萬代亀鏡録

説黙日課:5(日講上人)貞亨二〜貞亨四

貞亨二乙丑  六十歳

正月朔日日待御祈祷経拝読等例の如し。二日学初め書き初め及び試筆を霊前に備うること例の如し。今夜外闘声降悪魔の六字及び二階瑠璃光世界の言を夢む。四日夜御書三十一巻問註抄の講を創む。七日式少より使い有り祝儀物を送らる。向後永式と成る。十六日米良氏を城に遣わし新年の祝儀を宣ぶ。かつ年始の使信を謝す。主膳これに同じ。かつ聞く、向後出入りの奉行町田与左米良氏に代わる。云云 また頃日村岡道亀の重病を聞く。故に使いを遣わして永訣の趣きを宣ぶ。彼また後世を憑むの言有り。云云 二十四日に至り死去。丁寧に回向す。
二月朔日三十一巻末常忍抄を講じおわる。三日より三十二巻不可親近謗法者抄を創む。九日式少の佳招に赴き、かつ古老物語六冊を持参して式少に献す。閑談やや久しく及び式少殺生を好むの儀を諫む。一閑座に在ってまた助語を加うる故首尾はなはだ好し。かつ式少徒然草の講を望まると雖も別日に託してこれを諾せず。(後これを思い合わす恐くは仏の加願) 飯後主膳急病の告げ有るに依り式少即刻彼の室に赴かる。故に暇乞い無くして帰宅す。追っ手はなはだ騒ぐ。即ち村田氏を以て主膳の病気を窺い兼ねて今日の招請を謝す。万死一生と聞くに因って通宵読経猶仮臥せず。昨夜先瑞の夢有り。云云 十日午後主膳の逝去を聞きて村田氏を以て弔問し、道号を牌にしたため終日回向す。また今朝日堯一周忌に依り朝齋を設く。云云 十三日大光寺に於いて善性院殿葬送の儀これ有り。松岩寺下火の句、可有り、否有り。云云 累日法華頓写及び祭文等の法事有り。かつ十八日の待夜垂示法門有り。云云 十九日野僧綴る所の二頌を式少に送る。かつ菓子を忝のうす。翌日式少より竹心香等を贈らる。かつ謝礼有り。云云 二十五日三十二巻末上野殿御返事を講じ終わり、二十六日より三十三巻南條抄を創む。晦日善性院殿の三七日に依り齋を数十人に設く。
三月六日式少参府今日発駕。頃日聞く、二月二十二日新院崩御後西院と号す。また去るころ光り物有り空に飛ぶ。他日大坂よりその光り物の図到来す。金神清平の四字これ有り。云云 また伝え聞く、彼の光り物禁中に落ち御殿を倒し宮女死亡有り。云云 また浅山氏鹿児島南林寺等と往復の詩巻を見る。また覚驍「よいよ邪義を募り、また寂照の死去等を聞く。十五日三十三巻末波木井抄を講じおわる。頃日聞く、鹿児島より向後政事を島津右京に命ず。また式少家老役を樺山主馬に命ずと雖も未だ諾せず。云云 比来朱を会本文句に加う。二十日三十四巻太田殿女房御返事の講を創む。
四月二日新山の招請に赴き、飯後愛宕に登り海景を望む。高麗町を歴て稲荷川を見、石坂を攀登し内膳茶店の縁に休う。宅の荒廃を閲し無常観を凝らし、また新山に帰る。閑談暮れに及び帰宅す。十五日結夏の規則例の如し。明日島津内膳より三太を使いとして主膳の遺物薩州苗代焼茶碗大小二箇及び官香竹心香等を送らる。村田氏を以てこれを謝す。頃日谷口一才に頼み積む所の信施を借託して書を索むるの助成と為す有り。
五月朔日備前より逢沢清九郎井上三右衛門渡海。諸方の状を閲す。日了の状を見てまさに日堯死期病苦痛悩の体たらく感傷些からず。云云 二日江戸より飯田長左配所参詣、金丸久左の宅に到着す。即刻門弥佐加利に往き彼の客に接し来たる。対談夜半に至る。かつ日庭道中神奈川に於いて六万部塚を営む等の事を聞く。八日夜に入り清九三右密かに来たって対談時を移す。比来彼が持ち来たる日堯春雄院の本尊及び日堯の状を見くわしく日相の書き出しと違却の趣きを了す。かつ野僧和融の手段を企てんと欲するの旨及び向後予が指図に任すべき趣きを告げ、起請の案文を出す処両人能く諾して起請をしたため越す故今夜まさに対談。かつ改悔の為御経を戴かしめ及び金泥銀泥の御経を拝せしむ。かつ春雄院大覚和尚の本尊を伝持し加判を日述に請い、かつこの本尊に因って他日一宇を建立せんと欲するの志を告ぐ。故に述師春雄に与うる所の本尊予め一宇の名を立て大覚山一妙寺と称す等の事を聞く。云云 累日諸方に遣わす本尊等をしたため両俗に付与す。二十一日に至って帰駕す。また頃日紫竹閑主了聖院日性の訃音を聞く。また松木左門江府より帰宅すと雖も閉門逼塞。云云 これに依って節々密かに使いを遣わして慰問す。二十九日三十四巻末王舎城抄を講じおわって明日より三十五巻一谷入道抄の講を創む。
六月朔日大坂へ便に付して紺紙金泥御経の函を誂え蒔絵指図これを遣わす。また天昌住寺比来入院能書の名有りと聞く。云云 十日日習師の三十三回忌を迎え朝齋を六十余人に設く。晩また饗応有り。頌を作って牌前に備う。頃日広島俗士(日?の甥)有り、船頭に託して野僧の本尊を懇望す。即ちしたためてこれを遣わす。十八日三十五巻末高橋抄を講じおわって、明日より三十六巻一念三千理事の講を創む。頃日野僧の経帷子を八重尾氏の母儀に遣わしこれを縫わしむ。
