萬代亀鏡録

破奠記上巻 1(日講上人)

破奠記 序(日講上人)

身延山の日奠一巻の書を記して受不の邪義を弘伝す。
大旨道理文証遮難三科、相分かれたりといえども條箇乱階にして理証混淆せり。
その遮難の文、十六科に分かれたるを以て世人宜道が十六箇條と称す。
義を立つる事未だ皮膚の間をはなれず、文を引く事また口耳の学に似たり。
譬えをかる事顛倒して邪弁縦横なり。
例を述する事??曲にして遁辞繚乱たり。
ああ宜道は博才を以て受徒の間になる、何ぞその浅解薄量笑を後生にとるや。
これ則ち邪智百非をはせ、奇弁万是をみだるといえどもついに朽ちたる木をばえりうべからず。
糞土の墻をばなだらかにすべからざるのいひか。
今童蒙の求めに応じていささか筆頭を労し直ちに彼邪解の荊棘を翻倒して快く捨邪帰正の入路を開く。
豈吾が宗に於いて少補なしとしもいわんや。
寛文第六龍集丙午の春毫を談林の清閑亭に把る
 下総野呂長崇山妙興寺第二十世 日講

破奠記 巻上

初に道理を述ぶる下條目を立てて云う。
初二條は別義無し故にこれを牒せず。

一、他宗に施さざる道理明らかなれば則ち他宗の施物を受くべきの理自ら明らかなる事。
一、総じて布施供養とは帰敬を以てその義となし、助力を以てその功と為す事。
一、然ればもし他宗を供養せば謗人を帰敬する有り、また謗法を助成するの咎有り、故に堅くこれを制戒す。
 この道理を以て受くべき道理を知るべき事。
一、もし謗者一分も法華を帰敬してこれを供養せば何ぞこれを押さえんや。
 また正法の行を助成す、何ぞこれを受けざらんや。
以上他書

評していわく、初一行は総じて受不施の義を標し次の一行は帰敬助力の二義を以て布施供養の旨帰とし以て受不施の義の張本とす。
後の二箇條は上の二義を追って次第に不施の義と受の義とを点示するなり。
今これを難ずるにまず不施の二義に反例して不受の義を決定し、次に正しく受の邪義を破斥せん。
初めの義について自ら二つ。
初めの義をいわば謗者を帰敬すると謗供を讃歎すると眼目の異なり。
故に知んぬまた帰敬を戒めて彼に施さずんば豈讃歎して彼の施を受くるの理あらんや。
およそ教行の二途は車の両輪の如く人法の両轍鳥の双翼に似たり。
他経を絶棄してこれを用いざるが故彼の教を受け行ずる行法をも受くべからず。
然るに他宗所修の布施供養は豈六度の中の檀波羅密に非ずや。
何ぞこれを受けて混乱すべけんや。
その所持の法を隔てば豈能持の謗人の供養を讃歎して受くべけんや。
二五を知って十を知らざるの弊悲しむべし。
これに依ってこれを見れば還ってこれ不受の道理なり。

次に謗人を供養すると謗法を助成するになるが故施すべからずと云える事、今反詰していわく、受くるもまた謗法を助成するなり。
その故は吾が宗弘通の要領ただ折伏の方軌を用ゆるにあり。
これ則ち権実の起尽を強く立て自他の差別を盛んに談じて捨邪帰正せしむる義なり。
然るに謗供を嘆じてこれを受用せば彼権実等同の思いをなし永く改邪伏正の期有るべからず。
豈彼が謗法を助成して正法へ移る念をやめしむるに非ずや。
彼法華の行者を供養すると云う事真実の供養に非ざるのみならず還って正法の行者を染汚する故に能供の他宗もまたその罪垢をます。
故この供養を讃歎するは謗実を助成すること必せり。

次に他受の邪義を述する時もし謗者一分も帰敬して供養しまた正法を助成するの行を受けざらんや等と云えるは上の二義に反例して受くべきの義をつのれるなり。
今これを破斥せばおよそ謗者の帰敬と云えるは他宗年来の宗旨を改めて当宗に帰伏するの義なり。
未だ捨邪帰正せざれば修羅を崇重しながら帝釈を帰敬する如きの帰依なり。
豈この方よりこれを容受すべけんや。
是一

また他宗の徒法華を供養せんと欲する志をたづぬるに彼権実の異目を弁えず。
およそ仏教とさえいえば釈迦の説法にしてかわることなしと思えるなおざりの心なり。
もしこれを弾呵して権実の異を弁明せざるは還ってこれ雑乱を許すなり。
然るに弾呵の要術施を遮してしらしむるにしくはなし。
何ぞこの炳誡を破るべけんや。
是二

また汝が徒談義説法する時なまじいに権実の起尽を口に誂えてののしれり。
身口はこれ一双の法なり。
口にこれを呵しながら身に許してこれをうくる、豈言行不相応の誤りに非ずや。
儒なおかくの如き不義をいれず、釈氏豈これをゆるすべけんや。
是三

況やまた謗者の供養を見聞するに或いは親類の亡魂法華宗たるに依ってその俗縁に因んで法華の僧徒に施を行ずるあり、或いはその主君等の逝去について心ならず宗家の寺院に参詣を企て香典等を捧ぐるあり。
概ね軽賎の供にしてついに帰敬の義に非ず。
豈幸を求めて還ってこの方よりゆるして帰敬の義とかすめんや。
是四

況やまた汝等帰敬の義を拒まざるはこれ信仰の微志きざし改悔の寸心起こる故といいながら何ぞ一分の施心をも発さざる者にあてて勧物を促し俯して謗法を貪るや。
池上石檀の修営並びに京都妙顕寺宝塔の勧進分明の現証なり。
是五

