不受決・前 (了遠上人)
それ施の徳たるや、すなわちこれ万行の本、六度の初門また四摂の元首なりと巨海無窮なり。いずれか策励せざらんや。 所以に薩?王子は身を投げて以て飢えたる虎の命を救い尸毘大王は肉を割きて以て飛鳥の喰に代えり。 ついに正覚を成じて無上尊となる。 偉なるかな奇なるかな。 それ檀施の徳なり猶迷徒を憐れみて将来を誡約す後昆何ぞ慳悋に沈まんや。 然るに施財の徳を讃美すと雖も闡提に施すことを許さず。 またまた闡提の施を受くこと無しこれ我家の厳誡師資の軌則なり。 先達古徳欽んでこれを厳かにす。 而今而後敢えておこたることなかれと。 二三子に示さんと欲す。 略して見聞を記するのみ。 時孟秋の日。 釈 了遠 述 吾が祖世雄の遺嘱を被って神識を日域に遊して化を順逆の機に敷き道を違従の類に開き、一乗を通暢して而強毒之の先蹤を継ぎ、三権を折破して呵責謗法の詔勅を仰ぐ。 所以に謗人に施すこと無くまた謗施を受くること無きのみ。 初に謗人に施さずとは涅槃経にいわく、仏ののたまわく、ただ一人を除きて余の一切の施皆讃歎すべし。 純陀問うていわく、如何するを名付けて唯除一人と為す。 仏ののたまわく、この経の中に説く所の如くんば破戒なり。 純陀またいわく我今未だ解せず唯願わくばこれを説きたまえ。 仏純陀に語ってのたまわく破戒とは謂く一闡提なり。 その余あらゆる所一切の布施皆讃歎すべし、大果報を得ん。 また問う、一闡提とはその義云何。 仏ののたまわく純陀もし比丘比丘尼優婆塞優婆夷有りて粗悪の言を発し正法を誹謗すこの重業を造りて永く改悔せず心に懺悔無しかくの如き等の人を名付けて一闡提の道に趣向すと為す乃至ただかくの如き一闡提の輩を除きてその余に施す者の一切讃歎す。 宗祖ののたまわく法華経の如くんば大乗を謗ずる者は無量の五逆に勝れて阿鼻大城に堕ちて永く出る期無し涅槃経の如くんばたとい五逆の供を許すとも謗法の施を許さず。 それ釈迦已前の仏教はその罪を斬ると雖も能仕已後の経説は則ちその施を止む。 然れば則ち四海万邦一切の四衆その悪に施さず皆この善に帰せば何なる難か並び起こり何なる災いか競い来たらん。 祖水の余派を汲まんと欲する四衆、豈に誹謗一闡提の徒に施さんや。 つぶさには安国論の如し、更に筆を労するをまたず。 次に謗施を受けざること、まさにこの義を明かさんとす。 初には道理を明かし、次には文証を出し、三には妨難を遮し、四には証人を出し、五には廃二顕一に約して権教の人の施を受くべからざることを明かし、六には悪知識に親近すべからざることを明かす。 初めに道理を明かすことは一には信謗の差殊を分かたんが為なり。 いわくもし信者の施を受け、謗者の供を許さば、信謗混同して邪正乱雑せん。 何を以てか信者をゆるし謗者を斥うの儀有らんや。 二には謗者の施はこれ不浄の故に、おおよそ不浄の施を制するは、経論常途の炳誡なり。 不浄多種ありと雖も、汗穢の最極謗法の如くなるは無し。 或いは権を以て実と為し実を以て権と為し、或いは難行と為し、雑行と為す。 かくの如きの謗心豈不浄に非ずや。 経にいわく、心不浄の者は悪口罵詈す。 云云。 既に不軽軽毀の人を以て名付けて心不浄者と為す。 故に謗者を名付けて不浄の最と為す。 見ればそれ平等円常の大海には謗法の屍骸を納むること無し。 清浄の宝器には穢食を入るること無し。 豈一乗無染の持者の法器に、謗法染汗の供物を入れんや。 三には謗法の人は仏法の怨なるが故に、涅槃経の如くんば、仙預国王は謗法の悪比丘を殺す。 有徳王もまた無量の謗者を害す。 それ殺に三種有り、いわゆる上中下なり。 軽重の獄に堕ちて無量の苦患に沈む。 もし謗者を殺せば則ち還って功徳を増長す。 我祖これらの文に依ってしばしば国主を諫めていわく、謗者僧尼の頸を斬りて由井が浜に懸くべし。 云云。 もしその命根を断ずとも施を受くべからず。 もしその施を受用せば、命根を断ずべからず。 