不受決・後 (了遠上人)
謗国に生まるる者またまた是の如し、これを国土の謗法免れ難しと云う。もし謗国の失をまぬがれんと欲せば、まさに謗法を呵責して、正法を護持すべし。 身軽法重の人護惜建立の族、謗国の罪をのがれ、功徳を増益す。 宗祖ののたまわく、「別の智行無しと雖も、謗法者を対治する功徳に依って、生死を離るべし」云云。 譬えば官人逆臣を見聞して、敢えて覆蔵せず、君に対して奏達すれば、不忠の罪をのがれ、還って官禄を得るが如し。 つぶさには秋元鈔の如し。 云云。 問う、梵網経にいわく「故に心を起こし、聖戒を毀犯する者は、一切檀越の供養を受くことを得ず、また国王の地上を行くことを得ず、国王の水を飲むことを得ず」。 天台の梵網疏にいわく、「罪を帯びして愧づこと無きは施を受くことを得ず。 国王本地水を以て有徳の人に給う。 徳行有ること無きは、受用することを得ず」。 与咸師蔵疏を引いていわく、「一には供施一毫の分無く、二には大地一足の分無く、三には飲水一滴の分無し」。 問う、供施分無きことはしかるべん、王の水土は衆生の同感、何が故ぞまた分無けん。 答えていわく、在家は戒無く王の水土を食むに、みな輸税有り。 出家は税せず、まことに戒行を為てなり。 今既に二種供に無し、豈その分有らん。 分無くして用ゆ、豈これ賊に非ずや。 古迹記にいわく、「国王の水を飲むことを得ず、とは出家は役を避けて福田に非ず。 その国王に於いて恩分無し。 故に用ゆる所無し、故に大賊と言う」。 わが宗門の人、而古、而今、長時に既に国王の水土を用ゆ、これ謗法の施を受用するに非ずや。 答う、梵網の文は本これ破戒の比丘を誡勧す、中に於いて二となす。 初めには犯戒の人檀越の供を受くべからざることを明かす。 次には犯戒の人国王の水土を用ゆべからざることを明かす。 天台の疏と与咸の注古迹記と、皆二意を以て本経を釈す。 初めに檀越供養とは此は是出世の善根、次に国王水土とは、作善供養に非ず、経自ら二意を分かつ。 誤って文を判ずることなかれ。 然るに水土元これ共業の感なりと雖も、その統領の主はこれ国主なり。 ゆえにこれを名付けて王の水土と為す。 もしは白衣、もしは沙門、気を含むの類、同じく水土を食む。 豈これ出世の布施供物ならんや。 ただこれ仁道撫育の恩沢のみと。 仁恩を謝し恩沢に報いんと欲す。 故に在家の如くんばしかも輸税あり。 それ出家の人は農商の務め無く、資具乏短にして、輸税有ること無し。 故に戒徳を以て常に恩沢を担う。 然るに謗施を受けざるは、一宗の制禁、この方式を違犯するを、犯戒の人と名付く。 檀越作善の信施を受くべからず。 国主仁恩の水土を用ゆべからず。 梵網経の文を引用して、他を難ぜんと欲すと雖も、文乖き義違す。 故に犯戒の失を自らその身に帰すと。 宝梁経の文また梵網の如く文に臨んで熟見せよ、更に評を用いず。 問う、水土等の如くんば、国王宰相通漫の仁恩にして供養に非ずと雖も所領の田苑を以て、別して寺院に給与す、豈これ謗法の施を受くるに非ずや。 答う、国王国主四海を以て体と為し、万民を以て子と為し、八荒を統御し、三才を通貫す。 日々に仁を行い、月々に徳を施すと。 普天卒土、緇素長幼天の三光に身を温め、地の五穀に神を養う、皆これ国主仁愛の高恩なり。 ゆえに我が門人に賜う所の田苑は父母仁慧哀愍の給与にして、仏事作善の供養に非ず。 何となればそれ出世供養とは、もしは父母、六親、朋友の速成妙果の為郡郷を伽藍に寄付す。 もしは自身出離生死証大菩提の為に田畠を僧坊に施設す。 かくの如きの所領等を、これを名付けて仏事と為す。 わが家の寺院に於いて、不信の国主等何の時、かくの如きの供養の所領を寄するや。 この供養の田苑を降してより、外に賜う所の井田山林は、仁恩に非ずして、何とか言わんや。 