説黙日課:12(日講上人)元禄八
元禄八 乙亥正月朔日日待暁天御祈祷経を拝読し奉り学初め書き初め等例の如し。二日終日読経。晩天試毫を霊前に献ず。また今日幸いに去●失う所の往年立願神呪十万巻巻数の記録見当たる。慶幸少なからず。更に去春定むる所の月並神呪の巻数を点検し、その所余を以て向後新発願神呪誦三万巻の基と為す。云云 十日祖父召●二百年忌に当たるを勘え読経一部、久遠偈を誦すること百返。かつ少饗を営んで追薦に備う。また元日以来降雨相継いで清朗の日なし。追って三伯の語を聞く、年の始めに雨の続くは飢饉の先兆にして東方朔の書に出づと。云云 十五日別行成就。かつ亥年書写本尊及び首題加行また今日入眼。年来今夜まず両奉行及び町年始の使信を調うと雖も今年より明日に定む。また伊十三右、日高七左兼ねて平六と手簡の往復有り。明日彼の両人饗応の儀を定む。十六日暁読経早く弁じ終日客に接す。かつその品を分けて年始の使信を諸方に遣わす。夜に入って両人早く来たり饗応の儀を調う。相伴には酒匂氏、三伯、玄豊。云云 馳走丁寧、かつ建渓の風味を賞し閑談時を移し夜半辞去。かつ旧冬大樹行跡轍を改め内偏に禅家の学を好み、外専ら弓馬の芸を勧むる等の事を聞く。十七日天昌正龍ともに例年の初講祝儀の鏡餅を送ると雖も天昌病重くして来たらず。故に初講また延引す。二十二日天昌沈痾いよいよ逼り予め葬具を調うと聞く。故に新助を遣わしてつぶさに今生の暇乞いを遂げ、来世の知遇を期する等の趣きを達せしむ。天昌面し難く使い委しく酬答を述ぶ。予聞いてまさに知る、心地邪無く言路もまた直正。しかのみならず歿後の回向を恃む言有り。云云 また今日京坂備作より状来たる。敢えて別条無し。但し心鏡旧持病強発を告ぐ。故に更に祈祷を励み、日課の神呪をます。また比来東城詩集を閲し往往朱を加う。 二月朔日勝手の朝齋例の如し。更に別儀に依って富田権右、森兵左等を招請す。云云 また明日より豊庵両度(夏中三度)の看経を省いて毎日一度(夏中午後夏間?後)と定む。更に日課の誦呪を勤めて欠略緩怠の科を補う。およそ欠略に就いて老病を保養し自他を将護し、かつ雨天これ危うしと顧みる等の多意有り。云云 九日聞く、天昌比来道意の薬を服し少しく快気なりと雖も昨夜より更に病発し性無きに似たり。大安寺及び龍堂今日訪問の時また敢えて言を出さず等。云云 また明日富田六兵自ら道号を持ち来たって頻りに野僧の本尊を懇望す。故にしたためてこれを遣わす。十日夜に入って天昌の門弟より使い(長友茂兵)を走らして髟の逝去を告ぐ。即ち平六新助を遣わして弔問し、牌をしたためて一部の真読を創む。累年莫逆の友、感慨窮り無し。予つくづく髟存日の行跡を案ずるに世出世に就いて可有り否有りと雖も畢竟法華結縁深厚を観察し、万緒を顧みず一心に回向す。また明夜天昌寺内葬送の儀有り。大安寺焼香、かつ下火の句に就いて主伴問答往復の儀式有り。云云 また聞く、火葬の儀を遺言すと雖も大安寺の命に依って土葬を用ゆ。かつ弟子湛応、永泉等忌中厳修。云云 後聞く、髟遺書大安寺に当て書きし後住を正龍寺の玄哲に付属し及び湛応を以て正龍の後住と為さんと欲す等。云云 十九日法清の五十回忌を迎え齋代を入るるの外少饗を設く。二十三日髟二七日に依って朝齋を十余人に設く。また頃日湛応等来謁してつぶさに野僧懇情の趣きを謝し、形見の物を送る。かつまた髟辞世の頌を見ると雖も韻字相違に依って沙汰せざらしむ。云云 また今日森兵左来たって委しく江府回禄の儀を告ぐ。当月八日四谷より出火、亥の刻芝札の辻に至って焼け留まる。風烈しく火遠く移る。故に暫時大名屋敷五十余軒、その間寺院町屋皆灰燼と成り、土蔵また残る所無し。当屋敷また火土蔵に入る故に重大の宝物及び武具馬具並びに家中有る所の衣服道具等すべて烏宥と成る。大抵これを推するにまさに当に五百貫程の費え有るべし。かつまた芝の薩摩屋敷よく火を防ぎて焼けず。世人皆称美す等。云云 即ち兵左を家老に遣わし焼失残り無きを悔やみ、かつ人怪我無きを祝す。比来透透朱を席上談及び松蔭集等に加う。