尭了状能破條目:1(日講上人)
一、彼の状にいわく、当時流僧は不受の随一なり。 礼法を云わば国は両師の義に相違す。 定んで道理有るべし。 これを尋ね究めてその上に取り捨て候わんと申さるべし。 何ぞ直に国の法式を信敬して此方の義を軽賎するや。 これ礼法を知らざる謬なり。 已上 破していわく、これ甚だ自慢軽他の筆跡なり。 たとい流人所立の義たりと雖も古来の格に違せば何ぞ信用するに足らん。 流人の中にも浅学非器の類相交えて流人となれる故に世間よりも貴し。 その身も濫りに聖人に混同するは眼前の事なり。 その上備州は本信国にして別して典師奥師の規矩を守れり。 然るに典師奥師の法式の筋目、奥師の御筆跡に顕れたる事著明なり。 右相似の謗法を誡めて、京都蛸薬師の前にて日天子を礼拝せる者を脇より見分け、薬師を拝むに相似たりとて謗法に落とし改悔せしめたり等の例を引いて、受不施の他宗に混同せる誤りを破し給えり。 況や信謗雑乱して法義与同する事を許し給うべけんや。 また近くは日述日浣等堅く清濁二派の雑乱を誡められたる事丁寧なればその旨を守り来たれる国法なり。 同じ流人の中に日述日浣等は先哲に世間にも許せる人なり。 日尭日了は後番末学にして当初世間に名を知る者は希なるほどの人体なり。 然るに身の程も顧みず、流人の名を衒売して新義を建立し、愚俗を勧誘せらるる事、もし傍若無人に非ずんば知らず、これ名利己を責むるならん。 一、 彼の状にいわく、内心清浄の方へ遣わす御本尊拝せずと云う事、これを拝すれば謗法となる故に拝せざるか。 また能持の人濁法なれば御本尊も濁り不浄なる故に拝せざるか。 もし謗法と成ると云わば授与の僧も謗法人なるべし。 何ぞこれを難ぜずしてただ御本尊を難ずや。 謗法となる御本尊を何ぞこれを口入れして所望し遣わすや。 已上 破していわく、濁法の徒内心清浄なりと雖も外相既に他宗にして謗法の人なる事治定せり。 清浄の徒濁法所持の本尊を拝せば何ぞ謗法と成らざらんや。 その上能持の人濁法なれば所持の本尊も濁るべき事必然の理なり。 然るを拝すれば謗法となるかと云い、或いは能持の人濁れば本尊も濁るやと糺明せるは、却って愚問なるに非ずや。 今法義の誤りを糺すに略して三條を挙ぐ。 一には人法一致の格式に背く、行者すでに信力を退転し途轍を替えて外相他宗に同ずる時はその人すでに濁れり。 たとい内心清浄なりと云うとも、所感の本尊何ぞ一向清浄の行者の所持と同じからんや。 もし人には清濁ありと雖も本尊の功徳は同等なりといわば忽ちに人法乖角の過を招く。 二には四句の立法に違す。 四句を云わば内浄外染、内染外浄、内外倶浄、内外倶染なり。 この四句の中の第二は今の所用に非ず。 第四の内外倶染は他宗受不施等なり。 第一の句と第三の句とすでに分明に各別なり。 もし混同して論ぜば四句を知らざるの失あり。 三には吾宗本色心の中には事を以て要と為す。 約束に背き兼ねて天台宗謬解、受不施の邪見に同ずるの失あり。 およそ台家権実雑乱して今昔の起尽をも分かたず、濫りに念仏題目功徳同等の見計を起こす事、源後心了達の真似をして法界平等の内心理観の近くになずむ謬より起これり。 これに依って吾祖初心後心の規矩を分かちて、初心の行者色法を以て面とし、事相を以て肝要とする義を建立し玉えり。 譬えを取ってこれを言わば内心に何ほど主君を大事に思う忠節を含むと云えども、外相主君を軽蔑する緩怠の咎あらば主君の勘当を蒙るべき事疑いなく、またたとい内心はさせる忠節こまかの意を懐かずと云えども外相正しくして主君の命令にも違せず、能く給使し奉公を勤めば主君の褒美に預かるべき事歴然なるが如し。 然るに今事相他宗に同ずるは公儀晴れての事、内心清浄は一己私にして隠密の義なり。 然るを内心に目懸けて清濁を混同するは台家理観の万法一如なるに執して、凡聖を混乱する過に同ずべきに非ずや。 また日乾等他宗の供養を受けたる非を隠さんと欲して曲会を構うる時、外相は他宗なれども内心法華経の行者を供養せんと欲するは、信仰の寸志きざし悔微の志を催すが故に受けても妨げなしと云える邪義に同ずるに非ずや。 次に謗法となるといわば授与の僧も謗法人なるべし等と云える事、また不学の例難なり。 およそ別途の道理を以て彼の濁徒に本尊を授与する事、第一法滅の砌やむ事を得ざるの慈悲心にして、且つは法運開通の時捨邪帰正の増上縁とするにあり。 