発心即到記:1(日講上人)
目録 又万代亀鏡記と名づく 日講誌一、出離生死の要術は不惜身命の心地に過ぎざる事 付、正法の行者は希有なること爪上の土の如く、謗法の悪人は十方の土の如きこと。 付、仏祖の指示し給う所の師子身中の虫今正しく古受新受に当たること。 一、勧持品二十行の偈明らかに今世を写すことあたかも明鏡の如くなる事 付、正法の暫滅を悔恨すべからざること。 一、如説修行鈔最末の御文体は不惜身命臨終正念の心地決定の指南たるべき事 一、常楽我浄の四倒に依って身命を愛惜するが故に無常苦無我不浄の四観を修しまず邪念を制止すべき事 細科 目前並に吾身の無常 人間八苦並に断末魔苦 吾が身心宰主無き故に無我 仮実の不浄並に檀林皇后 一、法華如説の行者即身成仏して本覚無作常楽我浄四徳波羅密に契当する事 一、不断臨終刹那臨終各用心軌則有る事 およそ速やかに生死を出離することは不惜身命の心地にしくはなし。 世間の浅事すら身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれと、世話にもいい伝えたり。 況や一大事の因縁たる成仏得道を志すもの、身命を愛惜して何ぞ大道に至ることを得んや。 されば菩薩の行因のていたらくを伺うに偏に身をなげうち、命を軽んじて万行の功徳成就し給えり。 提婆品に「不惜躯命」と説き玉えるはこれなり。 自我偈には「一身欲見仏不自惜身命」とすすめ、勧持品には「我不愛身命但惜無上道」とのべ、釈には「身軽法重死身弘法」と判じたる皆同じ心なり。 此のあだにはかなき不浄の身を仏法の為に捨つれば金剛不壊の妙体、自在安楽の仏果を得ることなる故に、吾が祖はいさごを金にかえたるが如しと悦び玉えり。 先徳の言にはこの身を思わんと欲すればこの身を思うことなかれ。 早くこの身を捨てて以てこの身を救えといえり。 この心はたとえばこの身を大切に思う心のふかきものは当座の苦労をこらえ灸治を加えて、あまたところをやきそこなえども、この灸に依ってついに無病になれば一生心安くくらすが如く、吾が身に未来常住のさとりを得んと思うものは、一端この界へ生まれ出でたるかりの身をば、なきものにして修行に油断なく、仏法のためにはやくこの身をすてて未来永々劫のこの身をたすけよと教えたる言なり。 無始已来世間の愛執の道により、或いは我慢のはたほこをたてて時の喧嘩口論などには命をすてたること多かりしかども、この法華経の御為についにすてざる故に今にかかる浅ましき輪廻生死の身とはなれることなり。 然るにこの度受けがたき人身を受け、あいがたきこの妙法にあい奉れることは一眼の亀の浮木の穴に遇えるよりも有り難きことなりと思い入れて身命をおしまず一心不乱に勤め励み、臨終正念の時節に至りて即身成仏の本望をとぐべきなり。 朝夕の看経に御経頂戴の時今身より仏身に至るまで能く持ち奉る上行所伝の南無妙法蓮華経と三度誓いを立てて仏前へ申し上ぐるは、なにほどの強難ともきそい来るともすこしもひるまず信力をかたくして妙法を守るべしと三宝へ御約束の言なり。 この道理明らかなれども過去謗法罪の習気ふかきものは智者聖人にても大難来る時は臆病風吹いて日ごろの弁口とはかわることなり。 或いは天魔波旬の障碍にて未練になることもあるなり。 されば涅槃経には正法のものは爪上の土、謗法のものは十方の土の如しと説き玉い、祖師日蓮の御書にはたといこの事を知る弟子等の中にも当世の責のおそろしさと申し、露の身の消え難きに依って或いは落ち、或いは心計りは信じ、或いはとかうす。 御経の文に難信難解と説かれて候が身に当たって貴く覚え候ぞ。 謗ずる人は大地微塵の如し、信ずる人は爪上の土の如し。 