奥聖鑑抜萃・1 (仏性院日奥)
妙覚寺法式法華宗真俗異体同心法度の事 一、謗法の堂社に於いては参詣を致すべからざる事。但し見物遊覧公役等を除く 一、謗法の僧侶等に於いては供養を成すべからざる事。但し世間仁義愛礼等を除く 一、たとえ誘引の方便たりと雖も直ちに謗法供養を受くべからざる事。 一、檀越となって社参物詣を致し謗法供養を成す輩は堅くこれを呵責せしむべし、もし再三に及び猶これを信用せずんば大小をえらばず親疎をえらばずこれを捨つべき事。 一、たとえその夫信者たりと雖もその妻受持せずんば三箇年の間はその小師間断なく教誡を加うべし、なお以て信順の儀無くんば夫婦共にこれを捨つべき事。 一、僧俗共に不信謗法の振る舞いあらん時これを見聞しながら寺家へ披露致さずんば与同罪たるべき事。 一、当寺の法式に於いてもし不審の儀あらば幾たびたりと雖も存分をのべ決断を遂げて捨邪帰正を用いしめその趣に従ってこれを弘通すべし、もしその已前己情の新義を構える輩は仏法の重科たるべき事。 一、檀那謗法の業治定の後その小師としてこれを捨つる時は自余の僧衆としてはそのもとに出入すべからざる事。但し自余の所用等を除く 一、謗法の投げ銭に於いては衆僧一同にこれを捨つべき事。 以上 右談話の意趣は偏に広宣流布を祈り専ら信俗の信力を勧めんが為なり。 それ捨邪帰正は仏家の通規法流に於いては渭を分かつ。 異体同心は繁栄の洪基立破に於いては強弱を思う。 かるがゆえに信心の真俗等謹んで恭敬合掌の頭を傾けて法華経中の諸尊に向かい奉って大誓願をおこさんと欲するのみ。 かたじけなくも大覚世尊は爾前無得の誓言には「我則堕慳貪」と述べ給い、法華得道の誠諦には「要当説真実」と記し給えり。 また多宝如来は宝浄世界より来至して証明法華の旧願を以て「皆是真実」と唱え給う。 しかのみならず来集の分身は舌を助けて梵世に付け上行結要の妙法を慕い給う。 これしかしながら凡夫即極の玄旨、末世能引の亀鑑なり。 あまつさえ宝塔品には三箇の勅宣を下し給い、「今於仏前自説誓言」と勇め給う。 提婆品には二箇の諫暁を挙げて提婆龍女二種の相即を呈し、はた勧持に至っては二万八万の「菩薩発誓弘経」の唱え厳重なり。 ああ已達の上聖なお以てかくの如し。 未達の下愚いかでかその跡を追わざらんや。 これはこれ現世安穏の秘術後生善処の善巧なり。 この故に誓約をいたし判形を加え信心の崑崙に登りて成仏の明珠を拾うと。 云爾 所詮これらの掟に於いては末学の新義にあらず、高祖已来の軌範なり。 誰人かこれに背き何の倫かこれを破らんや。 まず社参物詣の事 安国論にいわく、それ四経の文朗かなり。 万人誰か疑わん。 しかるに盲瞽の輩迷惑の人妄りに邪説を信じて正教を弁えず。 故に天下世上諸仏衆経に於いて捨離の心を生じ擁護の志なし。 依って善神聖人国を捨てて所を去る。 これを以て悪鬼下道災をなし難をいたす。 具に彼の文の如し 正八幡鈔にいわく、月氏にては法華経を説いて正直捨方便と名乗り給い、日本にては正直の人の首に宿らんと誓い給う。 しかるに去る十一月十四日子の時御宝殿を焼いて天に上り給う。 故にこれを勘うるに神は正直の人の頂に宿らんと誓いたまえども正直の人の首候わねば栖なくして天に上り給いけるかと。 云云。 新池鈔にいわく、今まではこの国の者共をばさりとも法華経の御敵にはならざりしと。 