その義法義天下一同磨滅して再び嘉運を開く事その年限を期し難し。 これに依って涅槃の若樹若石の大悲心を慕い、彼の内心清浄の行者に托し清浄法灯の本尊を留め置き、永く来縁を結ばしめんが為なり。 この本尊もし水火の障難にあい給わずんば再び時を得て体用光顕の勝利を施し給うべし。 かようの法滅の砌は他宗の徒たりと云うとも懇望の由緒あらば逆縁法施の志に住して本尊を授与する事防碍なかるべし。 況や内心清浄者に於いてをや。 然れども一たび授与しおわって已後与同する義なく、その施物をも納受せざれば能授の人に混淆の過なく所授の人に莫大の益あり。 豈善巧の嘉猷に非ずや。 されば授与の僧も謗法なるべしや等の難勢はあたかも寝語に似たり。 一、 彼の状にいわく、また能持の人濁法なれば御本尊も濁る本尊と云わば内心清浄の人は本来他宗と同じか。 そし然なりと云わば何ぞかようの悪人に口入れし遣わすや。 もし本来他宗とは各別と云わば何ぞ授与の本尊拝せざるや。 受不悲田の本尊と同ずる事謗罪を招くに非ずや。 悲しむべし。 濁法の方へ御本尊遣わす事大いに子細あり。 本を明かさずして枝葉に付き無義の法式を定む。 前後相違本末不対の語なり。 能く授与の根本を案ずれば不審有るべからず。 已上 破していわく、さきにも示すが如く内証信心の辺他宗と異なりと云えども外相既に他宗に混ず、何ぞ概論するや。 今反詰していわく、内浄外染の濁法と一向清浄の徒と同なりや異なりや。 もし異なりと云わば一向清浄の行者その身所持の本尊をさしおき、別に濁法の本尊を好んで礼し、与同を求むるはこれ何らの心ぞや。 諺に、臭しと知って嗅ぐにはしれずと云える風情一笑を催すに堪えたり。 ただ自身その不潔を蒙るのみならずまた彼の濁徒をして却って清浄の行者を汚すの失を起こさしむるは自他共に損のみ有って得なし。 またいかなる放逸無漸の者少なくも志ある程の者は彼の濁法の本尊を拝する時気味あしき心あるべき事必然なり。 されば半疑半信の礼拝二途不摂の溢れるものなるべし。 もし清濁轍を分かち、清法の者は自身所持の本尊のみを拝せば三業相応の大善なり。 十分全得の大利に預かって濁法与同の失を招かず、濁徒もまた清浄の行者を汚さしめずして自身所持の本尊を滅罪生善の所依とせば分分の利益あるべければ自他共安の要行なり。 もしまた同なりと云わば眼前の偽りなり。 既に外相に信謗の異あり、何ぞ木に竹を継ぎて同じと云うに異ならん。 そもそもまた濁法所持の本尊清浄の行者これを礼せば彼の濁徒一向清浄の行者と同位等行の見計を起こし、功徳齊等の邪念を挟んであからさまにも後日の翻邪帰正を期する念あるべからず。 清法の徒もまた濁法と隔てなく彼の本尊を礼せば連連習練してついに一向濁法となり、子孫等に至るまでは何の差別もなくなり往いて告朔の?羊如きの僅かの宗旨制法の礼節を遺すしるべもなくなりなん。 豈あさましき事に非ずや。 また伝え聞く趣きは邪徒譬えによせて愚俗を勧誘していわく、清法の徒は十五満月の如し、濁法の徒は半同半異なれば欠けたる月の如し。 光用異なりと雖も月の体これ同じ、何ぞ拝せざらんやと云云。 今いわく、これを評破するに与奪あり。 与えてこれを言わば伝教秀句に今昔二円について月の譬えを設けたる例あり。 今これを引いて例難すべし。 秀句上本三十四丁にいわく、ただ因分の円教を聞くのみ、別門の円を悟る人は九日の月に似たりと雖も十五日の月に如かず。 已上 然るに今昔二円隔歴円融の不同伝教の所判雲泥を隔てたるは、半月と満月と同日に語し難き事分明なり。 吾祖また判じていわく、九十五種の外道は仏慧比丘が威儀より起こり、日本国の謗法は円体無殊より起これりと云云。 然れば則ち信謗雑乱は仏慧比丘が威儀にも劣れり。 所持本尊を例同するは今昔二円を混同するの義にまた月の虧盈弁ぜざるの失あり。 また譬えを設くる事事を以て法に喩う。 皆これ分喩の道理なるが故に、まず法体を定めてそれに相応するように譬えを仮って顕す事なり。 されば今月の譬えによする時も濁法所持の本尊は半月にしてしかも曇りのかかる理を取って本尊法体の光用薄きに比すべし。 これ伝聞の義について与えてこれを論ずる義なり。 奪って喩えを取らば謗法の過甚だ善体を失する事漆千盃に蟹の足一つ、ほうろく千に槌一つの喩えを取って強く謗法を禁じ給える事宗祖已来の掟にして対治門の教誡なり。 