萬代亀鏡録

三箇條尊答(仏性院日奥)

被献 相国家康公書
当宗の立義について尋ね下されし條々

一、念仏者無間地獄に堕つる経文証拠の事
一、天台六十巻の中に念仏無間の法門これ有りや否やの事
一、日蓮聖人宗旨建立は私の義かはた経文の証拠有りやの事
已上三箇條

 沙門日奥謹んで尊答し奉る

 それおもんみれば西天の仏法東土に流布し、三国の衆生あまねく利益を蒙る事しかしながら国王大臣の威力に依る。
 釈尊最後の付属まことに故有るかな。
 いわんやかくの如き尊問を蒙る事正法流布の先表、天長地久の吉瑞なるものか。
 幸甚幸甚。
 よって遠流の身たりといえども幸いに厳命有っていかでか黙止して卑懐をのべざらんや。
 これまた強いて吾が宗を立てんとに非ず。
 次を以て自他の疑いを開き、早く正路に就き疾く解脱の門に入れんが為なり。
 所詮捨邪帰正は仏陀の本意なり。
 宗義もし邪義有らば何ぞこれを捨てざらんや。
 所立もし正義ならばいかでか御帰依無からんや。
 然れば則ち三箇の尊問を挙げて、一宗の立義詮を取って言上せしむ。

第一、念仏者無間地獄に堕つる経文証拠御尋ねの事
 およそ当宗の立義は経文を本と為して人の語を用いず。
 これひとえに教主釈尊鶴林最後の遺誡なり。
 但し人師の語なりといえども仏説に違わざる釈をばこれを用ゆ。
 しかるに祖師日蓮聖人あまねく一切衆生を利益せんが為に大誓願を発して広く諸宗を学ばる。
 然れば則ち日本国中の諸寺諸山をめぐりて八宗十宗の碩徳に会い、深く諸宗の淵底を究め習う。
 しかる後その宗々の立つる所本経本論に違う処、一々これを難ずるにこれを答える人敢えて一人も無し。
 然る間自他の疑いを晴らさんが為自ら経蔵に入り、一切経を開き八万法蔵の前後次第浅深勝劣鏡に懸けてこれを悟り、仏の本意について一宗建立あり。
 時に四箇の名言を立てられ、その第一に念仏無間。
 云云。
 この條浄土宗の遺恨念仏者の怨嫉なり。
 但しこの法門は敢えて日蓮聖人の自義に非ず。
 法華経の現文と法然上人の撰択集と引き合わせてこれを見るにその道理誠に顕然なり。
 但し正直にこの義を宣ぶれば大難頓に出来せんか。
 良薬は口に苦く、忠言は耳に逆らう。
 祖師聖人在世の時度々の大難はこれなり。
 然りといえどもこれ敢えて自讃毀他の曲意に非ず。
 ひとえに法の道理に任す。
 是非の決断は専ら殿前に在り。
 何ぞ煩わしく偏情を構えて妄りに他の非を求めんや。
 悲しいかな両宗の所立既に水火の異を為し諍論年久し。
 誠に聖世に非ずんば誰かよく理非を決せん。
 それ銅鏡を掲げては衣冠の正しからざる事を見、実経の鏡を掲げては法門の邪正を糺すべし。
 自他後世の疑いを晴らさん事、専ら経文に依るべし。
 誤って人の語を用いれば豈に迷わざらんや。
 よって今いささか問答料簡を設けて、邪正を糺明しあらまし宗義の意を顕さんと欲す。
 問うていわく、日蓮聖人の所立に念仏無間と言うの法門いかなる道理有り、いかなる証文有ってこれを立つるや。
 答えていわく、念仏宗の祖師法然上人法華誹謗の咎有るが故に念仏無間と立つるなり。
 問うていわく、法華誹謗の者無間に堕つる証文有りや。
 答えていわく、多くの証文有り。
 略して一、二の文を出さん。
 法華経第二譬喩品にいわく、もし人信ぜずしてこの経を毀謗せば乃至その人命終して阿鼻獄に入らんと。
 阿鼻とは無間の名なり。