祖のいわく、官位所領を賜うとも、それには染せられず、謗法供養を受けざるを、不染世間法と言う。 云云。 宗祖すでに官位所領と、謗法供養と的然として轍を分かつ、門弟混雑することなかれ。 例せば父は釈典を信じて、仲尼の教えを斥い、子は儒道を学して、仏者の法を破す。 これ釈儒碩に異に、親子の徳はるかに殊たり。 然るにその父財を以てその子に付与す、これわが子儒道を学ぶが故にその父道を尊びて、財物を付与するに非ず、ただこれ親子の恩愛の慈慧なるが如し。 国主宰相の賜う所の田林これに準じて知んぬべし。 またまた宗祖の郡郷邑村を領知するの檀越有り。 その所領の中に謗者の寺院有り。 領主田宅樹林を以て彼の僧坊に付進するが如し。 これ悲愍仁道の故に、我が祖敢えて制止したまわず。 ただ出世の供養を誡めて、謗者に施さざる故なり。 世間愍念慈愛の所領、もしは自、もしは他、同じくこれを開許す、仁道悲哀の田苑を以て、出世の供養に濫雑すべからず。 問う、安国論いわく、「もしは高山の嶺に、華界を建てて、以て安置し、もしは深谷の底に蓮宮を起こして、以て崇重す。 釈迦薬師の光を並べるや、威を現当に施し、虚空地蔵の化を成すや、益を後世に被らしむ。 故に国主は郡郷を寄せて、以て灯燭を明るくし、地頭は田苑を充てて以て供養に備う」。 この文の如くんば郡郷田苑、ことごとく皆供養なり、何ぞ仁道憐愍の恩沢といわんや。 答う、郡郷、田苑また二意有り、つぶさには上に述ぶるが如し。 もし今の文の如くんばこれ檀越の供養なり。 何となれば初めには釈迦薬師を仰いで、郡郷田苑を宛て、作善供養を営むと雖も、世を挙げて選択を信敬す。 故にことごとく田苑を止め、供養を廃す。 故に下の文にいわく、弥陀の堂に非ざれば、皆供仏の志を止め、念仏者に非ざれば早く施僧のおもいを忘る。 既に供仏施僧と言う。 あきらかに知んぬ、彼の郡郷田苑は檀越の供養にして、仁恩に非ず、また作善供養と言わず、故に知んぬ、これ井田山林は国君の恩沢にして、仏事に非ず。 東を以て西とすれば、東西ことごとく乱る。 眼を閉じて穿鑿せよ、濫りに評解することなかれ。 問う、涅槃疏にいわく、「取捨よろしきを得て一向にすべからず」。 もし爾れば、ある時は謗施を受くべく、ある時は謗施を制すべし、何が故ぞ、一向に謗施を受けざるや。 六祖ののたまわく、「善く経を弘むる者は用与時に適う。 口に権を説くと雖も、しかも内心には実法に違せず」。 もし適時用与進退無き者は、何ぞ善く経を弘むる者と名付けんや。 答う、涅槃疏の如くん今昔相対のみ。 末法の一時両向進退の修行を用いんというには非ず。 つぶさには涅槃の疏、四句分別の如し。 宗祖この文を判じて、いわく、在世正像末四句不同なり。 故に不可一向と云う云云。 委しくは諸鈔の如し。 問う、末法の中に於いて、摂折二門有り。 末法摂受の時、何ぞ謗施を受けざるや。 答う、末法の摂受折伏と末法の悪国はこれ摂受門、末法の破法国は折伏門なり。 しかるに日本国はこれ破法国なり、折伏を以て喉襟と為す。 豈摂受漸進の弘経を用いんや。 つぶさには開目鈔の如し。 問う、たとい謗施と雖も、しばらく彼が心に随って。 以て助縁と為し、引いて仏慧に入らしむ、何ぞ理に応ぜんや。 答う、引入の善巧、その縁これ多し。 誰か制法に違して、謗法の施を受けんや。 涅槃経にいわく、もし衆生有りて、財物に頓着せば、我まさに財を施し、然る後にこの大経を以てこれを勧めて読ましむべし。 涅槃経の如くんば、哢引の為に財物を施与すと雖も、未だ、謗施を受く助縁と為るの文を見ず。 もとそれ本高迹下の神明、分段同居に降誕したまうこと、ただし物を与えて結縁せんが為に、和光同塵の形を示す、むしろ浄穢を糺さんか。 豈清濁をえらばんや。 