もしその頸を斬ると雖も、その施を受くべしと言わば寧ろ道理に応ぜん。 誰かその説を信ぜんや。 四には謗者の供養は軽賤の施なるが故に、軽賤の請を許さざること阿含大論の如し。 今我家に於いてその義を論ぜば、所持の経はこれ最尊最上の法なり。 然るに経は倶にこれ仏口の所生なりと言いて、一概に権実に於いて齊等ならしめ、或いは下劣の羊牛乗を以て深と為し、最勝の修多羅を以て浅と為さんか。 能持の人はまたこれ一切衆生の中に於いてまたこれ第一なり。 然るに僧は同じく剃髪染衣なりと言って同等ならしめ、或いは悪知識を以て貴と為し、善知識を以て卑と為す。 法を軽んずるの供人を賎しむるの施、豈軽賎に非ずや。 誰かこれを受用せん。 もしかくの如き軽賎の施を受けば、甚だ仏制に違し、深く祖意に背く。 豈これ道人ならんや。 五には師檀の義に違するが故に、何となれば一乗能持の比丘を以て、師範と名付け、教授の知識と為す。 信伏随従の白衣を以て、檀越と名付け外護の知識と為す。 かくの如きの師範かくの如きの檀越、能施、所施、函の如く蓋の如し。 今制する所は能施の人はこれ謗者我檀度に非ず、所施の僧はこれ信者彼の師範に非ず、師資の道永く乖けり。 何ぞ供養を受けんや。 六には世の機嫌を招く故に、何となれば我祖、生を粟散に受け化を扶桑に開く。 謗者を訶するを以て正的と為し、権門を破するを以て終極と為す。 故に謗実の族、執権の輩もしは師、もしは徒、共に阿鼻に堕つと言う。 口にはこの説を為すと雖も、謗施を受けば、則ち彼の徒と言うべし。 口には謗法罪を説きて、身は謗法の施に纏わる、身口既に違す、これ誑惑の人なり。 何ぞ自利、利他有らんと。 もしこの機嫌有らば弘経に定めて轍を失わん。 二乗の自度は四重を以て正と為し、菩薩の行願は機嫌を以て本と為す。 たとい上来の如く、衆多の義門無しと雖も、遍界の機嫌、豈怖れざるべけんや。 七には呵責謗法の為、何となればもし謗施を受けば、能施の人に対して、その徳を讃歎すべし。 謗法を破責し難し。 もしまた人有り、謗法の施を受けば呵責して言うべし、汝はこれ謗人、苦長劫に流ると。 その所持の法を謗じて、施を能持の人に与う。 更にこのことわり有ること無し。何ぞこの施を受用せん。 もし謗法罪を免れんと欲せば、速やかに捨邪帰正すべし。 この義を為ってその請に趣くべからざるなり。 第二に文証を出さばまた二と為る。 初には正文を引き、次には例文を引く、初に正文とは金珠女鈔にいわく、勝りたる経を供養する施主一生に仏位に入らざらんや。 但し真言禅宗念仏等の謗法供養を除去す。 譬えば修羅を崇重しながら帝釈に帰敬するが如し。 下山鈔にいわく、月氏の習い一向小乗の持者は王路を行かず、一向大乗の僧は左右の路を歩むこと無く、井水河水同じく飲むこと無し。 何に況や一坊に往すべけんや。 また新池鈔にいわく、熱鉄を食すと雖も謗法の供養を受けず。 日興の記(元祖講談興師筆記)にいわく、法華の行者南無妙法蓮華経と唱えて謗法供養を受けざれば貪欲の病を治するなり。 また日向記同上にいわく、官位所領を賜うとも、それには染せられず、謗法供養を受けざるを、不染世間法と言う。 延山朝師のいわく、謗法の言を聞けばまさしく耳を洗うべし知らずして、謗施を受けば歯を研くべし。 云云。 次に例文を引けば、涅槃経にいわく、刹利王の臣、法として栴陀羅の禄、これを食らうこと無し。 私にいわく、大乗を謗ずる者は既に仏種を断ず。 験に知んぬ、仏法の栴陀羅なり。 大乗受持の僧侶等、何ぞすべからく仏種を断ずる栴陀羅の施財を受くべしや。 また正八幡宮神託にいわく、鉄丸を食すと雖も、心穢れたる人の物を受けず。 今まさにこれを例して言うべし、鉄湯を以て、その咽喉にそそぐと雖も大乗を誹謗する人の施を受けずと。 また大智度論にいわく、仏一時、舎婆提城に入りて、乞食したまう。 婆羅門有り、始め仏しばしばその家に到りて乞食したまう。 