破奠記下巻 3(日講上人)
一、他書十六箇條にいわく、万民の供養もまた国主の御供養なり。万民の供養修善皆国主の祈りとなる事。 録内第十九崇峻天皇御書にいわく、たとい上は御信用無き様に候とも殿御内におわしてその御恩の影にて法華経を養いまいらせ給い候えば偏に上の御祈りとぞ成り候らん。 大木の下の小木大河の辺の草はまさしくその雨に当たらずその水を得ずといえども、露を伝え気を得て栄える事に候。 これもかくの如し。 弾じていわく、万民の財体即ち国主の物なりと云わば万民に於いては一分の出世の志供養の義もなくまた万民の愍施も則ち国主の仁恩なりと云わんや。 もし然れば新華厳の六分一国主に酬ゆるの義如何か消せん。 是一 万民は世儀の輸税有って国主の所領を我が財体となし我財としおわってまさに供養を設けもしは愍施を行ずるなり。 これに依って遠く功を帰して国主の功徳として論ずる辺あるなり。 何ぞ顛倒して義を解せるや。 是二 然るに今の御書の意は頼基公の勤仕に依って主人の江馬殿より得る処の財物等なれば我が所有となれるものなり。 それを以て法華経並びに行者を供養する故に自身その功徳の大分を得るなり。 然りと雖もこの財物本主人の恩なる故にその功を以て本に帰して論ずれば遠く江馬殿の祈りともなるべしと云う義なり。 然れば遠く財体の功帰する辺に約して祈りとなる辺を論ずと雖も江馬殿より金吾殿へ給わる処の財体は世間奉公勤仕の因縁由緒あって給わる処なるが故に直ちに臣下の供養となる義にはあらず。 万民国主の軌則もこれに准じて知んぬべし。 万民世間の因縁あって国主の仁恩を蒙り己が財物としおわって一転して出世供養を修する義なり。 何ぞ非義を依憑とするや。 次に譬えの心彼が所解の如きは大いに違却せり。 まず彼が心を言わば雨水を以て主人の恩沢に比し大木大河を以て頼基に類し小木並びに河辺の草を以て祖師に譬える意なるべし。 この義にしても臣下の供養直ちに主君の供養となるには非ず。 何となれば天雨を大木に下すはこれ仁恩なり。 大木露を小木に伝うるはこれ供養に当たるが故なり。 雨露その体一なりと雖も天と大木と一対大木と小木と一対その意各別なり。 大河の譬えまた然なり。 然れどもこの義にしては上は御信用なきように候えどもと云う句かつて通じ難し。 これ則ち小木辺草の直ちに大雨河沢にあたらぬを以て御信用なきに比してまさにその義剋定するなり。 今まさしく譬意を述べていわく、雨水とは妙法の法水なり。 大木大河は頼基なり。 これ直ちに相対して感応道交を論ずるなり。 小木辺草とは主君に譬えるなり。 これ則ち主君直ちに妙法の法水を蒙らざること、小木辺草の直ちに雨沢にあたらざる如くなりといえども、頼基の大木大河へ直ちに法水を得てその余沢を主君に及ばしむるを彼の小木辺草に比する義なり。 大木小木相寄り大河辺草相よる如く主従昵近の因縁有る故に遠く主君の功徳となるなり。 法喩昭然なり。 誰か疑わん。 これ則ち世間の義を取るに非ず。 まさしく法水利益の功用祈祷となる所以を論ずる故に大乗経王を持つを以ては臣といえども大木大河に譬え、権小の卑官をつかさどる故に主君といえども小木と辺草とに比するなり。 薬草喩品の三草二木の如し。 また孟子にいわく、繆公しばしば子思にまみえていわく、いにしえ千乗の国以て士を友とする事如何と。 子思悦ばずしていわく、古人言える事有り。 いわく、これにつかうと云うや。 豈これを友とするというとや云わんや。 子思の悦びざるや豈位を以てする時は則ち子は君なり、我は臣なり。 何ぞ敢えて君と友たらん。 徳を以てする時は則ち子は我につかえる者なり。 いづくんぞ以て我と友たるべきといわずや。 千乗の君これ友たらん事を求むれども得べからず。 しかるを況や召すべけんやと。 豈仏家の義とわりふを合わせたるに非ずや。 破奠記 巻下 終 |