されば仮判の徒をば慈悲摂取の中にもこの教誡を忘れず、清法の者堅く隔てて彼が改邪帰正をこそ期すべき事なるに信謗混乱の義をこの方より強いて勧むるは、宗義の綱格に迷えるに非ずんば何とか云わん。 その上彼の状の次下に、内外清浄、外濁内浄これ程大いに分け立て有り。 御本尊は同事なる故に分かつべからずと云えり。 これ則ち清濁両徒所持の本尊分かつべからずと云える事分明なれば、信謗の本尊ともに十五満月に譬えたるに非ずや。 然れば右虧盈の喩えもし尭了の口より出でたる義ならば、忽ちに自立廃忘の失を招き、もしその派を汲む流俗の才覚ならば却って尭了の本書に背けり。 一、 彼の状にいわく、もし御本尊を拝せば受不悲田難ずべしと云う事、受不悲田内通を知らず一向に他宗に成ると謂うべし。 もししからば内の御本尊の有無、拝不拝知るべからず。 何ぞ難ずべけんや。 もし内通を知る者難ぜば答うべし。 これには子細有り、知らんと欲せば帰伏して聞くべしと申すべし。 妨げ有るべからず。 已上 破していわく、この段別して心行の不正を顕せり。 受不悲田内通を知らざる故に一向他宗になると思うべしと云える義、誠に世話に云える大海を手にてせかんとする風情にして小児が指を挙げて月の明かりを覆わんとするに似たり。 仮判の者内信有って本尊を盗み来たる事世を挙げて知る所なり。 その上たとい道理を知らずとも考えて知るとも苦しからざる義有ってこそ本尊をも与うべき道なるに、一向不知の義に主づけて沙汰する事不覚の至りなり。 古賢なお四知を恥づる事あり。 後漢の楊震に王密と云いし人由緒有って夜中に金十斤を与うる時、楊震辞退せるを王密夜中にして知る者もなければ受けられよと云う時楊震天知る地知る我知る子知る、何ぞ無知と謂うと恥ずかしめり。 これ楊震公廉にして私謁を受けざる事希代の名誉とせり。 これ則ち人のささめ言神の聞く事雷の如し、闇室虧心天見る事電の如しと云える道理通ぜり。 尭了いやしくもかくの如き規矩を忘れて一切不知の誑惑を構えられたる事人いずくんぞかくさんや。 あまつさえ転計してもし内通を知る者難ぜば、子細有り帰伏して聞くべしと申すべしと下知せる事無顧の辞なり。 一人にても内通を知る者有らば数日を経ずして世間に流布すべき事歴然の義なり。 されば受不悲田世間一同の疑いあるべし。 然るを彼が帰伏を期して子細を談ずべしと延引せば、今の世の風俗帰伏の期あるまじき事必定なれば、彼の者一生涯譏嫌を懐いて臨終するなるべし。 もししかれば世間謗徒の狐疑をも晴らさず此方を譏嫌する過失をも補わざるの咎莫大なるをばかつて顧みざる莠言なり。 その上公庭を恐れて仮判するほどの者なれば、受不悲田より内証清法の僧侶と通用等の義をほぼ知って尋ぬるとも、彼の者公儀へ洩れ聞こえん事を恐れて、有のままには呈露すべからず。 定んで虚説なりなど陳報する分際なるべし。 然るを強言を吐きて帰伏して聞くべしと申せなど指図せらるる事不覚の至りに非ずや。 一、 彼の状にいわく、濁法の御本尊を拝すれば法立不法立の分立たずと云う事、内外清浄、外濁内浄これ程大いに分け立て在り。 御本尊は同事なる故に分かつべからず。 已上 この段は次上に破する故に再び筆を労せず。 一、 彼の状にいわく、濁法の御本尊僧を頼み開眼してその後彼の手に渡り候えば拝し申さざる由これまた珍義なり。 開眼の間計り拝し開眼してその後は拝せざれば開眼の徳いずくに有るや。 開眼已後いつ迄も利生これ有るように開眼す。 当位ばかりならば何の詮かこれ有らん。 濁法の者拝しても何の利益これ有るや。 已上 破していわく、これまた無稽の談なり。 これ本尊授与の師清浄なる辺のみに執して謗人の手に渡る時は本尊も随って転ずる事を知らざるの弊なり。 もし授与の師に約して云わば元祖の御本尊は上行再誕の御直筆なれば末法万年の外までも通徹する最上清浄の開眼の本尊なるべし。 何ぞ古来他宗所持の元祖の本尊並びに受不施所持の大聖の本尊堅く参詣礼拝の義を禁制し来たれるや。 如何なれば授与の師いかに清浄無染なりと云えども、半同半異の濁法の人の手に渡っては本尊の光用微薄なるべき事必定なり。 何ぞ開眼以後いつまでも利生これ有るように開眼すと自讃せるや。 但し尭了は元祖にも超えたる伎倆あって抜群に利益あるべしとの向上の見計を起こせるや。 これ皆人法一致の道理を解了せられざるの失なり。 |