 この文明らかに法華誹謗の者無間に堕つると説く也。
 第七の巻不軽品にいわく、千劫阿鼻地獄に依って大苦悩を受くと。
 この文は昔威音王仏の滅後の衆生、法華を誹謗して無間に堕つる証文なり。
 然れば則ち譬喩品には法華を謗ずる者は無間に堕つる文証を説き、不軽品には法華を謗じて無間に堕ちたる現証を出す。
 文証現証誠に以て明白なり。
 然らば法華誹謗の罪誰かこれを恐れざらんや。
 問うていわく、法然上人誹謗正法の証拠如何。
 答えていわく、撰択集十六段に亘って、無尽の謗法有り。
 今繁を去り、要を取るに大段三の謗罪有り。
 問うていわく、その三の謗罪くわしくこれを示すべし。
 答えていわく、三の謗罪とは、一には破仏罪、二には謗法罪、三には破僧罪なり。
 第一破仏罪とは、それ釈迦如来はこの世界の本主、一切衆生の主なり。
 親なり。
 師匠なり。
 故に経にいわく、今此の三界は皆これ我が有なり。
 その中の衆生は悉くこれ吾が子なり。
 しかも今此の処は諸々の患難多し、唯我れ一人のみよく救護を為すと。
 云云。
 この文の如くんば、この界の衆生は釈迦如来の弟子なり。
 子なり。
 所従なり。
 故に釈尊を除くの外に娑婆の衆生を助くる仏無し。
 殊に阿弥陀仏は遙かに十万億土の世界を隔てて他方の仏なるが故に我等衆生の為には主に非ず。
 親に非ず。
 師匠に非ざるが故に此の界の衆生弥陀をたのんで利益なり。
 譬えば東方日本国の者、西方天竺の王をたのむにすべて徳分無きが如し。
 故に天台のいわく、西方は仏別にして縁異なり。
 縁異なるが故に子父の義成ぜずと。
 云云。
 妙楽のいわく、弥陀釈迦二仏すでにことなり。
 いわんや宿昔の縁別にして化導同じからざるをや。
 云云。
 この釈の如くんば、此の界の衆生は過去久遠よりこのかた釈迦の化導に預かりて全く弥陀の利益に預からず。
 経文と言い、釈義と言い、その理誠に明白なり。
 然るに法然上人三徳重恩の釈迦如来をなげうって礼拝雑行と嫌い、無縁他方の弥陀を崇めて専修念仏を興行す。
 これ三徳の釈尊に背く故に不忠なり。
 不孝なり。
 逆路なり。
 かくの如き破仏の重罪いかでか無間の重苦を免れんや。
 第二に謗法罪とはそれ浄土の三部経は釈尊一代五時の内方等部の中より出づ。
 この四巻三部の経は全く釈尊の本意に非ず。
 また諸仏出世の本懐にも非ず。
 ただしばらく衆生誘引の方便なり。
 譬えば塔を立てんが為に仮に足代を造るが如し。
 然るに法華の序分無量義経に、四十余年未だ真実を顕さずと説いて念仏の法門を打ち破り給いぬ。
 譬えば塔を立てて後足代を切り捨つるが如し。
 文殊観音等八万の菩薩たしかにこの説を聞いて、ついに無上菩提を成ずることを得ずと領解して、永く念仏等の法門を捨て給いおわんぬ。
 しかして後八年の間法華経を説いてこれを出世の本懐と定め、成仏往生の実義を顕し給う。
 然らば則ち阿弥陀経の対告衆舎利弗尊者は阿弥陀経を打ち捨て、法華経に帰伏して華光如来と成り、また双観経対告のひと阿難尊者は弥陀の四十八願を捨て法華経を受持して山海慧自在通王仏と成りおわんぬ。
 舎利弗は智慧第一の大聖、阿難尊者は多聞第一の極聖、一代聖経そらに覚えし広学の智人なり。
 これらの大智の人々なお浄土の三部経を以て成仏往生の望みを遂げず。
 いわんや末代愚痴の衆生、弥陀念仏を信じて往生を遂げんと欲す。
