萬代亀鏡録

説黙日課:1(日講上人)寛文六〜十一

説黙日課
巻一

寛文六丙午  四十一歳

法難に依って五月二十九日加賀爪甲斐守の亭より日州佐土原領主島津飛騨守の亭に渡り預かりと成る。

六月二十六日
江府を発駕し日州の配所に赴き、海陸つつがなく七月二十日佐土原に到着し、新営の室に入る。
即ち家老中より使いを以て慰喩し、両人の奉行を定めて所用を弁ぜしむ。
名は藤井清左衞門、吉賀十左衞門。
云云

八月
灘廻りの船、紀伊の浦に於いて破損し書籍海に入り後便より到着す。
少分沈失す。云云
(私いわく、本書始め一紙破失の故に略年譜を以て修補す)
書水に浸し塩を抜き日に干す。
ようやく二十日を歴て修補の事おわり、校合またなる。
養真をして表紙を繋げしむ。
敢えて被覧に妨げず、慶幸窮り無し。

九月朔日
日待例の如く、同じく三日更に日待例の如く巻数を芸州屋敷に送る。
比来芸州屋敷より節々便信有り。
かつ屋敷より京都辻藤兵衛に命じて上方世出万端の所用を調えしむ。
かつ頃日浅野和泉守七月二十八日逝去の訃音を聞く。
浄心院殿岸哲日容と号す。
云云
即ち弔状をしたため芸州御前に送る。

十月十三日
会式の勤め例の如し。
謫居の故に心に任せず少しく客に接す。云云
比来日を定め曼荼羅首題等をしたたむ。云云
当冬村田十太夫、藤井清左の懇望に因って始めて講筵を開き老子経を講ず。
家老樺山清右また与り聞かんことをねがい、樺山左京、松木左門等節々来話す。
また樺山氏等の下知に依り外科大野寿算の子新助に善四郎を添え秋の中より奉侍す。
また町の松本七兵衛頃日より内外の所用を弁ず。
去るころ江府の法意並びに仏種院より配所参詣の為遠路を凌ぐと雖も公制厳密対面を遂げずして帰る。

十一月二十三日
悲母日漸第十三回忌を迎え香を焚き灯を点じ(客数輩を呼ぶ)かつ追薦詩三首を作る。
比来詩を作ること三十余首。
また金子五両を恵林院に遣わし母の為頓写法事を修せしむ。

寛文七丁未  四十二歳

正月朔日
暁天御祈祷経を拝読日待等例の如し。
かつ歳旦の詩を作る。
また二日夜終夜本尊巻数等をしたため例の芸州屋敷の日待を勤む。
同日歳旦の長編を追作す。

二月左門の発起に依り大学を講ず。
三島平助、上田五兵衛、村田角兵衛等また与り聞く。
大学の講おわる。
孟夏のころよりまた論語を講ず。云云
去冬江戸芸州御前よりの内意これ有り、了山海を渡り厨子山寺に到り越年種々廻らすと雖も当表の公制厳にして本意を遂げず、春季いたずらに江戸に帰る。
また去秋海上亡失の書籍残り無く京都より到来す。
その外大部の書多く来たる。
これ芸州御前の芳志なり。
かつ予の本願の故に紺紙金泥の御経の地紙等の事了山に付し芸州の廉中に便達す。云云
春夏の間江府より便宜いよいよ繁し。
毎度丁寧の贈りもの称計すべからず。
かつ恵雄と詩文の往復絶えず、当所連句の会また繁し。

七月
配所始めて盆会を修す。
比来逐日寛宥の儀有り。
門を出で牆壁と藪の間を廻ることを許さる。
かつ牆壁を下げ狭間を開きまた二方の藪を除去して往還の道を眺望せしむ。

八月
島津飛騨守始めて入部、城中城外その慎み少なからず、諸人甚だ恐る。云云

十五夜
滂沱月無く私宅に於いて月見の粧い有り。
田村如雲等来たり俳諧有り。
比来論語下巻を講じ、かつ如雲、谷口惣三郎等の懇望に依って夜話のついで徒然草を講ず。
町田弥次右衛門等の数輩また与り聞く。
また領主の命並びに家老の頼みに依って神代の巻並びに職原開講の兼約、支度して時節を待つ。
また去年以来閑暇に築山を営み泉水を湛え、興を催し心を潔くするの助けと為す。

九月十四日
領主始めて新田の馬追有り。
その儀式もっとも厳重なり。云云

同十七日
午の刻領主私宅に入駕す。
対話時を移しかつ近日嘉招有るべきの旨を約して帰駕す。
予即刻詩を賦してこれを謝す。
頃日米良庄左、松本惣右出入りの役を替えて町田弥次、八代善兵二人を定む。

十月二日
未刻嘉招に依り始めて城に登る。
閑話食前方丈の馳走心を尽くす。
領主の外宇宿寿仙相伴松木十郎左、伊集院新右祗候挨拶す。云云
帰路鳰口を歴緩歩往還眺望もっとも興有り。
去年已来の鬱陶を散じ詩並びに小序を作る。
明日八代氏を遣わしてこれを謝す。
その後節々城より信有り。

十一月三日
領主家老を使いとして野僧の宅地拡充すべきの旨を告ぐ。
喜気津々、即ち明日普請奉行屋敷点検の為来たる。

十二月四日
山口権太夫、浅山治右衛門来たりて屋敷来春加倍の旨を告ぐ。

七日
嘉招に依り松木十郎左の亭に往く。
座間庭上風景これ多し。
わざわざ馳走を為す。
築山を営む。云云
閑話深更に至る。
予連句章句二箇三伯こたえ有り。
満座興に入り亭主和歌を詠ず。
翌日絶句二章を綴り松木氏に謝し、かつ和歌を酬ゆ。
他日また和の返歌を送る。
九日の夜ひそかに大坂帯屋長左衞門にあい閑話鶏鳴に至る。