七月朔日球磨より三客(仁右、市右、与三兵衛)来たる。松元吉左夜に入って三客同道対話やや久し。かつ金泥銀泥の御経を戴かしむ。云云 六日祖伶来話し聞く、雲海右京の使いとして鹿児島領に赴き家中仕置き宜しからざるを宣ぶ。式少他所より伝え聞く故頃日新たに諸宗の僧みだりに他領に出づべからずと制す。云云 今夜悟入法華大歓喜欲説法華定日限の字を夢む。七日本尊法衣を晒す等の事例の如し。比来隙有れば和韓唱酬集を閲し、かつ朱を韓文柳文に加う。十五日解夏修法例の如し。かつ当年死亡の衆数多なるを顧み、自らその身を省みる。云云 十八日三十六巻末念仏者追放抄を講じおわる。明日より三十七巻曽谷殿御返事の講を創む。頃日信入院日崇(細草談林能化初め伝亮と号す)述ぶる所の本迹勝劣の條目を閲し能破の條箇を加う。二十九日京都心鏡より飛脚来たって日相の返書を伝う。これを披見するに野僧和融あつかいの段半諾半不諾の文章なり。明日相応の再答をしたためしめて飛脚に付す。云云 かつ心鏡より大分伽羅を送る。云云
八月五日三十七巻末行敏状会通を講じおわる。七日より三十八巻立正観抄の講を創む。頃日大坂帯屋久左の訃音を聞き牌をしたため慇懃に回向す。十五日夜に入り三角氏来臨、共に庵に登り月見の興を催す。晴明万里一点の雲無く閑談四更に至る。頃日江府屋敷に於いて式少浅山氏と齟齬の事これ有り、浅山氏頻りに家老役御免の儀を訴う。云云 また船便に付し心鏡かつて懇望する所の三幅一対及び円頓者を遣わす。
九月朔日豊後伊集院忠兵衛より自ら筆記する所の軍書不忘危六冊を送り予に添削を請う。他日野僧寸隙無き趣きを呈しその書を返弁す。但し伊覚をして全篇を写し留めしむ。先年この書の序を請うに依りこれをしたためて遣わす有り。云云 また覚照院より状来たり、弓削村宗泉等十人公儀より磔に懸けらるるの趣きを告ぐ。云云 五日帯屋久左尽七の忌辰に依り齋会を設く。比来朱を珠林等に加う。頃日宇宿伝左参府の暇乞いの為来たる。云云 十八日備前より江田源七渡海、まず状を披きこれを見る。予再酬の状に依って日相許改悔の儀を領掌せらる。日指方また真俗一同改悔せんと欲するの趣き有り。明夜源七密かに来たって対話す。まず御経を戴かしめおわってつぶさに一儀の首尾を聞く。云云 かつ彼日堯春雄の本尊の返弁を促す故本尊を返さざる意趣は覚驍ノ遣わす返書中に在るを示す。云云 二十一日に至って帰駕す。十九日三十八巻末四條金吾女房御返事を講じおわる。明日より三十九巻兵衛志御返事の講を創む。二十二日盛岩寺の佳招に赴き、まず駕を浜辺に枉げ昼天神田島及び湊柱の長松原に行き、平松蓮光寺の切り通しを過ぎ、上砂浜に出づ。天気晴朗、海上浪静かにあたかも春日の如し。眼界窮り無く美景余り有り。嶽に登って暫時休い舟を浮かべて久しく遊ぶ。たちまち扁舟有り、煙を起して来たる。迎え望めば金丸宗是煎茶及び提げ重を載せて来たる。これ大坂河口の粧いににたり。まさに知る、夷中また風流の漢有ることを。閑話百憂を忘る。話ばかり一身を養い、尋常風烈船を破るもまたこの処なり。動静安危猶掌を反すが如し。これに依ってたちまち一境二見生仏同異の処に悟入す。陸に上がれば盛岩寺来たって迎接し、まず席を王子松原に設け、清談時を移す。かつ美菓を賞し望中の楽しみ得て言い難し。映後寺に至り路辺掃除座中数奇新たに?の天井を張り回すに画の屏風を以てす。三伯跡を逐うて来臨し、閑談興を添う。饗応丁寧、?時半辞去す。帰路また一葉に駕す。夕日鏡湖に映じ水紋変体を生ず。興に乗じて予秋湖鏡面の如しの章句を吐く。三伯暮寺鐘声を送るの対句を出す。云云 首を左右に回し、村を問い、山を問い、心乾坤に遊ぶ。古を談じ、今を談じ、山緑水緑色を諍い、紅葉紅日美を?う。ただ日西嶺に没する有るを惜しみ更に月東天に出づる無きを恨む。まさに莽時に至り佐加利に着し、時宜を同心の衆に宣べ、輿を促して帰宅。既に初更を過ぐ。今日の遊覧もっとも秀逸き故に、聊か梗概を記して後日の思い出に備う。翌日律詩二首を賦して使いを盛岩に遣わしてこれを謝す。かつ宗是に謝す。云云 二十七日阿弥陀経の講を創む。頃日金柏寺阿波南山の会下に赴く。暇乞いの為来たり対謁してかつ当冬南山中峰広録(首書また南山なり)を講ずるを聞き、往いてこれを聴かんと欲す。云云 晦日たちまち聞く、今暁宇宿伝左の宅に火を付くる有り、幸いに寝ざる人有って衆を呼び早く消す。云云 これに依って伝左参府延引す。希代の事故密談累日なり。云云
十月十三日齋会を四十余輩に設く、かつ頃日木脇友仙に託し、録内御書全部の新写を同性永厳(初め見竹と称す)に索む。他日快諾の酬答有り、これ幸い。これに依って連々宇を糺し点を改め、彼をして鳥子紙に写さしむ。十六日夜三角氏来話に聞く、付け火人を推察するに就き両説有り。云云 かつ式少浅山氏と違却、式少首尾合わざるの儀有り。浅山氏敢えて失無し等。二十一日三十九巻末四條金吾殿御書を講じおわって明日より戒体即身成仏抄の講を創む。頃日三角氏より伏陽豊後橋の隠者鳥山佐太夫輔寛著す所の山居草の和韻三十首を送る。閑暇これを見る。もっとも山居の趣きを得と雖も未だ第一義門に入らず。何ぞ元政の作意に比せん。
