説黙日課:8(日講上人)元禄三〜元禄四
十月十二日比来夜を以て日に継ぎ啓蒙の著述を励む。故に今日に至って録内全部の啓蒙の草案成就せり。巻数三十三冊。陀羅尼数十巻を誦してその結願に備う。向後更に再治を志しまず付け紙を安国論の啓蒙に加う。云云 十三日朝齋を三十余輩に設く。また頃日憇梅庵の住持濫行の科に依って逐電し、遂に穢多に殺さるるに至る等の事を聞く。十四日取要院より平六に送るの状及び別紙法門問状到来す。予即ち電覧、他日平六返書をしたためてこれを送ると雖もその後ついに便札無し。云云 また至進紹鑑等の訃音を聞き牌をしたためて回向す。また武村氏より書櫃到着、なかんづく新板の谷響集学暇電覧朱を加う。また比来啓蒙條目二冊またこれを成就し啓蒙の加朱また成る。また比来源助をして法苑珠林及び白氏文集等を抜萃せしむ。十一月十三日朝齋を二十余輩に設く。また比来首書を北本の涅槃経に加う。十八日池上宗珠の訃音を聞き新助を遣わして弔問し、牌をしたためて慇懃に回向す。二十三日饗応を二十余輩に設く。また一昨日三角善左使いの為来し、経律異相等を送る。かつ僧伝俳韻を見るにいよいよ台宗また多識有るを知る。九日江府より使者有り、鹿児島の指図として主膳の跡式を内膳に究め、かつ知行を省いて五百石と定む。云云 内膳諾せず。十日大坂より便り有り、世雄慈円の状来たり旧冬極月八日八幡山に於いて快く万部の石塔を建て開眼供養等の事おわるを告ぐ。即ち洗米を送る。予謹んでこれを頂戴し、甚だ自ら我が願既に満ぜしことを慶幸し、かつ観ず、たとい向後悪人有って巨障を成しこの塔を翻倒すと雖も周遍法界塔婆の功徳は永劫不変にして広く衆生を度せんこと、あたかも掌を指す如し。一基の塔と雖も既にこれ六万九千三八四の仏体更に積むこと一万、代々無窮、遍く十方を照らし、竪に三際に徹せん。云云 明日更に塔婆の開眼に擬して本経一部神呪若干の読誦を企つ。また今日より啓蒙の再治を創め、かつ別行本拠の要文を啓蒙の中に書き入れてまさに重張の失を免る。また平六抜萃する所の文選今日入眼。旧冬既に荘子の抜書を成就し、当春より更に礼記等を抜萃せしむ。十六日終日客に接し、内膳よりまた使い有り。十七日観音玄義を講ず。今日また客繁し。夜に入り雨降る。樺山左京と上山浄春と来たり閑話す。夜半に至って去る。左京分地の儀及び式少内膳等の可否を批評し、もっとも的当を得る。云云 二十三日藤井氏領主又次郎の年始状及び歳暮の返書を持ち来たる。云云 また当月七日例の如く年始の便信有り。かつ三角氏江府より帰ると聞く。二十四日三角氏より使い有り。追って夜に入って来たり閑話す。なかんづく聞く、尾張と紀伊は大納言に任ぜらる。水戸の宰相は隠居御免の翌日中納言を贈らる。宰相の子息少将は中将に転じ、かつ宰相述懐の歌二首、 中中に残れる文のあともうしさらずばくだる世ともしらじを 位山のぼるもくるし老が身は麓の里ぞ住みよかりける 並びに京の所司代内藤大和逝去し松平因幡その跡役を勤め、及び鹿児島屋敷より国史3千巻を孔子堂に献ずる等の珍事を聞く。二十七日八個代理右使いとして江府に赴く。頃日右京家老等強いて異見を島津内膳に加えられると雖も内膳一向に知行を減ずる儀を諾せず、しきりに暇を乞わる。故にその趣きを江府に達する使いなり。云云 二月朔日慈父日芳の三十三回の遠忌を迎え朝齋を三十余輩に設く。