破鳥鼠論:3(日講上人)
日講等の四人も徒党かと云いて、一々に名と所とを書き付く。まことにきびしき体なり。 しばし有って城より人来たって、日述等の四人を伝奏屋敷へ召し出ださる。 日講も同道して伝奏屋敷へ入らんとすれども、雑色あたりを払って入れざる故に、よしなく川向かいへ往いてその終わりのようすを見とどけらる。 しばし有って日述法蓮寺は伊予の伊達宮内少殿、日尭日了は讃州京極百助殿へお預けなり。 諸人の悲歎蚊のなくが如くなりし殆ど一万人に及べりといえり。 日講それより三崎へ行きて、諸事下知せられ、自然公儀よりあとの穿鑿などすることあるべしと用心させて、一日有って駒込本浄寺へ赴かる。 日講三崎へ出入の事はや甲州へ聞こえたりと。 同八日に青山より飛札にて内証あり。同十日に三箇寺出でて御朱印頂戴。十一日早朝甲州より日講宿坊駒込本浄寺へ指し紙付。 その次第は野呂妙興寺、松崎妙講寺、玉作蓮華寺、梅嶺寺林応(これは日述の跡三崎法光寺の留守居分の者なり。)五人なり。 日瑤はすでに松崎へ帰らる。 日浣は病気にて使僧をつかわる。 梅嶺寺も芸州屋敷へ遠慮ある由にて代僧をつかわる。 これに依って日講ばかり出でらる。 堅く不受不施の義をつのり、命のあらん限りは祖師の立義を守らんと云い達せられたり。 さて甲州日述派かと問われしに依って、日述は平賀、我等は祖師以来一本寺の野呂にして平賀の末寺にてはこれなく候。 日述派と申す事は候わず。 祖師以来の不受不施を相守ると申すものにて候。 日述も祖師以来の制法を相守られ候故法義は一味にて候と答えられたり。 これ則ちある人(甲州の出頭人三左衛門一宗へ懇志の筋目あるに依って内証あり。)日述派と仰せられば只世間の徒党のとがになりて新義のようになり申すべく候條、只法義の筋目ばかり御答えあるべしと前方に日講へ内証有りし故、かつまた平賀より野呂を末寺と云いかくる公事追っつけこれあるべき事、きっと思い合わせられける故、彼これについて右の趣きに返答せられたり。 浅草本宝寺等の諸寺も野呂の所化分にて出でられ、残清嘉運と次の間にてこの旨をきかれたり。 この日日講駒込を出でられし時は、再び帰らざる分別にてあとのことまで委しく云い置かれたる処に、不思議にその分にて帰らる。 十七日日瑤出でて口振り弱しと云云。 十九日に日浣出でられ、梅嶺寺始終出られず。 林応も三崎の後住かと思うて呼ばれたれども、その義無き故に別儀なし。 日浣日瑤は月迫りに談林へかえらるれども、いかさま穿義あるべしと思われ、日講は二月まで江戸につめて待たるれども、公儀より何の沙汰もなきに依って、余類には御構いあるまじきかの沙汰を聞かれて、二月十三日まず帰談せらる。 去年冬より一向に芸州屋敷と不通すべしと思われけれども、古湊等の三箇寺とは世間通用ばかり也ときかれ、また日浣英然等誘引して今少し様子を見合わせられてしかるべしと日講へ達て異見せらるるを聞き受けられて、旧冬月迫りよりまた屋敷と通用せらる。 さて三月二十九日に小西より平賀の指し紙の裏判を届けたり。 これ野呂を平賀の末寺と云いかくる公事なり。 これも日禅切々甲州にて平賀日領に対面し、野呂は末寺なるべき間公事をめされよ。 もしめされずんばこの方より野呂へ申し分ありなどと云える故に急に取り立てたりとたしかに聞こえたり。 さて重ね重ね公事の用意有って、卯月六日日講諸生数輩を引率して出府せられ、まず青山梅嶺寺へ落ちつかれ則ち玉作へも飛脚を遣わさるるに依って、日浣も追っ付け出でらる。 