十一月朔日江戸より飛脚到来す。風説を聞く、いわく、今度の貴札は野僧赦免有らんと欲するの儀に就いてなり。云云 明日家老樺山主馬より使いを以て予が御預かりと成る趣きの口上書を請う。即ち平六をして口上書二通(一は家老の文体一は予直にその趣きを述ぶるの文章なり)をしたためしむ。兼ねて新受の徒と法義各別の口上書一通をしたためしめ、後日両奉行を以て主馬に達す。また主馬先年配流の砌公庭に献上する巻物(守正護国章)の写し一通を懇望せらるに依りこれを幸いとし平六をして二通をしたためしめ一通は主馬に留めしめ、一通は口上書を付して江府に遣わし老中の一覧に備え、或いは上覧に達せんと欲するの旨使いを以て主馬に告ぐ。かつ状を浅山氏に添え、懇ろに野僧志願の趣きを呈す。他日主馬より望みの如く長篇の巻物口上書を付して江府に遣わすの告げ有り。云云 後実の義を聞く、今度の儀は大久保加賀守より予が御預かりと成るの由緒を尋ねられ、かつ大目付(失名)直ちに式少に対して予が事を尋ねらる故式少答えていわく、先年御預かりの砌の事くわしく存ぜざる間飛脚を以て国本古老の者に相尋ね重ねて言上致すべし。これに依って大早飛脚到来するなり。この節家中の衆及び町より御赦免有るべきの祝儀を述ぶと雖も予敢えて諾せず。相応の会釈を成して止む。云云 十三日像師講朝齋多人を招く事例の如し。かつ石経をしたため、内深く仏恩の深重を感じ落涙肝に徹す。云云 十六日島津内膳及び文十郎来臨閑話。即ち金泥銀泥の御経を戴かしめ、中心下種益の一分に回向す。二十三日朝齋を四十余輩に設け、今夜戒体即身成仏抄を講じおわり、明日より三十五巻法華真言勝劣抄の講を創む。二十九日夜大日経住心品疏の講を創む。(新山弟子良春また聞く)
十二月三日姉妙行の十七回忌を迎え、朝齋を三十余輩に設け、かつ比来善亮をして真言家の諸書籍を抜萃せしむ。七日江田源七また渡海、状を披きこれを見る。比来日指方総じて改悔の名代と為り、一僧(本柳院)一俗(市郎太夫)を上洛せしむ。日相改悔を許さざる故空しく帰国の趣きなり。予心に日相の不首尾を疎んずと雖も法義大節の砌故敢えて言外に出さず。云云 明夜源七密かに来たり閑談時を移す。日相の状未だ来たらざる故に今便決定書を成す能わず。日指方予に日指方の総改悔を許諾せんことを請う。故に一は時の与同罪を逃れん為、二は後難を遮らん為の故に返書の中総改悔及び改悔の趣向これを許諾す。十七日に至り源七帰駕す。後聞く日相轍を替え改悔を許さず、源七当秋帰国の後日向に付傍しみだりに日相を破す。大倉八左衛門早飛脚を以てその趣きを日相に注進する故なり。予深く和融の手段時未だ至らざるを悲歎す。比日新山より浄不二抄を借り往々電覧す。十八日勝劣抄を講じおわって明日より第三十四恩抄の講を創む。歳暮の軌則等例の如し。

貞亨三丙寅  六十一歳

正月朔日日待御祈祷経拝読学初め書き初め等例の如し。二日試筆を宝前に献ず。十五日四十巻末地引御書を講じおわる。かつ頃日詩を賦して興を遣る。云云 かつ三伯白鷺池経を問う。予般若経を指し示す。また比来平六をして身延朝師述作の真言抄物を新写せしむ。写本はなはだ旧くかつ蠧害有る故なり。云云 もっとも車宝の事なり。二十一日真言天台勝劣抄の講を創む。二十四日平六等三人予の本卦還歳を祝し真俗数輩に饗応を設く。門弥また白小袖を送って祝儀の志を顕す。祖伶また和歌一首及び祝儀物を持参す。予即ち返歌を綴る。かつ三伯祝詩を持参す。野僧また和韻有り。云云 他日また三伯と和歌の往復有り。
二月三日真言天台勝劣抄を講じおわり、明日より三十七真言見聞の講を創む。五日玄籤第七の講を創む。これより前玄籤の三を講じおわり智妙また大半講成る。云云 十日日堯の三回に依り精周忌の如く饗応を五十与輩に設く。十三日祖母日春の五十回忌を迎え朝齋を二十余輩に設く。十六日主馬来話、かつ旧冬江府に遣わす所の口上書早速大目付衆に献ずるの旨浅山氏より示し来たるを告ぐ。かつ浅山氏より野僧に酬答するの状有り。長篇の巻物重ねて時節を以て献上すべきの趣きを示す。残念極まり無し。云云 また天昌住持密かに出奔すと聞く。
三月四日真言見聞を講じおわって明日より二十四巻秀句十勝抄の講を創む。十八日三清日相の使いとして渡海。夜に入って密かに来たり閑話す。
かつ聞く、日相初度の状等帯屋に滞る故便宜延引敢えて別条無し。云云 ようやく諸方の書札を披き、疑念たちまち散ず。また去る頃江戸立雪の状来たって日庭日養不和にして互いに謗法と称するの事を告ぐ。今便日養の状達して委しくその趣きを知る。然りと雖も日養の書中立雪の状と相違の儀有り。(立雪日庭に随逐)云云 二十二日祖伶の佳招に赴き新たに宅を造り新たに庭を築き景物これ美なり。饗応丁寧、暮れに及び帰宅す。比来かつて聞く、江府より式少の命有り雲海閉門。その節密かに逐電して霧島に赴く。鹿児島に非ず別条無し。却って馳走の儀有り、他日如何。云云 また三清富田六兵衛に託して公儀内証を証す。故に野僧対談の儀成る。二十五日?時三清来臨即ち饗応を設け祖伶現常等相伴。三清と閑談深更に至る。かつ大段日堯春雄本尊授与書宜しからずと雖も法滅已後未制以前故謗法に非ざるべし。然りと雖も向後已制の上はこの本尊を拝すべからず。然らばこの本尊を野僧の所に留め置けば即ち自ら拝不拝の論無し。もし彼方に返すに於いては不拝の裏書を加うべき故に還って諍論の基と為るべきの趣き示す。これ則ち向後更に和融を催すの手段なり。云云 累日授与の本尊及び日相日了等の返書をしたため、他日三清に付す。二十九日に至り三清帰駕。