伝教大師慈恩を破していわく、法華経を讃むと雖も還って法華の心を死すと云云。
法華を講讃するすら尚その道理にあたらざれば還って法華の心を殺すの失を招けり。
況や毀謗をやめざる者濫りに施すに誡めずしてこれをゆるさば宗家のたましいを失い三説超過の妙典をなみするの至りにあらずや。
是六

不受と不施ともと二羽両輪の如くなる制戒なるに不受の義をみだる故に不施の法度もまた立たず。
法華の檀越宗家の僧侶にならべて他宗の僧を供養し、受不施の僧もまた同座の供養を受くること都鄙の風俗となれり。
何ぞ無慚の遁辞を設け渡世の媒とするや。
是七

況や不施を制しながら社参物詣をゆるす豈これ他宗謗法の人に施すの最上にあらずや。
是八

もし陳じて神国なる故に社参のみを許す。
他宗の堂舎に参ることを許さずといわば、社僧は多く真言等の謗徒にあらずや。
況や清水愛宕等正しく謗地の仏閣にあらずや。
家々推し出して愛宕の札等をおす、豈雑乱の至極にあらずや。
是九

ただ永く他宗の捨邪帰正の入路を塞ぐのみに非ず受不施の檀那また信力の根底を失い、権実雑乱の思いのみにして宗家に於いて護惜建立の思いなく還って他宗の造営を助く。
これに依って諸国の身延参詣もとどまり、江戸近辺の池上等の伽藍衰損せること眼前の証拠なり。
豈陰毒陽報の理さえぎり難き義に非ずや。
これに依っていよいよ他宗に親附して媚び諂うて破損普請をもし、衣糧のたくわえもせんと思えるのみなり。
豈衰へはてたる義に非ずや。
況や祖師以来の正流をくむものを陥墜せるをや。
是十

次に正法を助成するの行何ぞこれを受けざらんやと云う事また大なる誤りなり。
彼はただ理を曲げても身命を相続するを以て正法を助成すととりなせるものなり。
彼の謗者供養をなすに付いて正法の行者与同罪を招く故に大いに正法を破失する故にこれを制禁する還って正法の護持なり。
是一

況や他宗の供養本是助成正法の義ならば、何ぞ破奥記の中に大仏供養のことを貴命辞しがたき以て法華宗またその数に列るとかき、また徳善院へつめて供養を辞去せる旨を述べたるや。
中古の風儀を追ってしばらく他言をのぶと陳ずと云えどもついにこれ曲会なり。
もし助成正法の義ならばこの方より勧むべし。
何ぞ中古の不受の作法あししとしりながら誤りを追うや。
是二

また身延池上相論の時の訴状にも先年の大仏供養の事を述すとして貴命によるを以てとかけり。
これ則ち供養の義本宗家の受くるところに非ずと雖も貴命に依るを以て義を曲げて受くる義に非ずや。
然るにまた或いは国主一人の受の義を云い、或いは万民も苦しからずと云い、或いは万民をも勧めて受くるが功徳なりなど云い散らし、七転八倒して種々の邪義を構え自語矛盾するはこれ何事ぞや。
是三

いにしえの聖賢堅く不義の俸禄を辞してこれをうけず。
孟子にその義に非ずその道に非ざれば一介も以て人にとらず一介も以て人に与えずといえるが如し。
然るに伯夷が如く何ぞ餓死せざるやと云うは正法弘通の志を忘れたるものなり。
孔子孟子別途不義の俸禄を辞すと雖も国土の通恩をば受用して儒道を世間に興さんと欲するなり。
伯夷は隘也の論あることこれを思うべし。
是四

世間の役人なお不義の賂を受けず。
もしこれを受くればその行跡乱脱にして世の機嫌するのみならずついにその身を破るなり。
もししからば賂に依って還ってその身を損ず。
当分は助成に似てついには怨嫉たり。
況や他宗の謗者宗家骨目の制戒を破らんと欲してこれを施すものあり。
豈与同してその失を招かんや。
盗賊与党の引入これに過ぎたる罪人あらんや。
細人粗人二倶犯過の道理教行人理その格一同なり。
是五

一、他また條目を立てていわく、仏法の大意は暫くも権小の心を発せばこれを呵責し、実大乗に帰趣する者はこれを讃歎す、これ仏法の格式なり。
 これを以て他に施を禁止すれば他の施を受くべき道理知るべき事。
 以上他書

弾じていわく、権小の心を発するを呵し、実教に帰趣するを嘆ずるは定まれる格式、立敵共許なり。
然るに今論ずる処は謗施の義なり。
彼の能供の者常恒執権の情ふかく不退に謗実の思い厚し。
何ぞ呵責せずして却って讃歎してこれを受けんや。
然れば則ち謗法の徒は常恒権小の心を起こすものなり。
何ぞ与同して毒を以て薬に交えるの失を招くや。
また実大乗に帰趣すとは日頃の誤りを改めて吾が宗に帰伏する義なり。
もし捨権入実せずんば尚これ謗施なること治定せり。
誰かこれに迷わんや。

他引証の下
一、他宗に施さざる証文の事 涅槃経第十、一切大衆所問品にいわく、純陀仏にもうして言く、世尊仏の所説の如きは所有の物一切に布施す皆讃歎すべし乃至一切讃歎すべし。
 安国論十七これを引く。
 安国論二十丁にいわく、たとい五逆の供を許すとも謗法の施を許さず。
 また二十四いわく、それ釈迦の以前の仏教はその罪を斬ると雖も能仁の以後の経説は則ちその施を止む。
 災難対治書三十三巻六十六にいわく、問う、如何か対治すべき。
 答えていわく、治方また経にこれ有り涅槃経にいわく、仏ののたまわく唯一人を除いて余の一切に施す正法を誹謗しこの重業を造る唯々かくの如き一闡提の輩を除いてその余に施すは一切讃歎すべし。
 已上