と判じ玉えり。 まことに当世のありさまを鏡にかけたるが如くしるし置き玉えり。 また師子身中の虫にたとえたること経説並びに祖師判釈にも出でたり。 師子は獣の王なるによりて死したる後にも余のけだものは恐れてよりつくこともなし。 ただ彼の獅子のかばねの中より虫わき出でて師子をくらい失うなり。 その如く釈迦如来の仏法も外道等は破ることあたわず。 ただ仏法者のうちより邪義を弘めて正法をやぶるべしと経に説き玉えり。 これは諸宗謗法の者にあたるなり。 さて吾が祖師の弘め玉う妙法の正理軌則をも他宗よりは破るべからず。 法華宗と名乗るもののうちより悪義を巧み出だして蓮祖の御本意を破るべしと御書判にしるし玉えり。 これは大仏供養以来新義を企みて、受不施の邪義をひろめ、一宗のまなこをぬく処の日乾、日遠より今に至るまでいいやまざる悪比丘等並びに近頃偽りおろかなるたばかりを以て公儀をもかすめ、日蓮以来の制法を打ち破って供養の手形をささげたる新受不施のことを祖師の未来記にのこし置きたまえるなり。 新古の受不施の如く公儀を味方にして法をひろめばいつまでも行者に難の来ることはあるべからず。 然れば勧持品の二十行の偈に法華の行者には必ず三類の強敵とて在家出家のかたき、種々の難題、無実をいいかけ、数々見擯出遠離於塔寺と云うて寺、林の栖居もならず、処処を追い立てられ向国王大臣婆羅門居士等と説き玉いて自身の力かなわざる時は公儀へ訴えて法華の行者を還って邪見の人とそしり、外道の法をひろむるなどと申し成して大難にあわすることあるべしといえる経文はいたずらごとなるべしや。 然るに今少分にても祖師已来の正義を守って、或いは流され、或いは寺をおわれ、その外のことまで一々に勧持品の未来記に相応したるはまことに感涙おさえがたきことなり。 不受不施を吉利支丹に似たるように、公儀よりも吟味なされ、世上にもその掟をまもるは「謂是邪見人説外道論議」の経文にあたれるなり。 さて四百年以来の不受不施の道理証文並びに代々将軍家より不受不施の立義、祖師已来の制法と御ゆるしの折紙までたしかにこれあり。 他宗までが日蓮正統の立義はこれなりと、天然と沙汰するほど天晴れ地明らかなる吾が宗の立義を新義などのようにいいなすは、「自作此経典誑惑世間人」の文にすこしもたがわず、加賀爪甲斐守が不受不施と云うは習いぞこないか、中ごろのつくりごとなるべし。 日蓮の義にてはあるべからずといえるに、ひしとあたりたること経文の金言といいながらあまりに不思議なることなり。 さて当御代世間の御政道は多分順路なるようにありながら、この仏法の義に付いてはかように浦原相違したる無理なる御仕置きあることこれもただごとにあらず。 経文に「悪鬼入其身罵詈毀辱我」と説き玉いて悪鬼魔王人々の心に入り代わりてよこしまなる義を以て行者をはずかしめ、せむべしと見えたれば、今の世のすがたによくかなえることわりふを合わせたるが如し。 この金言に相応してこの経を修行し、大難を忍んで信力勇猛なる善男子、善女人は、如説修行の人といわれて仏祖の御内証にすこしもたがわず、如来の使いといわれて末代の亀鏡とならんこと疑いあるべからず。 暫時この正法滅するようなれども道理なればほどなく再興すべし。 今度の御法度につき不受不施の義遠国遠島までもかくれなく、人々耳にふれて縁をむすべば逆縁の広宣流布は今の時これ盛んなり。 天竺大唐にも天下の寺院を焼き失い、天下の出家を還俗させたるようなる悪王ありしかども、まもなく再び繁昌したることなり。 さればこの段はゆめゆめ凡慮にてはかるべからず。 