破鳥鼠論:4(日講上人)
一、邪記次段にいわく、問う、地子寺領をば昔より仁恩と名付けて受け来たれり。 然るに今般悲田といえるは前代未聞の新義に非ずやいかん。 答う、古来地子寺領を仁恩と云うことは勿論にして諍いなし。 然るにその仁恩と悲田とは少しのちがいもなく全く同じ物なり。 儒道の言にて仁恩と名付けたるを仏法の上にて三田と云う物にあてがう時は則ち悲田なり。 仁恩と悲田と少しも異なりありと思うは大なる誤りなり。 問う、もししからば昔より日蓮宗に悲田の施を受けしことまた寺領を悲田に配したることその例ありやいかん。 答う、先証一にあらず。 分明なる証拠をあぐべし。 寛永七庚午の年京都頂妙寺の日遵より関東日樹等の六聖へ送らるる不受の書に、祖師日蓮悲田受用の義分明かに見えたり。 この書の奥書に関東の六聖より御褒美の連判あり。 自他ともに知れるかくれなきことなり。 正本自証寺にありしなり。 また万治元年八月九日日誠(平賀)日運(小湊)日晴(碑文谷)三聖より公儀へ捧げられし訴状の略にいわく、地子寺領は四恩の中には第三国主の恩、三田の中には悲田にて世間の仁恩にて御座候故に拝領仕り候云云。 また去年巳の八月公儀より寺領供養の仰せ出しこれなき前に谷中にて歴々の相談を以て相認む訴状の略にいわく、次に物を施すについて三田と申す事御座候。 一には恩田、二には悲田、三には敬田なり。 寺領は世間の仁恩にて第二の悲田にあたり候と云云。 この訴状八月十二日三田大乗寺にて会合のとき諸寺一同一覧をとげられしに是にすぎたること有るべからずとて、非難を加えたる人乃至一人もなり。 これに依って則ちその訴状さる御方へ内証にてさし上げおきしなり。 また日誠さる人の懇望に依って仮名書きに不受の書一冊あり。 それにいわく、次に三田の中に寺領はこれ悲田なり。 いわく国主は主君、万民は被官なる故に御慈悲を以て国民を撫で地子寺領を安堵せしめたまうなり。 所以に三田の中にこれ悲田なり云云。 これは寛文年中の書なり。 直判の正本関本氏某が処にあり。 かくの如く祖師も悲田を受用したまうこと分明に、また中古の先哲も悉く寺領をば仁恩悲田と書きたまえり。 これ則ち仁恩と悲田とは名異義同なる所以なり。 何ぞかようの先哲の書物訴状あることそれを知りながらおし隠し、悲田は日明日禅日純等の新義なりと云うや、是一。 また悲田悪しきと云う事去年始めて心づきたるや。 日蓮宗に悲田受用と心得る義僻見なりと非難を加えずして信仰し来たりたるその末流をくむや、是二。 その上日述も悲田の手形は同心にて望の文言あり。 「此度御慈悲供養の御朱印頂戴難有奉存候」。 敬田供養とは各別にて御座候已上。 歴々三人使いの衆あり、諍うべからず、是三。 悲田を僻事と謗る衆はこれらの難勢共、何とはづすとも遁れ難かるべし、いかんいかん。 已上 弾じていわく、ああこれ何事ぞ綿々と詮も無きことをかきあげたる事、かくべきことにことかかば面白き舞にても謡にても書きぬけかし。 了角の小児もしりふらしたることを、珍しきようにかきあげて愚俗を惑乱するや。 講浣等の義は彼等悲田にてもなきものを悲田といいなすに依ってこの義を難じて敬田の財体ついに改転せざれば何ほど悲田と名を付けても謗法の性罪のがるべからずと云える義なり。 譬えば筑紫の弥太郎と云うもの罪を犯して咎に行わるる時、奥州の弥太郎と云うものを身がわりに立て咎を遁れんとするが如し。 弥太郎と云う名は同じことなれども東西万里を隔てて各別の人体なり。 全くその如く供養と云う名は敬田悲田に通ずれども堅く三宝供養と仰せ渡さるるに悲田供養を以てはづさんとするは大きに愚かなることにあらずや。 然るに世間に彼を悲田といえるは異名ほどのこと也。 例せば世間に聖人賢人の徳をそなえざるもの聖賢のふりをすれば、かの例の聖人と人ゆびさして笑うが如し。 かくの如き類例和漢にその例多しといえどもこれを引くいとまあらず。 近ごろ野呂によき証拠あり。 哲晴(後号日晴)弟子分のものにこびたるものあり。 歳はたけたれどもせいちいさき故に十二三歳の時も七つ八つほどに見えたり。 経釈の要文などをよくおぼえければ、内輪より無理にほめたてて権者のようにいいなし、諸方の屋敷へも徘徊せり。 さてちくちくせい大きになれども別にかわれることもなし。 