萬代亀鏡録

身池対論記録・前

目録
身延山日暹目安第一
池上日樹返答目安第二
直問答記日樹録之第三
日暹送于日樹記録第四
日樹返答記録第五  付けたり、別紙略して身延の誤十二箇條を挙げ、本録と一具して日暹に送る。
信長太閤折紙二通第六
京都諸寺法理一統之連署第七
日樹訴訟状第八
日樹違目之御書出第九
日暹延山末寺回状第十
日遠両山末寺起請之書出第十一
歴代十七箇條第十二
小西日領目安第十三 付録

第 一
身延山住持比丘日暹謹んで言上す

一、豊臣太閤秀吉公、妙法院門跡に於いて、一千の僧侶を召し、以て供養を修せらる。
貴命に由るを以て法華宗もまたその数に列なる。
然るに妙覚寺の住持日奥がいわく、この供養を受くるは、これ謗法堕獄の罪業なり。
云云。
一宗の学者のいわく、彼誹謗正法の相貌を知らず、古来立制の元由を弁えず、欲しいままに妄説を吐く、一何ぞ痛まんや。
ここに於いて洛陽の諸寺伏して、是非を決せんと請う。
ここに因って慶長己亥の歳東照大権現の神儀に諸寺の上人及び日奥を大阪の御殿に召して対決を遂げしめ、理非決断の旨に任せ、尊命を以て、彼の一僧をして、憂獄に沈めて遠島に謫せしめおわんぬ。
適々旧寺に帰ると雖も、我執未だ翻らず、誹謗未だ止まず。
しかるに今池上日樹、彼の邪義を救わんと欲し、昔年の厳旨の違背し、たちまちに吾山に対し、妄りに謗言を加えていわく、身延山の前住日乾千僧供養を受く、故に山既に謗法の地と成る。
参詣の輩、まさに阿鼻地獄に堕つべし。
よって参詣を抑止し、供養を停留す矣。
斯くの如きの義文墨に形わし、諸国に巡回す。
殊に高座に登って普く諸人に告げ、速やかに身延山を滅却せんと欲す。
ゆえに盲瞑の流迷惑し、是非の信謗相半ばなり。
宗門の陵夷まさにこの時に在り、闔衆悲哀の余り事やむことを獲ずして高聴を驚かし奉る矣。

一、池上日樹のいわく、国主の供養は、これ謗法の施なるが故に受用すべからず。
云云。
外にはこの唱えを作し、内にはまた国主の所施の田園を受用して以て伽藍を営み、灯燭を掲ぐ矣。
心口すでに違い、内外全く乖けり。
なんぞこれを道人といわんや。
それ国君、州主、令長等、田園を沙門に施し、郡郷を寺院に寄せる所以は、無上の正法を護持して、四海安寧の懇祈を致し、戒定慧を修し、良福田と為る故なり。
宝梁経にいわく、もし梵行に非ざるを梵行と言い、破戒を持戒と言う。
この人乃至大地涕唾する処無し、況や来去屈伸をや。
何を以ての故に、過去の大王、この地を持して、持戒の比丘に施す。
有徳の人中に於いて道を行ず。
天台智者梵網疏にいわく、罪を帯して愧じ無きは施を受くるを得ず。
国王本地水を以て、有徳の人に給す、行徳有ること無きは、受用することを得ず。
与咸師蔵疏を引いていわく、白衣の無戒、王の水土に食することは皆輸税有り。
出家は税せず、まことに戒行を為す。
我が祖の所判その趣またまたかくの如し。
諸余の経釈は、繁を恐れしばらく止む。
この一義に於いて、諸宗皆同じくかつて異論無き者か。
しかるに日樹独り異計を立つ、是なりや、非なりや。

一、先年千僧供養よりこのかた、都鄙の一宗道俗貴賤、悉く皆通用して、互いに相恭敬し、互いに相供養す。
故に信謗の差殊を分かつべからず。
日樹独り異義を立てていわく、身延はこれ謗者、池上はこれ信者、況やまた日樹身延山信仰の緇素を簡むこと無く、飽くまでその施を受く。
然れば則ち謗者堕獄の検責却って自身に蒙る。
負識の徒誰かこれを惻まざらんや。
敬んで乞う、上来の節目率ね旧規に由り、以て料理を垂れ給え。
誠恐誠惺頓首頓首