閏三月四日早天たちまち聞く、比来鹿児島よりの下知に依り夜前にわかに左門を主馬の所に呼びまさに鹿児島預けと成り彼の地に赴くを知らしむ。兼ねて駕籠等を用い主馬の所より直に彼の地に往かしむ。但し幼童子二人左門に随逐する事及び従者三人これを許さる。嫡子三郎五郎跡職を続くと雖も知行三の二を減じ百七十石を与う。夜前追っ手の侍皆武具を帯び通暁用心。山田半左別条無し。云云 また聞く、頃日鹿児島より銀二百貫目を式少に助成し家中の困窮を救わる。云云 今日門弥を三郎五郎及び三太夫祖伶等に遣わし左門の事を悔やむ。また江府の斉藤自得より使い有り、浅黄小袖を送る。また水戸宰相の領内太田村に於いて新談林(宰相母堂の寺)を立て中村談所の利貞(佐藤元生の息)を招き能化の職を勤めしむ。及び長江中村の四老と成る等の儀を聞く。宇宿伝左近頃江府より帰宅。来臨閑話、口上書を公儀に達し及び覚眼院口上書また公儀に達す等の事を告ぐ。云云
四月七日藤井三左来たって重代相伝の物と称して一巻を持参す。披いてこれを見るに観音絵像賛の頌なり。頌にいわく、紫金化身千百億、白衣妙相三十二、稽首円通自在尊、沙界咸称大悲智。則ち頌意を示す。また語る、吾伯父よりかつて月山流兵法の書を伝う。十年以来一心に稽古す。伯父また月を信じこの道を悟るべきの旨を示して名を戴月崇山と与う。然る処に去る頃夜に入り忽然として月天二体を拝見し、更に心月を願う処に臥具の中に於いてまた月形を見る。その後ひそかに諏訪坊を問い真言家月輪観の極証ここに在るを示す。真偽を決せんと欲し今以て師に問う。予つぶさに境界の真偽を示し、もし内心の三毒変ぜざれば、見る所の境界もしは仏、もしは月皆これ魔変にして真の境界に非ずと知らしむ。彼よく諾して帰る。また頃日善亮素懐を述べていわく、心疎略無しと雖も病身供給に堪えず、願わくばその代わりを呼び暇を給えと。予聞いて即諾し、村田氏と相談を遂げ、その趣きを公儀に達する処敢えて相違無き故に善亮帰国の儀を決定す。云云 八日金丸現常の病急なるを聞き、平六門弥を遣わして臨終の用心等を勧めしむ。かつ懇望に依り棺に入るる本尊をしたため遣わす。また頃日廻状の中稲但牧大久保氏と処替え。(加向) 但し但州一万両拝借、賀州一万石加増、戸田山城佐倉に移り、松平伊賀岩築に移り、各々一万石加増、阿部豊後忍本領の上に新たに万石を加え、久世出雲加増無しと雖も備中庭瀬より丹波亀山に移り、松平越前知行改易、新規に福井二十五万石を松平兵部太夫に賜う等の事有り。十九日現常の訃音を聞き牌をしたためて丁寧に回向す。今夜巨雨、明日洪水。
五月七日秀句十勝抄を講じおわる。九日善亮門出の祝儀の為饗応を設く。予また餞別の物を遣わすこと差有り。またこの頃村上三太夫不実表裏の儀有るに就きこれを糺明せんと欲すと雖も、大を観察して黙止す。云云 十二日二十五巻太田抄の講を創む。十七日善亮の発足に依り弥陀経の講を止む。善亮と閑談やや久しくつぶさに出世の心持ちを示す。かつ帰国の後日相と日指方と和融の才覚専一たるべきの趣きを告ぐ。晩方佐加利に赴き乗船す。云云 明日備中より覚驍フ書状到来。かつ日指方総て改悔の一札調え来たる故欣幸些からず。即刻門弥を善亮の船に遣わしてその趣きを告ぐ。彼また大いに喜ぶ。云云 かつ素玄の訃音を聞く。二十三日式少到着。明朝村田氏を以て祝儀を城及び内膳等に宣ぶ。云云 二十六日三角喜左来臨しつぶさに話さる。去年大目付衆以来の首尾を問われ、敢えて御赦免の沙汰有るに非ず。先立っての藤井清左、米良庄左等の言皆これ燕説にして推量の分なり。云云 また去年以来慧賢(野僧契約の弟子、心鏡取立)渡海の内意既に決定すと雖も、その後慧賢たちまち違変有って渡海の儀を止むるの趣き先便心鏡の書中にこれを告ぐ。
六月十六日式少来臨、閑話時を移す。旧冬の口上書を公儀に達するの趣き及び先年野僧の異見に依り今般自ら殺生を禁じ、かつ家中に殺生を制せんと欲する等親切の挨拶有り。云云 予また長篇の巻物を上覧に備えんと欲するの旨を告げ、式少に懇望す。二十一日式少和田次郎兵衛を以て長篇の巻物を重ねて時節を以て上覧に備うるの才覚を回すべきの趣きを告げらる。これに依って更に式少の一覧に備うるの口上書をしたため今夕和田氏を呼び取次の儀を懇憑す。他日和田氏来たってつぶさに口上書早速式少の一覧に備え、家老衆また口上書を見同心せらるるの條、所願必ず成就すべき等を告ぐ。云云