染浄曲直皆まさに結縁すべし。 然るに猶制していわく、鉄丸を食すと雖も、心穢れたる人の物を受けず。 云云。 如来所遣の宗祖娑婆忍土に来臨し、専ら而強毒之の為に、随類応化の身を現ず、なんぞ順逆を論ぜんや。 何ぞ信謗を分かたんや。 触向、対面皆まさに施を受くべし。 しかも猶専ら禁じていわく、官位所領を賜うとも、謗法供養を受けざれ云云。 その旨一轍にして、函蓋の如し。 心有らんのなんじら軽想を生ずることなかれ。 問う、世に今昔有り、人に賢愚有り、古来の大徳の如きは、まさにその恐怖を忍ぶべし。 末代怯弱の人逼迫を受くに堪えず。 もし強いて請し、辞し難き怨憎競い来たらば、しばらく祖制に違して、謗施を受くと雖も何の失有らんや。 答う、開士の化に赴く、ますらおの敵に臨むに過ぐと。 末代のもののふ既に敵陣に臨みてその命を堕とす。 澆季の比丘、何ぞ豪勢を怖れて臭身を惜しまんや。 尋ねていわく、もし仏法磨滅、宗門断絶に及ぶ時は、しばらく権威に順じて謗施を受くべきや。 示していわく、唐の会昌天子、寺院四千六百余所を止め、僧尼を還俗せしめしこと二十六万五百人、この時に当たって、如来の遺法ことごとく土炭に墜つ、皆永滅と云えり。 然るに宋朝に至って、ついにまた本に復す。 如来の深法永滅すべからず。 ただ暫時の威をおそれて宗義の制を毀犯せば、もしは尊像に対し、もしは衆人に向かって、発露涕泣し、まさに至心に懺悔すべし。 問う、正法相続の為ならば、何の罪業か有らん。 答う、護持正法の為なりと雖もすでに祖師の制を破す罪を招くこと必せり。 まさに深く懺悔すべし。 況やもし懺悔せずして、その瑕疵を覆わば、末学猶予両楹に踟?せん、白衣これに慣うて宗門の軌と為さん。 九十五種の外道仏慧比丘の威儀より起こるが如し。 ただ自らの法に違するのみに非ず、他をして宗義を破らしめ、自ら惑い他を惑わす妨害甚だ多し。 敢えて覆蔵することなかれ。 まさに速やかに披陳すべし。 涅槃経にいわく、仏法に二の健人有り、一には本来清浄、二には懺悔清浄。 云云。 この二人に非ざるよりは、いづくんぞ道者と名付けんや。 尋ねていわく、謗施を受けるの業これ則ち謗法なりや、否や。 示していわく、即ち謗法なり。 疑網を懐くことなかれ。 問う、それ謗法とは執権謗実に名付く、謗者の供に赴く、豈これ謗法ならんや。 答う、謗法の相貌に多種有り、十法界因果鈔にいわく、天台大師梵網経の疏にいわく、謗はこれ乖背の名すなわちこれ解理にかなわず、言実に当たらず、異解して説く者を皆謗と名付くるなり。 己が宗に乖く、故に罪を得。 今いわく、吾が祖妙経に依り、宗義を立つ。 しかも不受、しかも不施、三百余回ここに年有り。 この格式を抑挫して、謗法の施を受けるは、則ち異解異説の人なり、豈謗法の輩に非ずや。 文に既に「己が宗に乖く故罪を得」と云う。 吾が宗の厳誡に乖く者ここに死し彼に生ず、苦に堕すること疑い無し。 第四に証人を出さば、古記にいわく、藻原の海師、誤って謗施を受く。 一宗の道俗深くこの事を患う。 時に、延山の叡師彼の風儀を伝え聞き、しばしばこれを検責す。 ゆえに海師延山に詣りて、誤る所の過罪を悔い訖んぬ。 猶疑念を懐き、尊像に向かい、発願していわく、受く所の謗施もし祖意に合わずんば旧里に還ることを得ず、中路に在って亡死せん。 もし謗施失に非ずんば我をして本国に還らしめたまえ。 伏して乞う。弟子両箇の求願、祖師の霊験を仰ぐのみと言いおわりて発足す、藻原に帰らんと欲し、ついに旧里に還着することを得ず、鎌倉の六が浦(あるいは藤沢)に在って病死す。 中路亡死の誓約旬日を経ずしてその身を喪す。 けだし、彼の日海師は大権の応化にして、法式を将来に示現する者か。 こいねがわくば我が宗の道俗等、貴と無く、賎と無く、疑いを起こすことなかれ。 