研心鏡・前 (仏性院日奥)
それ父母の家を出で妻子を帯せず眷属を遠離し出塵の身となる。元意何事ぞと深くこれを糺し恒に忘失すべからず。 もしこの元意を忘れば一切の諸行悉く正意に乖き実徳を失うべし。 発心僻越すれば万行徒に施すと。 甚だ恐れざるべけんや。 故に出家と為る者はまずこの義を案じよくよく意地に置くべきなり。 そもそも釈氏の風儀を学び剃髪染衣の身となるは諸檀那を領し房舎寺院を進退せんがためにもあらず、また験者となり祈祷を専らにし人の現世を祈り所領田園等を貪らんが為にもあらず、また碩学大才と成って智徳の誉れを天下に挙げんがためにもあらず、また世俗の文筆を翫び詩書の道に長じ大人大家に交わって名聞を求めんがためにもあらず。 また聖人貫首として多くの衆徒を領し衆中の上座に居して人のために崇敬せられんがためにもあらず。 これらの事は一旦の名利眼前の光栄たりと雖も実に滅苦の智なし。 還ってこれ輪廻の業にして苦報を招く媒介なり。 故に道人の嫌う所真人の恥づる所なり。 敢えてこれを望むべからず。 所詮沙門の形となることはただ諸々の愛欲を離れ生死の苦種を枯らし早く三界の険難を出でて速やかに無上菩提の大涅槃楽処に至らんがためなり。 つらつら輪廻の由来を案じ苦患の根本を尋ぬるにただこれ初め家にあるより起こる。 家に在るが故に愛貪起こる。 愛貪起こるが故に妻を帯す。 妻を帯するが故に子を生ず。 子を生ずるが故に眷属多し。 眷属多きが故に財用たらず。 財用足らざるが故に四方に馳求す。 四方に馳求するが故に求むる所の心に任せず。 求むる所の心に任せざるが故に苦悩並び起こる。 また在家は世事粉々として暇なし。 暇なきが故に仏法を聞かず。 仏法を聞かざるが故に智慧あることなし。 智慧あることなきが故に善悪を弁えず。 善悪を弁えざるが故に解脱の楽を知らず。 解脱の楽を知らざるが故に三界の苦を厭うことなし。 三界の苦を厭うことなきが故に解脱の楽を欣ばず。 故に勇んで行を起こさず。 勇んで行を起こさざるが故に輪廻窮まりなし。 輪廻窮まりなきが故に苦患窮まりなし。 もし苦根を断ち涅槃の大楽を得んと欲せば、まず父母の家を出づ。 父母の家を出づるが故に愛欲の境を離る。 愛欲の境を離るるが故に妻女を帯せず。 妻女を帯せざるが故に子息あることなし。 子息あることなきが故に眷属を養うことなし。 眷属を養うことなきが故に財用を貪らず。 財用を貪らざるが故に四方に馳求せず。 四方に馳求せざるが故に世事粉々ならず。 世事粉々ならざるが故に身に暇あり。 身に暇あるが故によく法を聞く。 よく法を聞くが故に智慧あり。 智慧あるが故によく善悪を弁う。 よく善悪を弁う故に解脱の楽を知る。 解脱の楽を知るが故に勇んで行を起こす。 勇んで行を起こすが故に輪廻永く止まる。 輪廻永く止まるが故に苦患永く捨つ。 苦患永く捨つるが故に解脱の妙楽常住不退なり。 明かに知んぬ生死の大苦は在家より起こり、涅槃の大楽は出家より始まる。 故に悉達太子は出で難き王宮を出で捨て難き后妃を捨て、独り深山に居し菜を摘み水を汲み難行苦行してついに大涅槃極安楽の処に至りたまう。 そもそもこの大涅槃は即ちこれ三徳秘蔵。 三徳秘蔵は即ちこれ極果の住処万徳を具足する極安楽の処なり。 生死無常の憂い無く飢渇寒熱の苦しみなし。 況や水火盗賊王難等の恐れあらんや。 常住不退の快楽無量無辺言語同断なり。 帝釈喜見城の楽しみ、梵天深禅定の楽しみももののかずならず。 況や輪王十善の楽しみ等むしろこれに比すべけんや。 今くわしく苦患の至る所を論ずるに等覚の深位なお一品無明の苦あり。 故に弘の五にいわく、痴暗無明三諦を障う苦ついに実報に至る。 云云。 実報土なお微苦あり況や方便土の苦に於いてをや。 何に況や、天上の五衰、人間の八苦、修羅の闘諍、畜生の残害、餓鬼の飢渇、地獄の焼燃に於いてをや。 然るにこの大涅槃は九界の諸苦を離れすべて一点の苦なき大安楽処なり。 故に涅槃経第九にいわく、彼の涅槃とは名付けて甘露第一最楽となす。 云云。 記の八に大経を引いていわく、また一行ありこれ如来行、所謂大乗大般涅槃。 涅槃はただこれ三徳秘蔵。 三徳は只これ一大涅槃なり。 云云。 また涅槃経九にいわく、涅槃を得れば第一の楽しみとなす。 云云。 それ諸水の集まる所は大海なり。 万善の帰する所は涅槃なり。 三世の諸仏初発心よりここに目を懸けて万行を修す。 