二十二日夜
論語全部の講を終わる。

二十八日
領主より時服一領並びに蕨樽を賜う。
即ち使いを以て謝す。
頃日芸州の簾中より直筆の懇書資助並びに時服等有り例年の如く来たる。

二十九日
伊集院新右衛門より節分桜を送る。
和歌を詠じてこれを謝す。
およそ配流以後覆見する所の内外の教観漢和の書籍その数枚挙すべからず。
安心の助成、工夫の昇進、新得の法門等これを記するにいとまあらず。
当年著す所の詩絶句長編等三十余首。

寛文八戊申  四十三歳

正月朔日
暁天御祈祷経を拝し日待読経等例の如し。
礼者少なし、故に心静かなり。
学文始め、書き初め等を勤修し、かつ歳旦の詩を作る。

二日
礼者繁多、もっとも読経に障う。
今夜例の如く芸州屋敷祈祷の日待これを修し、かつ詩五首を作る。

四日
京都より便有り、新板の書籍等来たる。
電覧深更に至る。

十一日
帯屋長左回駕す。
本尊を竹筒にしたため入れて慧林院等に送る。

十二日
諏訪神主池田兵部、天下神主高山刑部始めて来たって神代巻の講を懇請す、即諾す。

十八日
山伏長泉院始めて来たり謁す。
つぶさに大峯に入る時六道経歴の粧い有るを語る。云云

二十日
諸禅門の懇望に依り註維摩の講を始めかつ夜に入って中庸の講を創む。
浅山氏等の十余人来聴す。

二十一日
神代巻の講を始め、領分の神主その外聴衆甚だ多し。
夜に入り慧雄より漢文及び詩到来す。
作意はなはだ熟し、かつ身延の日奠旧年逝去並びに金山抄板行の趣きを聞く。

二十二日
領主より使いを賜う。
明後晩嘉招有るべきの旨なり。
即諾し明日これを謝す。

二十四日
?時城に登る。
路次奇麗饗応丁寧、晩に及んで帰宅す。
明日八代氏を以てこれを謝す。

二十六日
私宅書院造営これを始めらる。
かつ隣の常念寺を他処に移し、予が文庫構造の地と為す。

二月朔日
寿仙和歌を送る。
即ち返歌をしたためてこれを遣わす。
かつ聞く、先月二十七日より晦夜に至り未申の方怪雲有り。

四日
加うる所の屋敷に文庫を造営し地形普請を創め、及び蓮池を鑿らしむるの分量これを定む。
(文庫は芸州屋敷よりの造作なり)

九日
樺山清右の嘉招に赴き閑話深更に至る。

十一日
領主落馬の痛み切なるを聞き寿命散を送る。
服用後痛みたちまち止む。云云

十三日
書院普請出来して移住し、領主の鴻恩を感ず。

十七日
江戸より便りあり、当月始め大回禄と聞く。
因って懐うに先月の怪雲はその先兆か。

二十六日
松木十郎左来たってつぶさに江府火事両日夜に及ぶの趣き、因って当屋敷また類火に罹るを語る。
江府参勤延びて七月に至る。

三月二日
樺山清右来たる。
明日発足江府に赴く故なり。
かつ慧恬還俗渡海給使妨げ有るべからざるの旨を告ぐ。云云

七日
花壇等を弄び両家老(十郎・新右)両奉行(弥次・善兵)を新書院に招請し、饗応閑談三更に至る。

十一日
松木十郎左の嘉招に赴き佳興催すに堪えたり。
夜に入って瞽者の音曲有り。

十三日
紺紙金泥一字三礼の御経を創書す。
(頃日芸州屋敷より地紙並びに泥等到来の故なり)
今より毎月四箇日御経日書写日を定む。

十七日
文庫普請成就。
夜に入り松木十郎左を文庫二階に接して宴を開く。
その間狐鳴を聞く。云云

十八日
京都より便りあって委しく芸州上下屋敷残り無く回禄と聞く。
重宝の銅蔵また消失し正宗銘の脇差し三十七腰、天下無類の後醍醐天皇の短冊等皆亡す。云云
昨夜の狐鳴或いはこの不幸を聞くべき先表か。

二十七日
雨天松木氏より木天蓼を送る。
折節今日立夏に寄せ旅衣の狂歌を贈る。
即ち返歌を綴りてこれを謝す。
狂歌往復再三に及ぶ、別章の如し。

二十八日
書籍を文庫に移し棟札を安置す。

四月六日
蓮池普請成弁す。
堤を築き芝を布き、池中に島を構うる等もっとも優興有り。
(心に期す、この島に番神堂を安置するを)
かつ橋を懸けしめ、蓮根を植う。

十日
松木氏日州平治記を持ち来たって見せしめかつ当十七日領主尋訪有るべきの事を告ぐ。

十四日
児玉弥市、田村伊兵来たって前栽並びに築山を治して苔を置き樹を植え眺望もっとも好し。

十七日
雨天未前花を立て床を厳り掃箒地を払う。
日の出の後領主来臨清談時を移す。
(具に儒仏の異論帰する所を弁ず)
饗応有り。
後段有り。
皆これ領主の賜なり。
午後駕を帰さる。
今夕普請奉行(山口権太・浅山治右)並びに両奉行を招き、明朝家老を饗し、明晩自余の肝煎り衆を呼ぶ。