二十五日夜に入って伊三右、日高氏、三伯来たり閑話す。酒匂氏兼約に違して来たらざるに依って批判を加うる中三右使いを遣わし酒匂氏また来たる。故に予一往素懐を述ぶ。平話常の如し。その間東国高僧伝の慈眼大師の伝来林道春不存の儀を破するを考出しこれを見せしむ。すなわち聖光、良忠、了誉、西誉等の伝を電覧す。云云 夜半に至って辞し去る。 三月二日心鏡より状来たり新写啓蒙筆工再治十四冊を送る。かつ心鏡の病気別条なしと聞いてこれを安堵す。今便慧雲院持する所の奥師御直筆の書を預かるべきの旨を領掌す。云云 三日松元氏より備州の友松院、及び馬場長九郎の渡海を告ぐ。即ち平六を遣わして今夜の対面を期す。夜に入って両客来たり閲す。まず御経を頂戴せしむる等例の如し。つぶさに津寺と慧応院と不和の趣きを聞き、またまさに本柳院日理逝去の忌日等を知る。夜半辞し去る。四日終日今便を恃み来たる所の本尊等をしたため明日に至って大抵入眼。残る所は重便に期す。かつ友松の懇望に依って平六をして津寺と慧応院等と和融あつかいの案文をしたためしむ。(即ち平六より友松に遣わす文章なり) 五日の夜に入って平六と新助を町に遣わし本尊及び返書並びにあつかいの案文等を渡す。かつ餞別となし本尊の首題等を送ること差有り。両人あつかいの案文を見て大いに喜ぶ。知んぬ、このあつかい相調わば必ず備作の出入りを扱うべきの趣きこれまた両人よく諾す。云云 六日早朝両客帰駕。八日松元氏より江府の僧渡海の儀を告ぐ。即ち平六を遣わす。まさに板崎堯然孫弟子真院(欽悦より添え状有り)なるを知る。故に今夜の対面を約す。夜に入って来たり謁す。まず御経等頂戴せしむる儀例の如し。つぶさに江府及び常葉談林近年の体たらくを聞く。かつ英然の弟子慈政野僧の本尊を望むと雖も受不連判の人数に列すと聞く故に敢えて諾せず。また存了、友善、昌柏院の取立たりと雖も先年谷中より在在処処の僧徒を駆り出し受不帰伏の連判に加えしむるの砌、この両僧暇を昌柏院に乞うて連判の難を免れ、堅く法義を守る等の旨及び島の妙光寺(慧恬)法義もっとも悪しく世間の奢り強く書籍を估却して厳身の具を求むる等の事を聞く。夜半辞し去る。九日了真恃む所の本尊等をしたため、夜に入って平六を町に遣わし本尊等を了真に渡し、かつ餞別として本尊首題等を遣わすこと差有り。明朝帰駕。また聞く、遊行上人(四十四世)頃日都於郡の光照寺に到着し、毎日念仏を勤誦し諸人群集、公儀の馳走また先規に超ゆ。云云 十六日書院に於いて終日客に接す。正龍寺来謁しつぶさに髟遺言の趣き及び自身辞退の旨を語る。また日高氏近日参府発足に就いて暇乞いの為来たり閑話し、かつ内内本拠未勘の條目縁を木下順庵に求め尋訪の才覚を廻らすべし等の事を恃む。(今日夜話延引) 明日新助を日高氏に遣わし時宜を調え、かつ発足の祝儀を送る。二十一日夜に入って伊三右、酒匂氏来たって閑話し、かつ本拠未勘の條目を見せしめ、日高氏に告ぐるが如く順庵に問訊する才覚を伊三右に恃む。夜半辞去、かつ聞く、織田伊豆守家老の事に依って改易、新規に二万石を伊豆守の弟に賜う。二十五日夜に入って渋谷金兵と富田六兵と来たり閑話す。かつ遊行の手跡板行弥陀名号これを摺るの時一押し百紙を徹し、及び龍宮より献ずる所の杓子今度所持等の事並びに松木左門父子三人怠り無く、二男もっとも射芸に秀づるを聞く。三更に至って辞し去る。二十六日聞く、今日遊行発駕、人馬数百、行粧厳重、恰も宮門跡の廻国に似たり。(予思う、近年遊行廻国過奢の旅行もっとも開基一遍廻国結縁の風俗に違すべし) 後聞く、病気重きに依って細島より船に乗り兵庫一派の大地に赴き到って看病すれども平癒すること能わず、五日逝去。云云 かつ遊行詠吟の倭歌数首を聞く。云云 また頃日浅山氏より江府炎上回状の写しを送らる。 四月朔日心鏡より状来たり例年の如く金子二両を送り、更に白衣一領を加う。かつ師弟契約の本尊及び奥師著述の研心鏡自筆を以て紺紙金泥に写すべきを懇望し、(写本地紙ともにこれを送る)かつ授与書は向後これを改めて安行院心鏡日信と書くべき趣きを告げ、及び玄淑始終素懐にかなわず。