ただこの法滅を見て真の道念を催し、速やかに得道の素懐をとぐるひと一人も多かれかしと思うばかりに侍り、不惜身命並びに臨終正念の心持ちを遊ばしたる御書を次下に引き奉ってあらあらその心をことわり申すべし。 如説修行鈔にいわく、哀れなるかな今日日本国の万人日蓮並びに弟子檀那等が三類の強敵に責められ大苦にあうを見て悦んで笑うとも、昨日は人の上、今日は身の上なれば日蓮並びに弟子檀那共に霜露の命の日影を待つばかりぞかし。 只今仏果に叶い、寂光の本土に居住して自受法楽せん時、汝等が阿鼻大城の底に沈み、大苦にあわん時我等いかばかりか無慚と思わんずらん、汝等いかばかりかうらやましく思わんずらん。 一期を過ぐること程なし。 いかに強敵重なるともゆめゆめ退く心無く、恐るる心無かれ。 たとい頸をば鋸にて引き切り、どうをばひしほこを以てつつき、足にはほだしを打って錐を以てもむとも、命のかよわんほどは南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱えて唱え死に死するならば、釈迦多宝十方の諸仏霊山会上にして御契約なれば須臾の程に飛び来たって、手をとり肩に引っかけて霊山へはしり給わば、二聖二天十羅刹女は受持の者を擁護し、諸天善~は蓋を指し、幡を上げて我等を守護してたしかに寂光の宝刹へ送り給うべきなり。 あらうれしや、あらうれしや。 已上御書 この如説修行鈔をば随身不離鈔と古来よりいいつたえたり。 不断身に随えて影の形に応ずる如くにはなさずして、吾安心をおとしつくる義をもって名を得たり。 然るに身命財を惜しむ源を尋ぬるに、迷いの世間拙きこの身に常楽我浄の執情を起こすに依ってなり。 無始已来生死に輪廻することも、またこの執心につながるるゆえなり。 まず常と云うはこの身をいつまでもあるもののように思いなして、千年のたくわえまで兼ねて心をくだき、さかゆくすえを思いつづくる故に、ひとえにこの身のためにいろいろの罪業をつくることなり。 このあやまりをば顛倒と名付けて、天を地と思い、西を東と心得たるほどのたがいなり。 この常顛倒を破して、人間常住の執着をやむるは無常の観念にしくはなし。 まことにこの界のあだにはかなきありさま、いにしえより今に至るまでうつりかわれるためし、この身のもろきこと槿花一日の栄えにも、およばぬすがたをよくよく思いとげば、常住の執忽ちにやむなり。 目の前の無常を見ても余所事に思い、さきだつははかなく、のこれるはかしこきようにおぼえて我したしきものの世を早うするわざにもおどろかず、我が身の年月おうるに随うておとろえゆくあじきなさをも忘るるは世の人のあやまりなり。 よく道をしれる人は春の花の風にさそわれ、秋の月の雲にかくるるをみても我が身の上と思いよそえ、くれゆく空のものあわれなる気色あり、あけがたの灯のわずかにほのめくにつけても無常を催し侍り、あだしの露鳥辺山の烟のみかは年ごろつみかさねたるたからいかめしく、つくりならべたる家居まで時のまのけぶりとなるためしもあるぞかし。 道人は遠く光陰をおしむべからず、只今の一念むなしく過ぐることをおしめといえる古きことのは肝に銘じてぞ覚ゆる。 まことに無常の殺鬼は貴き賤しきをもわかず、老いたる若きをもへだてず、兼ねて案内しらすることもなく忽ちにきそい来るものなり。 これを心にかけてわするるまなく一座の行法をなすともこれや限りならんと思い、一度礼拝をつとむともいまや最後のいとまごいならんと志さばたびごとにものうきことはあるべからず。 されば惜しみてもおしみとげられぬ身をいたずらに草葉の露となさんよりは、法のためにかゆるたよりもがなとかしこく思いたらば、執心念々にやみて仏道日々にすすまんこと疑いあらじかし。 