一子のあやにくの如く捨てかねて御坐せども霊山の起請の恐ろしさに社を焼いて天に上り給いぬ。 さはあれども不惜身命の法華経の行者あらばその頂には住み給うべし。 天照大神八幡大菩薩天に上り給わばその余の諸神いかでか社に留まり給うべき。 たとい捨てじと思し召すども霊山の起請に任せて呵責し奉らば一日もやわか御坐すべき。 云云。 次に謗法供養を成すべからざる事 安国論にいわく、およそ法華経の如くんば大乗経典を謗る者は無量の五逆に勝れたり。 故に阿鼻大城に堕して永く出る期無けん。 涅槃経の如くんばたとい五逆の供を許すとも謗法の施を許さず。 蟻子を殺す者は必ず三悪道に堕つ。 謗法を禁むる者は定んで不退の位に登らん。 已上 その外の御書これを検するにいとまあらず。 然らば則ち経文並びに御筆跡を顧みて異体同心の芳盟を成し後代の明鏡に備えんと欲する者なり。 もし上件の條々違背の族に於いては法華経中の三宝刹女番神ことには末法応時の大導師日蓮大聖人日朗聖人日像聖人並びに代々列祖の御罰を一身にまかり蒙るべく候。 ここに真俗力をあわせ自他心を一にして門葉とこしなへに栄え各願成就の為なり。 依って一統の状くだんの如し。 応永二十年歳次癸巳 六月十三日 妙覚寺住持 日成 妙華院 日遵 大聖院 日延 追ってこの條箇の内第五番目家中三箇年誘引の事当初を惟忖するに土壇たやすき進退に就いてこれを定め置かせらるる処の御法か。 然りと雖も高官大家女中方に於いては左右なく入眼し難き條目なり。 適時而已の釈義等遠慮あるべきかの由衆議によって後日に筆を加うるのみ。 妙覚寺法度條條 それ法度とは世出安全の枢機、仏法繁栄の洪基なり。 これ立つるときは則ち万福招かざるにあつまり、これ破るときは則ち千災立ちどころに来る。 慎まずんばあるべからず、励まずんばあるべからず。 故に貫首衆徒心を一にし思いを潭うして万代不易の制法を定む。 これしかしながら広宣流布の善巧、二世安楽の秘術なり。 一、宗旨の制法堅く相守るべきの事。 当寺九箇条の法式委悉なり。 その中殊に肝心なるは初の三箇条なり。 第一には謗法の寺社参詣禁制、第二には謗人に施さず、第三には謗施を受けず。 この三箇は宗義法度の眼目なり。 この制法これを緩やかにせば一期の行功ことごとく泡沫に同じく二世の冥加永く尽くべきなり。 一、天下一同の謗法供養たりと雖も当門流に於いては大衆一同に制法を守るべし。 万一大衆一同の儀叶い難ければ貫首一人は身命を捨てて堅くこの法度を守らるべし。 もし寺僧の中に於いてその志有って貫首に付かば余の僧衆としてこれを怨むげからざる事。 貫首もし謗理謗法の義有れば当時根本の法灯滅す。 根本滅するに於いては豈に百千の門葉独り自ずから滅せざらんや。 また貫首もし謗法に落ちなば何の処に於いてか改悔有らんや。 故に貫首に於いては殊に強く身軽法重の義を存し堅固に制法を守らるべきものなり。 一、たとい広学大才にして一代を諳んじ天台の奥義を究めたる学匠たりと雖も当家の心地深重ならざる人に於いては当寺の貫首に叶うべからざる事。 当家台家供に法華の修行なりと雖も三時弘経の差別本化迹化の行相天地遙かに異なるなり。 像法末法出世の現量、天台過時、本化応時、修行の法体広略要の異、近令遠令、総付別付、本尊の違目、脇士の大事、安楽不軽十箇の差別これらの義を最も深くこれを弁え盛んに弘通すべし。 