ある人料理を振る舞う時つよくしいけるに彼もの斟酌するをいたものしいて後に権者と云うものがそのように食もくわれぬように不自由なものか、などと云いてなぶりける程に、彼小僧まことと心得て腹に余るほどにこそくいつらめ、散々食傷せりといえり。 かのものを人権者と云うはあに実の権者ならんや。 只これ異名なり。 悲田と云うもまたかくの如し。 悲田にてもこれなき敬田の直中なるを悲田とうけ、さて供養の二字をつづけて悲田供養と我が物がおに云う故に日講の訴状にも悲田供養の新義とかかれたり。 三田相配のことは云うに及ばぬことなり。 この義をしらぬ愚俗京都に悲田寺と云いて乞食の在所あるを思い合わせて、悲田とは乞食に成って取ることなり乞食になってとれば所持の法をも軽んじたるものなりなどと心得て、悲田乞食と名を付けたるを世話にも広くいいふらし、はやり小歌に作り、熊野比丘尼も謳い、童までも彼の流類の道を通るを見かけては悲田乞食の小歌をうたいかけたりといえり。 これらは末々愚俗の推量の義なり。 あに枝離蔓延の巷説を以て開闢の導師に主づけて難ずることあらんや。 今問う、悲田の二字は自他共許なり。 供養の二字を悲田につづけて祖師以来つかい付けたる言あらばこれを出すべし。 これ則ち祖師以来供養の言をば総属別名して出世の義に用い来たり、さて寺領供養各別の証拠は本日向記に出でたり。 しかるを祖師先哲の筆跡にもなきことを巧み出して遁辞を設くるをば誰かこれを用いんや。 殊に日遵の不受決は別して義理分明なる書なるが故に日講なども常に翫習せらる。 あにこれを見当たられざることあるべしや。 浅ましき破言なり。 人もまこととは思うまじけれども、余りに彼等が詮なきことを永々と書きちらし、また講席にても専らいいしことときけば筆をついやすなり。 日述の手形の案文を潤色とすること大いなる僻事なり。 上にすでに所以を弁ずるが如し。 一、邪記次にいわく、 問う、日蓮宗に悲田を受くるの義または古来より寺領を悲田と名付けたる事は分明、中古の文証を引き出ださる故に疑い悉くはれ快く得心しおわんぬ。 然るに去年の仰せ出し地子寺領悉く御供養と云云。 手形文言またかくの如し。 然るに日蓮宗の法ついに他宗の供養を受けたることなし。 既に供養の手形をささぐ。 知んぬ、これ法義破れたりと。 故に日述一味の衆そしりていわく、新受不施と云云この義いかん。 答う、供養の名を聞いて義に迷うべからず。 昔より日蓮宗に他宗の供養を不受と云う。 供養は三田の中に敬田供養のことなり。 恩田悲田に亘ると思うべからず。 今度受くる供養は国主仁恩の悲田供養なり。 敬田供養とは天地の不同なり。 問う、供養の二字三田に亘る証文ありやいかん。 答う、経論釈疏に証文あげてかぞうべからず。 今少分を引き出すべし。 輔行四にいわく、下を以て上に薦むを供と為す。 卑を以て尊をたすくるを養という云云。 これは敬田供養の釈なり。 経にいわく、一切の沙門婆羅門及び諸々の外道貧窮下賎孤独乞食を供養す云云。 戒疏の註にいわく、供養の二字供は平声なるべし、養は上声なるべし。 供給養育差ならしむるをいうなり。 もし輔行の中に下を以て上は薦むるを供といい卑を以て尊をたすくるを養という。 並びに去声と作すと云うことはこれ恩敬二田に約してこれを言う。 今悲田に在ってはまさに平上二声に作るべきなり。 止観八にいわく、たちまち福田勝境三宝の形像聖衆大徳父母師僧有行の人己が供養を受くるを見、或いは悲田己が供養を受くるを見る。 この三文は三田に通ずる証文なり。 太賢師古迹にいわく、父母妻子を供養す云云これは恩田と悲田との二種に通ずるなり。 かくの如く供養の二字は三田に通ずること証文明らかなる故に三田の中の悲田におちつきぬれば先規の仁恩と全く同じ物なり。 悲田か慈悲の二字か是非入れたときの訴訟誠に所以有るかな。 弾じていわく、供養の言三田にわたることは本より経論に出たりと雖も、宗家ついに用い来たらず。 祖師並びに代々列祖ついに供養の言を世義に亘らしたることなし。 また四十年以前の身延、池上の問答も寺領供養同異の義なり。 然るに今新たに経論を僻依して遁辞を設くる。 あにこれ道人のする処ならんや。 