故に別に遺職を立てて清水勝之助と名付け、即ち戒名授与の本尊を勝之助に与うべきを請う。また啓蒙筆工の代此方より既に送る所の三十両の外なお大分の雑用有り。その雑用は彼方より野僧に寄進すべきの旨、及び野僧歿後啓蒙板行の事厳密に舎弟清水弥三兵衛に遺言す等の旨を告ぐ。熟観するに心鏡はこれ大檀越にして外護の知識なり。他日若干懇望の物をしたため遣わす。返礼の中涅槃経の懸讖、外有清浄檀越仏法久住の金文を引き合わせてこれを感じこれを謝す。宿殖の因縁すでに深し。来際の感応何ぞ空しからん。云云 また了閑三清より状来たる。敢えて別条無し。かつ法義の趣向野僧の指揮に任すべきを告ぐ。また三清より予が常の器椀及び膳等を送る。七日心鏡より恃み来たる所の本尊研心鏡等今日成就す。かつ回章加判また出来す。故にこれをしたため宗是に遣わし便船に付す。また頃日書籍の間たまたま片桐主膳の簾中本来院源泉(信州日進此戒名を授く)経帷背書布切を見出す。望みの如くこれをしたため今便にこれを遣わす。八日日中の勤行を創め及び入夏加行課経等を例の如し。また頃日樺山主馬の参府に就いて暇乞いの為来たる。三右辞去の時別して妙輪の事を野僧に恃む。予その篤志に感じ、かつ主馬当春江府屋敷の回禄に就いて金子三百両を領主に献じ、更に人夫三百人を助く等と聞く。云云 九日寿徳日秀の十七回忌を迎え齋代を入るるの外朝齋を設け、かつ当夏久しく廃する起信論及び宗円記の講を再興せんと欲し平六をして講釈の日限を記して廊架に張らしむ。十一日酒匂氏よりたまたま或る箱の中にこれを索し得たりと称して本拠未勘條目人見友元の返詞を送る。予欣然、これを披見するに二十余條の中わずかに三條の本拠を示す。友元久しく博才の誉有り、何ぞそれ答條至って少なきや。いよいよ順庵に問訊せんと欲するの儀これを伊三右及び日高氏に催促す。かつ他日使いを遣わして酒匂氏に謝す。また比来透透中峯雑録等を閲して朱を加う。二十日松元氏より関東客僧友善渡海の儀を告ぐ。即ち平六を遣わして今夜対面を期す。夜に入って友善来謁す。まず御経を頂戴せしむる等の儀例の如し。つぶさに関左近来世出の様体及び良選来年五月厳有院殿の十七回忌に相当する砌に就いて諫状を公庭に捧げ死生運に任せ、かつ亡国の科を免るべきの覚悟すでに決定。便宜次第急に渡海すべきの兼約等の事及び昌柏院一門転変の趣き等を聞く。かつ昌柏院より今便状来たり、諸亡魂の回向を恃むの趣きを告ぐと雖も書付未だ達せざるが故に重便を期す。閑談時を移し深更辞し去る。二十一日終日友善恃む所の本尊等をしたたむ。かつ懇望に依って院号を授く。改悟の本尊及び彼自ら書写する所の一部一巻の御経二十八品の題を残して野僧をして書き加えしむる等の事今日皆成る。夜平六を町に遣わしまず友善に与う。明日また滞留。二十二日信州流聖の日進聖人三十三回忌を迎えて朝齋を設く。今日三田問答詰難の誤字等を吟味して破奠記及び破鳥鼠論に付して友善に遣わして電覧せしむ。故を以て余人より当便に就いて恃み越す所の本尊書きおくるる故に今夜通暁これをしたたむと雖も、なお三分が一を余せば重便の時を期す。二十三日昧爽また平六を友善に遣わし昨夜出来の本尊及び書札回章等を与えしむ。かつ餞別として本尊首題等を遣わすこと差有り。日出に及んで平六帰宅す。懇ろに謝礼有り。友善いよいよ今朝帰駕。かつ平六より良選に酬答する書札の中つぶさに渡海の時節等を示す。また今日残余の本尊等をしたため、二十五日に至って町より細島に至るの的便に付して追って友善に遣わす。二十八日聞く、今日江府の飛脚到来すと。当十四日大樹御暇を左京に賜う。即ち翌日この飛脚発足すと。云云 これに依って婚礼また薩州より催促有り等。云云 二十九日久しく廃せる宗円記を講ず。また比来釈論第三重啓蒙を考え透透源助をしてこれを抜萃せしむ。今日森氏を家老に遣わし領主御暇拝(拝の下或いは脱字か)の祝詞を宣ぶ。 五月朔日本柳院日理の一周忌に依って新助朝齋を営む。