心にこの念を作す、この沙門何を以てか来ることしばしばなる、その債を負うが如しと。 仏時に偈を説いてのたまわく、時雨しばしば堕つ、五穀しばしば成る、しばしば福業を修せば、しばしば果報を受く、しばしば生法を受くが故にしばしばの死を受く、聖法しばしば成れば、誰かしばしば生死あらんと。 婆羅門この偈を聞きおわって、大聖つぶさに我心を知ると、慚愧して鉢を取り舎に入りて美食を盛満して以て仏に奉上す。 仏受けたまわず、この言葉を作したまわく、我偈を説かんが為の故にこの食を得るが如し。 我食せざるなり。 婆羅門のいわく、この食まさに誰にか与うべき。 仏ののたまわく、我が天及び人、よくこの食を消ずる者を見ず、汝持ち去りて少艸の地、もしくは虫無き水中に置けと。 即ち仏の教えの如く虫無き水中に置く。 即ち大いに沸きて煙火倶に出ること大熱鉄を投ずるが如し。 婆羅門見おわりて驚怖して未曾有なり言う。 乃至食中の神力かくの如し。 仏を礼し懺悔しおわって出家して受戒し、漸々に結を断じ、阿羅漢道を得たり。 私にいわく、もし能施の人、その心粗悪なれば、大聖なお食を受けず、況や謗法の人、色心?曲たること百千万億倍なり、何ぞ彼の施を受けんや。 甚だ怖畏すべし。 第三に妨難を遮するとは、問う、注画讃にいわく、由井が浜より独り舟に乗り、河名の津に着く。 宿の主を船守弥三郎と号す。 元祖船より下り苦しみたまう。 夫妻意を同じゅうし慇懃に奉事し、洗足手水飲食等に及ぶ。 三十余日あって内心に法華を信じついにこれを受持す。 既に三十余日内心に法華を信じついにこれを受持すと言う。 故に知んぬ、初はこれ誹謗の人なり。 またいわく、国人集まりて眉をひそめ指を指す、配所は当国新穂の郷なり。 沢深く艸茂れば野中に洛陽蓮台野の如くなる。 死人を捨つの所塚原と名付く。 塚の上に小堂あり、黄葉軒を埋め、青苔柱に纏う。 仏も無く、僧も無き堂なり。 十一月一日にこの三昧堂に移り、昼夜耳にみつるは松風、晨昏目に馴るるは庭雪のみ。 食乏しゅうして命支え難く、衣菲うして形を蔽いがたし。 上漏り下うるおう。 簑笠を覆い、鹿皮を敷き乃至堂には尊特の釈迦を安置し、手には持経の妙典を握り、昼は日光を仰ぎて法華止観に眼を曝し、夜は星月に向かいて、妙法の題名を口に唱え、一朝の威を恐れて、万民の嘲りを顧み、親類恩を蒙り、不意に毀りを為す。 たまたまに室を過ぎ、希に食を献るも、主人に勘当せられ、所領を抑えられ、父母に疎んぜられ、兄弟に捨てらる。 故に敢えて親附するもの無し。 ただ阿仏房夫婦のみ深く見聞を慎み、夜中に膳をそなう。 阿仏房また先謗後信の人なり。 阿仏房弥三郎が如きは、未信已前にして供養を設け、一谷入道が如きはついに妙経を信ぜず、しかも飲食を奉献す、これ元祖、謗施を受けたまうに非ずや。 答う、わずかにこの文を見て、元祖謗施を受けたまうと言う、嗚呼悲しいかな、ただ文相を見て、その義を知らず、その意を得ず。 何となれば伊東配流の時、元祖船より下りて苦しみたまう。 故に弥三郎夫妻、左遷の危難を見て悲哀に堪えず飲食等に及ぶ。 豈これ論ずる所の作善供養ならんや。 けだしこれ世間愍念の飲食のみと。 吾宗供養を謗者に設くることを禁ずと雖も、然れどもまた飲食医薬等を以て貧者病人、配流困厄の輩に施すことを許す。 憐愍の一施、主敵共許なり。 今の所述に非ず、未だ怪と為すに足らざるなり。 また阿仏房の供もその旨一揆なり。 以て自ら思量せよ、筆を染むることを借らず一谷入道またまたかくの如し。 一谷鈔にいわく、宅主内々に心有り、外には恐るる様なれども、内には不便気に有りしこと何の世にか忘れんと。 云云。 文に臨みて迷うことなかれ、既に不便と言う、不便の飲食、何ぞ謗施と名付けん。 これ則ち優婆塞戒経の貧窮田の如きなり。 故に優婆塞戒経にいわく、仏ののたまわく、世間の福田におよそ三種有り。 一に報恩田、二に功徳田、三に貧窮田なり。 報恩田とは、いわゆる父母師長和尚なり。 