予看経の暇往事を点検するに三十四歳佐州霊場に参詣し若耶法華弘通の次で越前福井城下に見廻りまさに慈父逝去を知り、一周忌を駒込の本浄寺に弔し、三回忌を落陽大領院に勤め、七回忌を谷中感応寺の経蔵に修し、四十一歳左遷以後十三回、十七回、二十五回の三度の追善を営み、今また三十三回忌を相迎う。光陰矢の如く往事夢の如し。その間先亡後滅の訃音しばしば耳を驚かし、変化しきりに心を傷む。嗚呼吾れまた何年何日無き人の数を添え、指を後輩に折られん。およそ五十回忌を迎うるは遙かに年月を隔つ。故に期すべき余命に非ず。然れば即ち今般最後追薦なること疑い無きを以ての故にいささか卑懐の趣きを記す。云云 また比来啓蒙の再治に因って真言三部の秘経及び義釈演密等の密家の書を渉猟して朱或いは首書を加う。五日源助に髪を剃らしむるに誤って脳の後ろを切る。薬を塗って血滴を止むと雖も一両日間頭痛やまず。これ不慮の過ちなるが故に敢えて呵責せず。向後剃髪永く平六に定む。また頃日木脇永厳作意の絶句を送ってその雌黄を請う。即ちこれを修補し、かつ和韻を送る。七日大坂より便り有り、石塔を八幡山に移すに就いて世雄院等の真俗の奉加有るの趣きを告ぐ。即ち平六をして奉加帳を書写せしめ重便に礼状を遣わす。後日また亀屋甚左衛門石灯籠を石塔の前に立つと聞く。十日如精居士の七回忌に依って饗応を設く。その後内膳及び母公上山三左を以てこの作善を謝する有り。十三日今日より左遷以後の日日の記を検校し煩を去り事を省き平六をしてこれを再治せしむ。これ則ち改往修来を励ますの要術、今是昨非を知る捷径なり。かつまた無常遮眼の亀鑑これに過ぎず。十九日平六礼記の抜萃を成就し、更に書経詩経周易等を抜書せしむ。二十六日延岡の百姓二十余輩当領内に逃げ来たってその介保を乞うと聞き、ここによって飛脚を江府長崎鹿児島等に遣わす。云云 後仮屋を構えて野久尾に移す。この後延岡と節節使いの往復有り。云云 また頃日無用の反故を焼き捨てしむる中に旧時野僧詠ずる所の詩歌等有り、平六をしてこれを集書せしむ。 三月九日佐加利より塩入りの状箱等を送る。これ則ち去る頃大阪及び京に遣わす所の箱船の破損に依ってこれを返弁す。即ち箱を開かしむるに本尊及び状、或いは日に曝し、或いは火に炙り、なかんづく少々損失有るは更にこれをしたためて重便に付して遣わす。かつ武村氏に遣わす所の大分金入の状箱の返達はこれ幸いなり。云云 十六日夜に入って浅山氏来たり閑話す。なかんづく密談万部石塔再興愁訴の儀彼の人能く領納しこの儀多分相調うべし。云云 予自ら慶幸、十二夜の吉夢に当たる。(予守本尊及び厨子仏を浅山氏に示す。能く信諾せらるるの夢なり) 浅山氏またいわく、この地既に霊場なり。故に貴僧歿後たりと雖も永く清浄無染の地として在家等を置くべからず。云云 これまた想わざるの幸いなり。かつ聞く、林春常髪を束ね号を大学頭と改む。浅山氏所持の大久保彦左編する所の三河記予一覧を約す。明日即ち三河記三冊を送る。他日野僧一覧の後写本仮名雑じりの処を修補しかつ東鑑の文体に倣い煩を削り要を拾い口授平六をしてこれを書き立てしめて一冊三十紙程に成し、かつ奥書を加う。心頭欣然、これまた格物の一端なり。その後写本を返弁す。 四月三日日春の忌月に因って両奉行を饗応す。暮れ方町より了閑の渡海を告ぐ。即ち平六を遣わす。