二十日
比来有馬の湯に来たり今日より浴すること日をへ疝気微薄を覚ゆ。

五月朔日
同三日日待並びに巻数をしたたむること例の如し。

四日
洪水。

七日
江戸より便り有り、法義再発して浅草蓮昌寺籠舎等の事を告ぐ。
比来木脇見竹写書の為毎日来たる。

二十九日
徒然草を講じおわる。
(去年八月二十五日よりこれを始む)
旧抄の外新得の義これ多し。
またはなはだ道志を助くるを覚ゆ。

六月十二日
新造船を池上に浮かべ島を巡り数返す。
また池上に床を設け晩来たって暑を避く。
かつ懸樋を設け水を灑がしむ、はなはだ興あり。

十三日
江戸より便りあり、つぶさに江戸城下に残る所の六箇寺追放及び惣滅の趣きを知る。
悲歎窮り無し。
自昌院殿心地改まらざるの旨自筆を以て懇呈、かつ自ら我不愛身命但惜無上道の文を書し、その名を記し誓いの験を顕す。
比来節々大雷。

十六日
領主来臨す。
閑話に時を移し帰駕す。
明後日発足参勤の故なり。

二十一日
京より便り有り、事文類聚等来たり、かつ始めて金山抄を見る。
数日の間周覧す。
可有り、否有り。
他日批判を加えんと欲す。

七月十五日
解夏盆会を修する等例の如し。
比来修禅院日観等の訃音を聞く。

八月二日
五輩(松木十郎左、伊集院新右、町田弥次、浅山治右、藤井清左)来たって周易乾坤二卦の講を懇望す。
止むことを得ずして諾す。

五日
孟子講を創む。
領主飛州より着府の書札到来す。

六日
京より便り有り、舎兄正庵去月十四日越前に於いて逝去の訃音を聞き感傷言葉を絶す。
即ち今日より七日を限り毎日三時の読経廻向。
来客に逢わざること、十二日に至る。
その後書をしたため京越前に遣わす。
比来弔いの為来客もっとも多し。

十三日
家老三人より忘憂物を贈らる。
如雲等と数盃を傾く。

十五日
夜に入り田原勘右、金丸三伯等月見の為来たる。
霄陰ると雖も後晴れ明らかなり。
三伯詩を和し、歌俳諧を詠ずる等夜半過ぎに至る。
甚だ鬱気を散ず。

九月五日
周易の講を創む。
(日安忌中に因って延引今日に至る)

八日
江府より便り有り、法義少しく緩やかなり。
然りと云えども去るころ上総了玄院並びに利貞等籠舎すと聞く。云云

十三日
月もっとも清明。
独り月光に対して詩を作り歌を吟ず。
(比来の詩歌予詩集開けて載せざるものこれ多し)

十五日
伊集院新右衛門の嘉招に赴き、かつ易図大旨邵子加倍の法等を談ず。
松木氏三伯等座に在り。
また新右家伝の源氏抄等を電覧し、少々借用して帰る。
夜三更に及ぶ。
明日詩を作り歌を詠じてこれを謝す。
新右返歌有り。
頃日町田弥次より源氏の聞き書きを借用す。
もっとも源氏の処々を勘うるに便なり云云。
晩ころ田原久右衛門同姓勘右と口論し、久右忽ち勘右を殺し検使を受け切腹すと聞く。
比来野亭に於いて節々連句会有り。
或いは一巡箱を廻らす。

十月二十七日
両奉行(松本惣右、町田弥次)を以て始めて法華講談千座宿願の愁訴を企つ。
明日家老の酬答にいわく、この事私に決し難し。
重便に訴えの趣き領主に達すべし。云云
また向後城下の近所野僧の徘徊妨碍有るべからざる旨を告ぐ。
(近頃領主より許容の便あり)云云
その後法華講釈願望の趣きを漢文一章にしたためゲイ語問答と号して家老中に達す。

十一月二日
また松木十郎左の招請に赴き、三伯と連句夜に入る。
田村伊兵、酒匂隼人(後に池上権左衛門と号す)謡い数番有り、興を催す。

十二日
諏訪拝殿に往き天下の神舞を見る。

十四日
維摩聴衆私宅に於いて饗応を設く。

二十一日
周易坤卦を講じおわる。

二十六日
江府及び京より便り有り、芸州簾中梅嶺寺旧地に普請を構え、嘉運等移住す。
かつ日台の訃音を聞く。
また予日安追善の為白紙銀泥の御経を写さんと欲す。
地紙今日京より到来す。

十二月三日
古文真宝の講を創む。
当年仮閲する所、講ずる所の書の外、楞厳宗鏡その外碧厳等諸禅録、杜詩東坡等の諸詩集及び歌書等勝計すべからず。
神代巻夏末全部の講成就す。
また節々有馬の湯を用う。
疝気疥癬等治功験有り。
著す所の詩文甚だ多し。
徒然草の講去年八月二十五日濫觴、今年五月二十九日成就。
中庸当年正月二十三日、権与六月二十一日成就。

寛文九年己酉

正月朔日
暁天御祈祷経を拝し日待終日読誦等例の如し。
また当年より三長齊月禁酒、年始の礼者有りと雖も堅く酒扈制止人事半止み心裏はなはだ潔し。
試筆の詩等並びに三日の日待例の如し。

七日
浅山氏等の詩に和しおわる。
また松木清貞江府に赴くを贈るの詩を作る。

十一日
清貞発足駕を私宅に枉げ、懇ろに離諸を述べ、閑話に時を移して去る。
また江府に遣わす若干の状多く絶句を以てこれに代う。

二十日
維摩及び古文を講ず。
かつ比来金山鈔を見て評破を加う。
また看経のついで必ず涅槃経、御書、三大部肝文等を読書す。

二十九日
江府より便り有り。
慧恬形を俗男にかえ山口新助と号して去冬霜月既に江府を発足す等。云云

二月四日
予病気に依り朝の勤行を欠く。
三伯の薬を服すと雖も相応せざるに依って両奉行に託して始めて玄信の薬を服しようやく快気を得。
善四郎また病床に伏す。
故に角兵衛等来たって給使す。
病中事文類聚中峯広録帰元竹窓楞厳等を見、かつ朝夕の勤行を欠かさず。