 この文の如きは施を留めて対治すべしと見えたり。
 また二十九巻頼基書十八にいわく、当世日本国の一切衆生釈迦仏を抛って一向に阿弥陀仏を念じ、法華経を抛って観経を信ずる人或いはかくの如く謗法者を供養する俗男俗女等略せば五逆罪七逆罪八虐已上二十の逆罪を存じの外に具足す。
 これ則ち謗法者に帰敬して供養せば謗者を信ずる罪ある故にこれを禁ず。
 また謗者の助成となる故にこれを制す。故に知んぬ、もし正法に帰敬し正法の行者を供養せば何ぞこれを抑えて受けざらんや。
 また正法行者の助縁と為らば何ぞこれを受けざらんや。
 また供養に応じて彼に功徳を与う、何の不可有らんや。

 弾じていわく、およそ不施の義は自他共許なる故にしばらくこれを置く。
 涅槃経等の文また不受の証文なること疑うべからず。
 まず初めに涅槃経の文をいわばおよそ純陀はこれ俗人なる故しばらく施の辺を挙ぐるなり。
 問者もし比丘等ならば不受の義を挙ぐべし。
 これ則ち受の義は僧に約し施の義は俗に約することその便宜あるが故なり。
 今時他宗より一宗の檀那を供養するの義なければこれに在って受不受を論ずべからざるが如く純陀すでに俗流なる故ただ施の義に約して供養を止むることを述せるのみ。
 次に安国論に涅槃経の文を引きおわって能仁以後の経説は則ちその施を止むと判じたまえることこの文勿論他宗に施すことを止むる文なりと雖も宗家古来相伝してまた不受の明文とするなり。
 すでにその罪を斬る程の罪人なれば実に誹謗正法の一闡提断仏種の人なり。
 譬えば我が主君父母の敵の如し。
 儒なお同じく天を戴かざれと戒しむ。
 釈門必ず義絶して彼の供養を遮すべし。
 道理必然の上は細釈に及ばず。
 災難対治抄その心これ同じ。
 豈災難を起こす根源となる処の所対治の敵の供養を讃めうくべき理有らんや。
 次に頼基抄の御文体また不施の裏に不受の義明らかに顕れたる文なり。
 その故は他宗の俗男俗女すでに常恒に弥陀を念じ観経等を信じ並びに謗法の僧侶を供養して二十逆罪を犯したるものなり。
 かくの如く逆罪の人改悔懺悔せずしてただ俗縁等の小事に託して非人に物を与うが如く軽忽にする処の布施供養を唯実の行者受くる義あらんや。
 是一

 況や不施の義断頭にかゆと雖もそれ実に与同罪を誡むるにあり。
 与同罪豈ただ施のみならんや。
 受もまた与同なり。
 世間に於いて非法を行う極悪人には施さずまた受けず堅く義絶して与同の難を払うが如し。
 是二

 然れば則ち帰敬助成の二義共にかけて功徳を得ざるのみならず還って堕獄の罪をます。

一、他書いわく、総じて仏法修行は化他利生を以て本意と為す。
 謗者正法の行者を供養して功徳を得ざるや否や。
 もし彼功徳を得ば何ぞ受けざらんや。
 彼その功徳を得るに受けざればその利益を欠く、豈道者と云わんや。

 弾じていわく、逆謗の罪人これを施す時与同して受くるときんば謗法の上に重罪をかさぬ。
 その故は正法の行者に更に雑濫の失を蒙らしめてその正行をみだる故なり。
 故に功徳とならざるのみに非ずその罪還って彼の謗人に帰す。
 譬えば世間に大王の世子をかたらいをとして行跡をみだり位を継がざる様にしなす時は世子すでに非に落ち入れる故にその世子の当位に助成するに似たるものもついに大罪を蒙るが如し。
 もしまたその施を行ずるとき堅く制止してこれを受けざるは大悲の至りなり。
 王子の悪友に同せず還って訓化して他をして善人となすが如し。
 法喩心を以て知んぬべし。
 涅槃疏に慈無くして詐り親しむは即ちこれ彼が怨なり彼の為に悪を除くは即ちこれ彼が親なりとはそれこれをいうか。
 何ぞ受けざるを以て利益をかくと云うや。
 受くれば自他共に損を招く。
 何ぞ道者と云わんや。
 総じて謗者の供養無功徳のことつぶさに下に論するが如し。

一、他書にいわく、たとい信者の施物と雖も利養の為にこれを受くれば針毫の施物と雖もその罪消え難し。
 たとい謗者の施物と雖も利益の為にこれを受くれば大山と雖も何の不可有らんや。
 元亨二十七二十四にいわく、もし自ら有すれば針草と雖も消え難しと為す。
 もし他を保てば巨万と雖もまた恬如たり。
一、喩えば味方の兵糧敵の方へ遣わすべからず、敵力を得るが故に。
 敵の兵糧味方へは取るべし、味方の助成なる故に。
 これを以て他に施さず。
 所以に他より受くべき子細を心得べき事。
 已上

 弾じていわく、利養の為の受施誰かこれを論ずるや。
 今は受施の損益を論ずるにあり。
 信施の消不消は別途の論なり。
 経論方法をのこし宗家規則あり。
 それ実に宗家の法式を守るものは信施須弥の如くなりともまたよく報ずるなり。
 彼の邪徒の如きはすでに宗家第一の制禁を犯して大罪聚の人なる故に、そこばくの信施をも消することを得ず。
 世の福田ともならざるなり。
 是一

