説黙日課:2(日講上人)寛文十二〜延宝五
寛文十二壬子正月朔日日待鶏鳴より御祈祷を拝読すること二返かつ読経一部。拝日回向書初学問初め等例の如し。旧冬以来暖気春の如し。また今日より終焉に至るまで永く禁酒の制を立つ。客に接せざる故に恬澹として却って外の春を知る。十日領主より使い有り、酒樽を送らる。禁酒の趣きを披露してこれを受けず。十一日金剛経の講を創む。(直解略疏及び両註)楞厳等の講例の如し。書経しばらく止む。 二月五日無量義経の講を創む。十二日江府より述師の珍翰を伝達す。(これより節々書簡往復有り) 二十七日彼岸に入る。課経等例の如し。 三月四日飛州来臨閑話。かつ近処往還の儀を宥さる。頃日村上三太夫領分追放及び米良久右衛門知行改易の儀を聞く。云云 当月池辺の文庫を屋後に移す。(公儀よりの修営) 四月六日栄俊日妙三月朔日逝去の訃音を聞く。頃日前瑞の夢有り。(しばらく講釈を止め十五日に至る。来客に接せず専ら回向を修す) 五月二十三日日待の内百人一首の講を創め以て恒例と為す。 六月二日島津主膳始めて私宅に来たり閑話す。九日無量義経の講を成就す。合して五十九座。十二日普賢観経の講を創む。 閏六月十日伊集院新右衛門の死去を聞いて驚く。則ち人を遣わして弔問し牌をしたためて回向す。云云 十五日作州三清到着し閑話時を移す。則ちその趣きを公儀に達し、名を覚弥と改む。かつ諸方の状を見るに新説これ多し。云云 二十四日左伝次をして在所に還らしむ。比来木脇見竹しばしば来たり楞厳及び末鈔並びに主膳より借る所の太平記評判等を抜萃す。 七月四日孟子の講釈成就。十二日より盆に至るまで客に接せず。二十七日宇宿伝左衛門の逝去を聞き覚弥を遣わして弔い、かつしばらく講を止む。 八月四日彼岸に入り課経例の如し。六日再び書経の講を興す。七日大坂世雄院到着、町田弥二才学なるを以て密かに対談を許す。両夜世雄来臨閑話。十日帰駕。(学伝同時来帰) 十一日伊集院忠兵衛等の請いに依り七書孫子の講を創む。十二日忠兵衛野僧を招請し、梯を絶岸に懸け弁才山に登って遊興時を移す。詩作。云云 十八日曼荼羅寺及び誓念寺の雲霄、高月院の了自等の請いに依って遺教経の講を創む。 九月二日普賢観経の講説成弁。同日松木左門の招請に赴く。丁寧饗応夜半帰宅。明日律詩を綴って松木氏に謝す。四日僧衆の請いに依り大乗止観宗円記の講を創む。 十月八日外庭松林の間に休息所を構え時々謹学。頃日自ら松間子と称す。十日遺教経講成就。僧衆饗応有り。云云 十七日また忠兵衛招待に依り弁才山に昇り詩有り。云云 十一月九日易坎卦を講じまず止む。十五日樺山清右衛門の招請に赴く。丁寧の馳走夜半帰宅。かつ山伏高学狂気縛せらるるの事を聞く。云云 二十六日孫子の講成就。晦日の夜呉子の講を創む。 十二月六日不動寺に往き即心の印顕密対弁の論議を聞く。云云 十四日夜論議題を夢む。智縁実相一具縁常住二俗諦当住三智詮境詮四当年節々法門の句等を夢むと雖も繁き故にこれを略す。云云 十七日公儀より時服一重代を送らる。並びに覚弥所用に擬せん為銀三十目給せらる。云云 二十三日夜百人一首を講じおわる。二十八日今日より年始に至り来客に接せざる事去年の例の如し。およそ当年内外の書籍新見再覧繁多にして枚挙にいとまあらず。 寛文十三癸丑 正月朔日日待御祈祷経を拝読す。学初め書き初め等例年の如し。四日五日雷鳴。六日所化の日以来の本尊帳を再治し、類を分かち編集す。十一日宗円並びに書経を講ず。歳旦の詩を追作し、かつ忠兵衛等諸生の詩に和す。かつ当年の工夫忍和両事に在るべきを定む。二十日夜呉子を講じおわる。二十九日六韜の講を創む。 二月八日彼岸に入る。二十三日夜四十二章経の講を創む。 三月三日島津薩州(二月十九日)卒去の儀を聞く。領分齋二七日。予またしばらく講を止む。五日今日より日課を定め華厳法苑珠林を見る。各一巻づつ及び三史文選等各紙数を定めて朱を加う。 四月十九日番衆誤って女人を門内に入るるを誡む。 五月十一日書経全部講釈成就。聴衆饗応を設く。十二日江府より便り有り、まさに予州法連寺日完(二月二十七日)横死の趣きを聞く。云云 十四日大風洪水。十六日円驕i後に天昌寺の住持)玄哲(後に盛岩寺の住持)宗円記の聴衆に加う。二十五日大乗止観宗円記全部講じおわる。聴衆饗応有り。云云 今日大坂より便りあり。始めて松平弾正(正月二日)逝去の儀を聞く。感慨些からず、回向を勤む。 六月四日心経の講を創む。十六日心経の講成る。かつ止観義例の講(依心註講)を創む。 七月十一日上方旱魃及び灘廻りの船百六十艘破損並びに板倉内膳正先月逝去の儀を聞く。云云 比来見竹をして唐本性理大全に倭点を加えしむ。十五日蘭盆、三日の定課例の如し。 八月七日藤井清左衛門の懇望に依り山谷詩詮の講を創む。今日伊集院忠兵使いとして飛州より内証有り、法華講釈懇望の儀当分障り有り、重ねて許容の案内有るべし。云云 懇情の至り欣幸些からず。十四日彼岸に入る。十六日楞伽経の講を創む。 九月十一日飛州来臨閑話時を移す。今日法華講釈許容の旨有り。