久遠寺沙門 日暹
寛永第六己巳二月二十六日
進上御奉行所

第 二
返答池上本門寺住持日樹謹んで言上す
特に御政道の仁恩を蒙り、仏法を久住せしめ、欽んで正付属の金言を仰ぎ、天長地久の懇祈を致さんと欲するの状。
それ祖師日蓮聖人生をこの土に受け、世間の家を出でて釈門に入りしよりこのかた、国恩、仏恩を報ぜんが為妙法を弘通し、しばしば大小の難艱を凌ぎ、一宗を建立す。
法華の真文に依って、供施を外宗の僧に止む。
既に他宗に施さずして何ぞ他宗の施を受けんや。
不受不施の法制を立つこと殆ど三百余年に及びて、一宗の諸門徒、更に異義無き者なり。
然るにこの頃身延先住日乾誤って新義を立てて、他宗の供養を受くることを許し、欲しいままに宗旨の法理を破す。
一宗の学士その昔未だ聞かざる所、かつて未だ見ざる所なり。
吾が祖の明文猶雲霧に蔽わるるが如し。
蓮師の章玉塵土に埋もるに似たり。
最円極の妙宗、物を益すること無く、却って衆生をして謗法の業因を結ばしむ。
深く諸人をして未来の苦果を招かしむ。
これに依って仏法の誡責を恐れ、無慈詐親則是彼怨為彼除悪則是彼親の師教に任す。
或いは人の便りに寄り、或いは対談して、往々に諫むれども敢えて許諾せず。
重ねて抄を作って上代の明匠を毀蔑し、還って謗言を吐きて中古の先哲を?(心へんに喬)慢しあまつさえ上聞に達せらる。
宗門の歎きいづくんぞこれに過ぎんや。
これを以て黙止することを得ず。
答書左の如し。

一、身延住持のいわく、豊臣前の太閤秀吉公、妙法院門跡に於いて一千の僧侶を召し、以て供養を修す。
云云。
その時日奥堅く祖師の制法を守って貴命に応ぜず。
故に遠島に謫せらると雖も、故相国様正しく御治世の後、御赦免を蒙り旧寺に召し還さる。
すでに御当代板倉伊賀守殿、上意を得奉り、先規の例に任せ、不受不施の御折紙成下されおわんぬ。
それよりこのかた数度御供養有りと雖も、当宗に於いては御宥免成され、誠に文証、誠に現証、不受不施の法理顕然たり。
祖師所立の本懐この時にあらわる。
一宗の族厚く高恩を戴き、深く慈恵を仰ぐ。
吾が宗永代の法財門葉万歳の軌則なり。
その徳日月の照明するが如く、その威輪王の勢伏に同じ。
造次にもこれを尊び、顛沛にもこれを敬う。
教大師のいわく、国主の制に非ずんば、以て遵行すること無し。
云云。
然るに彼の徒、厳命を蔑如し供養を受けんと請い、祖制に背き、与同罪を許す。
これ則ち一たび謗供に染せられしを以て、その殃を隠さんが為に非義の会釈を構えて改悔を修せず、主師親の恩を忘るる者なり。
なかんづく、身延山の先師は不受不施の所立なり。
豈末学として、たやすく新義を企てんや。
無顧の悪言弥天の罪科恐るべし、悲しむべし。

一、身延住持のいわく、国主賜う所の田園は、これ供養の施と。
云云。
世法と仏法と、仁恩と供養と、帰依と不帰依と混乱す、甚だ以て謬なり。
世法に約すれば則ち国主はこれ万民の父母天下の帰住する所なり。
聖慈弘博にして蒸黎を撫育す。
日蓮の抄にいわく、天の三光に身を温め、地の五穀に神を養うは、皆これ国主の恩なり。
云云。
実に国王の仁恩に非ずんば誰か一日の生命を扶持せんや。
常に君恩を蒙り、身を修め家を齊う者なり。
これ豈孔子公養の仕えに非ずや。
はたまた国主はこれ正法付属の大外護なり。
仏日独り耀かず、必ず聖日の光に依る。
法水独り潤わず、定めて徳水の流れに沾う。
ここを以て、如来正法を以て国王に付属して、比丘に付属せず。
これ則ち君恩仏家に洽し。
故に出家の徒、国主政道の仁恩を以て宗旨を伝弘し寺院を相続す。
これに依って知恩報恩の為、国家の謗法を誡めて四海の静謐を祈り、妙法の行事を営み、王臣の寿祝を祈る者なり。