 譬えば足なくして雲上に昇らんとするが如く、船無くして大海を渡らんとするが如し。
 はかなしはかなし。
 もし人しきりに他の善根を修すといえども、法華経を捨つるは魚の水を離れ、鳥の翼を離れたるが如くなるべし。
 法性の水を渇し、功徳の翼を失って、三悪道に堕つること疑いなき者なり。
 然らば則ち成仏往生を願わん人々は仏在世の大智の聖者を手本と為して、念仏の法門を捨て、法華経を信じて成仏往生の素懐を遂ぐべき者なり。
 如何にいわんや悪逆の達多、愚痴の龍女、邪見の厳王、みな法華経に於いて成仏得道す。
 末代の衆生何の機かこれを漏らさんや。
 誠に極悪の人を救い、愚痴の極を扶くること専ら妙経の力なり。
 その上阿弥陀仏もひとえに法華経の功力なり。
 その証文を出さば第三の巻に、常にねがってこの妙法蓮華経を説くと言う。
 この文の如くんば弥陀昔大通智勝仏第九の王子たりし時、ねがって法華を説きその功徳に依って西土の教主と為り給えり。
 全く浄土三部経の力に非ず。
 然らば則ち有智無智をえらばず、成仏はただ法華経に限れること文証現証先段に分明なり。
 何を以てかこれを疑わん。
 しかるに法然上人僻見を起こして法華経を捨て、あまつさえ捨閉閣抛の四字を以て散々にこれを謗ず。
 ただ我れ一人謗ずるのみに非ず、あまねく天下諸人を勧めてこれを謗ぜしむ。
 しかるに法華を謗ずる人の罪を経に説いていわく、もし人信ぜずしてこの経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん。
 乃至この人の罪報を汝今また聴け、その人命終して阿鼻獄に入らんと。
 云云。
 この経文豈に法華経を謗ずる念仏者無間地獄に堕つる証文に非ずや。
 釈尊の金言もし違わずんば法然上人の堕獄疑い無き者か。
 疑っていわく、法然上人は智慧高貴の人、一代蔵経を見ることすべて七返、その外一切の章疏伝記究め見ざること無し。
 然らば則ち上一人より下万民に至る迄仏の如くこれを敬い、諸宗の学者も多く弟子と為る。
 故に日本に於いて始めて念仏宗を立て一宗の元祖となる。
 かくの如き智人を指して何ぞたやすく無間に堕つると言わんや。
 答えていわく、汝が疑い大いによし。
 然りといえども仏法の邪正は広学多聞に依らず。
 智慧有りといえども明師にあわんずば多く誤り有り。
 いささか先例を引いて汝が疑いを晴らさん。
 昔漢土に於いて天台大師已前に光宅寺の法雲法師という人有り。
 華厳経を宗となす。
 南三北七の十流の中にこの人智慧第一たり。
 諸宗の学者これに帰せざることなし。
 この人法華を講ぜし時は天より華をふらし、天下干魃の時雨を祈りしかばにわかに大雨降り下れり。
 天子御感の余り現に僧正と為したまいてこれを崇敬し給うこと万民の国王を畏るるが如し。
 かくの如きの奇特有りしかども天台大師出世したまいて仏法の邪正を糺し、光宅寺の法雲法師は謗法に依って地獄に堕ちたりと罵り給う。
 始め彼の弟子等大いに嗔って諍いを為ししかども陳主の御前に於いて対論の時、智者大師に責め伏せられて一言の返答に及ばず。
 法雲法師の義破れてすでに謗法と為りぬ。
 故に妙楽大師釈していわく、感応かくのごとし、なお理にかなわずと。
 この釈の意は法雲法師一往奇瑞を感ぜしかどもなお仏法の理に惑えりと言うなり。
 このほか嘉祥大師、慈恩大師等も智慧は広大なり。
 しかども仏法の邪正を明らめずして悉く謗法と為りぬ。