後便まさに知る、日理去年六朔逝去せしを。五日啓蒙再治清書三十六巻今日に至ってまさに成就す。(平六一筆) 貞亨第四丁卯四月十五日より筆を起こし今年今日に至って九年を歴て大願成弁、喜気極まり無し。新助源助の両人ともに写す所の啓蒙類本また三十六巻頃日成就す。七日今日久しく廃せる起信の註疏を講じ、かつ正龍寺及び湛応に謁す。八日今日吉辰なるが故に啓蒙成就の祝い物(金子若干)を平六等の三人に遣わす。番衆両輩下僕三人祝い物を与うることまた差有り。かつ平六等また丁寧に祝儀物を野僧に送る。また頃日平六絵師小和田作右に恃む所の日講の影像二幅昨日成就し持ち来たる。今日使いを遣わして信を送る。云云 十六日平六の慈父浄地院蓮住の二十五回忌を迎えて法華一部を読誦して丁寧に回向し、かつ紺紙金泥の本尊をしたためて安住院の号を慧照に授与す。慧照今朝饗応を二十余輩に設く。飯後蓮住の位牌に日号を添加し、かつ紙塔婆の中に浄地蓮住日種霊位の七字を句首に置き、八句の頌を綴り、また妙住授与の本尊に新たに日休の諱を授く。云云 またかつてしたため置く所の心鏡等の返書及び啓蒙等今日宗是に遣わして船便に付す。また平六心鏡に寄進する所の日講の影像また今便に託して遣わす。また今日備作より状来たる。まさに知る、友松帰国の後備作のあつかい未だ調わず。十六日武村氏より書櫃来たる。妙楽の華厳骨目孤山の閑居編、善月の楞伽通義、可観の大綱法門集等の珍書到来、連連電覧朱或いは首書を加う。通義もっとも的旨を得たり。重ねて閑暇を得て折衷を与え対弁して是非を評すべし。また五教義を電覧す。博才を顕すと雖も堅く権実の起尽に迷い華厳法華を混同する等の失称計すべからず。また泊如の諸法本不生顕密同異義を閲するに能破所破ともにその理を尽くさざるか。重ねて一家修性の二境及び実相唯識二観等と比校して評破を加うべし。云云 また表了凡及び通翼好科式目を見るに作善転禍の弁もっとも釈門の的意を得たり。云云 二十四日理玄院宗哲の十三回忌に依って源助朝齋を二十余輩に設く。かつ源助の志に依って紙塔婆をしたため頌を作って回向す。云云 二十六日起信注疏を講ずる後、正龍寺及び湛応菓子を持参してこれを賞す。三伯子息の僧の深良もまた聞講の後始めて対謁す。依ってかつて十輪に託して野僧の本尊を懇望す。したためてこれを授く及び自作の久峰開帳縁起並びに灌頂記の添削を請う。故に重ねて修補しこれを遣わす。彼の僧近日船に乗じて学問の為長谷に赴く。云云 六月朔日森兵左浅山氏の内意を伝うるに依って兼ねての約束の故に今日河野内蔵助(弥太夫の三男)始めて来たり謁し按摩を試むるに大いに快し。向後毎月日限を定めて按摩せしむ。十日朝齋を十余輩(足軽衆)に設く。明日河野氏来たって按摩し、かつ語っていわく、江府日輪寺其阿(昌髓)弥太夫室津に於いて逝去するを追悼するの発句、霜と消えしその身は無漏のとまりかな。二十日備州及び大坂よりの状来たる。かつ備州友松のあつかいに依って津寺と慧応院等と和融すでにこれを調う趣きを聞く。(森氏岩井氏より注進有り) また備作の出入りまた友松あつかいの支度これ有り。相違なく相調うべし等と告ぐ。予聞いて欣然たり。二十五日聞く、昨正龍寺隠居安室正全川床に於いて逝去す。今日?後正龍寺に於いて葬送の儀有り。牌をしたためて回向す。遺言に依り今夜火葬。また比来先便備州より恃み来たる所の本尊等残り無くこれをしたため便船に付してこれを遣わす。また後漢書列伝透透これを閲して朱を加う。すでに強半美言これ多くもっとも修行の心地を助く。云云 二十九日江戸より飛脚来たる。かつ婚礼当月朔日首尾よく調うと聞き即ち森氏を家老に遣わし祝詞を調う。また山口与右衛門の訃音を聞き新助を三卜に遣わして弔問し、牌をしたためて回向す。また主馬婚礼の後なお江府に滞留して諸事を指揮すと聞く。 七月五日昨大光寺の道棟和尚逝去すと聞き牌をしたためて回向す。村岡氏辞世の頌を送ってこれを見せしむ。六日飯田諸左の内儀逝去すと聞き、源助を遣わして弔問し牌をしたためて丁寧に回向す。