当世希に言う人有りとも夢の如く寝語の如し故に門流の学者夜は眠りを断ち昼は暇を止めて専らこの義を穿鑿し緇素の迷倒を救い偏に仏恩を報ずべし。 一、高祖の御本地能く存知すべきの事。 およそ高祖はこれ本化上行薩●の再誕なりと言うと雖も経文釈義に合して深く吟味せざる故に末弟信仰の思い甚だ以て疎浅なり。 ここを以て御書に於いて尊重の思いを生ぜず還ってこれを軽慢する輩これ多し。 故に近代邪義の法門多く出来して真俗の信力を妨げ殆ど宗義を廃忘し無間の業を増長す。 これしかしながら元祖の御本地を忘るるに由る。 悲しむべし、悲しむべし。 かくの如きの族多分は或いは悪瘡、或いは重病、或いは落馬、或いは不慮の弓箭、或いは臨終の狂乱かくの如き現罰これ世人の知る所なり。 鷲峰双林の金言の未来記あだか符契の如し。 誰か慎まざらんや。 現報の軽からざるを以て後報の重苦尤も恐るべし。 故に門流の学者ここに於いて思いを深くして精をみがき経釈の明文を勘え御書の淵底を探り金言と妙判との割り符を合わせて大聖人の御本地に於いて猶予の思いを成さず深く信敬の心を生ずべし。 しからざれば一世の行学ことごとく僻見に同じかるべきものなり。 一、門流の学者まずよく本化の法門を習学し義理を心腑に染め、宗義の大綱を伝受して助縁に台家を聞くべし。 台家を聞くと雖も当時に於いては三大部を講釈すべからず。 もし望み有らん人は三が一を聞くべし。 その余は自見を遂ぐべき事。 近代一宗の学者一生三大部等の台教を学して真実に本化の法門を習わず。 故に宗義隠没して真俗の信力を退転せしむる事先師常の歎きなり。 殊に証真の私記甚だ当家の法門に違し一宗の学者多く邪僻を生じ悪見に住す。 結句は宗旨を替えて他宗に移り大いに仏法の邪魔をすること偏に私記に由る。 もし証真の謗法を知らんと欲せば早く執情を捨ててつぶさに彼の伝を見るべし。 不審していわく、当家の法門三大部等の台教を正しとせざる証拠有りや。 答えていわく、上野鈔にいわく、天台の学者玄文止の三大部をとかく料簡して義理を構うとも去年の暦昨日の食の如し、今日の用にあたわず。 云云。 立正観鈔にいわく、天台大師霊山の聴衆として如来出世の本懐を宣べ給うと雖も迹化の衆なるが故に本化の付属を弘め給わず。 正直の妙法を止観と説き紛らかす。 故にありのままの妙法ならざれば帯権の法に似たり。 云云。 富木鈔にいわく、たとえ天台伝教の如く法のままに弘通有れども今末法に至っては去年の暦の如し。 云云。 一、門流の学者常に不惜身命の心地を練るべきの事。 大事に臨んで身命を惜しまざる事は外典の教えなお厳重なり。 いわんや仏法者に於いてをや。 しかるに世間の事には捨て易く仏法には捨て難し。 これ無始の迷いに由る。 誠に仏神の加護を蒙らずんば時に当たって驚動し倒惑すべきか。 故に朝夕心地を練り尤も加被を祈るべきものなり。 録内にいわく、願わくば我弟子等大願を発すべし○石に珠を商うるなり。 云云。 文永五年の御書にいわく、日蓮が弟子流罪死罪○臆せん事は無下の人々なり。 云云。 御講記にいわく、日蓮が弟子臆病にては叶うべからず。 云云。 謹んで旧記を勘うるに不惜身命の心地を知らんが為に日々三度精祈を仏天に凝らせし学者あり。 或いは十の生爪を抜きし行者あり。 或いは二の鍬を焼きて両の脇に挟みし信者あり。 本化の末弟に列なる師弟檀那は随分に捨身の心地を凝らし策励せずんばあるべからず。 