中心怡悦究り無し。云云 二十一日忠兵の懇望に依り軍書(不忘危と号す)の序をしたためてこれを遣わす。 十月十三日会式饗応。当月義例の講釈毎日一座或いは二座。云云 十一月四日仏書の聴衆饗応を設く。今日飛州より表向きの使い有り。(伊集忠兵)分明に法華講釈許容の儀を告ぐ。九日義例講釈成就。十五日法華の講を創む。まず玄義大綱に因って題号の旨を談ず。云云 兼日妙法難遇及び聴衆心地等を紙面に呈露してこれを示す。今夜聴衆祝儀有り。吉祥寺密聞の儀有り。かつ講中一宗の聴聞を制止す。藤井清左飯田諸左を出入りの奉行と為す。故に毎座伺候す。これより大体毎日一座或いは二座これを講ず。 極月二十三日夜法華を講じ、題号の談玄義二の終わりに至る。科注の大意及び新註の題釈肝要の処またこれを講ず。年内の講まず止め、歳暮の粧い例の如し。今年法門自得これ多し。云云 かつ兼ねて期する所の忍和の工夫その験有るか、当年の日記を検するに、瞋を催し人を呵する事僅かに二十余度。云云 年号を延宝と改む。 延宝二寅 正月朔日日待通夜読経拝日数刻例の如し。日蝕して色赤く朱の如し。云云 今日より久しく飛州の逆修を勤む。二日学初め書き初め。昨夜「以観心故指八為妙」の八字を夢む。今夜「相似分真三生三果」の字を夢む。十一日科註序を講ず。当年大体法華を講ずること昼夜二座。十七日飛州来臨閑話時を移す。かつ法華講釈許容の儀を謝す。二十二日忠兵来たって密かにその身危うき趣きを語る。云云 二十六日夜法華を講ずるの後まさに忠兵飛州の勘気を蒙り今夜中退去。かつ日薩隅三州を払わるるの趣きを聞く。云云 深更に及び覚弥を忠兵に遣わし離緒を述べ微志を加う。当月賦詩及び和韻もっとも多し。 二月二日飛州の招請に依り城に登り居間に接入し饗応丁寧。かつ得月楼に昇って閑談す。雨天の故に池中舟遊びの興を得ず。即席詩を作り、燭をとって帰宅す。明日詩を送りてこれを謝す。六日大坂より便り有り、慧林院紫竹の寺に入り、英然常葉の談林を開闢するの趣きを聞く。二十五日飛州来臨。近日参府の故暇乞いの為なり。かつ出入りの両奉行(清左、諸左)天昌寺正龍寺及び祖伶の処に向後随意に往来すべきの事を許さる。云云 明日暇乞いの為清左を城に遣わし、かつ香匣(東山殿時の蒔絵名物なり)をしたためてこれを送る。但し飛州病気に依って発駕延引す。 三月三日聖徳太子十七箇條の憲法をしたためて飛州に遣わす。(明日発足と聞く故なり)即刻富田氏を以てこれを謝せらる。かつ直筆の状を賜う。明朝詩を送って昨夕の返章に擬す。云云 十一日島津主膳の招請に依って天神の茶店に赴く。路次曼荼羅寺に入って如法に織る所の当麻曼荼羅の字を見る。茶店美形細雨風景を殺ぐに似たり。詩を作って興を遣る。?時空晴る。海口に船を下ろし逍遙閑吟その楽しみ究り無し。帰店の後音曲を催し慰めらる。深更帰宅。明日詩を賦してこれを謝す。主膳また昨日遣興詩の末韻字を摘って倭歌を送らる。十六日招請に依って祖伶宿に赴き連句興行。云云 明日詩を作ってこれを謝す。十八日招請に依り野久尾正龍寺に赴き即席八句の詩を賦し、かつ連句有り。また右城の丘陵に昇り座を構え遊覧八荒を眺望し眼界究り無し。終日丁寧の饗応。肩輿に駕して帰宅す。愛宕多楽院の前を経歴す。往くとき則ち歩行し栄光坂を越ゆ。云云 明日詩を送りこれを謝す。帰宅の後まさに山下久兵衛、河本市右衛門渡海の儀を聞く。覚弥対面の謀を廻らすと雖も叶わず。連日紙面に載する所の本尊歎徳等をしたためてこれを遣わす。両人二十五日帰駕。云云 四月四日招請に依って藤井清左宿所に赴き、鳰口を廻り弁山に昇り眺望時を移して彼の宿に到る。連句興行禅僧慧道(清左舎弟)会席に交わる。彼また即席詩を作り、予これに和す。初更帰宅。明日詩をしたためてこれを謝す。比来一閑の通鑑綱目を借り漸々歴覧見竹の処に遣わしてこれを抜萃せしむ。十二日夜「生死雖栄楽」、「真境不如帰」の二句を夢む。頃日法華の講釈怠り無く、兼ねて楞伽山谷を講ず。 五月二十一日天昌寺鹿児島より帰り来たり告げていわく、福昌寺回禄し寺内水有りと雖も人これを見ること能わず。皆いわく、山中龍骨の変怪なるべしと。云云 開山石屋和尚の堂火災を免る。人奇異の思いを成す。云云 六月二十三日左門より禅門正統録及び妙心寺六祖の伝を借りて連々これを閲す。二十九日本理院殿(中丸)の薨去を聞く。故に領分物音を遏密す。しかして暫く講を止む。 七月三日諸老来たって告ぐ、去るころ上方洪水路損じ橋流る等。云云 頃日天昌寺より万松録を借り、大光寺より虚堂録を借りてこれを概見す。八日白紙銀泥の法華経書写全部成就。即ち外題をしたため読経開眼供養す。云云 九日夜華落蓮成は相待、華変成蓮は絶待の十二字を夢む。十五日盆供例の如し。但し一昨より今日に至る客に接せず。十七日田原勘右来たって(江府より帰り始めて来たる)自昌院殿世間の儀を望まると雖も書状往復の儀は自ら許諾せざるの趣きを告ぐ。また松平越前守卒去。実子有りと雖もこれをさしおき、同姓中書(越前守弟)の子息を跡式に補せしむ。云云 八月十五日名月陰晴定まらず。