夜に入って了閑来たって閑話し、つぶさに両三年の間の都鄙の諸事を聞く。一は了閑鷹峯に一宿し取要院心入りの趣きを聞く。云云 もっとも不受の儀は祖師の正轍なりと雖も、既に今時に行われず。故に止むを得ず轍をかゆる事祖意に背くべからざるか。云云 また受不派都鄙学匠の内京の妙顕寺隠居日行及び当住(失名)を除くのほか受要院を以て最上の学者となす。談義また上手の誉れ有り。然りと雖も改派の人なる故に大地の貫首に任ずること能わず。かつて飯高談林の能化職に望み有り。鷹峯を隠居する後しばらく大坂の或寺に住す。云云 二は日顕等の十六人京都を追放せられ今大坂に在り。その追放の基は勝劣派より起こる。日題の身上に関するに非ず等。三は日相好境を等持院の門前に求めらるるにもっとも安住に便なり等。四は日庭佐州より状を備州に遣わし堅く愚俗日講の本尊を捨つるを誡むる等。五は日相木屋八左の本尊授与書を改めんと欲すと雖も覚照八左諾せざる故に延引に及ぶ。云云 六は日指方また両派と成る。(濁派と同座の看経許否の二義)故に一方清法に帰伏する者これ多し。云云 かつ聞く、佐州信女の妻日題派と成る縁起等。了閑滞留中節節来話す。五日に至って平六を能勢氏に遣わして了閑対面の儀を憑み家老に窺う。同日能勢氏来たって家老口上の趣き及び穏便の対面然るべき旨を告ぐ。即ちその趣きを奉行並びに日高氏に達する後敢えて妨碍なし。この便に或俗池上日惺、日紹の本尊等を寄進し、連日百五十余幅の本尊及び頭巾等の書付開眼加判等をしたたむ。七日饗応を了閑に設け?時より来たり閑話して夜半に至る。初めて恵賢はこれ吏運の甥にして今心鏡の室内に在って諸事を指揮すと聞く。九日日秀の十三回忌に依って饗応を設く。また了閑今夜雨を突いて暇乞いの為に来たる。明後日は球磨に赴くが故なり。云云 十三日野僧疝気発り右脇張り或いは痛むに依って今日より三伯の薬を用ゆ。また今日正龍寺上方に赴くが為暇乞いに来たる。(去年逐電後旧冬また帰寺) この後大安寺の命に依って盛岩寺の玄哲正龍寺に入院す。云云 十五日今日例の如く結夏の故に早く疝気を治せんと欲し両奉行を以て針立近藤宗庵を呼ばんと欲する趣を家老(宇宿氏)に達す。早速宗庵の来臨を許容せられ、かつ過度の下知有って諸医を私宅に呼び集め、両奉行をして伺候せしむ。故に少病世間に響いて見舞また多し。云云 既にして宗庵来臨針を用ゆるに早く快然を覚え、今夜より脇痛また減じて安臥す。また今日正龍寺継目の礼の為に来たる。十七日了閑球磨より帰る。密かに松元氏の所に宿し夜に入って来臨閑話す。(大雨の故に閑談に便なり) 上方の諸用逐一領掌す。かつ世出の餞物合して十箇、目録を以てこれを示す。かつ引導本尊及び円頓者を与う。深更に至って辞去す。明日また一宿す。明後日帰駕。また頃日三伯宗庵毎日見舞針灸を加え、かつ薬を服す。故に疝気及び脇痛月末に至って平癒す。その節病中見舞の衆に謝す。 五月朔日宇宿氏より三左を遣わして例年の加勢銀この節辞退の趣きを又治郎に達すと雖も相変わらず送進すべき旨厳重なるを告ぐ。(当初既に両度この銀を辞退に及ぶと雖も今また家督復本の初故更に辞退に依ってこの酬答有り) 即ちまた藤井氏を遣わしてこれを謝す。また頃日町田清助に託して富田権右の続太平記を借用して連連周覧し、新助をしてこれを抜書せしむ。