十三四日のころ病気平癒、涅槃会を勤修する事例日の如し。
病中吟長編を作る。

十七日
伊集院新右来たって快気を賀す。

十八日
山口新助来着す。
中心欣然。
即ち両奉行に告げてその趣きを家老に達す。云云
委しく江府の体たらくを聞き、閑に数十通の書札を見る。
連々返書をしたため江府に遣わす。
また自昌院殿自筆紺紙金泥の法華経を当便に託し渡海、開眼写題奥書等の事を懇望せらる。
三四日の間行学講釈の暇、都鄙に遣わす勧発唱題の本尊首題等をしたたむ。

四月十四日
白紙銀泥の御経を写し始む。

十七日
島津大隅守当所に到着す。
狭間よりひそかに行粧を見る。

五月朔日
三日日待、巻数をしたたむる等例の如し。
かつ長編を慧雄に送る。

八日
村上三太夫来話、かつ予の筆力を頼み倭語を以て洞山和尚母に贈る文並びに母の返詞を訳せしめんと欲す。
予諾し他日訳して遣わす。
かつ江府諸屋敷の留守居役を集め諸国不受不施法度の号令有るを聞く。
頃日芸州屋敷よりの書中不受の僉議まさに遠国に及ばんとするの告げ有り。
首尾轍悲傷ことばに絶す。

十三日自昌書写の御経の外題奥書をしたため開眼また成る。
また頃日発心即到記草案成就。

二十五日
領主飛州帰城。
即ち便を以て祝詞をのぶ。
江府数通の文到来、いよいよ総滅の趣きを知る。

六月八日
家老より両使を以て新助善四郎両人在住の儀壁書に背く故に成難く、善四郎近日帰府然るべきを告げらる。云云
予即ち許諾、これ当地拒難の始めなり。

十日
日習師の十七回忌を迎う。
故に昨来一向読経、今朝今夕少々客を招く。
かつて慧林院に約し京都に於いて僧衆若干を集め法華を修せんと欲す。
(法義違乱に依り重ねてその義を止め慧林に法華停止の旨を告ぐ、かつて違す所の金子を直に物本屋に達せしむ)

十一日
発心即到記清書成る故したためて巻物函に入れ自昌院殿に遣わす。
巻数箱と共に郡司庄之助の便宜に随ってこれを遣わす。
また頃日樺山氏と上田氏と相論の事これ有り。
既に事に及ばんと欲すと雖も主膳右京の異見に因って事無し。
また山伏長泉科有って逐電。
また書籍虫払い例の如し。

七月十五日
解夏盆会恒例に同じ。
当夏つくづく金山抄を見條を立て誤りを評す。
また新助三業不如法に因り時々これを呵しこれを制す。
彼怨恨を含む事気色に顕ると雖もこれを宥む。

二十七日
大坂より便り有り、京都妙覚出寺衆一同新受に帰伏するの大変を告ぐ。
驚動悲歎得て言うべからず。

二十八日
江戸より便り有り、日明日純等芸州簾中に託し籠土番神堂に於いて改悔の作法を勤め、かつ京都日精彼の徒改悔を遂ぐる上は和睦妨碍有るべからざるの指図に因り、簾中並びに慧源院友源観也存道英然等を始め皆既に和す。
かつ谷中等に改悔の一札有り云云。
相続いて都鄙一同の法滅を聞き中心穏やかならず。
累日工夫の上小児問答の草案をしたたむ。
(後またゲイ語問答と改名す)

八月五日
善四郎発足江府に帰る。
路銀並びに衣服等を遣わす。
この便まず略書をしたため和睦是非の義を決せず、後日の便に譲る。

八日
新助法義の心地定まらず、かつ奥師を軽蔑するの科に依り呵責を加う。
彼そのついでを幸いとし頻りに暇を乞う。
明日町に赴き不義多しと雖も枚挙するにいとまあらず。
(彼兼ねて奉公退屈の砌幸江府法義の変に依り急ぎ辞去する事後日分明に露顕す。
 両奉行等またその趣きを知る)云云。

十日
大風洪水床を浸さんと欲するに及ぶ。

十三日
当処より飛脚江府に赴く。
その便両奉行より文をしたため更に善四郎を呼ぶ。
(新助月末発足)

十五日
如雲等来臨月見の興を催し、かつ詩を作る。
城中また今夜詩歌の会有り。云云

十六日
江府より慧雄等の書札到来し分明に日明日純の謀計簾中を誑かし程なく改悔の一札を取り返す等の義及び嘉運邪謀等の旨を知る。
早便を得て不通状を遣わさんと欲す。
かつ三太夫城に於いて状を開きまさに達せんとするの非有り。
予その不義を糺明し彼陳謝に依って事無し。

十七八日
自昌院と不通せんと欲するの文案並びに友源嘉運等五人連署能破の回章をしたたむ。
また一宗通塞記の條目を作る。

二十五日
自昌院並びに五人及び京都日精に遣わすの状を清書しこれを遣わす。
かつ新助町屋に滞留し血判の起請をしたため今般世義につき貴命に違うと雖も永く師の法義を守るべきの旨松木氏を以て愁訴し、かつ取り返す所の予の慧恬に授与する本尊を懇望す。
故に止むことを得ずしてこれを遣わす。
(後日首尾合わずして直に芸州屋敷に赴くを伝聞す。方に彼の欺誑無実なるを識る。
 また日習述する所の権実決議諫意能破並びに予の詩集草案等を偸み取りて去る事頃日始めて知る)
比来角兵衛並びに善之丞伺候して給使を勤む。
また野久尾小牟田七兵衛の息来たって侍す。云云