経論の中に念仏申すべき証文多しといえども吾が祖ついにゆるさず。 法華の中に弥陀の名ありといえどもまたゆるさず。 これ則ち寒食のまつりに火を忌むの心切なるが故なり。 また総属別名の例これ多し。 大小共に三蔵ありと雖もついに三蔵の名は小乗に属する等の如し。 外道の見計を難破する日は常楽我浄は名はよかりしかども、仏は名をも忌みたまうと祖師の判じたまえることをしらずや。 然るに迦羅鎮頭の二菓紛れやすきを弁明し、牛驢の二乳わきまえがたきをわかつは仏祖の制戒なり。 況や只いま末世濁乱の衆生金石迷いやすきみぎりに宗家の大格を破って供養の言を混乱せんや。 供養の言一途に出世の義に定め堅く禁じてさえ、遠国遐方はその規矩をみだりて供養をむさぼるもの多し。 不受供養の義はもと伯夷が清介を帯する者に非ざれば持ちがたく、まもりがたし。 況やまぎらわしく供養の言を濫用してこれをゆるさば、なにをも悲田供養と名を付けて受くるのみなるべし。 これ謗法の増上縁にしてその弊大なることなり。 また吾が祖以来明匠碩徳、経論止観、与咸註等とを見当たらずして供養を堅く辞し乃至水火の責にあえるや。 供養の言泛爾にしてかようの心やすき逃げ道あるをしらざる愚人なりと云うべけんや。 また四十年以前受不受の明哲義をつくして論ずるのみに非ず台宗の明匠乃至儒林の棟梁たる道春永喜も判者人たり。 豈内外典の中に供養の言の通ずることをしらず。 供養の字の平仄にてかわることを知らずして無益の論をさせて寺領供養の同異を穿義したりや。 何ぞ供養の言は通ずる間争論御無用と云いてとどめざるや。 故に知んぬ、本朝の風俗諸宗の約束供養の言は定まって三宝崇敬の義に属する故にこの寺領供養同異の論起これることなり。 然れば諍論の源すでに崇敬供養のことなるをいとかしこ顔に字訓の穿義をして今更遁るべしと思えるは拙きわざに非ずや。 誠に孟子にしかれる?隠邪遁の四の失を懃に備えたる悪党なり。 (供養の字義について彼義を弁明し及び与咸の注の可否を評すること下の別章にあり)。 問う、上来に述する如く悲田供養の書物少しも法義に瑕つかずんば何ぞ日述並びに諸々の能化この義に同心なく憂獄の難にあわれんや。 この段不審はれがたし如何。 答う、悲田供養の義に付き日述二つの難を加えられたり。 一にはたとい当位悲田供養の手形にて相すみたりともそのまま身延より訴訟をいたして却って公儀を掠めたる様にとりなさば此方の落ち度になるべし。 是一 また重ねて別時御供養の時の証文になる故に手形い。(い下恐有脱字や) 是二 今いわく、身延よりその後も様々訴訟せしかども御取り上げもなし。 ありように悲田の御訴訟を申し上げつるぞ、何とて掠めたると思し召されんや。 是一 また別時供養の時も却って御訴訟の文言は敬田を受けざる証文になるべし。 何ぞこれをいたむや。 是二 これらの心入れあしかりつる故に天下の諸人惑乱すること恐るべし、悲しむべし、然ればとて手形をせずにすむことならば、せざるほどのことはなし、偏に思うべからず。 次に日浣日講両人は初めより法門の心得自余とは各別なり。 仁恩と悲田とは不同なりと見立てられたり。 これは祖師の行跡並びに日遵等の近代先哲の義に背くなり。 日述の義は仁恩と悲田は同一なれども只供養の二字に深く泥み能施の人の心を強くあやぶまれしと見えたり。 畢竟勝劣の手形と此方の文言を並べ置き訴訟の次第をかんがえば、千万の妨難も風前の塵芥日下の霜露なるべし。 一、付けたり自証寺などは目前に愚痴と我慢にて改宗せしめたり。 しかる所以は自証寺御朱印にいわく、「為自証院菩提寄進之」云云。 これは御文言争いなく敬田供養の御朱印なり。 これ故に先規は千代姫君より御施主を立てられしなり。 故にこの寺は訴訟に及ばず敬田供養の手形を書くべきことなり。 もし供養いやならば先代に受けつるは謗法なりやいかん。 破仏法、師敵対、言語道断の出家なり。 弾じていわく、日述の二難は公道の難なり。 初難を口かしこく会せんとすること還って胸懐の浅きことを顕す。 身延の訴訟すべきは当然の理なり。 取り上げざるは公儀の理不尽なり。 然るに公儀より後々まで宥免の義ならば推するに二つの子細あるべし。 一には供養の手形のこと老中うかうかと云い出されて思いの外に人も損し世も騒いで治め兼ねられたる時分に彼党随順するが故に、上意に随うことを幸いにして宥免せられたるか。 