田原氏、八代氏、清左、如雲等来話し、詩の連句及び狂歌等有り。十六日?時清左と蝿払い。河辺に出でやや久しく逍遙す。かつ一葉に乗じて楽しむ。にわかに降雨、船を下り如雲宿所に赴き詩及び俳諧を作り深更に至って帰る。十七日大風牆壁倒れ飯室破る。云云 かつ領分倒家二千軒に及ぶと聞く。老人語っていわく、四十余年かくの如き大風を覚えずと。飯室近日公儀より改造。二十三日備前より竹内清左衛門逢沢清九郎配所参詣、幸いに夜に入り対談す。両人欣然として辞去す。連日紙面載する所の本尊等をしたたむ。二十五日帰駕す。 九月五日招請に依り飯田諸左の宿に赴き路次高月院に往き閑話す。住持馳走。寺中清池の興有り。かつ寺後の高岳に登り遠望時を移す。辞して諸左至り喫飯の後河辺に赴き遊覧。暮れ方諸左の宿に帰り閑話。亥の後私宅に帰る。明日詩を作って諸左と高月院とに謝す。この後毎日法華を講ずること昼夜二座。楞伽の講また廃せず。 十月十三日会式勤修及び饗応等例の如し。二十五日法華を講じて後長友茂左の訃音を聞き夜講及び明日の講を止む。頌を作って伝室牌前に備う。 十一月十六日招請に依り三角作太夫の宅に赴き弁山及び城山に昇りてはなはだ遊興を催す。饗応丁寧。夜に入って音曲有り、深更帰宅。明日詩三首を綴りこれを謝す。二十九日天昌寺の招請に赴き寺後の峻嶺に昇り遊覧連句の興有り。馳走丁寧。暮れ私宅に帰る。明日詩二首を賦してこれを謝す。 十二月三日夜是名薬草の文、自在神通の文を夢む。また若比百億分身力三十二相尚小分の十四字を夢む。比来しばしば好夢有りと雖も繁ければ記せず。九日法華の聴衆饗応有り。夜に入って謡五番を聞く。歳暮の規矩恒例の如し。 延宝三乙卯 正月朔日日待御祈祷経を拝読す等例の如し。かつ学初め、書き初め。(今年満五十歳)十一日智正の逝去に依り法華の講を止む。十五日夜法華の講釈(方便題号)を創む。当月詩及び和韻数多。云云 二月朔日日芳十七回忌に依り転経加倍、かつ饗応を設く。懐旧感慨些からず。十九日遊行上人当所に巡来し、二階の窓よりその行粧を見る。云云 一遍より四十二世。云云 三月十七日主膳の招請に依りまた天神の茶店に赴く。路次大光寺(無住の時)に入ってしばらく徘徊す。既にして茶店に至り閑話興に乗じて詩を作る。かつ船に駕し湊口に出でて一興を催すと雖も、少雨また風景を殺し暮れ方茶店に帰る。饗応丁寧、嫡男又吉をして給使せしむ。主膳倭歌を詠じ、かつ音曲有り。云云 帰宅の後詩二首を賦し、明日諸左を主膳に遣わし詩を送ってこれを謝す。同二十一日主膳更に倭歌二首を送らる。即ち末字を摘し詩を賦してこれに和す。 四月三日伊集院茂兵衛の山亭に昇り遠見はなはだ鬱気を散ず。(五十日来寸隙無き故に尚日来外庭を見す)明日詩を賦してこれを謝す。四日田原勘右衛門の招請に赴く。座辺厳麗、庭面風流。連句の興有り。かつ虚空蔵堂に登り遠見時を移し深更帰宅す。明日詩を作りてこれを謝す。六日休息所を屋後文庫の傍らに移す。庫前の廊架より竹橋を懸く。いよいよ夏中の禁足を慎む故なり。云云 頃日上方奉公人今加えんと欲するの旨祖伶を以て松木左門に窺う処快く許諾。 閏四月二日東照補任本尊等をしたため便船に附してこれを遣わす。七日法華を講じて後山谷を講ず。比来藤井氏参宮病気等の故に久しくこの講を懈り今日再興す。 五月四日大光寺大機と木庵との問答を見る。かつ四月隠元第三回忌に独湛慧林独照鉄介湛然実伝別伝等の禅師集会し累日法事を営むの趣きを聞く。九日三角氏より四月大猷院二十五回忌東叡山法事の記を送る。即刻電覧す。二十八日夜村田十太出家せんとして忽ち止む。十太明日来たっていわく、しばしば法華を聞く故に幸いに火災を逃るるか。云云 六月十二日飛州江府より帰着す。陸地を歴る故にはなはだ遅る。云云 これに依って今日の法華の講を止め、藤井氏を城に遣わして祝儀を調う。頃日浅山氏より竹門主弘文院学士と往復の詩及び仙洞八十賀の詩歌を送る。周覧するに興有り。 七月七日経巻本尊法華等をのぶること例の如し。今日佐州学雄、沢根妙相等より始めて便札有り。云云 十五日盆供等例の如し。たまたま灯籠の油衣及び新白衣を汚す有りと雖も心裏不動一心修法。云云 十六日河辺に出でて祖伶の饗応に赴き連句の興有り。二十四日飛州より使い有って糒一箱を送らる。使いを以てこれを謝す。二十七日浅山氏内意有り。明日より飛州射場に於いて能の興行有り。貴師見物の儀妨ぐべからず。云云 即ち能組役者付等を見る。二十八日暁天早く勤行を弁じ、日出ころ射場に赴き見物所を一段高き処に構え快く安住す。衆人群集目を驚かす。今日の番組翁、弓八幡、屋島、井筒、葵上、藤栄、天鼓、呉服。毎番狂言有り。新たに蜑の切を加う。云云 帰路藤井氏宿に招待して饗応を設け暮れ方帰宅。疲臥初更に至る。藤井氏来謝して閑話。今日希代の見物たりと雖もまた勤行怠慢心頭散乱の妨げ無きに非ず。云云 後日浅山氏に託して能の見物を免ぜらるる一札を飛州に達す。 八月二日飛州にわかに来儀閑談時を移して帰駕。即ち藤井氏を遣わしてこれを謝す。