萬代亀鏡録

破奠記上巻 2(日講上人)

第三 他遮難の下
一、他書 一箇條 いわく、問う方便品にいわく、『正直捨方便但説無上道』。
第二譬喩品に説く、『乃至不受余経一偈』。
既に捨方便と説き不受余経という。
知んぬ謗施を捨てて受くべからず如何。

答う、布施供養について法施財施の別有り。
いわく財施と法施とその体異にして用いる意懸隔なり。
その所以は余経は方便随他意の教えにして無得道なるが故に捨方便と説き、不受余経一偈とのべたり。
他の施物は謗者一乗を帰敬す故にもっとも許してこれを受くべし。
これ則ち大意大いに異にして財施と法施と同じきに非ざるなり。
また一宗より謗者に施さざるは自他共に諍い無く財施は彼を帰敬するが故にこれを誡むるは法味を施し慈悲利物の故に専らこれを与う。
もし財施と法施と全く同じなりといわば、財施を禁じながら何ぞ法施を以てこれを他に授与せんや。
但し一乗説法他に聞かしめざらんや。
法界万霊の回向に法界の謗者を除かんや。
或いは読誦等の音声他聞に及ばざらんや。
全くその理なし。
知んぬ財施と法施と別なる事を。
故に捨方便等の文を以て同例して難ずべからず。
云云

弾じていわく、ああ義門を設け譬例を立つと雖も?曲至極せり。
およそこの方便譬喩の二文不受の明証たること経文本教行人理の四一を具足する故なり。
殊に正直捨方便の文は古来不受の証を経文にみる歴代相伝の義なり。
捨の言不受の言何ぞただ教法に限らん。
文文句句四釈四一の格を用うるは天台妙楽の指南なり。
況や的当せる四一の文なるをや。
一び捨といえば相待絶待の二義を論じて相待判粗今昔対向は云うに及ばず絶待妙捨の時またその相貌を絶棄して用いず私志記等の如し。
一と云うを以て猥りに施開の法相を濫することなかれ。
然れば則ち人理教行有帰と云うが如きんば、昔の三今の一に帰して体外差別の三は永く所廃となる故に教法を受けざるときは権理をも用いず、権人とも共せず、教に依って行を修する処の檀度の行もまた捨てて受けざる事必然の理なり。
是一

それ法施に権実あり財施に信謗あり権法を受けざる故に永く謗施をうけず実法を受持する故にまた信施を受用す。
その揆一なり。
もし他に供すれば彼を信ずる義になる故にこれを施さず法施を施すは彼の強敵を粗軟の二語を以て教訓する義なり。
強いて施して逆縁を結ぶ。
何ぞ財の施と法の施と同日に語すべけんや。
是二

また法施は無碍にして財施は質碍の法なり。
質碍の法なる故に彼に施せば与同助成の失をまねくなり。
法施は無碍の体なる故に彼に施して逆縁を結び法界の回向また通ずるなり。
受の日また然なり。
財施は質碍の法たる故にこの方へ受得すれば与同乱雑の失をまねく。
他宗の法施は信ぜざれば受くる義にならず。
何ぞ不解の甚だしきや。
是三

法施を施すは諌言を加うる義なり。
財施を止むるは彼をいためて悪を止めしむる故にこれまた大慈の教訓になるなり。
是四

また不信の徒来たって法義を聴聞し仏像を礼拝するはすでに改宗なき故に順縁に非ず逆縁の摂属なり。
逆縁を結ぶ事これ今宗の正意なり何ぞ遮止せんや。
但し汝は財施を施すを逆縁となると思うや。
逆縁を肝要とする義なるが故にこの方よりも義絶して施さざるなり。
故に法施を施すと財施をやむると共に逆縁の化導なりああくらいかな。
是五

また義を以て法施の中に異を弁ぜば権教の法施は隔歴差別にして本質碍の法なる故に回向すと雖も法界に通じがたし。
また逆縁の化道にも権法を用ゆる理なし。
またこの方に権を信ぜざれば権教の徒何ほど回向すと云えどもこの方回向を受くる義なし。
是六

古来他宗の僧俗縁等について来たって諷経を勤むるを許し来たれり。
汝が義の如きんば爾前を信受するになるといわんや。
笑うべし。
同じ法施の中に無碍の正法を以てすれば、彼堅く拒んで信ぜずと雖も遠く通ずる理あり。
彼の謗徒施すに邪法を以てするとき信ずれば大いに害をまねく。
故に信ぜずして通ぜしめざるなり。
是七