 況や初心の僧はただ丁寧に規則を守るべし。
 また一向に利養を離ると云う事恐慮すべきの義なり。
 もしそれ仏家正轍の不受の禁戒を守らば世間信者の中に托して飢寒を防ぐ麻の衣あかざのあつもの風情を求むるよすがをなすとも何ぞまた信施滅し難きの恐慮あらんや。
 後心の行者利養を棄て一向に法の為にするは鬼に鉄杖を持たせたるが如し。
 その中人以下を論ずるに至りては寧ろ信施の中に利養を求むるとも利養を離れて謗施を受くることはせじ。
 是二

 論語にいわく、「小人過てば必ずかざる」。
 孟子いわく、「且ついにしえの君子過てば則ちこれを改む。
 今の君子過てば則ちこれに順う乃至今の君子豈徒にこれに順うのみならんや。
 また従ってこれが辞を為す」。
 恥づべし。
 恥づべし。
 一旦の我執を転ずることあたわず非をかざり佞を吐いて転計無窮なり。
 釈書の引用また非例なり。
 後心の規則初心に擬し難し。
 例せば四摂法を修するが如き初心は運想の観のみにしてその事跡を行うに堪えざるが如し。
 また菩提薩の行願は大悲代受苦の利益あり。
 投岸赴火の方便あり。
 初心豈これに堪ゆべけんや。
 兵糧の譬えの下に論ずるが如し。

一、他書にいわく、他の施を受くべからざる証文の事。
 末法法華の行者の相貌いわく五種法師なり。
 問う、五種法師とは比丘等の四衆の中にはいずれぞや。

 答う、比丘等の四衆共に五種の妙行を行ずる者皆法師と名付け、法華の行者と名付くる事、法師品にいわく、『薬王若有人問何等衆生』乃至『受持読誦等』。
 またいわく、『若人以一悪言』乃至『其罪甚重』。
 またいわく、『薬王多有人』乃至『菩薩之道』。
 これ則ち法華を受持する者四衆共に法華の行者なり。
 五種所供養の人なること。

 弾じていわく、この引文を見ていよいよ他の邪義の分明なることを知る。
 まことに学者の諍論すべき義に非ずといえども彼が邪佞の言に対して止むことを得ずしていささか弁明するのみ。
 他は持者の四衆を以て所供養とし、他宗謗法の人を能供養の人とす。
 然るに経に説いていわく、『当受持是経並供養持者』。
 受持是経とは能供養の人の本質を挙ぐるなり。
 供養持者の持者はまさしく所供養の人なり。
 豈師檀共轍感応道交の義に非ずや。
 是一

 況や一宗の中に眼前に出家の二衆は所供養の人、在家の二衆は能供養の人なり。
 何ぞ一概に四衆共に所供養の人と云うや。
 是二

 他宗の檀越もしくは国主法華宗の俗家の二衆を福田として供養することあらんや。
 またこの方の在家供養を受けて福田となる義あらんや。
 まことに笑うべし。
 これ則ち受の字は僧に約し施の字は檀越に約することをもしらず。
 檀那は布施の梵語にして施の字に便あることをも思い当たらざる故にかようの非義を興するなり。
 是三

 五種法師四衆通総の深意を解せずして曲げて非義の潤色とす。
 一切の法門総別を分けずんば正体あるべからず。
 彼の不二の一門に僻依して真俗宛然の辺を知らず。
 是四

 況や二十三祖等の歴代の祖師に俗男俗女を列ねたることを聞かず。
 元亨釈書にも比丘諸伝の外に王臣士庶尼女等を別に挙げたり。
 方応の中に俗人を出せりと雖も是は各別の義なり。
 是五

 また所引の法師品の文の所供養の人は在世師門の中の下品上品の師の相及び功報を明かす文なり。
 滅後もまたしかなり。
 豈所供養の人世間無智の俗男俗女ならんや。
 ただこれ能弘の法師を常途の沙門に属し下品の師の摂とし、福田を論ずること再往の実義なるべし。
 されば吾が祖の妙判に「日本国の在家の人にはただ一向に南無妙法蓮華経と唱えさすべし」。
 また録外松野殿御書にいわく、受け難き人身を得てたまたま出家せる者も仏法を学し謗法者を責めずして徒に遊戯雑談のみして明かし暮らさん者は法師の皮を着たる畜生なり。
 法師の名をば借りて世を渡り身を養うと雖も法師と成る義は一もなし。
 法師と云える名字をぬすめる盗人なり。
 恥づべし恐るべし。
 乃至然るに在家の御身はただ余念無く南無妙法蓮華経と御唱えありて僧を供養し給うが肝心にて候なり。
 これまた法師の名をば分明に出家に属し給えり。
 豈再往出家在家修行の方法区別なるに非ずや。
 是六

一、他書にまたいわく、『是人(五種行人比丘等四衆)一切世間所応?奉応以如来供養而供養之』。
 一切世間の言豈一宗の檀越のことならんや。
 またいわく、『薬王若有悪人』乃至『三藐三菩提故』。
 私いわく、この順逆の二文専ら他宗に勧めることを禁ずるに非ずして何ぞや。
 またいわく、『若欲住仏道成就自然智』乃至『受持是経並供養持者』。
 またいわく、『吾滅後悪世』乃至『如供養世尊』。
 またいわく、『於八十億劫』乃至『供養持経者』。
 私いわく、一切衆生に法華五種の行者比丘等の四衆を供養せよと勧め乍ら法華の行者に他の供養受けざれと誡むべき理なし云云。
 記の四にいわく、『若悩乱者頭破七分有供養者福過十号』。
 上の経文順逆の文とその意同じきなり。