七月十四日日了の使いとして江田源七また渡海。まず日了状を披きこれを見る。善亮帰国の後あつかいの相談既に成らんと欲する時、竹内清左座に在って異義を構え荒言を吐く。故に岡山衆たちまち相談の儀を止む等の趣きを告ぐ。かつ江戸日庭より日了に遣わす所の書札を送る。明日盆供故十六日の夕に源七に対面の兼約を至すなり。十五日盆供例の如し。明夜源七来臨閑談夜半に至って帰る。まず備中の儀に就き日相に背き難き趣きを宣べ、本従此仏等の深旨を示す。かつ助七重ねて上洛総名代と為って改悔の儀もっとも然るべきを諾す。かつ源七去るころ江府に赴き帰国の故つぶさに日庭日養矛盾の首尾を語る。云云 また日了より庭養和融の手段を相談せらると雖も、野僧返書の中京都備中和融の儀調わざる内は庭養和融の才覚はまず差し置かれて然るべきの趣きを告ぐ。かつ今便憑み来たる所の本尊等今明日これをしたため、明夜平六門弥を遣わして源七に付す。十八日朝源七帰駕。頃日見竹写す所の録内御書を校合す。また聞く、松木五郎三郎暇を乞い村上三太夫これに同じ。二十五日鹿児島より三使到着登城種々の密談有り。右京また談合衆に預かる。云云 二十六日早朝村上三太夫より鹿児島の使い及び密談の趣きを伝聞す。(左門先例の如く三太夫等また鹿児島の預かりと成る事) 昨夕三郎五郎の宅に懸け入り強いて松木三郎五郎同姓清兵衛をしてこれに与同し叛逆の心を企てしむ。門戸を閉じて狭間を切り公儀よりしばしば使いを立てこれを宥めんと欲すと雖も敢えて聞承せず逆心決定。ここに因って公儀やむを得ずして?後討手を彼の宅に向かわしむ。但し後日の公聞を遠慮する故甲冑等を帯びざる処、逆徒狭間より鉄砲及び矢を放つ故先手田原長左衛門砲に当たり痛手を負う。(夜に入り即ち死す) その後寄手屏を越え敵味方入り乱れて合戦の内敵自家に放火し籠もる所の男女三十余輩暮れ方残り無く滅亡。云云 幸い風無き故類火を免る。明日村田氏を式少及び右京等に遣わし時宜を調う。後に聞く、知元(左門の母の事)及び三太の内室三太の子自らこれを刺し殺し黒木作七外より内通有り、合戦何前彼の屋敷を出ずと雖もついに死を免れず。三太の子及び家来等男女を撰ばず皆斬殺せらる。寄手また十余人死亡(但し遅速有り)この節諸事皆島津右京の仕置きなり。世人罪の過当を批評するものこれ多し。また大光寺をして左門先祖の位牌を除かしむ等かつ敵の死骸三日の間これを曝す。その後畜類に擬して一穴に埋めしむ。由緒の僧有って死骸を乞う有りと雖も敢えてこれを許さず等。その外些細の事これを記すに暇あらず。予深く感傷し、三太夫一心の迷倒を以て松木の家を断絶せしめ、辜無き群類を殺害す。連々法名を聞き、或いは道号を授けて過去帳に入れ、牌をしたたむること怠りなく丁寧に回向す。云云 また伊東弥七、桑山庄兵衛古市才兵衛家老三人の預かりと成り、山田半左衛門また逼塞、阿部松十蔵しばらく主馬の預かりと成ると言えども罪科実無きに依り(此節式少を呪詛する者有り誤って余殃に罹ると云う)宥恕を蒙ると雖も述懐有るに依って向後奉公を勤めず。云云 また二十六日夕諏訪の祭と雖も神主除穢の術有るを告ぐ。故に祭礼例の如く行わる。七日鹿児島の三使城に於いて饗応の後帰駕。或いは批評有り。昨夕三使総出軍場を遠見し敢えて助成の事無く、武士道に背くか。云云 明日池上権左今度の儀に就き急に長崎に赴く。二十九日宇宿伝左、能勢惣左急に江府に赴く。その後長崎の返詞是非の儀分明ならざるに依って江戸の一左右を聞かざるの内は家中安堵の儀無し。云云 追って左門の妻また自害すと聞く。その外他所に逃げ出し、追々殺害せらるる者更に四十余人有り。二十九日三清渡海、夜に入って対顔す。内藤次郎兵衛同道。明後朔日夜また来たって閑談す。始め予が素懐を述べ日相首尾合わざる等の事を批評すと雖も、彼つぶさに陳報する故後委しく向後あつかいの術を示し彼等内談のあつかいの手段を改めしむ。
八月二日三清及び内藤氏今朝帰駕。かつ伊予伊達宮内少輔簾中毒死の儀に依り陸奥守の預かりと成ると聞く。四日町田清助来たり謁して村田氏の同役領掌の趣きを告ぐ。またいわく、近頃伊予吉田の侍当所に到りていわく、その直話を聞くにつぶさに述師遷化の砌紫雲空にたなびき及び歿後の奇相並びに聖山経石等の事を話す。云云 五日二十五巻太田抄を講じおわり、明日より二十三巻災難退治抄の講を創む。また頃日三角氏密かに祖伶当表並びに鹿児島の取り沙汰甚だ悪しき趣きを告ぐ。故に野僧の通用を遮止せんとするの底心を推察す。かつ祖伶向後心行を禁ぜん為堅く通用を止む。云云 十五日夜に入って三角氏来臨座を書院の庭に構え月光閑話して深更に至る。万里雲無く一鏡閑に移る。また頃日聞く、江府報恩寺(住持日定所化の名恵然)失火堂殿諸具残り無く焼亡す。中村長江また彼の寺に宿する故余殃に罹る。云云 二十四日災難退治抄を講じおわり、また明後日刃傷死亡諸魂の初命日なるに依り饗応を多人に設く。云云 二十八日立正安国論の講を創む。
九月十三日迷心の徒を退治せらるの儀に就いて江府の評敢えて別条無きの吉左右今日相達す。明日町田清助を以て時宜を式少及び右京内膳等に調う。かつ聞く、江府に於いて十万石以上の大名上意に依り能興行有り。美麗更に将軍宣下の時に過ぐ。これに依って困窮の大名もまた多し。云云 二十六日村田八右衛門の佳招に赴き饗応丁寧、閑話暮れに及んで帰宅す。今日道意に託し富田氏及び村田氏の内室野僧に対面せんことを請うと雖も、予先程例無く後聞慮り有るの趣きを宣べて諾せず。云云