また他に施を制禁し他経を信ぜずといえども、折伏才覚のため所破便易の為に或いは他経を点検し或いは他宗の講釈を聞く事あり。
汝が義の如きんばこれをも他宗を信ずと云わんや。
故に信不信を以て区別せばその道理自ら明らかならん。
もし彼が難勢の如くんば目をふさいで他経をも見ず、他宗の堂伽藍をもみず右往左往の念仏の哀音耳をふさいできかざるべしや。
是八

また如説の行者他宗の亡魂に回向し他宗の病災を祈ると雖も、その施を受けざれば雑乱の失なく還って冥途に通徹して妙経の功力を顕し、また現に祈祷の霊験有って彼をして改宗せしむる手段となれば与同の義なし。
然るにかの謗者の施を受けてもしは祈誓もしは回向をなすときんばこの方大いに過失を得る。
故に回向祈祷共に有名無実にして功徳を失うなり。
是九

示していわく、他宗に財施を施さざるは助成与同の二過を招く故なり。
故に施をやむるを以て断頭に擬する心と施をやめて義絶する心とあるべし。
そのうちに畢竟与同を嫌う義を以て正意とすべし。
この不施の義に反例して不受の義を思わば、この方へ受くるもまた与同のただ中なり。
最も強く禁ずべし。

一、他書にいわく、喩えば財施は敵陣の財宝の如く権教は敵陣の刀杖弓矢鉄砲の如し。
敵の財宝は取るべし刀杖等は受くべからず。
敵の放つ弓矢を受くれば身命を害す。
敵の財を取れば味方の助成なる故なり。
また味方の財宝敵に授与すべからず。
味方より放つ弓矢等は敵に当たるべし。
当たる則んば敵を亡ぼす。
力を与うる則んば敵力を得、味方は力を失う。
彼一宗に逆する故に法味を与うべし謗者の罪を殺す。
故に財施を与うべからず。
謗者の助成なるが故にこの理必然なり。
これ則ちこの方の財と法と施と不施と彼の方の財と法と受と不受と相対して意得べき事。

弾じていわく、理不尽の譬えを設けて笑いを多識にとる。
この譬えは還って不受の潤色となるべし。
今問う敵の財を取る事奪い取る義なりや、敵方より送る義なりや。
もし奪い取ると云わばこれ強盗なり姦賊なり。
もし彼より送るといわばこの方より施さざるに敵何の子細有ってこの方へ施すべきや。
義なくして施さばあに恐慮せざらんや。
或いは毒害の手段、或いは反間の謀略なるべし。
法またかくの如し、自宗の行者と他宗の法敵とまさしく権実のいくさにとりむすぶ日、かの他宗の敵人吾が宗を供養すべきの理なし。
理なくしてこれを施さば自宗へ与同の毒害を加え、或いは機嫌のまいないを出して一味の法中を惑乱さするの義なるべし。
これを思わざらんや。
是一

また敵の兵糧をかすめ来たって城を破らんとするは強将の義に非ず、何ぞ折伏の弓箭を放たざるや。
是二

弓箭を放つべき程の敵の送る処の兵糧これを納受し助けられながら還って敵をたぶらかす。
これ豈人倫の作業ならんや。
是三

日本一州他宗なお五分の四ならん。
もし彼の兵糧のつくるをまたば何れの時か落城の義あらん。
何ぞ義戦を起こして分齊相当に分取り高名せずしてだましどりの義を巧むや。
是四

味方の兵糧は仏天の加護国主の仁恵信檀の所賜何の不足有って強いて敵の兵糧を貪り誑惑多欲の醜名をあぐるや。
是五

況や汝前には信仰の志萌すと云う。
これ実に帰依するの義ならん。
今また理を以て降参せしめずして彼を誑かし兵糧をつくさせんとしてこれを受くると云う、大なる自語相違に非ずや。
手をうって笑うべし。
是六

汝常恒国主に追従して上意を重んずる顔をしながら今はまた不意に国主を以て敵とせり。
ああ国主の兵糧いずれの時か尽きん。
蠡測の浅才誠に羞恥すべし。
然るに謗国の過をのがるる祖師の炳誡を忘れ君王の恩を報ずる諌言の忠節をなみして内外矛盾し言行乖角せり。
豈益稷にさす処の面従後言の大悪党に非ずや。
涅槃に禁めたる無慈詐親の大怨敵に非ずや。
是七