九日下総玉作能化長真院日栄大徳(日浣の師)の五十回忌を迎えて転経回向し、かつ少饗を設く。また例年十二三の御経日を引っ越す故に八日以後別行たりと雖も、当年よりただ十三日を十一日に引っ越し明日よりまさに別行なり。十二日午後領主帰城す。兼ねて森氏に約し祝詞を領主及び鶴森家老に宣べしむ。云云 十五日盆供、終日読経等例の如し。十六日暁読。供膳等早く弁じて本尊をしたため、午後朱を続仏祖統記に加う。また今夜より庵の灯明毎夜通暁灯明相続の格を定む。これ則ち仏の光明を見て発心するの旨に准擬して遠近の灯明を見るの者をして或いは善心を発さしむるの心期なり。云云 また今日領主より使い(和田彦兵衛)有り。即ち返詞を宣べ、かつ謝使を遣わさざるの趣きを和田氏に告げてこれを達せしむ。また浅山氏より次男の治兵を遣わして丁寧に盆礼を宣ぶ。明日使いを分けて比来の使信等を謝すること例の如し。十九日領主より使い(郡司八郎右)有り、土産として晒一匹を送らる。即ち森氏を呼んで言上を告げ、城に遣わしてこれを謝す。二十一日禺中の後領主私宅に光臨し対談時を移し、まず時宜を宣べおわって次に異見を加う。その旨第一に学問を勤励し兼ねて詩歌を嗜み、余暇に能及び拍子を興行せらるべき旨を出です。かつ兼好独灯の下文を開いて友とし世人を見ずの名言を引いて学問の独楽遙かに衆を催して慰むるの慣閙に勝るる趣きを宣ぶ。また上の行は下効うこと影響よりも疾しの古語を引き委しく家中の風俗の善悪は偏に領主好む所に由る旨を述ぶ。かつ幼少の時学問器用詠歌秀逸の誉有り近来一向沙汰無き事等を告げてこれを激動す。領主よく領納すること面色言端に顕る。三島権之助(供奉)森兵左等次座に於いてつぶさに異見の趣きを聞く。領主帰駕の後跡に留まりてはなはだこれを称美す。云云 即刻森氏を城に遣わしてこれを謝す。後聞く、領主行跡を転じて学問を好み大学詩経等を一閑に聞かせらると。或いはこれ諌言を容れらるるの験たるべきか。云云 夜に入って酒匂氏道活と来たり閑話す。かつ婚礼の首尾及び鹿児島屋敷礼儀勘略等の事を聞き、また大樹の命に依って有馬左衛門越前丸岡城本多下野改易の跡に移住し外実ともに美、及び左衛門従来七賢人の内に数えられ、褒美せらるる所の人なり等の事を聞く。また今日領主と対談の時、去年許容せらるる所の石塔書付成弁の儀を追謝し、かつ往年松厳院殿殺生を好まるる事を諫暁せし等の例を引いてつぶさに累年厚恩を蒙るが故に時時諌言を加うるを以て報謝の万乙に擬する志なる趣きを宣ぶ。云云 二十二日心鏡より状来たり筆工修補の啓蒙及び恵運院預かる所の奥師御筆跡の目録等を送る。かつ帷一重を信ず。また紺紙金泥の大幅の本尊を懇望してその地紙(縦六尺、横三尺)を送り、また新写の養生書一冊を送る。また世雄より状来たり、友善無事に六月朔日着岸を告げ、吏運より古藤弥太夫所用の状を達す。二十七日廻喜兵衛死去すと聞き平六を遣わして弔問し、かつて戒名を授く故に即ち牌をしたためて回向し、その外多楽院等の人数亡魂を過去帳に入れて回向す。 八月三日青原院殿の三回忌を迎えて朝齋を二十余輩に設く。云云 頃日透透戦国策を閲し朱を加う。五日浅山氏夜に入って来たり閑話す。(三伯にわかに指合有る故に上山三左を呼ぶ)かつ聞く、大樹たまたま五経を講ぜんと欲し今易経を講ず。領主拝聴の日聴衆白書院に満つること五百余人。大樹大音満座に徹す。及び前太平記板行、神武より保元平治の前に至る。並びに島津大隅末期行儀厳密にして大寒に火鉢を用いず。かつ隅州中ごろ真言を修し、後神道を尊ぶ等の事閑談の間予叩門に依って説法の語多し。云云 明日浅山氏より五言八句の詩を送って夜話の儀を謝せらる。即ち平六を遣わし、かつ和韻綴らざるの趣きを達す。十一日朝齋を二十余輩に設け、かつ聞く、頃日正龍の玄哲天昌後住の儀を諾し、湛応また正龍の後住と成ると。当十五日互いに入院の儀有るの旨、即ち源助を両処に遣わして祝詞を宣ぶ。十四日分地の恵性院より使い有って薩摩焼の茶碗(大小箱入)並びに枉物(柏入)を送らる。これ近日参府発駕暇乞いの為なり。