五日大廻の船便に孝順より状来たり、師範信解院の訃音を告げ、かつ回向を恃む。感慨少なからず。即ち牌をしたためて丁寧に回向す。十一日要三渡海、夜に入って密かに来たって閑話深更に至る。かつ聞く、覚髢僧述作の堯了能破を日庭日題に遣わし、かつ自ら除講記を作る。云云 また師親及び自身五十回忌に至るの追薦回向の物等を収納す。累日彼恃む所の本尊をしたため、十二日の夜に至って平六を遣わして引導の本尊を授与し、渡海の志を感じ大幅の一返首題に趣意書を加えてこれを遣わす。その外餞別有り。云云 十三日に至って帰駕。十六日終日客に接す。能勢氏去年以来の廻状を持参し、重ねて使いを以てこれを謝す。かつ光照寺隠居の訃音を聞き弔状を城宝に遣わし慇懃に回向す。十八日島津内膳暇乞い相調うの飛脚前夜到来に依って張番を諸方に置き、まさに内膳に告ぐ、内膳早速支度出駕退去し、かつ見廻り等を制す。故に野僧また使いを通ずること能わず。予東方朔の鼠論を思い合わせて感慨少なからず。かつ家老(宇宿氏)厳密の沙汰法に過ぐるを悔ゆ。また今日心鏡より状来たり、野僧の屋敷を求めんと欲する趣きを告げ、かつ久悦開清の年回回向??を送る。後内膳及び母儀まずしばらく天神辺の式少の宅に住し式少より使いを遣わし(谷山助之進)種々異見を加うと雖も敢えて諾せず。近日出船大坂に赴く等の事を聞く。二十五日近藤宗庵内膳に供奉して大坂に往くに就いて暇乞いの為来たり閑話し、かつ内膳及び母公野僧の添状を望まるるに依って大坂由緒有る方に遣わし、その内証を宇宿氏に達し敢えて別状無き旨を告ぐ。強いてこれを求むるが故に諾して世雄院及び前田普清等に遣わす状をしたため置き、かつ懇望に就いて本尊を宗庵に授与す。明日また聞く、諸人異見を加うるに依って母公分地の広原庄屋の家に移住し、去年式少営む所の宅を近日彼の地に移す趣きなり。云云 二十七日観音玄を講ずること僅かに一座を残して来秋に送る。云云 天昌正龍兼ねて案内有り今夕講成の祝志に擬して饗応を設く。宗俊またその人数に関わる。即ち今夕便を遣わしてこれを謝す。晩天宗庵来たって母公広原に留まるに依って文体相違を告ぐと雖も、妨碍無しと云う状を戴いて辞し去る。内膳大坂に赴く船に宗庵また供奉す。云云 比来啓蒙再治広く本拠を求めて怠り無し。 六月朔日佐州より便有り、まさに松崎妙慶及び了清の訃音を聞き、妙浄より回向施及び妙慶の形見の小袖代等を送り、妙相川上氏また信札有り。他日返書をしたためて便に附してこれを遣わす。十日朝齋を二十余輩に設く。かつ伊集院新右病切なるを聞き、明日使いを遣わして訪問す。云云 十七日瑜伽論全部の電覧今日成就す。安然が引く所の丑寅の角及び東方小国等の言敢えて相似の文無し。恐らくは異本有るか。云云 また村田八右大坂蔵本番役に当たって近日出船するに就いて暇乞いの為来たる。十八日新右の訃音を聞き新助を遣わして母儀及び妙輪樺山氏三角氏山口氏等を弔問し、牌をしたためて回向す。比来故事を尋ぬるに就いて前後漢書往往電覧し、また新助をして抜萃せしむる所の続太平記頃日成就す。二十四日安国論の啓蒙の再治成就す。開目啓蒙の再治を創む。頃日黒貫隠居雲海霧島に於いて逝去すと聞き、良春に託して弔問を快心法印に調う。 七月七日本尊法衣等を曝すこと例の如し。また今日より源助病気重き故諸役を免じて養生せしむ。かつ三伯の薬を服用せしむ。