十月六日阿弥陀経の講成就す。これに依って正龍盛岩城宝の三寺祝儀の饗応を設く。十三日朝齋を三十余輩に設く。云云 十四日兼約に依り式少の佳招に赴く。かつて辞退すと雖も使い再三に及ぶ。故に御経日所作を弁じおわって映半登城。閑談時を移し、馳走誠をつくす。かつ祐筆に命じ即刻当春以来の回状を写さしめ野僧に与えらる。点燭の後座舞興行五番その内二番式少自ら舞う。云云 座を立つの砌直に鹿児島焼き物三種を賜う。帰宅の後即ち清助を以てこれを謝す。(明日より入夏故) 城より今夜謝礼の使い有り。十九日今朝黒木作七切腹しばしば首を討たんと欲しその刀斬れず、伯父道的脇よりこれを斬る。これに就いて口伝の説有りと雖もその趣き区別故これを記せず。その後作七の母夢に作七来たって日講の回向に依って苦を免る。必ず一礼を宣ぶべくまた歎ずべからずと。伯父黒木仁兵衛に憑みてその母慇懃にその趣きを野僧に達す。云云 また昨朝小牧権七の内室二歳の子供殺害せらる。幼少より養子と成ると雖も実は三太夫の息女なるが故に害せらる。世人皆仕置きの過法を議す。また藤井清左臨終近きに在るを聞き、今夜門弥を遣わして最期の用心念題唱題等を忘失すべからざるの趣きを示す。二十日暁天藤井氏終焉を聞き、即ち門弥を遣わしてこれを弔す。かつ本尊入棺失念有るべからざるの趣きを告ぐ。後日子息三左来たってこれを謝する時告げていわく、最末期の時日講光臨我を迎え、早く供膳を弁ずべしと称す等。云云 予思惟するに彼の人生涯正直にして内に法華を信ずるの志深重、故に感応掲焉か。云云 二十七日双巻経の講を創む。また頃日町の横山武右衛門追放せらると聞く。
十一月二十三日悲母日漸の三十三回忌を迎え饗応を六十余輩に設く。かつ追薦の頌を綴って霊前に備う。頃日聞く、大樹来年四十二の大厄なるに依り諸大名よりその分際に応じ祈祷及び祝儀の志企つ。云云 式少またその沙汰に順じ伊勢代参有り。また江府老中松平日向守逝去、土屋相模守家老職を勤む。
十二月十一日両奉行を以て内訴の書付を城に遣わす。大段領内人別札銀停止然るべき事、伊集院忠兵衛帰参に付き領内私の堪忍御免の事、この内伊集院氏の事内々浅山氏市来氏等と相談の上これを加う。後日酬答有りと云う。札銀の事式少また兼ねて停止すべきの志有って聖人の御志と能く符合する故近日停止の儀有り等。云云 後に聞く、酬答語のいろどり有りと雖も札銀停止実は野僧の内訴に依る。云云 彼の内訴中儒書の明文等を引きてこれを諫むる有り。伊集院氏の儀ついに酬答無し。十五日正龍寺髟隠居後住碩峯継ぎ目の礼の為来たり謁す。この節予瀧房(髟隠居所)の退隠を称美するの詩及び再和等有り。云云 二十日大坂より紺紙金泥の御経の蒔絵の函到来す。美麗素心にかなう。また作州より柳生久之進鏡一面を送る。祖母妙順大阪落城の後拾得する所なり。(後鏡磨きに見せしむ無双の明鏡と云う) 即ち丁寧に誦経し御経を函内に収め、明鏡を仏前に掛く。歳暮及び行中の軌則等例の如し。たまたま歳晦口号八句の詩を作る。また当年内外に就き瞋を催す事数度に過ぎず。

貞亨四丁卯  六十二歳

正月朔日日待御祈祷経拝読学初め書き初め等例の如し。二日試筆を宝前に献ず。かつ今日より部数を調え総じて積年の自我偈神咒等の数を算合し、本経の字数に准じてその部数を成す。云云 今夜厳寒読経深更に至る故朝臥を恐慮して終夜寝ず。手水を湯座の中に置きその所用を弁ず。暫時外に置けば堅氷と成る故なり。五日本経の部数算勘すでに成る。たまたま興有って野詩を綴る。昨夜万法用皆可従真如体生唯恐体被覆晴則用亦可暗の二十一字を夢む。今夜また解脱の二字及び箱厳重御経思有則有思無即無等中道無性の十八字を夢む。九日今日総部数算用成就、これを清書せしむ。云云 今夜近所失火、式少より見廻りの使い有り。十七日善亮の代わりと為って河本新助渡海、夜に入り私宅に入って閑談時を移す。かつ諸方の状を閲し改悔の作法を勤めしむ。明日門弥を遣わして両奉行及び米良庄左に新助入宅の儀を告げ、まさに二十日に至り宗旨改めの儀事おわる。更に口業の謗罪を改悔せしむ。云云 頃日平六をして近年備中法義の事に就き日相日了等に遣わせる書札等を書き集めしむ。けだし後日の支障に備えん為なり。また去る頃日相より新板の鎌倉志を送らる。透き透きに閲覧し朱を加う。