日講七日の昼青山より駒込の本浄寺へゆかる。 さて同九日に衆議の上にて世間の公事なれば、まず上座ばかり甲州へ出だされたり。 その日の公事思いのままに日領に勝ちてかえり、諸人歓喜の眉をひらき、野呂は清派の惣本寺なりと悦ぶ。 すでにして十一日談所へ帰らんと欲して、駒込より青山へ行かれけるに、その跡へまた甲州より指し紙到来す。 指し紙の趣は尋ねたき旨これ有る間十三日に甲州へ罷り出づべきの義なり。 新受野呂等の義を差し置かず寺社奉行へ邪訴するに依って、指し紙付けたることこの時顕れたり。 十三日日講名代として両人の上座を甲州へ出だされたり。 日明日禅文恕(日純名代なり)前にあり。 即ち甲州野呂も三箇寺の如く、書物致すべき由申し渡さる。 その時日明等申さく、この方の所化を談林へさえ入れ申さば手形なしにも堪忍申すべしと云云。 その時甲州彼等を呵していわく、左様の自由なることを云うものか、それは甚だ非義なりと云云。 その時野呂代僧(随光益遠)申さく、不意の御意なる故に適時に御うけは申しがたし。 日講病気にてこの中の公事にも出でられず候えば、御うけ申しに出でられ候こと少し延引申す義も御座あるべしと云いて座を立たれたり。 十四日江戸中一派の諸寺の衆駒込へ会合種々評議あって、ついに十七日甲州へ日講出でらるる筈に決帰あり。 さて十四日の夜より日講にわかに思い立たれて諫状をしたためらる。 十六日に成就して理元に清書せしめ、水戸殿の儒者辻了的に見せらるるに、訴状の書式言葉使い等別に謬なしと云わるるに依って、十七日日講これを持参せらる。 さて重ね重ね穿義有って、この方より世出の道理を委しくのべらる。 故に甲州腹立ちして急に硯紙をとりよせ、即座に書物するか、いやと云うかの一筆をかかれよと云云。 この時諫状出されてはなかなか取り上げられまじき気色なる故に、明日は幸い公事日にて、井上河州もそろわるる間、その時出すべしと思案せられて、口上の覚えとくとしたためて明日差し上ぐべしと云いて、静かに座を立たる。 さて十八日口上の覚え並びに諫状を遣わさる。 口上の覚えは目安よみ両奉行の前にてよむ。 諫状はかえる。 その時甲州はいよいよ上塗りをするよとて殊の外腹立ちの気色なりと云云。 十九日早朝に和州へ行き、巻物を納め暇乞いせらる。 和州のいわく、広島御前様よりも懇ろに御意見成されたり。 笑止なりと云云。 その時日講申さるるは、口上の覚えにて申し達する如く、日講一身のことは如何様に成り候ても苦しからず。 日本国数百箇寺の寺ども御座候処に、古湊等かように訴人申し候わば一時に滅亡いたすべし。 なげかわしきこと也といわれければ、和州のあいさつに、一身のことは是非に及ばず。 余類には御構いあるまじ。 またこの中古湊などにも重ねては訴訟をやめらるべし。 また談義等にて沙汰も無用なりと異見を加えたり云云。 これより青山に行きて屋敷の衆と暇乞いせらる。 時分柄なる故に遠慮して屋敷へは行かれず、同日ぐれに駒込にかえらる。 芸州御廉中彼方の三箇寺が、野呂等の三談所のことを訴訟するにつき彼が邪義治定と思い定められ、このころより世間の通用も堅く停止、一筋に流人への帰依なり(甲州の内広島屋敷へ慇なる侍あって、三箇寺訴訟の様子を内証にて広島屋敷へ告ぐ、また甲州の家老奥津武兵衛より織田百助殿の母儀玄勝院殿へ彼党訴人の次第かくれなく注進あることを伝え聞かるるに依って、芸州の御簾中彼三箇寺の非義を知りたまえり)。 