予またかつて暇乞いの為人を遣わして道明寺若干を送る。云云 また頃日町田与左、飯田次郎右、調所内蔵助、河俣半右、逼塞免訴。また昨日啓蒙條箇(上下二冊)全部成就。十五日森氏来たって伊集院吉左同役相究めの儀を告ぐ。かつ平六を天昌正龍に遣わして入院の祝い物を送る。夜に入って八代宗祐、上山三左月見の為来たり閑談し、夜半辞去す。終夜月明らかならず。十六日終日客に接す。伊十院吉左初めて来謁し、かつ黄檗の高泉大樹の招に依って参府登城し御座の間に於いて問答を聞し召し、かつ唐土出生の処及び父母の名等を尋ねらるる。云云 銀子百枚を拝領す。その後高泉病気。医師、按摩師及び町宿等を命ぜらる事を聞く。また今日客予学文勤励を領主に加うと沙汰する人これ多し。まさに知んぬ、世間に流布することこれを以てこれを思え。野僧の一言もっとも大節。向後いよいよすべからく言行を慎みて規矩たるべし。今夕夜話無きは彼岸の初日なる故なり。また頃日たまたま当本草?冬瓜を煎じて痔を洗うに速効有るを見る。向後これを用うるにやや験有るを覚ゆ。去年以来木挽吉兵の付薬を用いてしばらく毒を制止すと雖も敢えて平癒せざる故薬を止めて毒を禁ぜず。また他日是三の物語に依って常に茶の代わりとして忍冬を服用するにいよいよ験有るを覚ゆ。云云 二十五日山口三卜逝去すと聞き新助を遣わして弔問し、牌をしたためて回向し、かつ一部の真読を創む。二十七日正龍寺(湛応)継目の礼として来たり祝い物持参。(今日公儀相済み天昌未だ済まず) また頃日都於郡荒木平左より桐の大木を送る。書櫃に宜しきを喜ぶ。かつ聞く、住持の懇望に依って比来久峯開帳中二七日諸人群集去年に倍すと。またこの頃朱を楞厳玄義等に加う。また廻治部左をして奥師の袈裟を縮めしめて御経の日必ずこれを用ゆ。 九月五日藤井三左の子息徳千代逝去すと聞き源助を遣わして弔問し、戒名を牌にしたためて回向す。他日一門の望みに依って同姓権允跡式を命ぜられ、名を清左衛門と改む。六日夜に入って酒匂氏、三伯、道活来たり閑話す。かつ鳥井播磨二万石を加増せられて水口の城主と成るを聞く。但し三伯の問いに依って天台山清涼ともに石橋有るを示す。夜半辞し去る。また今日天昌寺継目の礼として来たり謁し祝い物持参。かつ天昌寺隙入りに依って年内はまず起信の講をさしおく。また頃日新山野僧を招請する儀を催すと雖も禁足を告げて停止せしむ。十一日池上権左来たって築山を学窓の前に営む。映後成弁、風景もっとも好し。また昨村田平右暇乞いの為来たる。村田八右妻子を大坂に呼び越すに就いて平右またこれを送る故なり。比来朱或いは首書を釈門正統、教行録等に加う。また松岩寺大光寺の住持と成り、頃日入院すと聞く。十四日心鏡より状来たり新写啓蒙の修補十五冊を送る。また吏運より伽羅両種を送る。また武村氏より書櫃来たる。黄檗板行の弘明集及び小部経等なり。かつ鵞峯文集二百余巻当便に到来す。まず目録を披いて電覧するに眼たちまち快然なり。向後透透これを周覧せんと欲し、まず朱を文集に加う。また今日弟子慧俊三十三回忌なるに依って少饗を設く。二十一日今日鬼宿、終日本尊をしたたむ。また分地恵性院今暁発駕、当所を過ぎらる。時に領主より海江田氏を遣わして時宜を調う。云云 また比来承久記、明徳記、応仁記を電覧し朱を加え字の誤りを糺す。かつ毎日鵞峯文集を閲するに新記もっとも多し。云云 二十五日松元氏より備州石川惣左の渡海を告ぐ。即ち平六を遣わし敢えて別条無きに依って今夜対面を期す。夜に入って来たり謁し、まず御経を頂戴せしむる等の儀例の如し。閑談、夜半辞し去る。かつ告ぐ、真に野僧の格式を欲望する者有りと雖も備作未だ和融せず故に格式を出し難し。和融以後相応の指図有るべきかの趣き。彼よく許諾して帰国の後随分和融の才覚を廻らすべき旨を宣ぶ。云云 両日滞留の間急務の本尊位牌等をしたため(相残る処は後便に期す)二十七日の夜に至り平六新助を町に遣わしてこれを渡し、かつ餞別として本尊首題等を送ること差有り。二十八日早朝帰駕。 