 弾じていわく、仏本衆生無辺誓願度の願誓を立つと雖も法界の衆生成仏せざるもの多し。
 これ盲者の失にして日月の咎に非ず。
 今如来如我等無異の本願に応じて普く一切世間の帰敬をすすむ。
 されば経文の意にいわく、一切世間の一切衆生皆悉成仏の妙法を信受して法華の行者を如来を敬うが如く三業清浄の心を以て供養すべしとなり。
 釈尊の勧進一人をも漏らさざれば一切世間と云うなり。
 されども衆生仏説に順ぜず眼前謗法のもの多し、豈謗人の三業清浄なりと云わんや。
 次に若人以一悪言等の文還ってこれ謗者の罪を顕すなり。
 一悪言の毀呰なおかくの如きの大罪を招く、況や三業相応して常恒毀謗に住するをや。
 かくの如く毀呰する者実に供養を興するの義あらんや。
 是一

 故に知んぬ他宗はこの経文の厳誡に乖く故に拒んでこれを受けず。
 吾が宗の檀越はこの教訓に応ずる故にその施を受けて彼が福田となればなお讃仏にも超過する功徳を得せしむるなり。
 もししからばこの文は還ってこれ謗施を受けざるの証なり。
 是二

 彼もし転計してこの品供養の言また謗法人の能供養に亘ると云わば何の文に三業共に法華を謗じながら時々思い出して法華の持者を供養すと云う文勢見えたりや。
 経文はただこれすべて信毀の罪福を挙げて勧誡を設くるなり。
 例せば不軽品に信毀の果報等を論ずるが如し。
 是三

 去れば文句八十二丁、応随向礼等の文を釈してこの人趣向あるは悉く実相と相応す皆敬順すべし。
 順は即ちこれ向なり敬は即ちこれ礼なり。
 敬んでしかしてこれに順じ及び供養を興す等云云。
 これ豈他宗の相貌ならんや。
 是四

 また汝所引の若欲住仏道等の文はすでに住仏道と云えりまた受持是経と云えり。
 豈他宗の人発心作行かくの如くなりや。
 是五

 また当合掌礼敬如供養世尊の文を云わばおよそ合掌とは機成することを表す。
 供養もまた機成することを表す。
 他宗の人かくの如き儀相ありや。
 是六

 またいわく、『如是供養已若得須臾聞即応自欣慶我今獲大利』といえり。
 他宗の人説法を聞いて大利を得ると悦ばんや。
 如法折伏の説法は彼が平生の謗心を激動すべき故いよいよ謗を生ずべきこと必然の理なり。
 是七

 吾が祖上野殿書にこの文を引いていわく、「種々の物送り給候」乃至「法華経第四曰若人求仏道」乃至「其福復過彼等」云云。
 文の心は仏を一劫の間供養し奉るより末代悪世の中に人々のあながちににくむ法華経の行者を供養する功徳を勝れたりと説き給う。
 これ豈信者の供施を嘆じて法師品の文を引くに非ずや。
 是八

 信者の供養を嘆ずるの文数多ありといえどもついにこれを引いて謗者の供養を嘆じたる証とすることなし。
 是九

 もししからば汝が依怙とたのむ所引の文そこをつくして傾覆せり。
 記の四の『若悩乱者頭破七分有供養者福過十号』の文また信謗相対して罪福を点示するなり。
 あに謗供を指して福過十号と云わんや。

一、他書次にいわく、また信解品に『於諸世間天人魔梵普於其中応受供養』。
 また宝塔品にいわく、『於恐畏世』乃至『皆応供養』。
 私にいわく、一切等の言必ず一宗に非ざるなり。
 分別功徳品にいわく、『是善男子』乃至『如仏之塔』。
 またいわく、『是中応起塔荘厳令妙好種々以供養』。
 また普賢品にいわく、『若有供養』乃至『得現果報』。
 これらの明文を以て他の供養を受くべき理これを明らむべし。

 弾じていわく、信解品の文は四大弟子法華を聴聞して自調自度の偏情を翻し、仏道の声を以て普く一切にきかしめその邪計を転ぜしめ真の応供の徳あることを説ける文なり。
 いやしくも信仰の志有ってその計を転ずるときんば貴賤粗妙の異をわけず貧福多少の別をいわず普くその中に於いて供養を受け応供の徳を顕す義なり。
 誰か謗者の施と云わんや。
 是一

 況や四大声聞等は已に住上の真証鑑機三昧の導師なり。
 たとい謗供を受くとも計転の心を鑑み利益の義を察して容受する義なるべし。
 豈一毫未断の凡夫後心自在の化用に習わんや。
 ああただ顰の美なる事を知って顰の美なる所以を知らざるはこれ汝か。
 是二

 次に宝塔品の一切天人等の文もまた如来勧化の心に約す。
 上の一切世間所応瞻奉の文と同じ。
 何ぞ一切天人にこの経を謗じながら行者を供養せよと教ゆる経文ならんや。
 分別品の文もまた宝塔品法師品の文と一例して解了すべし。
 普賢品の文もまた供養讃嘆と説きたり。
 豈これ謗供ならんや。
 もししからば汝所有の引文一として定規とすべきなし、何ぞ誑惑してこれらの明文を以て受くべき道理これを明らむべしなんどと云うて愚俗を衒惑するや。

一、他書次にいわく、況や如来応供の徳何ぞ偏頗有らんや。
 因位の乞土何ぞこれをえらぶこと有らん。
 故に次第乞の則有り。
 この故に釈尊度々外道謗者の施を受け並びに仏弟子及び仏滅後の比丘外道者の施をえらぶこと無くこれを受用す。
 経論釈文繁多なるが故にこれを略す。
 已上他書

 弾じていわく、この段殊に荒量の言を尽くせり。
 これ尸利掘長者の馬麦並びに婆羅門城の漿の供養を指すなるべし。
 馬麦の縁は菩薩処胎経に出でたり。
 婆羅門城の供養は大論第八に出でたり。
 処々にこれを引く故に枚挙するに及ばず。
 それ仏は三惑已断の大聖にして利益の為にする故に無窮の行跡あるべし。
 謗供受用の徒は一毫未断なればただ謗供に染して自他を損ずるのみなり、
 また何の利益かある。
 是一