二十二日の朝酒井雅楽殿へ行きて巻物を納めんとせらるるに、しばし有ってまず帳に付けてかえらるべしと云うに依って、委しく帳に付けられたり。 日蓮宗不受不施の沙門、下野野呂妙興寺住持日講宗義に付いて訴訟の義ありて罷り出でられ巻物持参、まずかえると帳に付けさせられたり。 それより井上河州へ行きて対面閑談あり。 則ち巻物を献ぜらる。 河州諾せられずといえども、日講再三申さるるに依って諫状をおさめらる。 それより板倉内膳正へ行きて対談あり。 その次いでにこれへも巻物を献ぜんと申されければ、内膳正あいさつに、和州河州へおさめらるれば同じことなり。 月番なる間明日評議あるべしと云云。 それより駒込に帰って門外不出にて公儀の裁許を待たるる処に、ついに五月二十八日明朝甲州へ罷り出づべきの指し紙到来す。 時刻を移さずして諸方より注進、野呂妙興寺日講島津飛騨守へ御預け、玉作蓮華寺は相良遠江守へ御預けと今朝城にて仰せ渡しなり云云。 則ちこの夜はねられず、或いは来客の涕泣するを慰め、或いは下火の句を授けられ、また芸州御簾中へ法門一巻したため置かれたり。 既にして日の出に及んで輿を出すに、齋藤市兵衛乗り物の口に伺候してなく。 日講金吾殿のことを引いて、これ程の悦びをば笑えかしとなぐさめらる。 すでにして甲州の表に至って、しばし日浣をまたる。 内より呼び入るるに依って、広間に入って待たる。 日浣来臨の後同道して出座御目付兼松氏某子と甲州と並座す。 日講は上座日浣は次の座なり。 すでにして仰せ渡しにいわく、今度手形致さざること上意違背の義に罷り成る間御預けに仰せ付けらる。 去年なれば同じなみもあれども、再返なる故に遠所へ仰せ付けらる云云。 日講内々遠島とも存じ設け候処に、存じの外軽罪に仰せ付けられ候とあいさつせられ、日浣も井水河水迄御供養とあり、殊に寺領もなき寺を御僉議あるは合点参らずといわる。 その時甲州のいわく、いやさて寺領を下さるればうけぬ義なる故に同じことなり云云。 時に日講また巻物を出して宗旨の作法なる間差し上ぐる也といわるれば、甲州それに及ばずといわれたり。 再三差し上ぐる時甲州のいわく、その方一人宗義を見究められたるにても有るまじ、それにも及ばずと云云。 ここに至って、色代わりあって両人とも座を立たる。 両人預かり所の奉行へは、さきに密かに言い渡しあり云云。 それより日講は飛州の屋敷、日浣は遠州の屋敷へ趣かる。 乗り物の腰を細引きにてしばる。 輿出づるを見て男女声をあげて哭泣し、地にまろぶものおおし。 甲州の表へ群集せる分千人にあまれりと云云。 道すがら辻々の人はその数をしらず。 さて日講飛州の屋敷長屋の狭き所にもかりにてゆいきり窮屈なる体にて日数を送らる。 その間に預かり主島津飛騨守長屋へ見舞いの時、右の巻物を読みてその趣きを談ぜられ、預かりとなる子細をつぶさにのべらるるに、飛州も甚だ感歎せられ、家老松木十郎左衛門内外の才智あるに依って、別して深重の志を称歎せられ、後まで万端懇切なり。 既にして六月二十六日発足あって、日州佐土原へ趣かる。 警護の侍、馬乗の衆並びに歩行衆等厳重の様体なり。 芝口品川川崎金川に至るまで諸人の群集数かぎりなし。 伏見大阪の群集また目を驚かす。 日浣と日講と道中前後しばしば遠見に及ばる。 日講七月十二日に船を出され、海上十余日あって七月二十日佐土原の草庵につかる。 ほどなく江戸より注進にいわく、松崎日瑤中山と公事にはかち、手形の儀に至って新受と一味云云。 