九月朔日
日待例の如し。
既に芸州簾中と通用せざるの故三日恒例の日待並びに巻数をしたたむ等の事を停止す。

八日
領主より三重の杉重を送らる。
比来臥具及び衣服等或いは三太に託し、或いは松木氏に頼みて估却す。
芸州屋敷と通ぜざるに因っての故なり。

十三日
夜池辺に出で久しく心を澄まし詩歌数首を吟詠す。
比日当年の著述を点検するに長編数通律詩絶句百首に近し。

二十二日
江府並びに京より便あり。
例年の資縁衣類等急にこれを返さんと欲すと雖も三太しばらく留めて善四郎来臨の便を待ち、実否を究めて後返納然るべしと言うに因りまずこれをさしおく。
去るころ京都鷲山院孟秋念二日逝去の訃音を聞く。

十月二十日
嘉招に依りて?時城に登る。
領主給使丁寧の馳走、かつ懇望に依り徒然草の三段を講ず。
(儒釈道の異並びに宗義法門等つぶさにこれを談ず)
夜に入り囃六番あり。
(芦刈、立田、松風、羽衣、海士、高砂)囃の内領主深切の閑話あり。
 夜半帰宅。暫時仮寝大雷動あり。
明また終日雨天雷また止まず。
詰朝詩をしたためかつ囃について狂歌五首を綴り八代氏を以て領主に謝す。
(冬時の雷電夭怪と謂つべし)

二十四日
また雷電、かつ善四郎江府発足の便りを聞く。

二十九日
数輩の懇望に依りまた周易を講ず。
(屯卦より以下)
頃日領主の母堂到着について松木十郎左供奉帰宅す。
私宅に来たりつぶさに芸州屋敷法義の趣き並びに嘉運の巧言等を語る。云云
法義違乱既に分明なり。
故に即ち資縁衣類等松木氏に託して返納す。

閏十月二十三日
兵庫より酢、備前より白藻を贈る狂歌を詠じてこれを謝す。

十一月六日
領主の母堂鹿児島に赴き松木氏供奉す。
駕に寄り閑話。
かつ伊集院権九郎の訃音を聞く。

二十三日
善四郎到着す。
芸州屋敷の義につき珍しき事を語ると雖も敢えて諾せず、文を披きようやくその趣きを知る。
要を取ってこれを言わば、簾中と谷中等との和融は世間の儀に限り仏事に渉らず。
還って彼の徒の嗷訴を止むるの善巧なり。
かつまた去るころ簾中家老中に愁訴して懇ろに日講を以て芸州に預けらるべきの趣きを達す。
その後稲葉美濃守より同姓丹後守を以てほぼ事成るべきの旨を示さる。
その口上にいわく、御赦免の儀は成り難かるべしと雖も広島預け替えの義相違有るべからざるか、きっと興行有るべし等。云云
然る処日講違却の儀有るを慮らず、首尾不合公庭に陳報する所無し。
よくよく思惟の上その回章を期す。云云

二十五日
松木氏村上氏来たって閑談を遂ぐ、予両人をして屋敷よりの状を披見せしめて相談の上、重便予が懇望の趣きを回章に呈露し、その返詞を待って通不通を究むべきの趣きを決帰す。
この後漸々回章をしたため、かつゲイ語問答を再治す。

二十六日
富田六兵衛始めて来謁す。
即ち松本惣右衛門の替役なり。

十二月三日
巻物見竹清書の事成る。
即ちしたためて函に入れ野札を添え三太に送り便を待って江府に達せしむ。
(かつ善四郎より局長野に遺す所の状松元七兵衛を雇いて調えしむ)

七日
鳥鼠論弁(新受能破)の草案を創む。
数日首尾見竹をして清書せしむ。

十五日
累月積む所の読経部数を調う。
今夜日待かつ金山指南を編み立てんと欲す。
故に向後詩歌を滅せんと思う。

十六日
破奠記草案を創む。

二十日
領主より加勢銀を送らる。
(これ芸州屋敷と矛盾有るに依って当位不如意の義領主の聞に達せらる故なり)

二十五日
領主より呉服一領代を贈らる。
(これ即ち例年の祝儀)

二十六日
破奠記成る。
改題して宗門光顕志と云う。

二十七日
書籍次第を調う。
今日下僕(長作)一人暇を遣わす。
これ即ち両奉行等と相談の上来年より一僕を減じ、その給銀を勝手に加えて助成に為さんと欲するの支度なり。
孟子の講当年六月七日に至り二冊を講じおわりまず止む。
先月十九日慧雄の文来たる。
まさに知る、受不施と成り中村談林に移ることを。
文有り詩有り。云云
はなはだ驚動すと雖も観念を凝らし二念を継がず。
(慧雄長江と改名)

寛文十庚戌  四十五歳

正月朔日
暁天御祈祷経を拝し日待並びに書き初め学文始等例の如し。
また試筆の詩二首。

四日
以後金山指南草案をしたたむ。
また詩歌を綴り田原勘右衛門新名爪の蟄居の処に遣わす。
(旧冬小事に依り退身寺に入る)

九日
以後見竹をして宗門光顕志を清書せしむ。

二十八日
夜に入り清貞来たって円覚注惣釈十段不審の條目を問う。

二月四日
村上三太夫領主の勘当を蒙り知行及び家屋敷を没収せられて富田に蟄居す。
是非の義批判するにいとまあらず。

七日
使いを三太夫に遣わし慰問す。

十二日
詩を藤井に贈り、歌を八代氏に遣わす。
比来毎便芸州簾中法義いよいよ違乱するを伝聞す。
また三太夫事故有り、
向後江府の藤井栄俊等に遣わす書札往復の儀清貞に託す。
彼人快く許諾す。