 故に嘉祥大師は天台に帰伏して身を肉橋となし、慈恩大師は回心の筆を残して謗法の咎を悔いたり。
 これを以て知るべし、法然賢なりといえどもこれらの大師に過ぐべからず。
 しかるに法然釈尊の背きて法華を謗る咎いかでかその罪を免れんや。
 しかるに法華の賞罰は人の品をえらばず。
 智慧高貴なりといえども謗法有れば地獄に堕ち、無智下賤なりといえども信心有れば成仏す。
 例えは名君の政道は高官重職の大臣たりといえども逆臣有ればこれを罰し、匹夫孤独の小民たりといえども忠功有ればこれを賞するが如し。
 周公旦の管叔を誅し、堯王の位を重華に譲るこれなり。
 世間の賞罰なおかくの如し。
 いわんや仏法に於いていかでか人の貴賤をえらばんや。
 然らば則ち法然智者なりといえども三世の諸仏に背いて法華を誹謗せるその咎逃れ難し。
 彼の善星比丘は王家に生まれてまさしく仏の子と為り、出家しては二百五十戒を持ちて四禅定を得、十二部経をそらんぜしかども謗仏の咎有りしかばたちまちに生身に無間に堕つ。
 法然貴しといえども善星比丘に過ぐべからず。
 善星は仏を謗ずといえども未だ法華経をば謗ぜず。
 法然は仏を謗ずるのみに非ず、また大いに法華経を謗ず。
 善星が謗仏の小罪なお泥梨に沈む。
 いわんや法然誹謗正法の大罪何の劫にか地獄を出づることを得ん。
 難じていわく、汝が義の如くんば法然上人実に誹謗正法の咎有らば、諸宗の学匠よりこれを責むべし。
 何ぞ独り法華宗に限って強く法然上人を難ずるや。
 答えていわく、これ謂れざる難なり。
 今いささか先例を引かん。
 漢土の天台大師は後漢已後三百余年の間南北の謗法を責め、日本の伝教大師は欽明已後二百余年の間六宗の誤りを糺す。
 これを以てこれを思うに前に糺す人無しといえども後明らめてこれを責めんに何の不可あらん。
 その上法然上人の謗法に於いては諸宗の碩学書を造ってこれを破す。
 いわゆる比叡山の学匠隆真法橋は弾選択上下を造って専修の悪行を難じ、三井寺の長吏実胤僧正は浄土決疑集三巻を作って選択の邪義を破し、栂尾の明慧上人は摧邪輪三巻を造って法然房の誤りを責む。
 しかのみならず南都三井山門より度々奏聞を経て彼の邪宗を制止す。
 これに依って代々の御門宣旨をなし下されて、専修念仏の悪行を停止せらる。
 これに依って去る嘉禄三年山門にくだされし宣旨にいわく、専修念仏の行者は諸宗衰微の基なり。
 ここに因って代々の御門しきりに厳旨をくだされ、殊に禁遏を加うる所なり。
 しかるをある年また興行を構え、山門に訴申せしむるの間先符に任せ仰せくださること先におわんぬ。
 この上は愁訴を慰めて蜂起を停止すべきの旨時刻を廻らさず御下知有るべきものなれば綸言かくの如し。
 云云。
 宣旨の趣き明白なり。
 この外関白殿下の御教書を五畿七道に成しくだされ、六十六箇国に念仏の行者一日片時もこれを置くべからず。
 遠島に追いやるべきの旨、諸国守護に仰せくだされおわんぬ。
 また専修念仏の張本たる、安養、住蓮等をば搦縛めて、たちまちに頭を刎ねられ、法然をば遠流の重科に召し行わせられおわんぬ。
 結句は法然死去の後彼の墓所をば犬神人に仰せつけ、掘り起こして鴨河に流されおわんぬ。
 また撰択集は謗法の書たるに依って山門の大衆仏恩を報ぜんが為悉くこれを焼き捨てたり。
 その証文を出さば、山門の状にいわく、法然房所造の撰択集は謗法の書なり。