十月二日新山の病気に就いて上那珂外科金丸武右衛門来たって療治を加う。野僧の痔病を伝聞し試みに療治を加えんと欲する旨兼ねてこれを聞く。故にこれを呼びて見せしむ。彼療治の儀を許諾し、まず洗薬を以てこれを試み数日を経て内薬(人参山帰来を加う)を服用す。追日験有り。故に向後毎月日限を定めて伺候せしむ。かつまた彼をして針を立てしむるに肩及び腹の張り速やかにその験有るを覚ゆ。これ幸いなり。六日大乗止観及び宗円記全部講釈成就し、慶幸少なからず。延宝七己未より講を創め、しばしば中絶し、今に至って十七年の星霜経てまさに入眼。西行命也鳧の歌を思い合わせ感慨暗に催す。行く末十七年の内いずれの年か帰寂せん。云云 今夕平六祝儀の饗応を営む。またかつて新たに書写せしむる所の科大乗止観及び宗円記字の誤りを糺明し倭点を吟味し、また皆成弁す。ただ私考欠くる所多し。云云 七日当十一日伯父正法院日真五十回忌の追薦を引っ越し今日朝齋を二十余輩に設く。云云 九日十不二門指要鈔及び枢要の講をならべ創む。後座更に文心解を加う。今夕平六等三人祝儀の饗応を設く。また頃日大工市右衛門をして上下の火燵を営ましめ以て古稀衰老の保養に備う。十三日会式朝齋を二十余輩に設く。十五日今暁日蝕を拝し香華灯明を備え、暁読更に入臘の課経を加う。十六日終日客を書院に接す。夜に入って酒匂氏、三伯来たって閑話し夜半辞去す。また頃日指要鈔及び枢要の私考を創む。統紀正統等また講に因って往往首書を加う。十九日天昌寺明日鹿児島に赴くに就いて暇乞いの為来たる。宗祐また来たり謁し、かつ令室回向の儀を謝し、近日三納に移住するを告ぐ。また武右来たって針を用いて痔を刺し悪血を出さしむ。かつ武右の母常十三日死去すと聞き法名を牌にしたためて回向す。二十九日つつじを原野に取って築山の後ろに植えしむ。かつ谷口五右近日大坂に赴くに就いて暇乞いの為来たる。比来毎日観篇を考え、かつ朱或いは首書を指要詳解、示珠指等に加う。また鵞文を閲して朱を加え、日夜おこたらず。云云 十一月五日天昌寺(鹿児島より帰る)来たり謁す。かつ宇宿伝左比来鹿児島に滞留し大分の借銀を懇望す等の事を聞く。七日松元氏より関東の客僧両人の渡海を告ぐ。即ち平六を遣わす。帰り来たってまさに見朗院日東(かつて常葉談林の能化職に任ず)及び良選日珠なることを知る。夜に入って両僧来たり謁し、まず御経を頂戴し無始已来知不知の謗法及び暫時濁派に列なる等の罪障を改悔せしむ。庵庫一覧、金泥銀泥の御経拝見啓蒙披閲の後閑話し、夜半に至って辞去す。かつ友善の物語に依って良選公庭諫暁の志を聞く。故にあながちに異見を加う。その趣き野僧既に巻物を公庭に捧げて諫暁理を尽くし、謫居の難を蒙る故にその派を汲む輩人人自ら諫めずと雖も自然に亡国与同の罪を免る。もし更に人人諌言事を為さば却って荘子の日出後?火、雨澤後漑灌のそしりを招く等の鉤?なり。彼聞いて即席に承諾し永く諫暁の企てを停止すべき旨を答う。予聞いて快然たり。かつ信力を増進せしめんが為の故にかつ奥師権化の作業を語り、かつ霊山の再会を期し、明日また破奠記、破鳥鼠論等を遣わしてこれを見せしむ。八日終日両僧恃む所の本尊等をしたたむ。(良選懇望に依って国応院号を授く) また渡海の志を感じ別して五種妙行の本尊を両僧に授与す。また昌柏院等の返書をしたためしめ夜に入って平六を町に遣わし両僧に渡す。かつ餞別として各本尊三十幅首題五十返等を送る。夜半過ぎて平六帰宅す。かつ丁寧の謝礼を聞く。両僧明朝帰駕。九日映後町より渋紙包み到来。披いてこれを見れば友善、知円、存了、小川等の状なり。昌柏一門の亡魂の書付到来す。故に逐一過去帳に入れて他日の回向を期す。かつ聞く、友善平六の状を欽悦に達し改悔一味然るべき異見を加うと雖も欽悦敢えて領掌せず、故にまず不通せしむ。云云 予人心惟危の趣きを観じ鬱陶少なからず。かつ小川より経帷開眼書付の??を送る。また智円より向後関東諸方書中往復取り次ぐべき旨を告ぐ。また世雄、慈円、了閑等の状来たる。敢えて別条無し。云云 十三日像講朝齋を二十余輩に設く。