二に楽顛倒と云うは、五塵六欲の境界にふけり、痴愛の淵におぼれて遊山活計しなじなのたのしみを求めてこれに過ぎたることなしと思い染めたるより、いよいよ世の執心ふかく命もおしくなりゆくことなり。 これをば苦の観を以て退治するなり。 六道の苦しみさまざましなわかれぬれども今しばらく人間界の上を沙汰し侍るに、四苦とも説き八苦とものべられたり。 生老病死の四つの苦しみまことにたえがたきことなり。 生苦と云うは胎内にやどりて十箇月の間苦しみ、胎内より出づる時くるしみを始としてしなじなのことあり。 老苦とは一年一年にすがたかわり、面影うつりてついにはかしらに霜をいただき、ひたいになみをたたえ、腰には弓をはれる如くよろぼいおとろえてあらぬさまになるときは、紅顔翠黛のいにしえのありさまはゆめのようになりて、人もいといわれも便のうおもおえて、ねおき立ち居につけてもものくるしく、老のねざめにははるかなるもろこしまでも思いつらぬる折からの心細さ、いうにもいわれぬ苦しみこれあるを申すなり。 さて病苦とはたかきもひくきも病のなき人侍らねば、この苦は申すに及ばず。 死苦と云うは一期の命おわる時断末魔の苦しみと云うことあり。 末魔とは天竺の語、ここには支節と翻ず。 身のふしぶし骨のつぎめなどのはなるるとき、たとえば小刀を以てさきたつほどの苦しみあり、これを断末魔の苦しみと名付くる。 これ則ち死苦なり。 この四つの苦しみの上に愛別離苦とて我がしたしく愛するものにいきてわかれ、死してはなるるの苦しみ、怨憎会苦と云うてあだかたきの如くにくきものにも世の習いとしてつねにつきそう苦しみ、求不得苦とて吾が心にねがいもとむることのかなわぬ苦しみ、さて五陰盛苦と云うてこの身と心とにつきたる一切の苦しみ。 この四つを上の四苦に加えて八苦と申すなり。 第二の巻譬喩品には三界は安きこと無し猶火宅の如し。 衆苦充満して甚だ怖畏すべし。 常に生老病死の憂患有り。 かくの如き等の火熾然としてやまずと説き玉い、吾が祖は寂光の都ならずば何くも皆苦なるべし。 本覚の栖を離れて何事か楽しみなるべきとのべ玉えり。 しかるに凡夫はかかる苦しみをわすれて楽しみある身と思い成し、これを求むるは大いなる迷いなり。 立つも居るも飲食を用うるも便利をすつるもよく思いとげば苦しみにてかためる身なり。 しばしたのしむようなれどもその楽しみがまた苦しみのもといとなる。 それをしらざるを経には「以苦欲捨苦」と説き玉いて苦しみを以て苦しみをのがれんとおもう、つたなきことなり、と示し玉えり。 世間に血を以て血を洗うというほどの愚痴なることなり。 さればこの苦しみの身をばいとはやにいといはなれて、さとりのたのしみを求むるをかしこき人とするなり。 三に我顛倒と云えるは、われよ人よの見計を起こして我身を立て人をしずめんと思い、或いは自ら慢じてたかぶりほこるを云うなり。 この病をば無我の観を修してしずむるなり。 もとよりこの身を受くるに悪業の所感なれば、過去に悪心を起こし、悪事を行いたるむくいにこの弊悪の身と心とをまねき得たり。 因縁よりあいてかりにうけたるこの身にあるじをたててわれと思うは甚だしき迷いなり。 地水火風空の五大があつまりてその中へたましいをやどしたるものなれば、魂されば水は水、火はもとの火にかえれば死人は血の気もなくひかえり、風されば身もはたらかず、わずかにのこるかとおもう。 このすがたの地大もやけば灰となり、埋めば土となりて後にはあとかたもなくなりはつる身を、わがものがおに思うはおろかなる心にあらずや。 そのたましいはくちうせずしてまた未来の苦果の身を感ずることなり。 