次に仏法に約すれば、則ち釈尊はこれ衆生の師範なり。
人天これを貴び、四衆これを敬う。
中に於いて帰依不帰依の別有り。
帰依の僧に備うる所の寺領は信施、不帰依の僧に賜う所の田園はこれ仁恩なり。
経にいわく、正法を以て国を治め、人民を邪枉せず。
云云。
供養と仁恩とその旨格別なり。
祖師のいわく、官位所領を賜うとも、それには染せられずして謗法供養を受けざるを不染世間法と言う矣。
興記にいわく、法華の行者南無妙法蓮華経と唱え奉り、謗法の供養を受けざれば貪欲の病を治するなり。

身延の先師不受謗法供養の下に書を引いていわく、楚のいわく、流れに枕するはその耳を洗わんと欲する所以なり。
石に漱ぐはその歯を研かんと欲する所以なり。
合譬していわく、謗法の言を聞かばまさしく耳を洗うべし。
もし知らずして謗施を受くれば歯を研くべきなり。
云云。
その他日蓮直書の証文数通これ有り、御尋ねに於いては、高覧に呈すべし。
彼の徒の所立は祖師一代判釈の中にかつて一の文証無し。
たまたま宝梁経等の文を引くと雖も、経旨を知らず、却って自失と成りぬ。
待って是非を糾明すべし。

一、日暹のいわく、都鄙真俗通用等身延信仰の緇素を簡むこと無く、飽くまでその施を受け。
云云。
これらの條目は、会通するに足らず。
貴き事立義決断に在り。
枝葉に攀付して貞実を忘ると。
誠なるかなこの語や、哀れむべし、慎むべし。
仰ぎ願わくば宗旨の法流世出世の同異証文記録を以て、双方の得失を糾明し、一宗の大義を定めらるれば、恩光たちまちに祖意を複容し、鴻慈普門家を浹洽せんのみ。
然らば則ち世は義農の世と成り、国は唐虞の国とならん。
誠恐誠惶頓首頓首

寛永第七庚午二月二十一日
本門寺日樹謹言
進上御奉行所

第 三
左大臣征夷大将軍家光公の御代、武州豊島郡柳営江戸の城酒井雅楽頭殿の座席に於いて、寛永第七庚午歳二月二十一日、午の刻より始め、未の終わりに至る。
謗施受不受直問答の記録
 池上日樹

判者
 台家 天海大僧正 南光坊
 禅家 本光国師 南禅寺伝長老
 台家 厳海春日岡 常陸国佐野
 台家 弁海月山寺 常陸国水戸
 台家 什与三途台 上総国長南
 台家 俊海寂光院 常陸国江戸崎不動院

奉行
 酒井雅楽頭
 土井大炊助
 島田弾正忠
 外数多列座
 道春法印
 永喜法印


 武州 池上日樹
 中山隠居日賢
 下総 平賀日弘
 小湊前住 小西能化日領
 碑文谷日進
 中村能化日充


 身延前住 日乾
 身延前住 日遠
 身延当住 日暹
 上総藻原 日東
 豆州玉沢 日遵
 (鷄の右が隹)?冠井 心了院

永喜法印初めに双方の目安を読ませらる。
次に対論これ有り。

一、他難じていわく、先年大阪の御殿に於いて、東照大権現の神儀京都妙覚寺日奥と自余の諸寺と双方召し合わされ、理非対決の上、日奥負処に堕す。
故に袈裟衣を剥ぎ取り、遠島に謫しおわんぬ。
然るに今、日樹、彼が邪義を救わんと欲して、強い不受不施の義を興す。
これ則ち国主違背の失莫大なり、如何と。

自答えていわく、既に日奥御赦免を蒙り旧寺に召し還さる。
あまつさえ不受不施御下知の御折紙成し下さるるところなり。
汝何ぞこれに違背するや。
先判を捨てて、後判を取るは世出の恒例なり、如何と。

