらくの方便と云うは濁法衆への諂諛なり。 あさましき勧めに非ずや。 世出ともに罪科の軽重をばありのままに示してその軽重に随って懺悔せしむること第一の慈悲なり。 重き罪を軽く云いなすは彼の罪人の為には贔屓の引きたおしと云うものなり。 濁徒の中に一向無信心にして人に隠れて愛宕参詣、伊勢参宮等をする人をば置いて論ぜず、少しも謗法の吟味をするほどの人は謗法罪の重き事をば常々聴聞するなり。 不軽菩薩を打擲せし人現身に信伏随従せしも千劫阿鼻に堕ちたり。 御妙判にも懺悔せる謗法すら五逆罪に千倍せりとあそばせり。 また一段罪を軽くとりても相似の五逆ほどはあるべし。 相似の五逆をば御妙判に無間地獄の十六の別処に堕つべしと判じ玉えり。 御妙判の法相疑うべからず。 また濁法の内にも信心の厚薄あり。 新池御書に信心弱くして成仏の延びんとき日蓮を恨み玉うべからずと示し玉えり。 直ちに元祖にあい奉り御檀那となりたる人にさえかくの如く誡め給えり。 況や今法滅に当たって妻子家財にほだされ、おめおめと法敵の他門の幕下に降参せし人々なれば得道の延引せんは理在絶言なり。 また他書に遅くともついには得道有るべしと云うは自他共に何ぞ異義あらんや。 ついにと云うは分量なし。 多劫を経ても一度法華信仰の縁あればついに得道あるべきなり。 いかほどたのもしく濁法の内信をはやし立ててもその人の信心厚薄に依って得道の遅速ある道理なれば、たのもしく勧めんよりは謗法の重き事をありのままに説き聞かせたるが濁徒の信心増進の為のよき灸治なり。 また能破に御妙判の露の命の消えがたさに或いは心ばかりは信じ、或いは兎角すと遊ばせる御文言を引いて今の濁法の人に合わせるを他書に難ぜり。 今の濁徒露の命を持つに為に謗法罪と知りながら法敵の他門の判形を求めて公難を遁るるは、心ばかり信じ兎角するに非ずや。 法滅以来年久しき故に手段を以て施主を立てようやく仏事を営むといえども、その面々の身は心ばかり信じ兎角する分際なり。 この能破の一段に引ける御妙判いずれも色心二法に持つを実の法華信解の人と遊ばせり。 しかれば今の濁法は専ら一の色体に謗法の穢濁を受けたり。 この外相謗法を犯せる人の所感の本尊清派の人拝せば必ずその半濁の穢れを受くべきこと必然なり。 施主へ目掛けても施主は本人と体別なり。 本人は濁れり。 濁れる人の所持の本尊は必ず本尊も半濁なり。 清派の人拝せば利益は思いもよらず、却って半濁の穢れを受くる故に損のみにして徳なし。 しかるを清派の人濁法の本尊を拝せば何ぞ現当の利益なからんやと募れるはこれ曲解に非ずや。 また他書に濁法の本尊内信と施主とを目掛けば法体清浄の本尊なるに依って拝せば何ぞ現当の利益なからんやと云えり。 この法体清浄と云うは本尊の理性を云うなるべし。 理性に就いて云えば蠢動の??、蜈蚣、蚰蜒も仏性を具せり。 これも汝は仏性を目掛けて??、蜈蚣、蚰蜒をも礼拝するや。 例せば元祖の御本尊にても他宗受不施の手に渡って濁れる時は、衆生流転し??等と成り下がるが如し。 事相他宗の手に渡って汚るる故に礼拝せず。 もし清派の手に入って開眼する時は礼拝恭敬す。 流転の衆生??等の苦報を出でて昇進し大薩?と成って相好光明照轍する時は世を挙げて礼拝恭敬するが如し。 今論ずる処は理性を云うにはあらず、事相縁起に就いて云うなり。 何ぞ理性を挙げて惑乱するや。 汝が清派濁派の本尊の光用の不同を云うも事相に就いて云うにあらずや。 何ぞ自語相違して転計するや。 事相の光用の劣ると云うは濁徒謗法人の所持なるが故に、謗法の曇り本尊にも蒙る義を以て勝劣を云うに非ずや。 この事相謗法の穢濁ある本尊を清派の人礼拝せば何ぞこの穢れを蒙らざらんや。 しかるを濁法さえ利生あり法立の人拝して何ぞ利益無からんやと況出するは顛倒の義に非ずや。 また他書に法義堅固の仏前へ参詣するは功徳を増進し未来の得道を願う故に非ずや。 その如く濁法の本尊を施主を目掛けて拝せば何ぞ功徳なきや。 濁法も内信増進せざらんや。 もししからば自他の功徳自然に備わるにあらずや。 何ぞ顛倒の義と云うやと。 云云 報じていわく、濁法の人罪障消滅の為に清法仏前へ参詣するは自他共に何の諍いあらんや。 清法の人濁法の本尊を拝するは、清派を汚す罪は濁法の人へかかり、信謗混乱して濁本尊を拝する罪は清派の人自ら犯す咎となるなり。 しかるを清濁たがいに拝して自他共に功徳備わると云うは豈顛倒の義に非ずや。 |