かつ比来友善等より恃み越す所の本尊及び本来院源泉日修(日号新授)の歎徳等をしたため平六をして返書をしたためしめ、昨晩松元氏に送り今朝町の飛脚を以て細島の河野氏に達せしめたる処幸い両僧なお彼の地に滞留す。他日返書到来。云云 また昨夜向井清太左衛門逝去すと聞き使いを吉兵に遣わして弔問し、戒名を牌にしたためて回向す。彼末期に及んで野僧の本尊を懇望せるに依ってかつてしたためこれを遣わす。宿縁無きに非ず。また聞く、吉兵の二男吉之丞遺命に依って彼の跡職を継ぐ。また頃日聞く、樺山主馬病気に依って大坂に滞留して養生すと雖もその験無し。かつ萩原道幽の勧めに依って上洛名医(金丸伊兵師)に託してこれを治療せしむる趣き。故に明明後日源助を主馬の母儀及び妙輪に遣わして訪問す。十六日聞く、三島権之助、町田源次(扶持及び知行を加う)番頭と成り、神宮寺外記勘略奉行を究め、酒匂吉右近習頭及び物奉行の役を命ぜらる。しばしば辞退すと雖も春成与五左同役と成るに依ってこれを領掌す。云云 即ち使いを三島氏、酒匂氏に遣わしてこれを祝す。また頃日私考思案を勘弁し、所用の処を類聚し、無用の処は丙丁童子に授く。二十日大坂の和泉屋より状来たり、かつ七月以来五度の状当月五日到着の旨を告ぐ。予聞いて安堵す。また了閑より状来たり心鏡の招に依って比来上京し病患の祈祷を修しようやく快気す。故に当月末帰国の旨を告ぐ。云云 かつ数度の誂え物残り無く調え来たる。故に平六をして和泉屋の返書をしたためしめてこれを謝し、谷口五右の乗船に付してこれを達せしむ。二十二日配流以後日日これを記す清書久しく中絶す。故に今日より再興。寛文十一年より以後の日記次第に清書せしめ大抵毎日一時二時を以て限りと為す。云云 この日日記は即ち清書なり。二十六日今日より指物師の長右を呼んで桐木の書櫃を営ましむ。 十二月朔日伊三右より状来たり、かつ知足院いよいよ出頭の上大僧正に任ぜられ、かつ総録司と成って諸宗色衣の事を沙汰す等の事を聞く。云云 二日今日見光院殿三十三回忌たるに依って高月院に於いて比来法事、今日成就す。これに依って明日伊十吉左を領主に遣わしその時宜を調う。かつ箱入りの菓子を献ず。云云 かつ日日記の清書を急ぐに依って年内はまず指要枢要等の講をさしおく。四日浅山氏より丁寧なる重の内を送らる。明日新助を遣わしてこれを謝す。また長右営む所の細工頃日成就す。(六書櫃成る) 九日武右来たって痔に灸するに始めは熱を覚えず、漸漸熱を覚ゆるに至ってまさに灸を止むる。累日膿出ではなはだ験有るを覚ゆ。十日春成市祐逝去すと聞き新助を遣わして弔問し、戒名を牌にしたため回向す。また明日より長右をして大厨子及び立像釈尊の外厨子をしたためしむ。云云 また頃日平六をして透透戌亥両年の本尊授与帳を清書し、かつ勧唱首題の総数を算勘せしむ。十六日終日客を書院に接す。夜に入って三伯道活来たり閑話す。(酒匂氏公用に依って来たらず) 世上の雑話夜半辞去す。また頃日慈久より状来たり薬を送る。かつて恃み越す所の御経開眼等調託して船便に付しこれを遣わす。十九日今日源助及び番衆等に分配し諸方歳暮の礼及び信物等を弁ぜしむ。二十一日光台寺来たり謁し種種持参。かつ積日無音の旨を謝す。かつ彼宗の四院四庵五軒等の事を聞く。かつ年内まず日日記の清書をさしおく。二十五日伊集吉左を領主に遣わし歳暮の礼を調う。かつ新助を浅山氏、宇宿氏及び渋谷氏等に遣わし暮礼を宣ぶ。二十六日今日煤払い例の如し。かつ谷山三右昨夜逝去すと聞く。故に源助を宗祐に遣わして弔問し、戒名を牌にしたためて回向す。二十七日今日より別行に入る。行中の日課等例の如し。今日領主より使い(吉賀十左)有り、例年の呉服目録を送らる。行中故に取次を取らず。年中の所作を点検するに大抵規矩にかなう。なかんづく啓蒙再治清書入眼。生涯の本望はこれに過ぐべからず。云云 元禄八 乙亥歳 終 右日講師存日去去年仰せに依ってこれを誌しおわんぬ。尊師元禄十一戊寅三月十日示寂。丙子以後の分は大抵これを記し細記すること能わず。云云 |