二十七日
樺山清右、町田弥次、松本惣右、三伯等暇乞いの為来たる。
近日領主江府参勤の故なり。
田原勘右衛門今日赦免帰宅。

二十八日
領主暇乞いの為来たる。
即ち諷詩を作ってこれを謝す。
かつ行を送るの詩をしたため三伯に送る。

二十九日
領主出駕。
晦日上山彦右衛門始めて来たり謁す。
即ち八代氏の替わりなり。

三月三日
狂歌を綴り清貞に送る。

四日
夜に入り清貞、勘右等来臨し酒宴を開き、狂歌秀句謎等の興有り。

五日
江府の栄俊並びに随光より状来たり広島簾中邪義いよいよ盛んなるを承知す。
また日述日浣予と同轍にて簾中と通ぜざる旨を聞く。

十五日
清貞、三角作太夫等来たって閑話共に隠見録を見る。

二十五日
清貞作太と一樽を持ち来たって慰問し、かつ円覚経不審の処を尋ぬ。

二十七日
松元氏饗応を作し、富田氏上山氏と諏訪の拝殿に遊び佳興に時を移す。

四月二日
註維摩全部を講じおわる。
戊申正月二十日より講を創め今日に至るおよそ九十一座。
聴衆清心宗順是誰等の禅門祝儀の開宴有り。云云

四日
松木清貞の嘉招に赴く。
雨天法話深更に至って帰る。
相伴壱岐道意祖伶座に来たって始めて謁す。

五日
楞厳経の講を創む。
(子●注興禽解双講)
別に清貞並びに作太の発起に因る。

八日入夏。
当年より厳密に夏を勤め大用に非ざれば誓って土を覆まず。

九日
京都より書籍到来し幸いに楞厳の末書等数通到来す。
日々朱を加え或いは首書す。
また宗鏡録を覆検し新たに得るところこれ多し。

二十五日
江府の広島屋敷より便り有り、予が望む所の京都日精等と不通の義領掌せざるのみに非ず詐って芸州より制止せらるるに依って巻物等簾中に披露することあたわざるの旨を告ぐ。
則ち慧雄よりしたため越す所の習師御書抄を抑止してこの地に達せざる故を以て善四郎在住の儀また隔心無きに非ず。
かつ節々善僕心地の不足を呵す。
彼堅く不通を欲すと云うと雖も後日測り難き故連々これを試む。

五月五日
村田角兵詩を送る。
即ちこれに和す。

十日
江戸より便り有り、栄俊並びに伊集院忠兵衛より心を善僕に容すべからざるを示す。
また簾中の鬱憤いよいよ強く清法の徒を障えらるるを聞く。
予かくの如き転変は悪鬼その身に入り、或いは本心を失うの致す所と察し、還って悲歎を催す。
去るころ去秋送らるる所の書中並びに音物遅達の故また松木氏に託して返納す。
その便野僧の詠歌並びに仮名の前書きこれをしたため、かつ教誡を加え今生の暇乞い来世知遇の因縁に擬す。
然るに予もし法義の穿鑿を疎んじて広島預け替えの趣向に動ぜば今生の安楽在関の時と異らざるべし。
堅く拒んで敢えて顧みざる事もし武夫に比せば再会鎗を突くと謂いつべきか。冥衆豈に照覧せざらんや。

六月朔日
重聞記に依り科を会解に入るる事を創む。
比来法門の大義を夢見る事これ多しと雖もこれを記するにいとまあらず。

二十八日の暮れ
たちまち松木清貞卒中風に依って息絶え療治験を失うて終わると聞き感傷骨に徹ししばらく途方を失うに似たり。
終夜寝ねず、かつ歎じかつ廻向を修す。
一両日愁鬱止まず食を減ずるに至る。

二十九日
頌を作って追薦に備えかつ倭歌を詠ず。
二十七日の内友人追悼の詩歌等これに和す。
また尽七に至るまで毎七日頌を作って廻向す。
楞厳の講釈まず止め、かつ如転の名を加えて本然の道号を贈る。
また追薦の為盆後十不二門の講を期す。

七月朔日
三角氏来たって細やかに如転逝去のていたらく等を語る。
かつ大光寺下火の句等を見せしむ。

四日
作太来話し玉堂詩選哀傷の下を見せしめ、かついわく、向後万諸内談等如転に替わらず敢えて隔心無く申談すべし。云云
また江戸栄俊等往復取り次ぎの事如転存生の内かつて田原氏に譲る故に相違これ無し。

十五日
盆会修する事例年の如し。

十九日
如転追薦の為十不二門指要抄の講を創む。

二十二日
大坂より便り有り、光長寺英然と往復の文を送り委しく英然法義いよいよ正路ならざるを知る。

二十三日
三島平助如転追悼の詩二首に和す。

二十七日
暮れ方諏訪に赴き祭粧を電覧す。

二十九日
善僕不義の事有り、道理を以てこれを呵す。
彼何々逆心を挟むを以ての故にこれより供給を為さず。
追い出さんと欲すと雖も三角氏田原氏並びに両奉行と密談の上まずこれを宥恕し連々他をして異見を加えしめ給使本に復するの後少しく時節を経て首尾よく帰府せしむるの次第もっとも然るべし。云云
即諾してその趣きに任す。

頃日三之允(六助弟)来たって近習の役を勤む。
その後日数を送り米良庄左異見を善四郎に加えらる。
彼屈伏して給使を勤むる事初の如し。
よって取り返す所の本尊またこれを与う。
頃日節々指要鈔を講ず。

八月九日
また楞厳を講ず。(清貞死去の故懈怠今日再興す)