 また仏は不思議を現して分明に外道婆羅門の邪法を改めしむ。
 受者は乃至一通をも現ぜず誰か正法に帰せるや。
 是二

 また在世は順化の化導鑑機の導師末世は逆縁の化用不鑑機の師なり。
 何ぞ混同して論ずるや。
 是三

 また在世は法華誹謗の義なし何ぞ剋成して謗供を論ぜん。
 もし機に堪えずして謗ずべきものあるをば退せしむ、五千起居三変被移の如し。
 爾前の化儀を設くる豈唯一仏乗をきくに堪えざる故に堕苦を将護するに非ずや。
 何ぞ末世濁乱謗法充満の時に准擬して一例すべけんや。
 記九の在世は当機の故にえらび末代は結縁の故に聞かしむの釈これを思わざらんや。
 是四

 次にその仏弟子次第乞等の義を論ぜばおよそ在世は化導容与にして一准に非ず。
 滅後正像帰依の導師またこれ熟益の時なるが故に末世に概同すべからず。
 されば仏次第乞を許したまうと雖も、また能施の人を選び或いは起信を待って受けたまうことあり。
 宝雲経にいわく、次第に乞食して心選択なく刹利婆羅門富貴の家一向次第にして食足ればすなわち止む。
 悪狗新生の犢母先に禁戒を破り畜生の中に堕つることを除く。
 もしは男もしは女童男童女諸々の能擾悩する者皆悉く往かず。
 機嫌すべき処また皆往かず。
 大論二十二にいわく、檀越問うていわく、仏宝の中に於いて信心清浄なると僧宝の中に於いて信心清浄なるといずれが福勝るや。
 答えていわく、我等初めより僧宝仏宝増減有る事を見ず。
 何を以ての故に、仏一時舎婆提に乞食し給う。
 婆羅門有り姓婆羅??逝仏数々その家に到り食を乞う。
 心にこの念を作さく、この沙門何を以てか来ること数々なる。
 その債を負うが如し。
 仏時に偈を説いて時雨しばしば堕つれば五穀しばしば成る、しばしば福業を修すればしばしば果報を受く、しばしば正法を受く故にしばしば死を受く、聖法しばしば成ぜば誰かしばしば生死せん。
 婆羅門この偈を聞きおわってこの念を作さく、仏大聖人つぶさに我心を知ると。
 慚愧して鉢を取り舎に入り美食を盛満し以て仏に奉上す。
 仏受けずこの言を作さく、我偈を説かん為の故にこの食を得我食せざるなり。
 婆羅門のいわく、この食まさに誰にか与うべし。
 仏のたまわく、天及び人よくこの食を消するものを見ず、汝持ち去って少艸の地に置き虫無き水中におけよと。
 即ち仏の教えの如く食を持ち虫無き水中におく、水即ち大いに沸き烟火倶に出て大熱鉄を投ずるが如し。
 婆羅門見おわって恐怖していわく、未曾有なり。
 乃至食中の神力かくの如し。
 還って仏所に到り頭面に仏足を礼し懺悔して出家を乞い戒を受く。
 仏ののたまわく、善来と。
 即時に鬚髪自ら堕ちてすなわち沙門と成る。
 漸々に結を断じ阿羅漢道を得たり。
 大槃若経第五百四十四巻にいわく、正法を謗ずる者我なお菩薩乗に住する善男子等のその名字を聞くことをゆるさず、況やまさに眼見すべけんや。
 豈共住を許さんや。
 舎利子正法を謗ずる者我なお袈裟を被服するをゆるさず。
 況や供養を受けんや。
 悲華経にいわく、その時に大臣宝海梵志周遍して閻浮提内男子女人童男童女一切人の所に到って所須を乞求す。
 その時に梵志まず施主を要す、汝今もしよく三宝に帰依し阿耨多羅三藐三菩提の心を発さば然る後すなわちまさに汝が所施を受くべし。
 時に閻浮提の一切衆生のその中に乃至一人梵志に従って三帰依を受け、阿耨多羅三藐三菩提の心を発すこと有ることなし。
 既に諸人をして教戒を受けしめおわって即ちその所施の物を受く。
 その外類例の文多しと雖も繁き故これを略す。
 またもし仏陀無窮の行跡に執せば平等の施をなして外道等の悪人をも選ばず施を行することあり。
 されば維摩経第四にいわく、我れ昔自ら父の舎に於いて大施会を設け一切の沙門婆羅門及び諸々の外道貧窮下賎孤独乞人を供養す。
 期して七日に満つ。
 維摩略疏第六三十丁にいわく、善得教化してこの邪祠を絶し正道を勧修し真の檀施を行う、その家大いに富んで四事豊饒なり。
 この大会を営み一切の出家在家内道外道を供養し及び諸々の貧賎来る者の隔つことなく所須を供給し期して七日に満つ。
 ただ施会はこれ檀なり。
 また法恩珠林五十四にいわく、それ三宝平等にして曠として虚空のごとし。
 理怨親なく事貴賤を絶す。
 これを以て力に随ってまことに普く内外に供す務めて遺相を存す。
 ねがわくば普偏を興せん。
 またいわく、それ供会の法は不限を以て本と為し適もなく莫もなし。
 すなわち檀心に応ず。