一、他難じていわく、御下知の御折紙は京中勧進の事なり。
只今の所論に用いる所に非ず、如何。

自答えていわく、御折紙眼有らば拝見すべし。
初めに不受不施の制法を挙げさせられ、次に別段に諸勧進の儀と遊ばさる。
何ぞ唯々勧進の儀のみを云うや如何。
他閉口。

一、他難じていわく、既に御朱印の面に仏法怠慢有るべからず。
云云。
御朱印と御折紙といずれを以て勝と為すや、如何。

自いわく、仏法怠慢有るべからずと遊ばされたるは、諸宗の仏法まちまちなり。
吾が宗の仏法は不受不施の制法なり。
既に不受不施の仏法興隆御赦免有って、御朱印を成し下さるるなり。
何ぞこれを受施の証となすや。
汝蒙昧の人なり、如何。

一、他のいわく、御折紙は伊賀守殿の判形なり。
御朱印と何ぞ相対するや。

自のいわく、御折紙は、伊州の御私に非ず、両上様の御下知なり。
則ち御添状あり、これを出さん。
御状にいわく、相国様、仰せ置かせられ候様子御尋ねの間、拙者承り候通り具に申し上げ候えば、公方様奇特に思し召され、則ち御書き付け遣わされ候。
向後いよいよ御宗旨繁昌為すべく候。
云云。
汝御下知に違背すること如何。
他閉口。

一、他のいわく、御折紙の面の不受不施の御文体は万民の事なり。
国主御一人を除き奉るなり。

自のいわく、御折紙の中、他宗の志を受施せずとは、他宗の二字は国主を以て正意となす。
万民の供養は我等が自在なり。
この御折紙を申し請くるに及ばず。
国主仰せ付けらる御供養は、時に当たって辞し難し。
故に兼日にこれを頂戴す。
汝何ぞ国主一人を除き奉ると云うや如何。
他閉口。

御奉行の仰せにいわく、日奥の帰朝は権現様法理を聞こし召し入れられ候上に御赦免か。
既に袈裟衣を剥ぎ取り置けるに何ぞこれを取り還さざるや。
また受不施の諸寺何ぞ糾明を成されざらんや。

自いわく、日奥堅く不受不施の法理を申し立つるが故に遠島に仰せ付けらる。
左遷の後、御慈悲を以て旧寺に召し還さる。
この時に於いて、御折紙の御下知を成し下せらる。
故にその身を許し給うのみにあらず、法理もまた御赦免なり。
その上日奥御折紙頂戴の上は袈裟衣は取り還すに及ばず、却って不受不施の袈裟衣となりぬ。
また日奥帰朝の以後大仏殿供養相止む。
殊に不受不施の法理諸寺通用の上に重ねて御糾明に及ばず。
不受不施の法理諸寺通用の事、本満寺日深の直筆の状有り。
云云。
その上当宗は前判を捨てて、後判を要とす。
祖師の問注抄にいわく、譬えば世間の父母の譲りの前判後判の如し。
はたまた、世間の前判後判は如来の金言を学びたるか、孝不孝の根本は前判後判の用不用より事起これり。
云云。
祖師日蓮、鎌倉殿の御勘気を蒙って流罪に処せらると雖も御赦免状を頂戴し鎌倉に帰されしよりこのかた、今に至る迄不受不施の法理相続す。
何ぞ京都の諸寺を御糾明無きを以て不受不施の御折紙を破らるべけんや如何。
他閉口。

一、他いわく、寺領はこれ国主の御供養なり。
何ぞこれを受くるや。
既に宝梁経にいわく云云。
梵網経にいわく云云。
与咸注にいわく。
然らば則ち挙足下足の道路迄皆悉く国主の御供養なり。
何ぞ寺領を取り乍ら国主の御供養をば受けざるや、如何。

自いわく、寺領は国主政道の仁恩なり。
供養は仏事作善の信施なり。
その義甚だ以て各別なり。
何ぞこれを混乱するや。
供養は御先祖の菩提なれば最も愁いなり。
寺領は天下一統の上の御祝儀最も喜びなり。
何ぞこれを乱すや。
また寺領は四恩中の第三国主の恩なり。
供養は第四三宝の恩なり。
汝の如くんば則ち第三第四の不同無く、また王法仏法の不同無く、世間仏法の差異無し。
汝何ぞこれに迷うや。
如何。