長と無く、幼と無く怪しみを生ずることなかれ。 第五に廃三顕一に約して、権宗の施を受くべからざることを明かすとは、それ今経に二妙有り、いわく、相待、いわく、絶待なり、絶待妙はこれ開三顕一なり。 万法一真にして権実を分かたず、偏円をえらばず、自他無く、信謗無く、三途なお寂光なり。 況やまた三善道をや。??自ら法身なり、況やまた人天をや。 縛脱浄穢上智下愚独一法界にして、対待ことごとく泯す、これを称して絶待妙と言う。 ゆえに作善供養の受と不受とを論ぜざるなり。 もし相待妙は廃三顕一に約して、権実を分別し、偏円を極窮し、自他を異にし、信謗を糺す。 苦楽昇沈善悪因果天地の差殊、黒白の不同なり。 今昔を比決し、大小を度量し、粗妙を解釈し、濃淡を評判し、その真実を取って、彼の方便を捨つ、まさに名付けて相待妙と為すなり。 一たび妙の名を唱えるに、待絶具時にしてすべて待絶に妙を用うと雖も、その宗旨建立の如きはこれ相待妙の立義なり。 故に三教虚妄の方便を捨てて、ただ一乗真実の直道を取る。 ゆえに作善供養の受と不受とを論ずるなり。 これ則ち法王終窮の極説に随順して、如来の方便随他、竹馬艸鶏を捨つるゆえなり。 それ方便を捨つるに四有り、いわく、教行人理なり。 方便の教を捨つるが故に彼の経を受持すること無く、方便の行を捨つるが故に彼の行を行うこと能わず、方便の人を捨つるが故に彼の人に施さず、彼の施を受けず、方便の理を捨つるが故に彼の権理を証すること無し。 故に文にいわく、「正直捨方便、但説無上道」と、またいわく、「但楽受持大乗経典、乃至不受余経一偈」云云。 問う、正直捨方便の文の如くんば、或いは約教、或いは約行。 不受余経一偈の文の如くんば、ただこれ約教なり。 何が故ぞ、これらの文を引いて教行人理を捨つる誠証と為すや。 答う、方便の教行人理を捨つるを、相待妙の大意と為すなり。 豈教行を捨てて、人理を捨てざらんや。 故に知んぬ、経の現文の如くんば、或いは教行或いはただ約教なり。 その義意の如くんば、教行人理の四ことごとく備足せり。 故に下山鈔にいわく、一向大乗の僧左右の道を歩むこと無く、井水、河水同じく飲むこと無し。 乃至法華経に初心の一向大乗の寺を仏説いてのたまわく、「但楽受持大乗経典乃至不受余経一偈」と。 云云。 宗祖所判の如くんば、乃至不受余経一偈の文を引いて、井水河水同じく飲むこと無きの義を証す。 これ則ち現文はただ教に約するのみ。 その義意の如きはみな四に通ず、故にこれに準じて言うべし。 ただ願って大乗経典を受持し、乃至余教の行を受けざれ、乃至余教の理を受けざれ、乃至余教の施を受けざれと。 もしこの義の如くんば、たとい権を以て大乗を謗せずと雖も、方便の教行を捨つるが故に権宗の施を受くべからず、何に況や謗者の作善供養をや。 第六に悪知識に親近すべからざることを明かすとは、もしまた人有り、宗祖謗施を判せずと言うは此はこれ悪知識なり、親近すべからず。 彼の教に随順せば則ち祖意を害す。 もしは師、もしは徒、同じく悪道に堕して、出る期有ること無し。 畏るべきの最頂は、悪知識に如かず。 人をして苦域に堕せしむ。 道心有る者の思慮無けんや。 涅槃経二十二にいわく、「菩薩摩訶薩、悪象等に於いて、心に怖惧すること無く、悪知識に於いては、畏惧の心を生ぜよ。 何を以ての故に、これ悪象等はただ能く身を壊して心を壊すること能わず。 悪知識は二倶に壊するが故に。 この悪象等はただ一身を壊す。 悪知識は無量の善身無量の善心を壊す。 この悪象等は能く不浄の臭身を破壊す。 悪知識は能く浄身及び浄心を壊す。 この悪象等は能く肉身を壊す。 悪知識は法身を壊す。 悪象の為に殺されて三趣に至らず、悪友の為に殺されては必ず三悪に至る。 