されども迷縁にてとよかくよとへだつる浅ましき心なれば、これはうきぐもの如くにして我が根本のさとりの心はいまだ顕れず、念々有為生滅にうつさるる心法なればこの心もわれとはとりしめがたきことなり。 されば身にも心にも、われというべきものなし。 いかばかりにくしとおもう人も、ついにはみな死にはてて名のみのこれば、だれをとりとめてにくしとおもうべき人もなし。 只迷いの心にてはかなくわれよ人よとへだておもうことは、なるこをおのが羽風にうごかせて心とさわぐ村雀にことならずと思いとりて、一筋にさとりの本心を顕さんとはげますを無我の観と云うなり。 四に浄顛倒と云うは、この身をきよらかなるものと思うあやまりの一念より起こりて、色にめで香にときめく心いできて執情膠のつきやすきが如く、著相漆のはなれがたきに似たり。 この身にかぎらず財宝を愛し、調度をたしなむもみな浄倒より起これり。 この不覚のきずなをば不浄観に依って速やかにやむることなり。 仏説を鏡としてこの身をかえりみれば人の身のうちに三十六種の不浄あり。 されば色香あざやかなる飲食を用いても腹中に入れば忽ちに不浄と化するなり。 清水を以てみがき、名香をたいてもしばしの内にもとの如くむさき形となるなり。 東坡が言に紅粉翠黛只白皮を彩るといえる、げにもと思い侍り、皮一重の上をいろどりけはいて、それに奇麗なる衣装をかざれる、かりなる色に思いそむはまことにはかなき心なり。 さればあやまりて愛し思う人ありて執心やみがたき時は九想観と云うてその人の死して後あさましくうつりかわるていをただ今思い合わせてよく観ずる時は、いかなる美人もほねを以てつくりたる人形のようにすさまじく見ゆる。 これを骨鎖観と申すなり。 本朝人王五十二代嵯峨天皇の御后は檀林皇后と申して天下にならびなき美人にておわせしが、その身終わらせ玉う時遺言にて、われをば嵯峨野のほとり往来のちまたに捨ておくべし、火葬土葬等を用ゆることなかれ。 との玉いけるを心得ぬことに人々思い煩いぬれど、御遺言もだしがたければ道のあたりに捨て置き奉る。 いくほどもなきに黒髪はどろにまみれ、御身もうるみはれて、目もあてられぬけしきになり玉えり。 後に骨ばかりになり玉いたる時土へうずめ奉り、寺を立て、檀林寺と申せしなり。 今京の五山の中にさがの天龍寺といえるはこの檀林寺の遺跡なりとかや。 この后のけやけきことの玉いおきたる御心はわれ美人の名をとりぬれば、死したる後のあさましきありさまを人々にみせていずれの美人もついにはこれぞと思いしらせ、執心をやめさせ玉わんとの御心ばせ、三世の仏の御めぐみにもいかでかおとり玉うべきと、すすろに涙を催し侍る。 さればこの身の不浄をよく思いとりて我身にも著をなさず命のあらんかぎりは修行にまことをつくし、身をもおしまず仏道になげうつを真実の行者と云うなり。 上につらぬる処の無常、苦、無我、不浄の四観を以て凡夫の迷いふかき常楽我浄の四顛倒をやむれば、自ら不惜身命の心地決定していかなる大難をももののかずとせず、一心に妙法を信受して臨終正念の期に至ることなり。 この人は如説修行の行者なれば無始の罪障もつゆしもの日輪におうて消ゆるが如く、一時に滅して忽ちにさとりをひらき、一歩も行かずして天竺の霊鷲山に遊び、本有の寂光土に住して法界をみれば常楽我浄の四徳波羅密にして常住不滅の無作三身を具足し、不寒、不熱、不生、不死の大楽を受用し、万法一如、十界無碍の自在の我徳に安座して染碍の相をはなれ、垢穢の迷いに即して究竟果満の浄土を顕現し、自他倶安同帰常寂の本望をとげんこと疑いあるべからず。 常楽我浄の名は同じことなれども凡夫の迷いの上にこの見を起こす。 