三日町より山下久兵衛、小林次郎右衛門渡海の旨を告ぐ。松木氏才覚を以て今夜両人に対談す。これ幸い。法華を講ずるの隙を窺って累日本尊歎徳等をしたためて覚弥を遣わして両人に達す。九日帰駕。十三日日習の慈父蓮宗院日友五十回の遠忌を迎え回向饗応す。云云 十五日私宅に於いて月見の興を催し詩連句及び俳諧有り。頃日医生三伯菊池東燕る所の臥雲楼の記を持ち来たってこれを見せしむ。 九月四日野田常泉院大峰より帰り始めて来たり閑話す。かつ京都大坂飢饉疫病死亡十万余人と聞く。云云 六日内々所望の奉公人の儀首尾能く調う。即ち両奉行より状をしたため大坂蔵本に遣わす。云云 十三日夜伊集茂兵の山亭に赴きて月見の興を催す。閑話及び俳諧有り。明日詩を賦してこれを謝す。十八日公儀より免許有りて追手の客屋に到り駒逐行列の粧いを見る。云云 松元氏より朝餉を客屋に送る。飯後輿に駕して城南稲荷社を見る。かつ弁山に昇り、眺望時を移して帰宅。二十六日三納時宗慧三万死一生の儀を聞き覚弥を遣わし、かつ安心の法門を寄せ日号を授与す。同二十八日逝去。云云 十月二日午の刻より法華を講じ未の半刻に至って法華講釈結願の鐘を鳴らす。都合八百十余座。在関の日の法華講と合し一千座を成就し中心慶幸言語に絶す。即ち律詩を綴ってその志を顕す。?時聴衆饗応丁寧。閑話夜半に至る。五日飛州より検使を遣わし伊集院八左衛門及び与右衛門に切腹せしめらるるを聞く。痛心少なからず。六日野僧法華成就の祝儀の為饗応を聴衆に設く。更に礼盤に登りつぶさに草木成仏の法門を談ず。あたかも再演法華の儀式に似たり。勿論法華を講ずるの間毎座礼盤に昇り香華灯明を備う。云云 ?時饗応、閑談二更に至る。俳諧五十句有り。九日正龍寺の招請に赴き原上仮に茶店を設く。天気晴朗山海多景吟眸に入る。十日暁天早く勤行を弁じ射場桟敷に赴き終日能を見る。番組は海士、忠度、野宮、三輪、融、櫻川、殺生石。十一日楞伽の講釈全部成就。聴衆より饗応有り。十三日会式朝齋例の如し。十五日金?論顕性録の講を創む。十八日梵網発隠の講を創む。 十一月朔日たまたま高泉編む所の山堂清話を見て感有り。云云 八日また射場に赴き能組を見る。加茂、実盛、江口、鵺、自然居士、杜若、土蜘蛛。大風興を妨ぐ。九日能見物。番組皇帝、頼政、松風、野守、邯鄲、鉢木、斑女、張良。飛州舞曲別けて出来、諸人称歎耳に喧し。今日飛州より菓子一折を送らる。昨今諸方より菓子等を送る。すべて見物の間不浄無常等の観を凝らして唱題止まず。十日藤井氏夢想の連句有るに依り野僧を招請し漢和及び俳諧有り。夜半帰る。明日詩を賦してこれを謝す。 十二月十五日江戸より述師状を伝う。紺紙奥書の加判望みの如く調え来たる。云云 かつ禁裏の大火の事を聞く。云云 二十九日飛州より使者有り、例の如く時服一重を送らる。昨日より別行の故に使者には逢わず。また返詞無し。今年作る所の欣幸これ多し。一に法華の講成就。二に大厨子の仏成弁。三に楞伽の講成る。四に譜代の儀調う。五に領分の遊歴自由。かつ貪瞋もっとも微薄。云云 歳暮の規矩例の如し。 延宝四丙辰 五十一歳 正月朔日日待御祈祷経を拝読学初め等例の如し。かつ当年より読経の部数朝夕の勤行等を加添す。また本経を以てその分齋に准擬してこれを修す。二日書き初め。仏前の修懺骨髄に徹し落涙雨の如し。かつまた思惟するにたとい長命たりと雖も七十に至る二十年、数以て二十日に擬し、二百四十余月を以て二百四十余日に擬す。則ちあたかも瞬息無間の如し等。云云 頻りに光景の推移に驚く。故に当年より後別して読経を以て正行と為さんと欲す。一に読経は現に四悉の得益有り。二に法華の妙理は釈尊の金言唐捐なるべからず。三に時機相応の得道の要路。四に南岳大師十年専読等の先証。五に事の読誦は開悟の規矩。六に三業相応の妙行は三毒を制し八風を忘るの要術。七に法華の文字は法身の気命。これ円極の数息観。云云 また願を発して生涯法華万部を成就せんと欲す。また兼ねて学問の入眼は御書に在ることを了知す。故に向後別して御書を拝し、かつその鈔を編立せんことを志す。十一日始講の日の祈誓に当年より客人に遇わず専心励行今日に至るの格式始めてこれを定む。十二日人を諸方に遣わし年始の礼節を謝し、かつ終日礼者に接す。また諸左を飛州及び主膳等に遣わして改年の祝儀を調う。かつ追灘歳旦の詩等を作る。この後和韻また多し。十五日顕性録を講ず。十八日梵網発隠を講ず。二十七日飛州より上山民部を以て使いと為して自筆の状を給う。明後日清左を城に遣わし一昨の儀を謝す。今日本経読誦四十四部、陀羅尼を誦す一千余返。寸陰を惜しんでこれを勤む。他月少しの増減有りと雖も部数等大抵これ同じ。 二月朔日部数本尊等をしたためかつ夜に入って平六到着、即刻私宅に入り閑話時を移す。但し船中より病患気色不快。云云 二日朝平六をして改悔せしめ、かつその趣きを両奉行に達す。今日飛州より三伯を以て明日城に於いて能興行見物有るべきの趣きを告げらる。粗諾して兼ねて明日月待故に早く帰宅すべきの旨を約す。?時飛州宅に入り閑談やや久し。