二月十日如精居士の三回忌に依り饗応を三十余輩に設く。かつ聞く、比来大光寺に於いて式少及び内膳より法華懺法及び法華読誦等を修せしめ追薦を営まる。また頃日瀧房の髟住まいを金柏寺に移す。彼逃れ難きの趣きを陳ぶと雖も畢竟閑を避け閙に向かうの毀りを免れ難きか。また聞く、雷海逐電の時黒貫文庫の鍵を奪い取りて還さず、書籍虫の巣と成るべし。云云 また旧冬以来時々安国論及び観心本尊抄を講ず。云云二十日式少明日参府発足に就き暇乞いの為今日来臨、閑談帰駕。即ち清助を城に遣わしてこれを謝す。かつ五明及び菓子を献ず。?後浅山氏来たって伊集院忠兵衛事今般式少返答成り難きの趣きを告ぐ。既に急に臨む故に路次御免愁訴の内談また黙止す。云云 明日巳の刻式少発駕。二十五日夜に入り三角氏来たって閑話す。江府に於いて知足院抜群の出頭及び大樹能く数寄の趣きを聞く。また式少門出の時馬乗り物を踏み破り俄にこれを取り替え、また社参の時不首尾の事有り。先程の吉凶測り難き等の事を聞く。
三月九日善亮渡海、松元氏の宿に到着す。即ち門弥を遣わして様体を聞く、別条無し。但しあつかいの儀すでに日指方いよいよ邪義を興すを破す。云云 夜に入って再び平六門弥を遣わして誓詞を見、後方に対面すべきを告ぐ。かつ内謁帰駕勝手の儀有りと雖も彼当津の船に乗じて来たる故公儀早速これを知る。これに依って明日対顔の儀を富田氏に憑む。即日相調う故十一日の対面を期す。十一日?前善亮初めて私宅に来たる。即ち改悔に擬し彼をして経を戴き罪を謝せしむ。すでにして閑談二更に至って去る。十三日?時善亮また来たる。昨日以来平六をして抜き書きせしむる所の日了覚體凾ヨ遣わすの状案及び春雄本尊不拝の裏書七箇條等の案文を平六をして善亮に読み聞かしめおわってまた閑話やや久し。その中日了私旗を立て法義緩慢妨碍無き等の邪書をしたため世間に弘むる等の事を聞く。云云 すでに辞去せんと欲する時善亮たちまち心地不足の三箇條の言を吐く。(畢竟春雄の儀を捨てざるなり) 予驚いて早速座を起て町宿に帰らしめ、後まさに勘当の使いを立てんと欲し、深更に及ぶ故に明日を期す。十四日勘当の使いを善亮に遣わす処彼の者屈伏し前夜の言端を悔い、向後堅く春雄院を用うべからざるの趣き等二通の起請文をしたため陳謝に及ぶ故まさに勘当を免ぜんとす。十五日平六門弥を善亮に遣わし、勘当の儀を免ず。然りと雖も彼好む所の案文等を与えず。云云 善亮明日船に乗る。また備中の邪義すでに究まるに依り野僧門弥所持の日庭の本尊を取り置かんと欲す。彼拒辞してこれを与えず。予善巧を廻らし一言の妙術を述ぶる故彼即ち我を止めて本尊を与うる故敢えて相違無し。十六日和田次郎兵衛来たり閑話す。内々野僧所望の巻物献上の儀及び殺生禁止の趣き式少能く納得せらるの趣き懇ろに告ぐ。云云 今日また聞く、式少船中或処の海辺に下り慰猟を為しおわって船に乗ずるの後天気にわかに替わり時ならずして暮天に向かうが如く、船はなはだ危うく久しく艱難してようやくその難を逃る。皆いわく、これ猟せざる処に猟するの祟りなり。云云 予聞く、門出の凶瑞を思惟するに或いはこの先表なるべきか。また疑う、快く領分の殺生禁止を諾し却って猟を他所に求むるは何事ぞや。云云 頃日諸人神女の不思議の事を予に問う。予答えて、これ正法に非ず偏に鬼魅狐狸の所行なるべきの趣きを云う。或いは諾し、或いは諾せず。十七日善亮の船近日出で難きを聞くに依って平六等と相談の上即ち平六を善亮の船に遣わし彼の好む所の状の案文及び不拝七條の抜き書き等を与う。
これ則ち向来捨邪帰正の基と成るべきを思惟する故なり。?時平六帰宅しつぶさに善亮はなはだ喜ぶの趣きを告ぐ。二十六日今日黒貫に赴くの兼約を為すと雖も朝来大雨止まざる故猶予両端の処、黒貫より迎えの為人及び乗物を送らる。故に午後輿に駕し吟を促す。行路中詩熟して行路の難を忘る。既に到着の処法印出でて迎え輿丁に命じて駕を堂縁に捧げしむ。云云 唔語時を移す。かつ名香を焚く。また泊如所述の大疏及び釈論啓蒙を出し予が電覧に備う。はなはだ一興を催す。雨中還って奇なり。?後辞去して止む。更に一景を添う。帰宅既に点灯。明日絶句三首を賦して新山に託し黒貫に送らんと欲する処黒貫より即刻謝礼の使僧有る故これを伝付す。云云 二十八日八代氏より覚眼院の書札を達す。披いてこれを見るに江府公庭の吟味厳密にして法義立て難きの故総滅の時節到来是非に及ばずと覚悟す。覚眼覚前秀閑及び日慧の徒弟その外多人悲田に改派す。云云 予文を見おわって寸心驚かず、まず自身死罪に及ぶべきの旨を覚悟し、次に覚眼等人面獣心釈門の罪人なるを悲しむ。これに依って明日より少しく読経を減じ新受破の書を製作し、その後録内御書の啓蒙立筆を企てんと欲す。
四月朔日悲田方著述する所の三田問答抄の能破の書を創む。題して三田問答詰難という。云云 また昨善亮の船未だ出でざるを聞き僕を遣わして破鳥鼠論一巻を善亮に与う。世人をして新受の徒の邪義を知らしめんが為の故なり。善亮今日出船の儀盛岩寺より伝う。十三日詰難を比来平六をして清書せしむ。今日校合また成就す。また黒貫より先日遣わす所の絶句三首の和韻を送る。かつ頃日町田清助の黒貫と題する三首の詩を添削す。ほとんど野僧の新作と同じ。云云 十五日結夏例の如し。今日より立正安国論の啓蒙を創む。かつ啓蒙の述作を務むるに依りまず御書の講をさしおく。また啓蒙成就の間禁足して門外に出でず。云云 二十二日日進聖人の二十五回忌を迎え饗応を二十余人に設く。二十五日木脇友仙江府より帰後初めて来たり閑話す。かつ大久保加賀守法華宗を替えて他宗と成り、牧野備後守家中法華宗の侍を改めて他宗と成らしむる等の事を聞きいよいよ総滅の趣きを知る。二十七日世雄院より奥師野の口円頓院に給う所の書札を送る。その志野僧仏天に祈誓し再び法義を興すの志を激せしむるに在り。云云 頃日聞く、苗蝗虫有りと。