十五日夜
畳を東椽に敷き明月に詩歌を詠吟して深更に至る。
時彼岸に当たる、禁酒の故に客を招かず。

十六日
如転追悼二七日より今日尽七に至るの頌並びに昨夜の詩歌をしたためて三角氏に送る。
比来見竹節々来たり滞留して抜萃の書を勤修す。

九月朔日
日待例の如し。
かつ去月二十二三日大坂大風洪水希代の事を聞く。

七日
諸生の懇望に依り書経の講を創む。(第七巻より)
比来薫聞の科を会解に入るる事怠り無し。

十三日
私宅月見田原氏如雲等来たり俳句の興を催す。
予盃を傾けずと雖も客の酒興を許す。

十五日
夜に入り両奉行と将監の宿に往き高座を構えて神舞を見る。
帰宅両奉行閑談に時を移して去る。
また傾日高橋氏に林尭叟を借りて左伝を勘うるの助と為す。

十九日
松元氏来語す。
大坂先月の風雨死人三千六百人。
船の破損七千七百余。
流亡の家数勝計すべからず。云云

二十日夜
夢に富士山並びに田子の句を見る。
他日自ら上句を補い或いは人をして前句を綴らしむ。
別書に記するが如し。
また去るころ備中庭瀬より寿徳院の状来たる。
有信世雄院取り次ぎ。云云
他日返書をしたためて遣わす。

十月二日
夜に入り勘右、如雲来たって俳諧を催す。

六日寿仙来たって閑話。
歌、連歌等の事夜に入る。
郡司八郎右衛門盛政先日夢想の前句を附して来たる。
かつ俳諧を催す。

七日
寿仙夢想の附句並びに月発句の脇を送り来たる。
吟賞少なからず。

九日
夜に入り盛政連歌二通の次句を持ちて来たり、また如雲、七兵、惣三郎(後に一才と号す)等来たり俳諧深更に至る。

十日
職原の講を創む。(兼日家老より内証の頼みあり)
発起頭河野弥太夫その外三角氏等与り聞く。
かつまた比来源氏物語の巻次を追いこれを閲す。
この後町の立雪等節々来たって俳諧を催すこと枚挙するにいとまあらず。

二十二日
山口権太去るころ殺生禁断の日を犯し閉門、今日無事にて収まる。

二十八日
米良庄左饗応を私宅に設け、比来毎夜源氏を聞いてようやく半程に至る。

十一月二十三日
日漸の十七回忌を迎えて勤修し、かつ頌を作って霊前に供え、和歌三首を詠ず。
饗応上下数十人に及ぶ。

二十九日
世雄より新受述する所の三田問答を送る。
即刻周覧するに理を曲げ非をかざる。
これ文恕(感応寺当住)の筆跡なることを推知す。
他日評破を加えんと欲す。

十二月三日
妙行一周忌少しく饗応を設く。
頃日三田問答の評破條箇をしたたむ。

十三日
家老より例年の加勢銀並びに呉服代を送る。

二十二日
江戸より便り有り、内々望む所の上方奉公人招き呼ぶの儀調い来たる。
頃日三之允暇を乞うて去る。
その代わりとして新名爪源右衛門の類族源十年中を約束し供給を勤む。
月迫り源右衛門また暇を乞いその代わりに新名爪伝助来たって採菓汲水の役を勤む。
かつて一僕に定めんと欲すと雖も事足らざる故に去年より源右衛門或いは時助を加う。(両人三太に候せず)
また周易の講釈六月二日に至ってまず止む。(山卦大過に至る)
書経の講釈二冊成就。

寛文十一辛亥

正月朔日
暁天御祈祷経を拝し及び日待学文始め、吉書始め等例の如し。
かつ歳旦の詩を作る。
礼者もっとも多し。

三日
謝礼の為善僕を諸方に遣わす。

四日
奉公人の儀につき書札をしたためて大坂に遣わす。
当月しばしば諸生和韻の詩を作ること例の如し。

十八日
三角氏に託し大光寺所持の七部録頭書を借用し時々これを見る。

二十七日
円覚経の講を創む。

二月朔日
また日芳の十三回忌を迎え勤修す。
かつ当初江戸谷中感応寺の経蔵に在るの時七回忌を迎え述師等を招請するの粧いを懐いて感慨すくなからず。
かつ頌を作り歌を詠じて志を寄す。
饗応例の如し。

二十日
三角氏より定州述ぶる所の諭儒の歌を送る。
予その韻をつぎかつならべて儒禅を破し他日三角氏に送る。
比来諸生の懇望に依り漢和数百韻これを修治す。

三月十五日
私宅に於いて漢和の会を創め予正句を綴り盛政脇を和す。
比来俳諧興に乗じて希に会有り。云云

二十九日
十不二門指要鈔の心解を講じおわる。
都合三十五座。

四月十日
首尾よく善僕を江戸に送る。
路銀等家老衆より来たる。
彼辞去に及び落涙止まず。
予また感慨無きに非ず、これ惻隠の心期せずして催すなり。
かつ彼再来を期して去る。

十二日
起信論の講を創む。

二十三日
三角氏来話江府雅楽頭亭に松平陸奥守家老原田甲斐守と伊達安芸守と相論の事有り。
甲斐たちまち刀を抜き安芸守を斬殺し、その外深手を町奉行島田氏等の諸人に負わせなお家中に向かわんと欲する時諸士鎗を以て甲斐を突き殺す。
屋敷門外騒動度無し。
酒井河内守の謀に因り騒動即ち止む。
諸人褒美す。云云
これ希代の珍事なり。

五月四日
平田道活私宅に通い筆工を勤むる儀相調う。云云
およそ近年見竹抜萃する所の御書三大部宗鏡録華厳等通鑑網目周礼等ようやく百巻に及ぶべし。
彼気力衰減し伺候成り難きに因って向後道活を呼ぶ。
然りと雖も時々写物を見竹の宿に遣わす。云云