かつ久峯及び黒貫寺等に向後野僧遊覧の儀を許容せらる。即刻清左をしてこれを謝す。三日勤行早く弁じて城に登りまず主膳に謁しかつ始めて右京に遇う。その後飛州に対談す。禺中能を創めらる。番組咸陽、宮田村、野宮。その後中休み饗応の儀有り。家老こもごも出でて馳走丁寧。次に龍田、柏崎、葵上を見おわって兼約の如く早く私宅に帰る。明日詩を賦してこれを謝す。六日平六病気いよいよ重し。比来三伯の薬を用意すと雖もその験無し。故に今日より山口弾正(後号三卜)の薬を用う。脈を診ていわく、病気大節云云。服薬の験連々快気。云云 諸左来話していわく、飛州三十三箇の法度を定め、家中の侍をして堅く守らしむと。十八日彼岸に入り加行例の如し。十九日平六の荷物到来す。寿徳院世雄等の状を閲す。また堺の寂照今昔二円同異問端の少冊を見る。頃日久峯遊歴の儀家老等に告ぐ、敢えて別條無し。云云 飛州当月参府の発足。 三月二日梵網古跡の講を創む。五日灸治を始め神灸を用う。隙を費やさずしてもっとも験有り。向後灸治神灸を用うることに定む。去年十一月より寸隙無く外庭に出でず。頃日出遊せんとす。九日早く勤行を弁じ肩輿に駕して久峯に赴く。路中吟の長編有り。久峯美景吟眸究り無し。席を南岸に設けて転心興を催す。かつ律詩二首を賦す。治眼和尚(大光寺隠居)二首の詩を追和し、その外和韻重韻等見竹集めて小冊と成し自ら序を作る。云云 帰路飛松を見、かつ東禅寺に入り泉水の辺に久しく座して興を催す。住持出でて対謁し、かつ一才持つ所の提げ重を開く。帰宅すれば既に日入る。 四月八日平六を仏前に呼び剃髪の粧いを調え、かつ袈裟を授け、かつ絶句を作る。十九日宗旨和田次郎兵衛更に覚弥平六をして宗旨の手形を書かしめんと欲するの趣きこれを聞き、即ち同役田原勘右衛門を呼び自ら手形の儀堅く成るべからざるの旨を告ぐ。勘右才覚を以てその後敢えて手形の沙汰無し。云云 五月十一日松本惣右衛門私宅に来たり饗応を設く。明日覚弥を遣わしてこれを謝す。頃日一閑より爾雅周礼の儀礼注本を借り求めて見竹をしてこれを写さしむ。云云 六月二十三日書を晒すのついでたまたま金泥銀泥二部の法華阿末味虫の難有るを見て驚く。夜前兼ねて瑞夢有り、文字を損せずんばこれ幸いなり。云云 春より以来平六をして法華及び諸々の要文金?等を誦せしめ、かつ古文三体詩等を読ましむ。 七月三日大風洪水大急飛脚江戸に赴く。私宅また破損有りと雖も程なく修補。九日松元氏より備前素玄、竹内半三郎、野上惣右衛門の渡海を告ぐ。田原氏才覚すと雖も対面の儀は調わず。ただ三客の盆中滞留の儀を許容せらる。云云 京都に誂えたる所の大厨子仏去年既に成就すと雖も展転延引し今度の船便に着岸す。まず松元氏の宅に達す。彼厨子を私宅に入るるの儀を遠慮す。故に勘右清左と相談するに別條無し。即ち御厨子を私宅に遷し奉りまさに厨子を開き勘右清左をしてこれを拝せしむ。十三日御厨子を宝檀に安置し奉る。読経開眼礼拝等の儀式もっとも丁寧。頃日しばしば覚弥を三客に遣わして訪問す。またこの日武村市兵衛より書籍の大櫃到着す。これを開き一々点検し珍書を電覧し中心欣然たり。十五日蘭盆勤修例の如し。かつ三客明朝求麻に赴く故に今夜覚弥を遣わす。云云 盆後日課の読経を除く外毎日三客憑む所の本尊位牌等をしたたむ。二十一日三客求麻より帰来し日浣師当月九日遷化を告ぐ。不慮の儀大いに驚く。云云 今夜松元氏の才覚を以て竹内氏野上氏深更来臨(僧形故素玄をさしおく)閑話時を移す。日浣の臨終正念及び没後葬送の粧いつぶさにこれを聞き、かつ遺物として白衣の袷を野僧に送らるるの趣きこれを告ぐ。また懇望に依り両人剃髪の儀を調えしむ。また今度日浣に頼み来たる所の本尊等皆野僧に頼みこれをしたためしむ。松元氏三客の滞留を遠慮する故急務の本尊を先にしたためこれを遣わす。明日午の刻三客帰駕退いて高鍋に到り滞留して後よりの便りを待つ。二十四日本尊等残り無くしたためおわって高鍋に遣わす。云云 頃日藤井氏の才覚に依り御厨子外家速やかに成る。かつ平六をして新古授与の本尊帳及び書籍総目録をしたためしむ。また有或いは非凡の二字を夢み、或いは善根起自護悪の六字を夢む。 八月三日仏壇の造作公儀より営み今日成就し、本尊御厨子等を安置す。また頃日屋敷替えの儀を企てその趣きを家老等に達す。連々繕い換え地の処を聞く。十四日日浣五七日に依り饗応を設く。云云 十五日伊集院茂兵、日高七左に依って天神の茶店を借り月見の興を催す。映後肩輿に駕して彼所に赴く。市の日故路次はなはだ慣閙、茶店に至り少しく休息す。扁舟に乗じて湊口に出でて遊覧暮れ方茶店に帰る。饗応有り、興を催して句を綴り夜半帰宅す。後日詩を賦して両人に謝す。十八日江府より早飛脚有り、飛州病気大節の旨を告ぐ。向後節々飛脚有り。松木左門にわかに江戸に赴きかつ黒貫寺を城に請じ檀を飾って祈誓有り。また禰宜の祓有り。云云 二十六日江府飛脚到来し飛州当十一日夜半終焉の儀を告ぐ。予これを聞きおわって驚動悲歎究り無く、涙痛やや久しく乾き難し。