二にはたしかに阿部豊州の言をききしものの物語をきくにいわく、受不施も万民の供養までをうくべしといえるは余りにいいすごしなり。 日蓮宗古来の作法に非ず、糺明あるべしといえり云云。 ここに知んぬ、新受の徒国主の供養をば受くといえども万民不受不施の義身延と異なる故に立置かるるかなるべし。 何ぞ口器量にののしるや、第二の難はすでに別時供養の義未だ現前せざる故に公儀の裁許も時々に転変して剋定せざること多ければまずこれをばさしおくべし。 手形の文言にて別時の難をのがれんと思うは決しておろかなることなり。 その文言の理屈になりては一言も開くことなるべからず。 もし寛仁大度の慈悲を以てみのがさるることはあるべし。 これ則ちはや正轍の不受不施をば大形根だえさせられたる故に、残りすくななる新受の然も寺院も衰減し世上にも嘲弄して朝三暮四のたよりもなき体たらくを見聞いてまた別時供養にていためんよりはと思いはかりて許さるる義はあるべし。 書物にてのがす理は毛頭もなきことなり。 これはいまだ現前せざる故に強いて論ぜず。 彼徒あまりにうかべ顔に利口する故に少し石ばりを加えて後を期するなり。 然るに一往のがると云えども身延よりそのみぎり訴訟し、今度の書物を以て証として別時供養をも許すべからずといわばついにその難のがるべからず。 実に遠慮もなき申し分なり。 次に日浣日講両人は初より法門の心得各別なり。 仁恩と悲田とは不同なりと見立てられたりと云うこと、これまた他に無実をいいかくるの義なり。 これは定めて谷中にて八月二十一日相談の時法門の穿義ありしを耳にはさんで居て、なにがな取りてかからんと思うて難じたるものなるべし。 悲田仁恩の相貌誰かこれを知らざらん。 谷中にての論は田の字について意地づくの穿鑿なり。 三福田と云うに付いて田の字のあたり只所依所託の義か。 また後世田中不受果報並びに田是生義の釈相の流例を以てみれば来報を引く心もある義か。 来報をひく義ならば悲田の時そこまでをば取るべからず。 ただ悲の辺を取って古来仁恩に属対する義なるべしといえり。 これ則ち秋元抄の今日本国も又如是持戒破戒無戒王臣万民を論ぜず一同の法華経誹謗の国なり。 たとい身の皮をはぎて法華経を書き奉り、肉を積んで供養し給うとも必ず国もほろび身も地獄に堕ち給うべき大なる科ありと遊ばしたる御妙判をひかえにして謗人無功徳の文言を定規とする義なる故に来報をば許すべからず。 多劫堕獄善体本妙に約して遠く三際の万善を開する時用に立つことは有るべし。 然るに現世は国主万民共業の所感なる故に国土の万民修する処の善悪六分一は国主へ報う義目前に因縁由籍の義あるが故なれば来報とは別なるべきかとのことなり。 殊に優婆塞戒経三田所依の文は題号に供養三宝品と云う故に別しては供養の二字敬田に帰すべきかと云う義を立てて論ぜられたることあり。 されども日述人天有漏の善果と仏辺の所作の義と両途をわけて現在に有漏の功徳を許しこれに依って国土も安全なりといわば有漏来果も許すべし。 無功徳と云うは順次生決定の悪果に約して奪いたまえる御文体なるべし。 その上田と云うは只所依の境と云うことなるべし。 また供養三宝の言も悲敬を含容する意なるべきかと会釈ありし故にこの義その分にて講浣も長く諍われず。 八月二十一日のままにて再発の霜月時分などは沙汰もせられざることなり。 悲田仁恩轍を同じゅうすること日講日浣も同心の義分明なる証拠にはその歳の九月この両人梅嶺寺に於いて巻物をしたためられ、岡部主税並びに同人の御母堂円通院殿その外屋敷の奥方へ遣わされたるに、三田の中の悲田仁恩に相当たることを明らかにのべられたり。 その上日講道理を剋定して公儀へ訴状を上られたる時も、悲田の言を難ぜられたることはなし。 性罪の財体不変と供養の二字譏嫌これ重き義畢竟二箇條の難なり。 供養の言を悲田に加えて呼ぶをとがめて悲田供養の新義といえるなり。 これをも見ざるふりをしてはるか已前の八月のころの法門みがきの意地づくの穿義を取り出して講浣は仁恩と悲田とは不同なりと得られたり。 初より法門の心得各別なりなどといえるはあさましき義に非ずや。 (自証寺の事下の別章にあり) |