誰かこれを欣ばざらんや。 然らば則ち解脱幢相の袈裟を懸くるの輩は深く出家となるの元意に住して無益の妄念を除き、無益の所行を断ち一心一念もこの楽処を楽しむべし。 およそ大涅槃楽甚深の境界は当分権教の妙覚なお測り知る所にあらず。 況や等覚已下凡夫の智慧に於いてをや。 然りと雖も円頓の行者は初心より分にこれを知る。 譬えば龍子の始めて生まれて七日に即ちよく雲を興しまたよく雨を降らすが如し。 円教の初心もまたまたかくの如し。 未だ煩悩を断ぜず未だ凡夫の事を離れずと雖も、聞経の功かくの如き大勢力あり。 ここを以て玄義の五にいわく、円教の発心未だ位に入らずと雖もよく如来秘密の蔵を知る、初心なお然なり。 何に況や後位をや。 云云。 文句十にいわく、凡夫の心を以て仏の所知に等しゅうし所生の眼を用いて如来の見に同うす。 かくの如き知見法界を究竟すと。 云云。 たのもしいかな吾等末代の凡夫たりと雖も宿殖深厚にして聞き難き法華経の名字を聞きあまつさえ本化の末流を汲み、円人の一分となる。 生生世世の喜び何事かこれに如かんや。 我等なお世間の不足を憂うるはまことに智品浅くして仏法にあい、宿善の深きことを知らざるによる。 もしよくこの義を知らばまた何ぞ今生少時の不足を憂えんや。 譬えばここに貧窮の人あり、明日長者とならんことを知らばいかでか今日の貧しきを憂えんや。 ただ喜心余りありかつて思う所無きが如し。 我等もまたかくの如し先業の所感に依り今生しばらく諸苦を受くと雖も妙法受持の功力に依り来世必ず楽処に生ぜん。 何ぞ現世暫時の苦を歎かんや。 また炎天乾魃小水の魚泥に喘ぎ苦しむと雖も天曇り雨降るを見て大いに喜ぶが如し。 法華を持つ人の喜びもまたかくの如し。 今日火宅の焔に咽ぶと雖も妙法の大白牛車に載り頓に三界の苦域を出で清涼池を楽しむこと尤も久しからざるにあり。 故に経にいわく、この人久しからずして当に道場に詣るべしと。 云云。 然らば則ち信力堅固の人はまず現世の楽心甚深なり。 経に現世安穏と説くこれなり。 況や後世の大楽に於いてをや。 彼の貧人明日長者となることを知るが如し。 豈に踊躍の心を懐かざらんや。 かえすがえすこの度万事を抛って一心に励むべし。 もし世事に頓着し油断して空しく過ごさば頭を叩き胸を打って後悔すとも何の益あらんや。 ここを以て上聖大人皆法のために身命を捨つ。 然らば喜見菩薩は身を焼き臂を焼き、善財童子は師の教えに随って大火中に入り、輪王は八字のために身を千灯に燃し、楽法梵志は皮を剥ぎ骨を砕き仏法を習わんことを願う。 そもそもかくの如く身を軽んじ法を重んずる所以は仏法は億々万劫にもあい難し。 身は芭蕉の脆くして久しく保ち難きが如く、惜しむと雖もついに必ず野外に捨つ。 これを惜しみて何か為ん。 徒に捨つべき身を以て法のためにこれを投ずれば永く苦輪を離れ無上菩提を証し涅槃の宝山に登り無量の快楽を受く、豈に大幸にあらずや。 これを以てこれを思うに、法のためにこの身を捨つるは、沙を以て珠に替えるが如し、誰かこれを惜しまんや。 然りと雖も仏法を練らざる人は臭身を慳む心深く仏法のためにたやすく捨つることを得ず。 痴狗の枯骨を惜しむが如く慳心確乎として抜けがたし。 悲しいかな末代の衆生愛欲の境無益のことには身を亡ぼし財を費やすと雖もこれを惜しまず、仏法のためには誠に未だ暫時の苦を忍び小分の財を投ずることを欲せず。 況や進んで身命を捨てんをや。 これ先世の妄想習続して未だ智慧の眼を得ざる故なり悲しむべし悲しむべし。 もし今生いささか制伏の思いなくんば世世未来永く苦輪を出ずべからず。 もし勇猛心自ら発らずんば精を尽くして至心に三宝に祈りを懸け深く道念を起こすべし。 誠に無二の信力にあらずんば永くこの楽邦に至るべからず。 智慧第一の身子なお信を以て入ることを得たり、況や但妄の凡夫むしろ信なくして入ることを得んや。 しかもこの大涅槃は法華経に説く所の過五百由旬の宝処なり。 この宝所即寂光、寂光即妙法蓮華経、妙法蓮華経即我等が心性なり。 然らば則ち寂光極楽宝所全く外になし唯我等が一念の心中にあり。 故に釈にいわく、故に自心常寂光の中に於いてあまねく十方一切の身土を見る。 已上。 愚なるかな我等凡夫己心寂光の楽土を知らず遠く外に求む。 悲しいかな無上宝珠身内に備えながらこれを知らずして空しく貧路に佇む。 |