次に弓箭の譬えまたあたらず、敵陣の弓箭微少にして根なし。
況や味方の軍兵堅固の甲冑を着せり、何ぞ害をなさん。
味方の放つ所の弓箭は強大にしてしかもするどなり。
百たび放って百たびあたる。
彼の敵これを見て降参するものあり、なお降参せざるあり。
法またかくの如し、権教の力用は微弱にして結縁下種の根なし矢なれば、円機にあたることを得ず。
況や吾が宗の行者信力勇猛権実永異の堅甲を着るをや。
妙経の力用は広大にしてまた強し。
下種のやじりするどなり。
彼に当たって煩悩を治す。
信謗彼此決定成仏の深法なる故信ずるものは弟子檀那となる。
降せざるものも逆縁を結んでついにこれに依って脱す。
何ぞ思わざるや、汝本味方の軍兵たりといえども信力の堅甲を着せず、すはだにしてみだりに敵にたぶらかされ、あくまで毒箭を膚に蒙って絶倒するが如し。
悲しいかな、今更に一の譬えを以て迷者を暁喩せん。
譬えば人有って吾が主君父母及び師長に対し叛逆の心を起こし怨敵となることあらんにその臣下孝子及び弟子等はただその敵を対治せんことをのみ晨昏に志して敢えて音信等を通ずる事なかるべし。
そのみぎり彼の叛逆の人ひそかに軟語を以て財物を送らば、臣子の身としてこれを受くべきや否や。
もしこれを受けば逆人と一味にして君父を忘れたるものなり。
鼓をならして棄市すべきの罪人なり。
法もまたかくの如し。
主師親三徳有縁の釈尊の金言に背き、諸経中王仏母実相諸仏所師の三徳を備えたる妙法をそしる処の他宗謗法の悪人をばただ大悲心に住し折伏して治罰すべきにあり。
然るに彼が施すところの財物を法華の行者釈尊の眷属たるものゆるしてこれを受けば法敵仏敵の大罪を招いて火坑に墜堕せんこと必定なり。

一、他書二箇條にいわく、問う或いはいわく法師功徳品にいわく、『是人舌根浄終不受悪味』。
この文明らかに謗法供養の悪味を受けざるの文なり。
この義如何。

答えていわく、以ての外の誤りなり。
この文相似六根清浄の中の舌根清浄を説きたる文なり。
舌根清浄の人は世間の粗食を食すと雖も舌根清浄の功徳に依ってその悪味を変じて上上味と成る故に不受悪味と説くなり。
謗施を受けずというに非ず。
これを以て不受の証となす事甚だ笑うべし。
今つぶさにその長行の文を引いてその惑を暁すべし。
長行の文にいわく、『若好若醜』乃至『無不美者』。
この文を以て意得べし。
もしこれを以て強いて証と為すはもっとも謗者の供養を受くべき者なり。
その故は受けて変ずるが故なり。
云云

弾じていわく、先哲引用の心を解せずみだりに邪難を加う。
これ直に証するには非ず、文意を探って転用するならん。
およそ今経は文々句々待絶の深意をふくみ六即の妙旨を兼ねたり。
然れば則ち今の文相似即の文なりといえどもまたまさに名字即に通ずべし。
名字即の行者親しくこの文を以てその身に体認せば悪味をえらぶ義辺を取らずんば忽ちに後位に濫同せん。
豈初心の行者受けて変ずる自在の義に依用せんや。
古賢なお断章取義の法あり、随義転用何ぞ必ずあやしまんや。

一、他書三箇條にいわく、問うていわく、祖師録内三十八巻乗明書にいわく、但し真言禅念仏者等の謗法供養を除去す。
譬えば修羅を崇重しながら帝釈に帰敬するが如きのみ。
この文明らかに謗施を試むと見えたり如何。

答えていわく、この文は信者謗者の供養の功徳軽重を判ずる文にして謗施を受けざるの証に非ず。
この書の意にいわく、昔金珠女は金銭一文を仏像の箔と為して金色の身と為る。
今の乗明法師は銅銭を法華経に奉る。
劣れる仏を供養する金珠女九十一劫金色と為り、勝るる法華経を供養する乗明は一生に仏位に入るべし。
但し同じく法華経を供養する中に謗者を供養すれば一生に仏位に入る事これ無し。
修羅を崇重して帝釈に帰敬するが如くなる故なり。
文の意かくの如し、始末を見ずして一文を取り多人を誑惑するや。