読経回向間無くこれを修し、かつ藤井氏、飯田氏を島津主膳(龍泉院に伝語す)右京並びに家老左京弥次等に遣わして弔問す。来月二日に至る来客に謁せず、専ら回向を修す。かつ忌中を以て来朔の日待延引。 九月二日訃音を聞いて後七日を歴るに依り今朝饗応す。列座二十余輩。かつ昨夕飛脚到来飛州書き置きを存命の内左中に献せらるるを聞く。その後久世和州の内証有り、島津又吉(主膳の息十三歳)近日参府。云云 今夕飯田氏飛州の道号を持ち来たる。即ち過去帳に入れ新たに位牌をしたたむ。飛州実子万吉有りと雖も当年誕生の故まず又吉をして番代を勤めしめ、万吉十五歳に至って家督を本に復するの兼約。云云 四日日待天拝日やや久し。明日清左を主膳並びに家老に遣わして又吉参府の祝儀を宣ぶ。かつ又吉の供奉樺山左京市来孫右衛門と聞き、人皆市来氏老後供奉の儀を望むを毀呰す。云云 十一日左京暇乞いの為来たり閑談時を移す。かつ内々替え地の望みいよいよ相違有るべからず、野久尾辺もっとも然るべし等と告ぐ。云云 十二日諸左を又吉並びに主膳に遣わして近日発駕の祝儀を宣ぶ。かつ平六をして江府屋敷三角氏等に状をしたためしむ。比来諸方に遣わす状を平六に託し、ただ判形を加うる故もっとも隙を費やさず、修行を助成す。十三日なお忌中故月見の興を催さず。十六日又吉発駕す。昨日主膳より使い有り、今夕これを謝す。二十四日松厳院殿の骨高月院に到着す。予諏訪の後ろに出でて垣を隔てて回向鄭重更に哀情を催す。今夜瑞夢有り。云云 明日諸左来たって良心居士卒去前後を語る。江戸屋敷並びに当城の内種々怪事有り、事繁き故これを記せず。かつ松木伊織、桑山一覚剃髪遁世の儀延引して諸人はなはだこれを呰るを聞く。云云 二十七日高月院に於いて葬礼儀式有り。覚弥、平六を遣わして諷経回向せしむ。 十月四日八重尾氏来たって細やかに良心居士病中苦痛怨霊しばしば前に現るるに似るの粧い及び幡随意院葬礼の夜大風洪水、供奉の衆これ危うき体たらく等を語る。また孝節入道来話しかつ龍泉院はなはだ野僧丁寧に良心居士を回向するの儀を感悦するを聞く。云云 頃日また龍泉剃髪し飛州の後母また五戒を受くる等の儀を聞く。かつ黄檗木庵良心を追悼するの頌及び大機の祭文を見る。可有り、非有り。云云 七日飯後替え地一見の為野久尾辺に赴きまず大光寺境内並びに十二坊屋敷を見、正龍寺に入り休息。馳走招待に異ならず。谷山道蔭座に在り、問うていわく、自ら法華数百部を読誦し仏種と成るべきや、否や。予答うるに逆縁成仏の遠種を以てす。云云 その後窪土屋敷を見、観音堂を歴て天昌寺に入りにわかに饗応を設く。云云 また水の手七騎廻等を経て屋敷を点検し、暮れ方帰宅す。天昌正龍来たってこれを謝す。十三日会式朝齋等例の如し。十四日会式の盛物を諸方に賦し、これより後毎年恒例と為す。今夜事理二戒同異分段捨不捨広略要用与等の義を夢む。 十一月五日島津主膳より隠元録を送る。即ちこれを電覧す。九日主膳左門等来たって閑話し、かつ又吉参府の後和州に謁し及び老中懇切の趣きを聞く。比来諸作及び和韻等もっとも多し。二十日良心居士卒哭忌たるに依る故に高月院に於いて二夜三日の法事有り。住持の談義理一心定一心事一心の違目、及び一心不乱の弁有り。云云 二十四日予賦する所の良心居士追悼追薦等の詩及び悟道の句これを集めて一巻と為し、かつ跋を加え今日これを持ち高月院良心居士の廟所に到り焼香誦経の後高くこの巻物を読み、回向の寸志を彰す。云云 帰路飯田氏饗応を設くるに依り彼の室に到り初更帰宅す。 十二月十四日述師の状到来かつ日妙回向の布施を送らる。比来時々金山鈔を点検してその誤りを糺し金山指南抄の條目を編す。また諸観篇及び禅録等を見て朱或いは首書を加う。歳暮より年始に至るの規則例の如し。 延宝五丁巳 正月朔日日待御祈祷経を拝し、学初め書き初め例の如し。かつ聞く、昨夕牢人籠舎等大赦差有り。云云 三日朝御厨子を開かんと欲してたまたま衣を焦がす。即ち智火現前如救頭燃等の八種観念これを凝らし中心依然たり。未至法華猶是根敗故云二乗種不生の十五字及び是約根本不遮愚痴の八字を夢む。記憶了々たり。云云 十一日安国論の句読を慧照に教え西谷名目の講。十六日松元七兵衛兼ねて臨終近きに在るを知り覚弥を呼んで遺言の趣き有り。云云 深更また覚弥を遣わし一部一巻法華を頂戴せしむ。兼日戒名を望む故に蓮宗の号を与う。また頃日日浣の遺跡亡所と成ると聞く。また仙洞女院回録江府大火の事を聞く。(百六十町) 二十八日未明蓮宗の死去を告ぐ。即ち慇懃に回向し、かつ覚弥平六を遣わして回向せしむ。かつ兼ねて死期を知り臨終正念死相また好しと聞く。云云 二月二十三日医生道意の懇請に依り今夜より円頓者の講を創む。聴衆天昌正龍等十余輩。道意より饗応あり。二十六日家老酒匂源左より無官朝臣書の可否を訊問す。即ち職原等その例無きを答う。 三月七日慧通智公禅師(藤井氏の弟)昨夕逝去を聞く。数日講を止めかつ頌並びに追悼詩三首を綴りて藤井氏に遣わす。また頃日天昌に依り隙入有り梵網発隠の講をさしおく。二十六日竹輿に駕して黒貫寺に赴く。