またいわく、前方より日瑤は新受へ心を合わせたることたしかに広島屋敷へ聞こえたり云云。 これ寛文第五第六両年のあらましなり。 よくこの次第を見ばこれ邪記の虚設の顕るることも既に半ばに過ぎなん。 彼の新受の徒重ね重ね誑惑の手段を見れば、誠にこれ羊質虎皮の贋僧、竜頭蛇尾の徒ら者なり。 一、次に古湊日明乃至一念もひるむべからず。 弾じていわく、この言聞きごとなり。 常に大悲代受苦を云える人なる故に、これもまことと思われず。 およそ大悲代受苦と云えるは、後心証理の菩薩利他門に赴きて、三道三徳の観見を以て代わって苦を受くることなり。 くわしくは大悲代受苦に七義あり。 皆初心始行のものの規則となることには非ず。 なお一朝の飢渇一夕の寒風にも代わりがたかるべし。 豈一毫未断の凡夫自身堕獄して、人をたすけんと云うほどの超越の道念あらんや。 ただ初心始行の人は実心を以て如説修行の趣きをまもり、なくなくも身を捨て命を亡して人をすすめば、実に大悲の極まりなるべし。 現世流死の二罪を恐怖するもの豈永劫の堕苦を忍ばんや。 これ即ちことを目に見えざる未来へ譲りて、底心は因果を撥無せるものなり。 かくの如きの人、不惜身命を本よりのぞむ処と云えるは、受けこいがたきこと也。 世話に云う、抜かぬ太刀にて人を切るとはかようのことなるべし。 一、然るにこの度もし乃至掌を反すべからず。 弾じていわく、これ七十年以前大仏供養の時受不施相談の趣きなり。 また常楽院法難の時諸山の談合の義これなり。 太閤機嫌あしき時分、家康腹立ちの時なりと云いて義を曲げて後代の妖怪おし出したることなり。 豈寺院の相続を以て法命相続と云わんや。 いやしくも真実の道念を以て説の如く修行せば豈感応唐捐ならんや。 再興時を移すべからず況や仏心諸天常に護法の心に住して冥密の擁護を垂れたまわん。 日明日純等邪曲の分別よりは遙かにまさるべし。 何ぞ私情の計略を以て仏神をこばまんとするや。 法実に正法なりと信ぜば何ぞただ如法に修行せざるや。 法力仏力になお猶予の心を起こす故凡情を以て計度すること也。 これ義戦を起こす時に臨んで自らひきいる軍徒の死亡すべきことを慮ってその義をやむるが如し。 春秋に義戦なしといえるが如く私欲の軍ならばやみぬ。 義に契いたる軍ならばあに死亡を顧みんや。 況や上に大旨をのぶるが如く此方より御朱印をほしがり再三手を作れる故、かようの異義出来て清流還って滅亡に及ぶ。 故に実には汝が招く処の禍なれば責めもまた汝等が身に帰すべし。 一、数日昼夜乃至角やあらん。 弾じていわく、寝食を安ぜざるに本二筋あり。 一には真実に正法の衰弊を思うて身命をも捨てんと思えるものは、まことに寝食もやすかるべからず。 すでに今日もしれずと思える故なり。 二には邪義をかまえて身を全うし、しかも身の失なきようにせんと思う。 その工夫にとりまぎれ寝食をやすんせざるものあるべし。 例せば盗人の物を盗みながら顕れぬようにと思案をめぐらさば、まことにやすきこと、あるべからざるが如し。 一には我執、二には利養より起こりたる護惜建立なること具に下に評するが如し。 一、不受不施と各別の文言を除くべし乃至御朱印頂戴の事。 弾じていわく、不受不施と各別と云う文言をぬきても少しも規模にならざること。 また慈悲の二字入れても同聴異解にして支障にならざることなり。 さて公儀にての挨拶、甲州にてのありさまなど皆作り事なり。 上に日尭の甲州へ出でられたる時の儀式を述ぶるが如し。 また書物文言を難ずることも具に上の如し。 |