 故に懐を冥し相を遣る空際とともに極を為す。
 時に任せ縁に随い法界と共に量を等しくす。
 因既に窮らざるときは則ち果もまた尽くる事なきなり。
 しばらく俗倹に財貧ければ物を限って施を為す。
 物既に限りあれば心また拘執す。
 或いは人を計って以て供を擬し或いは徳を選んで後に請ず。
 有涯の福未だ捨てず無辺の報未だ霑わず。
 それ弘法の施は物あまねしと雖も施すくなし。
 善権の慧は物すくなくして施あまねからしむ。
 これを以て外国に齊を設くるはおおむね広くして遮する事なし。
 心を十方にめぐらして法界を該羅せるなり。
 この平等施は有徳無徳を撰ばず貴賤内外を隔てず悲田敬田混雑せり。
 もし汝が義の如くんば平等施の類文を引いて謗人を供養しても苦しからずと言わんや。
 もしその義を許さば元祖一代の化導も全く泡沫に同じ、汝が受不施の義も有名無実なるべし。
 また涅槃経の内にても梵行品には平等施の義を説き給えり。
 豈純陀に対して一闡提に施を禁ずる義辺と区以て別なるに非ずや。
 示していわく、経論の勘文受と施とに付いて各々開遮の両向あり。
 今吾が宗末法の行化を論ずる時は受と施と共に初心の軌則となる誡門の筋を守るべし。
 謬って深位無窮自在の化迹を取るべからず。
 されば涅槃経第六巻に初心比丘邪正混乱すべからざる旨を述べ、仏陀自由の作法を見てその真似をすべからざる旨を懇ろに説きたまえり。
 涅槃経第六、二十一、四依品にいわく、善男子大衆の中の八不浄の法もまたまたかくの如し。
 この衆中に於いて多くかくの如きの法を受用するあり。
 唯一人有り清浄に戒を持ちかくの如き八不浄の法を受けず善く諸人の非法を受畜することを知ってともに事を同じ相捨離せざること彼の林中の一鎮頭迦の如し。
 優婆塞有ってこの諸人多く非法有るを見る。
 しかしながらこの人を恭敬供養せず。
 もし供養をせんと欲せばまずまさに問うて言うべし、大徳かくの如し八事をば受畜すべしや否や、仏のゆるしたまう所なりや否や、もし仏ゆるしたまうといわばかくの如きの人共に布薩し羯磨し自恣することを得んや否や。
 この優婆塞かくの如く問いおわって衆皆答えていわく、かくの如き八事は如来憐憫して皆悉く畜うことをゆるしたまう。
 優婆塞のいわく、祇??精舎に諸々の比丘有り。
 或いはいわく金銀は仏畜うることをゆるしたまう所なり。
 或いはいわくゆるしたまわず。
 ゆるしたまうと云うことある者とこれゆるしたまわざる者とともに共に住し説戒し自恣せざれ乃至共に一河の水を飲まざれ利養の物悉くこれを共にせざれ。
 汝等いかんぞ仏聴許したまうと言うや。
 仏は天中の天またこれを受くと雖も汝等衆僧はまた畜うべからず。
 もし受くること有らん者には乃至共に説戒し自恣し羯磨しその僧事を同ずべからず。
 もし共に説戒し自恣し羯磨して僧事を同ずる者は命終して即ちまさに地獄に堕つべし。
 彼の諸人の迦羅果を食しおわってすなわち命終するが如し。
 経文の意分明なり。
 上代天竺の風俗大乗小乗の行人堅く相隔てて同井の水を飲まず同路を行かざるもこの経文に根底するなるべし。
 八不浄物を畜うる事はさせる性罪に非ざるだにもかくの如きの制禁あるぞかし。
 況や衆罪の中の最上たる謗法罪を犯せるものに与同し讃嘆して施を受くる弥天の大罪をや。
 なかんづくこの文の中に『同僧事者命終即当堕於地獄』の金文受不施の徒堕獄の明証なり。
 彼の八不浄を畜うるものと作法を同じゅうするものなお地獄に堕せんに、この謗法に与同してその供養を貪利するもの命終して無間に堕せずといわばこのことわり有ることなけん。
 嗚呼その身宗旨の大義を忘却し還って非を飾らんが為に無理に経論に僻依して邪義をつのること豈道者のいたす所ならんや。
 いやしくも上来の綱領に達する時は一代経論無辺の違文ありとも格式を定めて用捨すべし。
 何の妨碍かあらん。
 そもそもまた滅後の中に於いても震旦吾朝上代従容の行化を以て末代逆化当宗の弘通と同日に語すべからず。
 その中に末代の行化に相応することこれあらば引いて助証とすべし。
 況や当今他宗の比丘権実雑濫して正体なき作法を以て純円一実の行者四弘の誓境をえらび下種の深益を定むる時堅く謗施を禁ずる義に混同すべけんや。
 下種益の時専ら雑濫を制したまうこと吾が祖の妙判老婆心切なり。
 我が宗に志あるもの須臾も忘失すべからず。
 ゆくゆくもしこの弊をさかんにせばついに浄宗禅徒の如く托鉢乞食の風情となるべきか誠に悲歎すべし。