路次眺望感興究り無く詩情もっとも熟す。已に彼の寺に到れば左方高岳薬師山王の堂青龍権現の社厳然として高く聳ゆ。殿に入れば空洞清池まず雅興を催す。かつ弁才山に登り遠見意に適い、及び池魚命を懐う等の興。終日閑話。詩有り。連句有り。快心次しつづきに隠居雲海また来たって対談す。かつ和韻有り、ただ瀛の字を誤って満?の?の字として韻をつづく臨時の失念敢えてこれを糺さず。暮れ方帰宅。路次また一刻千金の興有り。翌日詩五首を賦し及び小引を加え自筆を以てこれをしたため藤井氏を黒貫に遣わしてこれを謝す。彼の地よりまた懇礼の使僧有り。また初めて雲海持つ所の草山の集を見て欣幸些からず。即刻借用して帰宅し、他日見竹慧照をしてこれを抜萃せしむ。二十八日雲海及び快心の和韻到来。翌日再び和して清左に託し黒貫に送る。 四月七日草山集の抜萃成就し雲海に返弁す。かつ詩を賦してこれを謝す。比来草山集を電覧して新たに得る所多し。その安心作業等に至っては取捨無きに非ず。云云 未の刻正龍寺の招請に赴き、帰宅の後夏中の格式を定む。かつ近年は池辺の休息所に通う竹橋を懸くと雖も当夏より寺外に禁足して寺内を制せず。仏世の故実を見当たらざる故なり。しかも猶用無くして節々池辺に往く。また草山集を考え夏中の禁足を守らず、しばしば他所に往行す。云云 十七日早朝諸左来たり告げていわく、山口権太夫の娘昨夜難産して死し、両親悲歎野僧引導の示を懇望す。云云 即ち本尊をしたためて引導の句に入れかつ位牌及び経帷書付等を調えこれを遣わす。午刻に至りその後読経丁寧回向す。かつ回向の礼物を受けざるの趣きを諸左に示す。云云 二十二日妙安の一七日を迎うる故に饗応を設く。午後三角氏江府より帰り始めて来たり閑話時を移す。かつ柳営華洛世出の体たらく五山及び妙心黄檗不和の趣き等を聞く。比来雲海と節々書簡及び律詩等の往復有り。云云 かつ黒貫寺真言家の書籍数通を借りて電覧す。二十七日大光寺大機黄檗より帰り、かつ木庵より払子を許すを聞く。他日また木庵大機問答の記を見る。また頃日村春智積院より帰り(村春は蓮宗の子)しばしば来たって閑話す。かつ新板書の目録を送る。 五月二日木庵語録及び紫雲止草集を見て木庵の行実を知る。五日大光寺問答の儀式有り、専ら捧喝を行ず。他日天昌正龍また彼の寺に詣り大機と問答す。云云 頃日大機の墨蹟を藤井氏に与う。その中如少水魚の少字性と作すの謬有り。かつ大機自讃悟道の後手跡自在を覚ゆるを聞く。また彼を信ずる者いわく、大機の眼色始めに替わる、悟道の故なるべしと。云云 予聞いて道理を立ててこれを糺明し、敢えて悟道に非ざるの旨を述ぶ。云云 当月また雲海しばしば詩簡の往復有り。 六月二日野僧食傷、道意の薬を服す。その後泄やや久しく止まずと雖も講を廃せず。頃日山口権太夫来たって閑話し、懇ろに妙安に回向し、及び節々齋会等を設くるを謝す。かついわく、他日何を以てかこれを報ずるを知らず。云云 十日習師二十五回忌に依り齋会を設け、晩にまた饗応有り。かつ自ら思惟す、師の三十三回忌に至る、予まさになお存命すべきや否やと。云云 十二日病患未だ癒えず。道意隙無きに依り今日より三卜の薬を用う。連々快気。十五日三角氏来たって告ぐ、野僧望む所の天節屋敷(大光寺に近し)調わず、久世和州かつて城外の居住を制し、但城外遊歴の儀は制限に非ずと。云云 これに依って成り難し。城下の屋敷替え然るべし。予即ち許諾す。この後城下閑居の地を点検す。頃日主膳家老等を始めとして諸方病気の訪問繁多。平癒の後これを謝す。かつて祖伶語っていわく、瀉下の源湿より起こる。湿を防ぐの方は座辺に炉を置き火を蓄え、或いは紙帳を張る等。云云 七月十日今日より十五日に至る来客には逢わず専心読経す。比来高月院の糅鈔を借用して連々これを抜書せしむ。頃日家老より城下屋敷替えの所四方の分限を告げらる。云云 十五日蘭盆の儀式例の如し。十六日たまたま外苑に遊ぶ。当夏中ついに出でず。二十一日輿に駕して城の辺を巡見し、まず八重尾伊兵衛の宅に赴いて休息。むぎこを賞し、水手に駕を廻らして城に登り橋山平左等の屋敷を窺い見、終わりに猿渡九郎兵衛の屋敷を見て暫時休息。この地閑適もっとも素意に応ず。既にして天昌寺の饗応に赴き?後帰宅。他日両屋敷(橋山、猿渡)適意の趣きを家老に達す。 八月十日清水心鏡より状来たりかつ法華開眼題号奥書等を望む。他日これをしたため船便に附してこれを遣わす。向後節々往復有り。十一日松厳院殿一回忌に依り朝齋を設け、晩また饗応有り。頌を作って回向丁寧。十五日月見の興を催し両奉行及び富田六兵衛等河辺に出で船に乗じて一瀬に至る。村雨有りと雖も忽ちはれ逸興を催す。詩作及び俳句有り。亥半松馬場を歴て帰宅す。 九月七日藤井氏の招請に赴き鳰口に駕を廻らし煙?倉の前及び稲荷の後峯を歴て高尾城に登り茶を喫しやや久しく遠見す。栄光坂を越えて藤堂に至り詩興有り。明日また残興を賦す。頃日平六をして一閑古文論語等の講を聞かしむ。二十五日了徳院妙祐の訃音を聞いて回向す。この後江田十右衛門妙祐の掟を守り例年の資禄を慧照に送る。