一、他いわく、寺領と供養とは同一なり。
日蓮抄にいわく、たとい上は信用なき様に候とも殿 乃至 得気栄える事に候等。
云云。

自いわく、汝が所引の崇峻天皇御書は寺領と供養とは同一という証拠に非ず。
甚だこれを笑うべし。
汝既に寺領を受けて四箇度の御供養を訴訟す。
口に同一と云い乍ら心には各別なりと存ず。
恥づべし。
恥づべし。

一、他いわく、四箇度の御供養はかつて訴訟を致さず。
只今も仰せ付けられ候に於いては一度の辞退にも及ばずこれを受くべきなり。

自いわく、三百余年このかたついに謗施を受けず。
汝何ぞ始めてこれを受くべしと云うや。
師敵対の失甚だ憐れむべし。
既に日向記に寺領と供養との異を分かち寺領は世間の法と定めらる。
何ぞこれを同じと云うや。

一、他いわく、日蓮の御書に非ず。
故にこれを用ゆべからず。

自いわく、御義の口伝を知らざるや。
殊に日向は汝が祖師なり。
何ぞこれを用いざるや。
如何。
汝等大仏殿の供養を受く。
故にその恥を遁れんと欲し種々に誑説す。
笑うべし。
この時に於いて日遠のいわく、我は大仏の供養を受けざる者なれば恥と思わずとののしる。
日乾のいわく、寺領と供養は同一なるが故に我飽くまでこれを受けて時に食とす。
時に自衆この異語を聞き一同大いにこれを笑う。

一、他いわく、宝梁経等は如何。

自いわく、宝梁経は帰依の施を説く。
汝何ぞ日蓮宗の不帰依の寺領にこの文を引くや。
次に梵網経は寺領と供養とは各別の証拠を明らかにするなり。
経文の初めにすでに一切檀越供養と挙げ、次に別段に王の水土等と説く。
何ぞ寺領と供養と同一の証となさんや。
与咸注釈委細にこれを談ず。
他閉口。

一、他いわく、安国論にいわく、地頭は田園を充てて以て供養に備う等如何。

自いわく、安国論は帰依の寺領を挙ぐ。
何ぞ不帰依の寺領を証となすや。
ここに於いて前後の文を出だし往々にこれを責む。
既に上の文に伝教義真慈覚智証等を挙ぐ。
次の文に釈迦薬師の光を並ぶるや虚空地蔵の化を成す等有って、次に地頭は田園を充てて以て供養に備うと云云。
これ御帰依の僧の寺領を挙ぐ。
全く不帰依の日蓮宗の寺領の証に非ず。
何ぞこれを用いて我が宗の寺領の証拠となすや。
これを笑う。
祖師既に明らかに帰依不帰依の別を分かつ矣。
法鑑坊抄にいわく、桓武皇帝叡山を建立しおわって天子本命の道場と号す。
南都六宗の御帰依を捨てて一向に天台円宗に帰伏す。
なかんづく上様寺領をば下されて四箇度の御供養は御宥免なり。
これ現証なり。
汝国主を違背し奉る上また師敵対の失堕獄遁れ難し。
他閉口。

一、他いわく、身延山は霊地なり。
何ぞ無間地獄と謗ずるや。

自いわく、御下知の御折紙を破り祖師の法度を背く。
故にこれを責む。
その上前々に乾遠共に書を作り都鄙に弘むるその中に不受不施の制法を守る者を往々に悪口し処々に誹謗す。
故にその返答に身延無限と云う。
これしかしながら失汝に在り。

方の衆前に御座敷を起ち、快く広間に坐す。
ややありて御座敷より永喜法印を御使者として、双方対論の口上つぶさに聞こし召し入れらるなり。
猶この上三問三答の記録を以て呈示せらるべし矣。
この下知を蒙り面々に礼儀を刷ろい、笑いて自庵に帰るのみ。
よって対論の記録斯くの如し。
 池上本門寺    日 樹 在判
 寛永第七庚午二月二十一日