弾じていわく、これ曲会私情の邪義にして祖師の本意を覆蔵するの僻案なり。
吾が祖妙の中何れの処にか謗者不堕の文ありや。
今略して一二を引いて明証とせん。
録内二十一巻秋元抄二十四にいわく、今日本国もまたかくの如し持戒破戒無戒王臣万民を論ぜず一同に法華経誹謗の国なり。
たとい身の皮をはぎて法華経を書し奉り、肉を積んで供養し給うとも必ず国も滅び身も地獄に堕ち給うべき大なる科あり。
ただ真言宗念仏宗禅宗持齋等の身を禁めて法華経によせよ。
天台六十巻を空に浮かべて国主等には智人と思わるる人々の或いは智の及ばざるか、或いは知って世を恐るるかの故に或いは真言宗をほめ、或いは念仏禅律等に同ずれば彼等が大科には百千超えて候。

また二十三巻阿弥陀堂加賀法印祈雨御書四丁にいわく、眼前に現証あり、いのもりの円頓房清澄の西尭房道義房かたうみの実智房等は貴かりし僧ぞかし。
これらが臨終は何が有りけんと尋ぬべし。
これはさて置きぬ、円智房は清澄の大堂にして三箇年が間一字三礼の法華経を我と書き奉って十巻をそらに覚え、五十年が間一日一夜に二部づつ読まれしぞかし。
彼をば皆人は仏に成るべるしと。
云云。
日蓮こそ念仏者よりも道義房と円智房は無間地獄の底に堕つべしと申したりしがこの人々の御臨終はよく候いけるか。
何に日蓮なくばこの人々をば仏になりぬらんとこそおぼすべけれ。

また月水抄十八巻二十八丁にいわく、但し一生が間一悪をも犯さず五戒八戒十善戒二百五十戒五百戒無量の戒を持ち一切経をそらに浮かべ、一切の諸仏菩薩を供養し、無量の善根をつませ給うとも、法華経ばかりを御信用なくまた御信用はありとも諸経諸仏にも並べて思し召しまた並べて思し召さずとも他の善根をば隙なく行じて時々法華経を行じ、法華経を用いざる謗法の念仏者なんどにも語らいをなし、法華経を末代の機に叶わずと申す者を科とも思し召さずば、一期の間行ぜさせ給う処の無量の善根も忽ちにうせ、並びに法華経の御功徳もしばらく隠れさせ給いて阿鼻大城に堕ちさせ給わん事雨の空にとまらざるが如く、峯の石の谷へころぶが如しと思し召すべし。
もし謗人万行徒施して堕獄の義きわなりなば功徳の軽重を判ずる文に非ざる事あきらけし。
是一

豈次生無間の者と一生入仏位の人と相対して甲乙を論ずる義あるべけんや。
泰山と蟻塚と優劣を格量せば愚妄の人に非ずや。
汝吾が祖を以てかくの如き痴人とするや。
是二

況や謗人供に設くれば長氷に水を添うるが如く、いよいよ雑乱の失を招いて大罪をます、あに浅功徳をゆるさんや。
是三

他宗の人吾が宗に帰伏しても下地の謗法の行業は善悪相翻の相対種の開会には預かるべし。
種類には預かりがたき古来の深義をしらず。
故に謗人所修の善に浅深を論ず哀れむべし。
是四

今まさしく文の意を点示せん謹んでこれをきけ。
勝れる経を供養する一生に仏位に入らざらんやと云うに付いて伏難あり。
いわく、もし妙経を供養するもの仏位に入らば真言念仏等の余宗妙経を供養するもまた仏位に入るべきや。
故に釈していわく、かの真言等の謗人は誹謗法華の大罪人なる故に実に妙経を供養する義に非ず。
論ずべき功徳なく受くべきの理なし。
故に一向除去してこれを論ずべからず。
さて次に譬えを以て除去の所以を示したまう意をとってこれをいわば修羅を崇重するもの帝釈を帰敬する時、帝釈豈受くべけんや。
謗法の人法華の行者の処に来たって法華を供養する、あにこれをうけんや。
故に除去するなりと云云。
これその文の的意なり。
しかるに譬えの心を以て上に反していわば不受の義を含む事天晴地明ならん。
すでにこれ表裏矛盾の徒者なる故に、一向に他宗にして法華を信せざるものに劣れる悪人なること明かし、他宗の上に在って法華をもてあそぶ、なおこれ人を迷わす大罪人と判じたまえり。
況や自身謗法の上に雑乱の失を他の正法の行者に加えんとする悪義云うに及ばざる事なり。
また除去の二字直ちに謗供を除去すと見ても妨碍なし。
除去の去の字その便ある故なり。
諸文に或いは除非すと云うが如し。
されども只今的示する義最も上下の御文体に相かなえり。