また心鏡読誦法華千部開眼を懇望す。云云 十月十三日会式饗応等例の如し。頃日無始仏界無始九界の深旨を新得す。また題目講に擬して毎月主伴三僧銭を懸け呼んで霊鷲銭と為す。云云 十一月九日替え地の儀公評にて猿渡氏の所に決帰す。今日猿渡氏また来たって野僧一両を遣わすの儀を謝す。佐藤源兵これに同じ。十七日早く勤行を弁じ辰の刻より輿に駕して大安寺に赴く。江湖の法門を聴かんが為の故なり。まず時宗池上山光照寺に入って住持に対謁し、つぶさに一遍十遍両派の趣きを聞く。京都大炊道場及び七條金光寺等と当寺と同派、丸山等は別派。云云 また蓮祖と一遍と遊学の時の親友として蓮祖の状今に伝えて遊行の所に在り等と聞く。かつ当寺開闢以来二百十余年。云云 既にして大安寺に至り始めて住持及び大中寺に謁す。黒貫の快心また来たって閑談す。かつ古則の題を見るに手前法門これを創む。可有り、否有り。大体抑揚褒貶建立掃蕩の手段を出でず。天昌塵垢光明大円鏡を離れざるの句有り。予はなはだこれに感ず。その源宗円記具情の文より出づ。云云 雲海昨使僧を遣わす。兼ねて今夕の饗応を約する故に法門終わって時宜を調え、輿に駕して黒貫隠居の山亭に至る。佳境風流もっとも称美するに堪えたり。饗応丁寧閑談時を移して辞去す。かつ正龍大安寺の使いとして来たり、予門外に逢いこれを謝す。帰程また興に乗じて詩を作る。明日詩三首を賦し飯田氏に託し伝えてこれを遣わす。雲海よりまた使僧有り。十八日夜無量義経の講を創む。三角氏来たって龍堂をして良心居士を追悼するの詩二首を見せしむ。見おわって作意宜しからざるを評す。二十五日家老より年内野久尾替え地の普請有るべきの旨を告ぐ。明日大工をして指図を究めしむ。両奉行を以て家老に呈しかつ野札を以て三角氏に謝す。普請早速の興行はこの人の才覚に依るを以てなり。 十二月五日饗応を懇切の衆に設く。野久尾に遷る近日に在るを以ての故にいささか離緒の意を表するばかりなり。云云 野久尾普請の間節々往還或いは弁当を用う。頃日始めて新山寺に入り、住持と対談す。頃日石鼎臘八の間断食勤修。大機これを印可し大悟の人と云うと聞く。云云 十九日書院を崩し新屋敷に運送す。ここに因って仏壇を文庫の二階に刷い、階下を学問処と為す。居間及び飯室比来既に遷る。今日八代善兵衛の招請に赴きまず新宅に往き普請の体たらくを見る。藪を払い木を斬り南面更に一景を加う。云云 既にして善兵の室に至る。庭際美を尽くす。数寄の屋もっとも興を催す。饗応丁寧二更帰宅。明日野詩及び狂句三首これを綴って八代氏に謝す。云云 二十四日三角氏の招請に赴き、中立の隙新屋敷に赴く。頃日節々茶菓等を普請場の衆に遣わす。又池魚を漉して河に放つ。 閏十二月三日暁天道意より田村善兵衛を遣わして内室産後死去を告ぐ。かつ入棺の本尊を懇望す。即ちこれをしたためて遣わし回向時を移す。かつ戒名を授く。四日新屋敷に往きて四方の?示を定む。かつ墓屋敷を点検す。今夕飯田氏の饗応に赴き初更帰宅。七日今日より諸道具を新屋敷に運送す。今夜祖伶夜話の饗応に赴く。また明日吉辰の故に棟札両箇を新宅に掛く。云云 九日山口権太夫の招請に赴き慇懃の馳走。二更帰宅。夜半町に火災有り、風烈しと雖も近処に至って止む。これ幸い。十二日家老より明日移徒有るべきの儀を告ぐ。今日まず覚弥平六に託して仏像経巻を遷し奉る。書籍比来すでに移す。十三日暁天早く看経を弁じ、卯の刻持経及び本尊を先立て自ら竹輿に駕して新宅に移住す。路次及び入室の当座黙然として人と語らず、あたかも葬送の儀式に似たり。予多年の願望今日まさに満たんとす。云云 既にして読経時を移しまさに屋渡粥を賞す。その儀使いを以て一礼を両奉行に宣ぶ。かつ今日より明後日に至る客に逢わざるの旨を告ぐ。云云 昼家老中より渋谷清太夫使いとして菓子一折を送る。即ち今日若干の見舞い衆に饗応す。その後覚平をして書籍の箱を安置せしむ。十四日終日読経。今夜節分日待。昨夜既に御祈祷経を拝読し奉る。十五日拝日やや久し。終日読経。諸方より移徒祝儀の物を送る。宇宿寿仙酒錫を送る。飯田氏叱して宅に入れず。かつて女人及び酒肉五辛を禁じて屋敷内に通ぜざる故なり。十六日読経の外客に接す、客来もっとも多し。島津主膳より使い有り、家老酒匂源左来たり閑話す。云云 今日より二十六日に至る毎日小普請有り。公儀人夫の外諸方より加勢有り、竹根を鑿り地形を平げ、両坂の階級を構え、かつ水遣りを営み古屋敷より松を運び庭際並樹を植え花壇を拵うる等の小普請なり。周?の牆及び所々芦垣等早速公儀よりこれを営む。二十四日夜三角氏提重を持ち来たって移徒の儀を賀し、閑談かつ正句有り。云云 予対句をしたため明日贈ってこれを謝す。今日家老の命に依って町田孫右、池上権左、上山三左、松木宇右始めて来謁す。けだし予所用の趣きを弁ぜしめんと欲するなり。二十七日今日より来たる十五日に至る客人に逢わざるの式を定む。比来好夢多く或いは精錬調夫御の五字を夢む。歳暮の規矩及び平六をして読経の部数清書本尊帳等の儀を算勘せしむること例の如し。 |