九日三伯来たって源助の脈を診り大いに驚き道意と相談の上薬を調合し毎貼人参を加え盆前病気日を追うて重し。云云 十五日解夏盆供終日看経供仏等例の如し。また渋谷宇右晩天来臨す。(近頃江府より帰る)土産持参、他日これを謝す。十六日仏供点茶等早く弁じ終日本尊及び部数等を調う。かつ源助の病気いよいよ重く一向食を進まず、かつ慣閙を厭うて本座をねがわざるに依り床を番所に移さしむ。云云 十七日終日客に接す。三角善左来たり閑話す。かつ聞く、今便浅山氏より状来たり内内訴うる所の石塔の儀石経を埋め野石を立つる事相違有るべからざる旨及び中間吟味厳密なるが故に廻状一覧調え難き等の趣きを告ぐ。予まず石塔成就を慶幸し、先年家老より停止立塔の制有りと雖も心ついに素願を成ずべきを期し、立塔の方域に竹を地に廻らしその傍示を定め、まさに人をしてこれを踏ましめず。その志唐捐ならず、今日まさに成就の儀を聞き信心いよいよ心腑に徹す。云云 次に三角氏自ら身上の密談に及ぶ。その趣き又次郎島津主税を以て新右の跡職を為さんと欲すと雖も、新右伝左に遺言する旨既に宇宿十郎兵衛に約しつぶさに書付を以てその旨を江府に達す。もし許容無ければ幾度も愁訴を遂ぐべき覚悟なり等。云云 予聞いて彼が約を重んずるに感じ季札心諾の儀を思い合わせてもっともこれを称美し、かつ愁訴ついに調わずと雖も身を退くに至るべからざる趣きを示す。云云 十八日京都の日相並びに慈円等より状来たり告ぐ、身延池上天下一統受不施年来の訴訟すでに調い、当四月二十八日延池の住持評定所に祗候する砌、小湊、碑文谷、谷中三寺の住持を召す。老中の命にいわく、近年悲田宗の新義今般上意に依って永く滅却の條一同受不施に帰伏すべし等。云云 三寺即答すること能わずして無言にて退去し、明日出でて宗を天台に改めんと欲する旨愁訴すと雖も即座許容有るに似たり。後日更に命有って寺を出でおわって何れの宗とも成るべし。寺院速やかに身延に渡すべし等。云云 これに依って寺を出づる能わざる三寺派を替えて皆受不施に帰伏す。誕生の一寺ただ身延の末寺と称せず、一本寺と為さんと欲する趣き愁訴す。住持は身延の支配なり。云云 また京大坂公儀より触状の写し到来す。その中小湊等の三寺身延の末寺と成る文言有り。かつ京都の紫竹常徳寺及び鶏冠井石塔寺妙顕寺の末寺と成る。紫竹兼ねて無住の由を称す。一樹院残清日堯と号しひそかに寺を出でて逐電し、大坂堺の悲田派の寺また皆派を改む。云云 後に聞く、身延紀州鶴姫の好縁に寄託して大樹に直訴す。故に急にこの裁許有り。また聞く、広島屋敷自昌院殿天台に改宗し残清等随逐して同じく宗を改む。云云 予つくづく思惟を廻らすに破鳥鼠論の考あたかも懸讖に似たり。一は新受謀略公儀を劫すの失。二には手形の文言後代の支証と成らざる失有り。三はもし重ねて別義供養の儀有る時不惜身命の掟を守るべしと云う虚誑の失。この三條皆的当す。また思う、新受先年の嗷訴闔国清法の真俗を駆り出し、或いは邪義に帰伏せしめ、或いは他宗と成る現報踵を回らさずして今ことごとく駆り出され一同受不施に帰伏する悪果にあうか。嗚呼彼等唇竭歯寒を知らざること恰も鷸蚌相扼猟師弊に乗ずる粧いに似たり。後便また聞く、小湊等の三寺公命に依って不受不施に改むべき趣きを熊野牛王の裏にしたためかつ血判を加えて公庭に捧ぐ。