故に顛倒といわれ、仏はさとり顕して真如実相の正体を、ありのままに常楽我浄と見玉う。 故に四徳波羅密と云いて目出度き功徳にて侍り。 されば一毫未断の凡夫なれども不惜身命の心地退転なく如説修行の勤励成就すれば釈迦如来の如く因位の万行果位の万徳を立ちどころに修むる故にあだにはかなき苦しみにまとわれ、とりどころもなきようなるけがらわしきこの身則ち仏とあらわるる故にこれを即身成仏の大事とも申すなり。 然れば下に引く処の如説修行鈔は臨終正念の秘術にてもましますなり。 朝夕看経の折節もこの御書をよみあげて臨終の安心に住すべきことなり。 勿論日くれて床につく時も今夜もしらずとふかく心をしずめて臨終正念南無妙法蓮華経。 夜あけて座を出づる時も今日や命の日ならんと志して兼知死期南無妙法蓮華経と唱うる。 これを多月の臨終とも不断の臨終とも名付くるなり。 このつねづねのはげみに依って命の終わる時も自ら正念に住するなり。 まさしく命の終わる時をば刹那の臨終と申すなり。 この時のあらましをば近習の中にたのもしきものにかねていいふくめ、もとより善知識の外はいかにも人すくなにして心閑に題目をたえず唱え、わきにも経陀羅尼の音あざやかに殊勝なるを耳にふるる、尤も正念をますなり。 馨やりんなどをならさせ、もとより名香をたいて天魔波旬の便りを得ざるように心がくること第一なり。 この時は世間のこと、あと式のことなども一向におもいすてて無相清浄の心地に住し、目に仏見え玉うとも着心を生ぜず、また鬼神さえぎるとも一念もおどろくことなく只吾が祖の御妙判にのべ置き玉いたる如く、遷滅無常は昨日の夢菩提の覚悟は今日のうつつなるべし。 只南無妙法蓮華経とだにも唱え奉らば滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福や有るべきと口号にも心持ちにもかえすがえすも薫修練磨し、この妙法蓮華経は己心本覚の総体なればこの理を信じて此の名を唱うれば、彼のさとりの法体おのずから呼び顕され一切衆生の仏性諸仏所証の妙理も法界同体の道理に依って一時に薫発し、天魔のそうべきようもなく、悪念にもひかれぬ不思議の功徳あり。 されば心に妙法を念ずれば、わが心すなわち仏の心なり。 心すでに仏なればこの身もまたほとけなり。 この身すでに無作三身円満の形体なればこの処則ち寂光土にして虚空に向かえば虚空則ち仏、大地に向かえば大地即ち仏。 ねるも仏とともない、おくるも仏と共におくることわりなれば、おそるべきこともなし。 すこしも外にもとむべきことなしと思惟して終わりをとる時は夢のさめたる如く得脱の本意をとぐべきなり。 平生心にかかることをば堅固なる時より記しおき、人にもひそかに告げて、かの大事の時節にはゆめゆめさようのことに頓着せぬがよきなり。 随分の心がけある人もこの段には迷うて遺言はいまいましきなどと思い、いまだはやしなどとのどかに思ううちに、急に口ごもり、手もかなわずしてひき入るもの多し。 しからば妄念にもなるべきにとなれば、かねて覚悟のあるべきことなり。 臨終と見ゆるときに親子夫婦の間にても一念も心をのこしたるあしし。 ただ仏性と題目とばかりに心をとめてもし余念おこらば障碍なりと心得て、急々信心に住して唱題の義をわするまじきなり。 さて断末魔の苦しみ来る時は彼の如説修行鈔の、どうをばひしほこを以てつつき、足にはほだしを打ちてきりを以てもむとも、命のかよわんきわは南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱えて唱え死に死するならば乃至 たしかに寂光の宝刹へ送り給うべきなり。 の御妙判の心得肝要なり。 |