一、もし法難有って堂塔は破却に及ぶと雖も法理に瑕を付くべからざるの事。 堂塔は滅すと雖も壇越の力を以て建立成し易し。 法理に付きたる瑕は永代癒え難し。 故に堂塔の損亡を痛んで宗義の制法を破るべからず。 法理は命の如く堂塔は家の如し誰か家を惜しんで命を捨つるもの有らんや。 一、門流の学者卒爾に公界の宗論を致すべからざるの事。 古今宗義破滅の根源は皆不覚の宗論に由る。 然らば則ち法理の強きを憑んで聊爾に問答を致すべからず。 もし去り難き子細有らば記録を以て理非を決すべし。 これ先例無きに非ず、直の対論は相手理なきに依って巧に聞き知らざる名目を造ってこれを問い、或いは権威を借りて理不尽に喧嘩に及ぶ。 この時に当たっては名を得たる問答者も叶い難き事有り。 これに因って道理有りながら宗旨の紕謬を致す。 然る間直の対論は返す返す遠慮あるべきなり。 もしこの義に背く輩は頓に門徒を放つべきものなり。 一、行儀作法の事。 末世無戒の時と雖も放逸の作法はこれ法滅衰微の相なり。 自然放埒の儀これ有るに於いては法眷並びに知音として穏便に異見を加うべし。 もし承引無きに於いては評定へ披露すべきなり。 一、出家の過失を外人に向かって放言すべからざるの事。 およそ出家の咎を顕す罪金言の定むる所にして出仏身血の重罪に過ぐ。 経にいわく、「出其過悪若実若不実此人現世得白癩病乃至諸悪重病」云云。 また経にいわく、「調達破僧罪」云云。 この外諸典の禁言称計すべからず。 然れば悪しき作法たしかにこれを見る時は直ちにその人に対して随分教誡を加うべし。 もしその義なく他人に向かってこれを毀り、或いは寺外に於いてこれを沙汰するは仏法の重科なり。 よろしくこれを追放すべし。 私いわく、この次に尚数條有りと雖も今これを略す 元和九癸亥年霜月吉辰 日奥 在御判 当寺の衆徒等一同に言上致し候。 そもそも去る文禄年中大仏供養以来種々の大難競い起こり他国遠島の御苦労天下にその隠れなく候。 然りと雖も仏意御契当の故についに御赦免有って御帰寺奇妙に存じ奉り候。 しかのみならず当寺御再興の上当年万部の御経御執行すこしの障礙もなく御成就、殊には当宗制法継目の御下知久しく相滞り候処に今度公方様御上洛に付いて板倉伊賀守殿上意を得られ御存分相調い候事天下の法命御相続誠に有り難き次第に候。 あまつさえこの度勝重公の御添状総じては一宗の亀鏡、別しては当門流の眉目に候。 当山の法水開基已来いささかも誤りなき儀いよいよ明白にまかり成り候。 これに就いて自今已後の事なお以て法水の筋目尽未来際に至るまで闕如無き様に存じ奉り候。 向後もし天下一同の謗法供養有りと雖も当寺法式の筋目堅く相守るべく候。 自然遁れ難き子細有りてたとい一端衆徒は謗法堕罪の人にまかり成り候と雖も貫首御一人は涯分衆徒として相脱し申すべく候。 万一衆徒の力及ばざる儀に於いては貫首御一心を以て不惜身命を立てらるべく候。 もしこの儀相違の貫首は当寺の代々にこれを列ねず候。 もしまた貫首不惜身命を立て給い候時衆徒の中道心の人随逐申す衆これ有らば自余の僧衆としてこれを怨むべからず候。 右この條もし違背の族に於いては釈迦多宝一切三世の諸仏、殊には本化の四大菩薩法華守護の三十番神十羅刹女、別しては末法応時の大導師日蓮大薩●日朗日像代々先師の御罰一身にまかり蒙るべく候。 よって一統の連署件の如し 元和九年癸亥霜月二十五日 |