五月五日大替衆帰宅の便に就き式少より新板の江戸鑑を送らる。新を知るの儀多し。また日高氏来たり閑話しつぶさに覚眼派を改むるの始末及び諸大名法華宗を替えて他宗と成る体たらく等を聞く。
六月十日師の忌日に依り朝齋を三十余輩に設く。頃日聞く、大樹犬鳩等を憐れむの誓いに依り当領内新たに子を産めば即ち殺害の風俗を禁ず。十六日夜に入り三角氏来たり閑話す。かつ朝鮮本の易啓蒙補要解を持ち来たって往々問訊す。つぶさにその義を示し、更に懇望に依って蓍筮占の大事を示す。云云 二十八日慈円より状来たって告ぐ、大阪法義いよいよ総滅の故僧衆また仮判し世雄弟子を名代に立つ。但し奉行所七十三老僧円驍フ改派を記し留む。近日上洛日相と決すべし等。云云 後日また便有り、世雄院了遠文啓庭月日相の所に至り改悔の故法義通用初めの如し。云云
七月九日吉賀半助来たり謁す。清助と同役の儀治定の故なり。十五日解夏例の如し。比来日々啓蒙を編立するに依り広く諸文を考え、本拠を尋討し、古抄を覆見し、義旨を新得することこれ多し。かつ平六をして御書の本拠要文を書き集めしむ。頃日覚照院より自身編立する所の弟子旦那遺誡一巻を送り懇ろに添削を請う。他日修補してこれを遣わす。
八月四日浅山氏より状来たる。その中に不受の法義公庭の御吟味強き故覚眼等また是非に及ばず派を改む。この節内々兼約の巻物献上内証聞き合わせの延引然るべきか等の文体有り。云云 また頃日世雄より状来たる。一円仮判改悔等の儀を沙汰せず徒に身命を惜しまざる覚悟決定の旨を募る。賊後の弓といいつべし。十一日例年の朝齋を五十余輩に設く。十五日雨天夜に入っていよいよ盛んなり。三角氏日高氏雨を凌ぎ来たって閑話深更に至る。三角氏向後儒書の博覧を止め一心に仏書を閲すべきの趣きを宣ぶ。予聞いてこれを称美す。明日正龍寺隠居正全古郷河床に帰らんと欲すと告ぐ。
九月朔日述師の七回忌を迎え饗応を三十余輩に設く。比来安国論開目抄の啓蒙草案成就。明日より撰時抄の啓蒙を創む。十一日夜に入って日高氏市来入道と同道し来たり閑話す。かつ忠兵の愁訴を再興するの趣を野僧に憑む。今夜即諾せずと雖も、他日思惟し使いを遣わして野僧再び巻物献上の内談を懇望し、紙面の中兼ねて忠兵の愁訴の儀を呈露すべきの趣きを日高氏市来氏に告ぐ。両人はなだは悦び即ち書札をしたため重役に付して江府浅山氏に送らしむ。云云
十月十三日会式饗応を三十余人に設く。また比来快心法印より大疏第三重の啓蒙を借用し平六をしてこれを抜萃せしむ。かつ第三重また字誤等を糺し、或いは朱書を加う。また頃日島津半兵衛臥具の上に血滴り、これより病患日を追うて重しと聞く。云云 予聞いて思惟するに右京去年已来みだりに罪無き多人を殺す、これ現報か。他日如何。二十九日日高氏より覚眼の状を見せしむ。(予覚眼と不通と雖も世出の様体を知らん為日高氏をして書札往復せしむ)披いてこれを見るに当秋初頃日庭神奈川新地建立の儀訴人有るに依って日庭を評定所に召し出し厳密に呵責の上衣を剥ぎ縄を掛け庭上を廻らさしむる事三返の後籠に入れて強く逼迫せしむ。旬余を歴て後鶏籠の如き物に入れ宿送して佐州に配流す。云云 義勝院また他宗の寺内を借り廟所を構うるの科に依り同じく佐州に流さる。予思惟するに日庭出寺の後遠慮無く寺請けを出し亡魂を弔う。あまつさえ公儀を却け新地を建立する事暫時の智謀もっとも大法に乖く。法難に似たりと雖も却って世間誑惑人の科條に落つべきか。諸宗の嘲弄一家の瑕瑾これに過ぐべからず。云云 また長江より状を平六に送る。来年中村伴頭職に任じ、かつ彼の談林能化所化ともに長江学道秀発の器量有りと許す。これしかしながら講師深重の恩恵の趣きなり。云云 またこの頃誠信問証の四字を夢む。およそ総滅の事を聞いて以来内信日を追って増し、恐らくは十種発心中法滅発心の一分か。
十一月十三日像師講、朝齋饗応を二十余人に設く。云云 頃日浅山氏より回章到来し、巻物献上の内談随分才覚すべし。云云 また聞く、松平越後守御赦免参府の後扶持方三万俵を賜う。また頃日快心より釈論第三重啓蒙を借用しこれを抜書せしむ。
十二月十九日首書を顕密問答に加う。かつ他日能破を加えんと欲す。二十八日大坂より便有り。信解院の状展転して来たり、欽悦法義を守る等の事を告ぐ。また日相先月より大病を受けらるると聞く。また日継七月十三日兼ねて死期を知り正念臨終等の事これを聞く。また慈円の状中八幡山屋敷望みの如く相調うの趣きを告ぐ。歳暮及び行中の規矩例の如し。

【奥書】安政六年正月十五日始写、三十丁程出来、其後間暇無きに依って久しく写を止む。文久四年正月二十九日再び志を発し亦始写、二月二十七日に到り此巻漸くにして成功しおわんぬ。寿高亭蔵書二冊の内

巻一終