この悪象等はただ身の怨と為る。 悪知識は善法の怨と為る。 この故に菩薩常にまさに諸々の悪知識を遠離すべし」。 涅槃の疏にいわく、「諸々の悪獣等はただ悪縁なり。 人の悪心を生ずること能わず、悪知識は甘談、詐媚、巧言、令色、人を牽いて悪を作らしむ。 悪を作るを以ての故に人の善心を破る。 これを名付けて殺と為す、則ち地獄に堕す」。 宝性論にいわく、「愚にして正法を信ぜず、邪見及び?慢過去の謗法に障りて、不了義に執着し供養恭敬に着す。 故にただ邪法を見て善知識を遠離し、謗法者に親近し、小乗の法に楽着す。 かくの如きの衆生は大乗を信ぜず、故に諸仏の法を謗ず。 智者の畏るべからざるは、怨家と、大毒蛇と、旃陀羅と、霹靂と、刀杖と、諸々の悪獣、虎狼、獅子等なり。 彼はただ能く命を断ち、人をして阿鼻地獄に入らしむること能わず。 畏るべきは深法を謗ずると、及び謗法の悪知識なり」。 また十輪経にいわく、「もし誹謗の者とは共に住すべからず。 また親近せざれ、もし親近せば即ち阿鼻獄に赴く」。 また仏蔵経にいわく、「大荘厳仏の滅後に、四の比丘有り、第一義無所有、畢竟空法を捨てて、外道尼?子論に頓着す、この人命終して阿鼻獄に堕ち、仰いで臥し伏して臥し、左脇に臥し右脇に臥し、各九百万億歳熱鉄上に於いて焼燃?爛す。 死しおわって更に灰地獄大灰地獄等活地獄黒縄地獄に生ず、皆上の歳数の如く苦を受く。 黒縄に於いて死し、還って阿鼻獄に生ず。 彼の在家、出家の親近せしもの並びに諸々の檀越、およそ六百四万億人、この四師と倶に死し、ただちに生じ大地獄に在りて、諸々の焼煮を受く。 劫尽きて転じて他方の地獄に生ず。 劫成れば還ってこの間の地獄に生ず。 久々として地獄を免れ、人中に生じて五百世、生まるるよりして盲たらん。 後一切明王仏にあいたてまつって出家して十万億歳勤修精進すること頭燃を救うが如くすれども順忍を得ず、況や道果を得んや。 命終わって還って阿鼻獄に生ず。 後に於いて九十九億の仏にあいたてまつって、順忍を得ず、何を以ての故に、仏深法を説きたまうともこの人信ぜず、破壊し違逆して、賢聖持戒の比丘を破毀し、その過悪を出し、破法の因縁法としてまさにしかるべし」。 この経論疏釈等の如くんば、仏道を志求し、生死を出離せんと欲するの輩、甚だ惧怖すべきはこれ悪知識なり。 古賢のいわく、三歳学ばんよりは三歳師を択ばんには如かじと、この言善を尽くせるかな。 もしは白衣、もしは出家深くこれを思い、明らかにこれを量れ。 たとい博学多才にして外儀四依の如くなりと雖も、祖師の宗風に違するの徒、私曲臆見に任ずるの人、これはこれ悪知識なり。 悪鬼入其身なり。 学仏法の外道なり。 智者に非ず、道人に非ず、恭敬すべからず、親近すべからず、人をして大坑に堕さしむ。 速疾にまさに遠離すべし。 たとい浅識少量の人と雖も、宗祖の清水に漱ぎ、先哲の奇香を嗅ぎ、師資の道次序あって乱れず、法重の人身軽の族、これ善知識なり。 これ道人なり。 これ智者なり。 恭敬すべし、親近すべし、人をして妙果に至らしむ。 始終まさに随順すべきのみ。 伏して乞う、我が宗門の弟子悪知識の教を用いることなかれ謗法の施を受くることなかれ。 孔子は渇を盗泉の水に忍び、曾参は車を勝母の閭に廻らす。 琥珀は腐芥を取らず、磁石は曲針を受けず。 先言耳に在り、軌とせざるべからず。 寧ろ身を利剣の刃に当つるとも、何ぞ施を謗法の族に受けんや。 二三子それこれを慎め。 寛永第七庚午三月朔日 了遠 述 この法理は一段神妙の至りに存じ候。 この元の落居はこれに過ぎず候。 池 上 日 樹 在判 中 山 日 賢 在判 平 賀 日 弘 在判 小 西 日 領 在判 中 村 日 充 在判 碑文谷 日 進 在判 不受決 終 |