六月五日
領主飛州帰城。
明日使いを遣わし祝詞を伸ぶ。
当便栄俊等より細書来たる。云云

七日
領主より使信有り。

九日
樺山清右来たり閑話す。
かつ慧恬偽って芸州屋敷等の使いと成り東叡山訴訟の相談と称する故に止むことを得ずして対面を遂げらる。
後まさに我はこれ新助と名乗り誑惑等の儀に及び共に拍手して笑う。

十一日
松木左門来たり閑話し如転の弔いを述べ共に感歎を催す。
かつ予丁寧の追善を修するの儀を謝す。
また堅く向後如転に異ならず内外につき所用を弁ずべきの趣きを約す。云云
また八代善兵衛江戸より状を送らる。
その中に善四郎法義を立つるの旨有り。云云

十七日
領主より使い有り、熟瓜を賜う。
頃日富田三太夫予の新華厳を借用す。
予またこの便りに因り華厳を熟覧し、かつ首書を加え過半に至る。(後聞く活眼華厳一覧を望まるる故なり)

二十八日
大坂より便り有り、善僕江戸より帯屋久左の所に来たり、当地一左右を待って渡海せんと欲すと。云云

七月朔日
両奉行等を集め善僕の渡海を免すべきや否やの儀を相談す。
その決帰の趣きは善僕の志実否測り難し。
その上上方奉公人の儀すでに調うの上は善僕来たって詮無し。云云
予また相談の趣きを諾し便次第渡海を止めんと欲す。
この後一説有り、善僕の渡海は芸州屋敷と内談の上外に不通の儀を作す。云云
また当初善僕の伯父に託して遣わす所の栄俊の状等ついに達せざるの趣きこの後露顕す。
これを推するに栄俊等に遣わす所の状却って芸州屋敷に達すべし。信に依って当地渡海の相談調わざるの儀を知る。これ仏加。また頃日学雄死去の訃音を誤聞し饗応を設くる有り。後日燕説を聞きまさに一笑を発す。九日起信論註疎全部成就す。都合四十六座。かつ講釈の内釈摩訶衍論合覧、三師釈朱を加う。開解鈔に首書等を加う。十五日解夏盆会を修する等例の如し。十八日善種院妙務(野僧姉慧雄母)二十五回忌を迎えて勤修す。頃日上山彦右来たって領主私宅に来臨せんと欲するの趣きを告ぐ。予粗法華講釈の訴訟調うべからざるの趣きを伝聞す。またこの慣閙の処を避け閑処に蟄居するの訴えを企てんと欲し、彼これ言端不快の趣き有るべきを恐慮し、ほか余事に託して領主来臨延引の儀を請う。彦右諾して帰る。

八月二日両奉行相談の上初めて屋敷替えの訴訟を企つ。七日大坂より便り有り。日養立雪貞遠並びに長谷川源左等並びに備中巻舒(後覧照院と号す)等の状種々転変の趣きを告ぐ。また亡魂数多を聞き感傷些からず。九日飯後領主入来閑話して帰駕す。十五日作太来話し勧めに依って忽ち良夜長吟を作す。夜に入り大雨、一心看経の内藤井氏日高氏等酒肴持参興に乗じて詩を作り深更に至る。二十一日八代氏(近日江戸より帰宅)酒を送り客を招きて賞翫しかつ女人の門内に入るを禁じ、また酒を飲む毎月五箇日に限るの制を定む。比来伊集院忠兵衛江戸より帰宅し内証懇意の趣き如雲を以てこれを伝う。

九月二日夜に入り大坂深水治兵衛来話時を移す。三日領主鹿児島より帰城(先月十九日出駕)かつ江戸よりの状勘右より達す。長江無事中村堪忍学文秀発の誉れ有り、覚前渡海を志す等の趣き有り。云云 五日領主より泡盛一壺を賜う。当月酒を禁ずる故諸方に頒ち遣わす。九日両奉行来たって出入り人数の名帳を定む。領主の命に依る。云云 また道活比来退屈希に来たる故にこれを止む。明日より見竹また来勤す。十四日初入の人的庵等(後祖伶と号す)来謁す。晦日伊集院忠兵衛初めて来たり閑話時を移す。

十月三日職原の講釈成就。四日孟子講釈を再興す。(離婁以下) 五日夜に入り古今序の講を創む。かつ当月より常番両人を定めらる。十一日浅山氏来たって仏法の大意を問い、かつ談ず。彼よく心得て来たる。

十一月十三日紺紙金泥の写経成就。一字三礼これ未だ進まず連々これを補す。二十日富田嘉右衛門の息左伝次奉公の為始めて来たる。(左門の興力なり上山彦右肝煎り)

十二月二日領主の嘉招に依り城に登り、かつ彦右と始めて弁才天山に登るに眺望刻を移す。嘉興言に絶す。云云 領主奔走始めて島津主膳に遇う。相伴渋谷監物等甚だ酒を強いらる。予領主牛を殺すを好まるる一の非を誡む。よく諾し初更帰宅。明日詩二首を綴りてこれを謝す。かつ彦右を主膳に遣わし昨日馳走の一礼を述ぶ。十日町の七兵衛大坂より帰り来話す。かつ京都辻藤兵衛時義違却等の趣きを告ぐ。これに依って向後京都と不通せんと欲す。また藤兵衛払い方の銀を七兵に託しかつてこれを遣わす。七兵来たって請け取りの一札を取らず、故に心甚だこれを疑う。二十七日領主より時服一重を送る。(当来より一箇を増す) かつ明日より来たる正月九日に至る客に逢わざるの式を定む。比来円覚楞厳書経孟子周易古今等を講ず。また華厳及び羅山文集を見る。往々朱を加う。また写経三礼の余残往々これを補う。