功徳田とに暖法を得てより、乃至阿耨菩提なり。 貧窮田とは、一切窮苦困厄の人なり。 この三田を以て比決校量せよ、執滞の疑氷一時に解散しなん。 何となれば弥三郎夫婦等、吾が師の恩を蒙るに非ず、故に報恩田に非ず。 初には功徳の人なることを知らず、故に功徳田に非ず。 只これ左遷の憂悩を哀れむ、豈貧窮田の施に非ずや。 況や戒経の文には、窮苦困厄の人と言う。 注画讃には元祖船より下り苦しみたまうと言う。 彼此の二意なお符契の如く文義炳然なり、異見を生ずるなかれ。 また浄名、二乗を弾ずる如くんば、これ悲田の施なり。 悲田の施と貧窮の施と、名同じからずと雖も、義全く異ならず。 煩文を去るが為、再評を用いず。 問う、吾が祖はこれ僧宝なり、まさに功徳田なるべし、何ぞ悲田、貧田と言わんや。 答う、優婆塞戒経にいわく、世尊はこれ二種の田なり。 一には報恩田、二には功徳田。法もまたかくの如し、衆僧はこれ三種の田なり。 一に報恩田、二に功徳田、三に貧窮田なり。 既に僧これ三種田と言う。 我が祖伊東の左遷には船より下り、苦しみたまうと言う。 また佐州の謫居には、食乏しくして、命を支え難しと言う。 この配流逼悩を以て、三種田に対すれば、言詞を待たず、自ら帰する所有らん。 況やまた元祖、我遣化四衆比丘比丘尼及清信士女の文を引きて、阿仏房、弥三郎等を称歎したまう。 比丘、比丘尼とは阿仏房夫婦なり。 清信士女とは、弥三郎一谷入道等の夫妻なり。 皆これ変化の四衆、元祖の化導を補佐す。 豈これ実の謗者ならんや。 わずかに文相を見て、思量未だ練せず。 深く義趣を察し、細かに祖意に達するはいずれぞ、後見の士、よろしくこれを評決すべし。 問う、執権謗実の人、一宗の僧侶を供養せんと欲する所以は、彼信仰の微志萠し、改悔の寸意発する故なり。 もし謗心しばらくも翻らず、信念わずかに動かざるは何ぞ供給の心有らんや。 故に彼の供を許諾するに過罪有るべからず。 答う、彼もし信仰改悔の心を発せば、まさに権実の起尽を糺して、以て教化し、謗法の罪業を説いて、以て調適すべし。 その施を受けずと雖も必ずまさに捨邪帰正すべし。 何ぞ供物の受と不受とに関わらんや。 また古来の謗者の供養を考うるに多く我が家の立義を破らんと欲するに在り。 謗心翻るに非ず、信念動ずるに非ざるなり。 況や凡師の鑑機は大聖の抑止する所、仏闍王に記しおわって四衆に告げてのたまうが如し。 牛羊の眼を以て人彼は善、彼は悪と評量することなかれ。 愚昧の照機を閣めて宗祖先哲の口決を守らんには如かず。 問う、西條の地頭はこれ謗法の人なり。 元祖既に彼の堂供養に趣きたまう。 謗者の供養を受用するに非ずや。 答う、注画讃にいわく、西條の地頭はまた念仏者なり。 故に深く怨嫉を懐く。 外には堂供養の導師に屈するが如くして、内には実に害を加えんと欲す。 尊師兼ねてこの事を知ると雖も、強いてその請に赴きたまう。 彼の堂に到りて唱え演てのたまわく、無縁の弥陀に帰し、有縁の釈迦を捨つ、故に殿堂起立し、弥陀を安置すと雖も、必ず阿鼻獄に堕つべし。 私いわく、地頭は害せんと欲して、元祖を屈請す、信仰の請に非ず。 師は折伏の為に彼の堂に到りたまう。 受供の為に非ず。 天の如くはるかに地の如く隔たれり。 寧ろこれ謗施ならんや。 問う、一家の門人常にいわく、国土の謗法脱し難し。 云云。 もししかれば国主、地頭の供は辞退すべからざるか、如何。 答う、ただこれ名を聞いて、その義を知らず、今祖師の所判を引いて、迷者の疑網を裂かん。 それ法華を習うにおよそ三義有り。いわく、謗人、謗家、謗国なり。 この三種の罪、甚だ免れ難しと為す。 第一第二は文に臨みて解すべし。 第三謗国とは、たとい我が身一乗を持すと雖も、謗法の国に生まるれば必ず悪趣に堕つ。 譬えば朝廷の官人もしその身に於いて叛逆無しと雖も、朝敵有りと知りながら隠覆して、奏せずんば不忠の罪、叛逆人に同ずるが如し。 |