しかのみならず三箇寺更に末寺の起請文を取り集むる時意業を加え、また不受不施法義の文体を忘却すべし。云云 また日相よりこの節啓蒙板行延引然るべき趣きを示され、故にまず武村との相談をさしおく。然りと雖も将護後代の志啓蒙全部再治の儀敢えて慢り無し。二十一日源助病気いよいよ重し。故に駕籠を遣わして山口三卜を招き脈を診せしむ。三伯と相談の上薬を用うと雖も敢えて験無し。夜に入って日高氏八代氏三伯等来たって閑話し、領主と酒井靭負と縁辺の兼約及び式少大番組頭と成る等の事を聞く。二十二日藤井氏に依ってひそかに源助重病の趣きを家老(宇宿氏)に告ぐ。故に家老の命として諸医皆私宅に集まり(始め道仙に謁す)両奉行また祗候す。薬方をかえるの相談なり。云云 かつ予源助必死たるべき旨を思察す。故に?後自ら番所に至り彼をして一部一巻の御経を頂戴せしめて安心の方及び即身成仏の端的を示して還る。二十五日源助いよいよ衰う。故に平六をして彼に勧めて遺言をしたためしむ。遺物等差有り。予急病心正を感じかつ予め彼の滅後の廟所を定む。云云 二十六日予師弟契約の本尊をしたためて源助に授与す。彼喜ぶこと極まりなしと云う。二十七日源助色体いよいよ衰う。医術事尽きて倒惑せし処たまたま下僕の指示に因って向井吉兵を呼ぶに即ち来たって脈を診し丸薬を服せしむること両度、これを用いるに忽然虫騒ぐ。平六肩を捻るに虫鳴り下に降り声を成すこと雷の如し。あらわれ有る現証なり。これより胸開き食また日を逐うて進む。諸医偏に気を塞ぐ所として療治を加え、かつ人参を用ゆ。故にいよいよ虫突き上ぐることもっとも著明なり。即ち今夕よりまず煎薬を止む。予比来の鬱陶立ちどころに散じ、深く仏加を信ず。云云 また去る頃瑜伽全部の首書事おわり平六をしてこれを写さしむ。頃日予またその條目を逐うて要を取って瑜伽一の巻の総目録の下に書き入る。また式少大坂大番替えと為り既に発足。供奉三百人に及び鹿児島屋敷より金千両を贈る等の事を聞く。云云 八月六日源助いよいよ快気、番所より本座に復す。対面慰諭蘇治の思いを成す。云云 九日覚照院及び三清等の状来たり、備作の悲田皆派を改めて受不と成る旨を告ぐ。また世雄状中江府の日養及び日庭派真俗五十七人六月末方入籠せしことを示す。云云 また源助の快気について今日一礼を宇宿氏及び病中見舞の衆に宣ぶ。かつ向井吉兵衛等に謝す。源助また祝儀を表する差これ有り。また頃日壱岐璋庵江府より帰り来謁す。云云 十五日夜に入って日高氏、八代氏、玄豊等月見の為に来たり、書院の庭に構えて久しく清光に対し、後客座に降って閑話し、三更の後に至って辞去す。十六日終日客に接す。渋谷宇右来たり閑話し、つぶさに江府の様体を聞くに敢えて別心無し。云云 夜に入って酒匂氏、三角氏、三伯、璋庵来話し、廻文詩歌等の沙汰に及ぶ。云云 かつ酒匂源左の病気もっとも重しと聞き後日節節人を遣わして訪問す。二十二日樺山左京の中風を聞き新助を遣わして訪ぬ。また比来時時首書を北本涅槃に加う。二十六日酒匂源左の逝去を聞き平六を遣わして弔問し道号を牌にしたため丁寧に回向し、後更に葬礼の時に至る。云云 閏八月三日傑心の一七日なるに依って饗応を設く。酒匂吉右晩天勝手に来たって傑心の病中歿後野僧懇情の礼を宣ぶ。云云 また聞く、宇宿伝左頃日逼塞。伝左去年大節の砌強いて暇を乞い帰宅の故なりと云う。来年の詰役また渋谷氏に転ず。云云 |