第 四
問難 第一重 身延山住持日暹
それ今般の所論は国主の御供養を受くべきや否やの義なり。
去る慶長四年十一月、上意を以て大坂の御殿に於いて双方を召し合わせられ対論に及び、理非決断の旨に任せて妙覚寺日奥既に遠島に謫せられおわんぬ。
しかるに今池上日樹等彼の邪義を救い助けて上意を蔑ろにし宗義に背く。
これ則ち世間仏法に就いて逆罪の人なり。

一、経文並びに天台妙楽伝教の釈を以て立つる所の祖師の義なり。
故に沙門の挙足及び一滴の水等皆これ国主の供施なり。
況や地子寺領等に於いてをや。
故に宝積経百十三巻宝梁聚会にいわく、もし非沙門あって自ら我はこれ沙門と言わば、この大地に於いて乃至涕唾する分処有ることなし。
況や挙足下足去来屈伸をや。
何を以ての故に、過去の大王この大地を持ち、持戒行徳有る者に施与し中に道を行ぜしむ。
天台の止観妙楽の弘決第一にこの文を引き委悉に消釈せり。
また梵網経にいわく、故に心を起こし聖戒を毀犯する者は国王の地上を行くことを得ず。
国王の水を飲むことを得ず。
天台梵網の疏にいわく、国王もと地水を以て有徳の人に給す。
徳行有ること無きは受用することを得ず。
与咸の注にいわく、白衣は戒無し王の水土を食む。
皆輸税有り。
出家は税せず。
まことに戒行を為って今既に二種倶に無し。
豈その分有らんや。
分無くして用ゆ豈これ賊に非ずや。
伝教の顕戒論にいわく、およそ寺を造り、僧に供し、封を納れ、田を納め、三宝を住持す。
かくの如き等の類国王王子大臣宰相聖ならずんば何人ぞや。
法苑珠林六十二に 献仏部下 いわく、国家大寺長安西明慈恩等の寺の如くに似たり。
口分の地を除きて別に勅有り田莊を賜う。
所有供給並びにこれ国家の供養なり。
日蓮安国論右の経釈に依憑していわく、国主は郡郷を寄せて以て灯燭を明らかにし、地頭は田園を充てて以て供養に供う。
また日蓮の書にいわく、たとい上は御信用なき様に候えども殿その御内にましましてその御恩の影にて法華経を供養しまいらせ候えば偏に上の御祈りとぞ成り候らん。
大木の下の小木、大河の辺の草はまさしくその雨にあたらず、その水を得ずといえども、露を伝え気を得てさかうる事に候。
これもかくのごとし。

一、他難じていわく、伊州の折紙の中に既に他宗の志を受施せずと云う。
何ぞ国主の施を受けんや。

自答えていわく、祖師の宗義はようやく四百年に及ぶ。
その時何ぞ所司代の書札の有無に及ばんや。
然る処に経釈祖師の文義に拘わらずして近年の折紙を以てこれ宗旨の根源なりと崇む。
彼の所立甚だしく意得難し。
その上伊州の折紙は京都諸勧進の事なるが故にこの度の所論の限りに非ず。
汝古来の口宣、御教書及び権現様御判形及び相国様の御黒印御朱印等これを知らざるや。
口宣にいわく
寄進御祈祷所妙顕寺寺領の事
尾張の国松葉の庄。
同国小家の郷、備中の国穂太の庄、今度御還幸御願円満御祈精殊に以て忠功を致すの間充て行わせらるる所なり。
永代の知行領掌相違有るべからざるものなり。
将軍官令旨に依りて下知件の如し。

元弘元年五月十二日       左 小 弁  在判
日像上人 庵

御教書にいわく
近江の国佐津河東方の田地並びに備前の国宇垣郷の内山篠村、備中国河尻の庄等の事本主氏重影信以下の輩寄付の旨に任せ、当寺のため須くその沙汰を致すべく、祈祷精誠を抽づべきの状件の如し。
 文和四年八月二十九日 尊氏将軍 在御判
 妙顕寺院主僧都御房

権現様御判形にいわく 甲州身延山の事
久遠寺寺中同門前殺生禁断竹木免許の事