一、他書にいわく、故に吾が祖師もっともこれを受用する事録内三十五、三十一丁、一谷入道女房に遣わす御書にいわく、文永九年の夏のころ佐渡の国石田の郷一の谷と云う処に有りしに、預けたる名主等は公と云い私と云い、父母の敵、宿世の敵よくも悪気に有りしに宿の入道と云い妻と云い使う者と云い、始めはおじ恐れしかども先世の事にや有りけん内々不便と思う心付きぬ。
 また預かりよりあづかる食は少なし。
 付ける弟子は多くありしに僅かの飯の二口三口有りしを或いは折敷に分け、或いは手に入れて食せしに宅主内々心有って外には恐るる様なれども内には不便気に有りし事いずれの世にか忘れん。
 我れを生みておわせし父母よりも時に当たって大事とこそ思いしか。
 何なる恩をもはげむべし。
 まして約束せし事違うべしや。
 然れども入道の意に後世を深く思いてある者なれば久しく念仏を申し積もりぬ。
 その上阿弥陀堂を造り田畠もその仏の物なり。
 地頭もまた恐ろしなんど思いて直ちに法華経にはならず。
 これは彼身には第一の道理ぞかし。
 録内二十、十五丁、阿仏房に遣わす御書にいわく、但し入道の事は申し切って候しかば思い合わせ給うらん。
 如何に念仏堂ありとも念仏も法華経の敵を助け給うべからず。
 還って弥陀念仏も御敵なるべし。
 後生は悪道に堕ちてくびられ候ぬらん事あさましあさまし。
 ただ入道の御堂のらうにて度々命を助けられ候いし事こそ如何とも覚え候わね。
 私いわく、入道の事と云うは中興次郎入道の事なり。
 この人は佐渡の国におわし候し時信心取るまじき由申し切り候が今は思い合わせたまうらんとなり。
 学乗房と云うは中興次郎入道の親類なり。
 また録外船守弥三郎もとに遣わす御書にいわく、日蓮去る五月十二日流罪の時その津につきて候いしにいまだ名をもききおよびまいらせず候処に船よりあがりくるしみ候いしところに慇にあたらせ給い候し事いかなる宿習なるらん。
 過去に法華経の行者にてわたらせ給えるが今末法に船守弥三郎と生まれかわりて日蓮をあわれみ給うか。
 たとい男はさもあるべきに女房の身として食をあたえ洗足ちょうずその外さも事慇なる事日蓮しらず不思議とも申すばかりなし。
 殊に三十日あまりありて内心に法華経を信じ日蓮を供養し給う事如何なる事のよしなるや。
 これらの御書判を以て知るべし祖師既に謗施を受用したまう事明白なり。
 況や宗旨建立の始は皆悉く謗者なり。
 信者一人もこれ無し。
 これら他宗の施を受用すること無くんば何を以てか身命を相続し仏法を弘むべけんや。
 然れば則ち祖師既に他の施を受用したまう事決然なり。
 三界の導師たる釈尊既に外道謗者の施を受用し祖師また謗者の施を受用す。
 本師並びに祖師自ら謗者の施を受け乍ら弟子檀那に受けざれと誡むべき理無き事。

 弾じていわく、これらの御書判先徳の会釈すでに明白なる上は再び筆頭を労するに及ばずと雖も略して梗概を挙げて汝がまた余義なしと思える痴??を喩さん。
 今反詰していわく、宗旨艸創の時誰の信者有って供養を設けんや。
 法を開き義を領し道に達し徳に伏して、まさに供養を修すべきなり。
 記の三にいわく、供養とは意機成する事を表す。
 故に知んぬ、受法已前は愍施なる事必然なり。
 一宗の真俗他宗に施すを禁ずといえども憐愍の施豈これをゆるさざらんや。
 只まさに志をむかえて義をなすべし、辞を以て旨を害する事なかれ。
 されば一谷入道女房御書にいわく、前世の事にや有りけん内々不便と思う心付きぬとあそばし、阿仏房御書にも度々命を助けられ候いしと判じたまえる豈愍施の義に非ずや。
 船守弥三郎御書には明らかに二段相分かれて初めには船よりあがりくるしみ候処に慇にあたり給い候し事何なる宿習なるらん。
 乃至日蓮をあわれみ給うかと判じたまい、次の段にことに三十日余り有って内心に法華経を信じ日蓮を供養したまうと宣べたまえり。
 初めは世間の愍施なるが故にあわれみの語あり、後は法華信受以後なるが故に供養の語あるに非ずや。
 この御書は還ってこれ世間の仁施出世の供養各別の明証なり。
 その外の諸御書大抵これに例して知んぬべし。
 委細に分別すれば或いは権化の明判あり、或いは一見信伏一聞信伏の筋目あり、或いは折伏の為に赴きたまう事あり、或いは祖師へ帰依の以後謗法の義未だやまざるを或いは誘引なされ、或いは激励したまう御筆跡もあり、今ただ彼が挙ぐる処の二三文に付いて略して評破を加えるが故にその外の御書一々に挙論するに及ばず委細は別処に点示するが如し。
 況や宗旨艸創の始めつかたは諸宗ともに弘法の軌則従容なることもある習いなり、されば吾が祖も宗旨建立の時既に四箇の名言を唱えたまうといえども弘法の次第を以て見れば先には禅念仏を破し、後には真言天台を呵責したまうが如し。
 これ則ち養利??鈍の善巧従浅至深の儀式なり。
 これを以てこれを思うに御一代の内立てたまう処の制戒も已制未制の前後もあるべき事なり。
 かくの如きの旨をば暁の夢にも知らずして強いて吾が祖の短を求め、曲げて邪義の色を潤す事は何事ぞや。
 況や汝国主に対して一言の諫暁をいれず、強いて供養を貪り仏天の冥護檀越の帰依四事具足して何の不足もなき時強いて万民の謗施までも受くべしといえるは前代未聞の僻見に非ずや。
 但し他宗の施を受けずんば忽ちに餓死に及ぶや。
 およそ吾が宗の大義平生無事の時と云うとも、節々に諫鼓を鳴らすべき事古今不易の軌範なり。
 しかるに諸経中王の法華経の行者を他宗謗法の邪徒と同等の思いをなし軽賎の供養を設けんと欲する時は、最も身命を捨てて執権謗実の起尽を立て、法王の勅宣を述べて仏法中怨の責めを免るべき嘉節なり。
 何ぞ還って甘談?媚して権勢に阿順し、正統の行者を怨嫉して陥墜するや、誠にこれ釈門の?惑宗家の妖檗なり。