 天下にこれを止め置くべからず。
 よって在々処々の所持並びに印板を大講堂に取り上げて、三世の仏恩を報ぜんが為これを焼失せしめおわんぬ。
 法然上人の墓をば感神院の犬神人に仰せ付け破却せしめおわんぬ。
 云云。
 これらの先蹤誠に広博なり。
 誰かこれを疑わんや。
 然りといえども聾者は雷の声を聴かざるが故に空に雷の音無しと言う。
 盲者は日月等の光を見ざるが故に天に三光無しと言う。
 汝愚盲の故に未だかくの如き証跡を知らず。
 先代に念仏の行を破する人無しと言えり。
 故にいささか証文を出して汝が盲聾を開く。
 早く邪執を翻してよろしく正法に帰すべし。

第三に破僧罪とは正法の行者を謗ずる罪は直ちに仏を謗ずるの罪に超ゆ。
 その旨法華経第四法師品に分明なり。
 しかるに法然正法弘通の聖僧三国の仏弟子等を以て悉く群賊と名付けて大いにこれを破す。
 調達が仏を打ちし軽罪なお既に無間に落つ。
 いわんや源空上人持者を罵る重罪いかでか阿鼻の焔をのがれんや。
 もし源空上人無間の業決定せばその流れを汲む今の末弟等またその罪を脱るべからず。
 所以如何となれば守護章にいわく、その師の堕つる所弟子また堕つ。
 弟子の堕つる所檀越また堕つ。
 金口の明説なり。
 慎まざるべけんや、慎まざるべけんや等。
 已上略して念仏者無間地獄に堕つる証文を明かす

第二、天台六十巻の中に念仏無間の法門有りや否やの事。
 それ念仏無間の法門は先段に示す如く、根本は法然上人の謗法より事起こるなり。
 然るに天台の出世は像法の半ばなり。
 法然末法の始めに生ず。
 時代遙かに後れたるなり。
 故に前に造れる天台六十巻の中に後に生まれたる法然房の謗法を責めて、念仏無間の名言を立つべき道理これ無し。
 但し六十巻の中並びに智度和尚、伝教大師等の御釈の中に、法華を謗ずるもの地獄に堕つることはその文これ多し。
 今少々これを引かん。
 天台のいわく、もし小善成仏を信ぜざれば、即ち世間の仏種を断ずるなりと。
 妙楽のいわく、もしこの経を謗ぜば義断にあたるなりと。
 この釈の如くんば法華を謗ずる者、仏種を断ずるに当たるなり。
 法然すでに法華の小善成仏を信ぜず、或いは別時意趣の粗義を存し、或いは理深解微の邪義に同じて法華絶待の妙能を失す。
 これ豈に仏種を断ずるの人に非ずや。
 堕在無間何ぞ疑わん。
 また妙楽のいわく、謗法の罪苦長劫に流ると。
 この釈の如くんば法華を謗ずる者は永く無間に堕つる義もっとも分明なり。
 また妙楽のいわく、大千界塵数の仏を殺す。
 その罪なお軽し。
 もしこの経を謗ぜば罪彼よりも多く、永く地獄に入って出ずる期有ること無しと。
 東春にいわく、問う、何が故ぞ経を謗じて無間に入るや。
 答う、一乗はこれ極楽の経なり。
 極妙の法を謗ずるが故に極苦の処を感ずるなり。
 またいわく、経を毀るが故に地獄に堕つと。
 伝教大師のいわく、謗ぜん者は罪を無間に開かんと。
 釈の心はなはだ明らかなり。
 訓釈に及ばず。
 総じて天台、妙楽、伝教等の釈の意何の宗に依らず法華を謗ずる者を指して無間の人と定む。
 もししからば天台六十巻の中念仏無間の名言無しといえども法然上人堕獄の道理はその義極成せり。
 法然既に法華誹謗の咎顕然なるが故なり。
 他疑っていわく、法華誹謗の者無間に堕つる義経釈の現文実に疑い無し。
 然りといえどもまさしく念仏無間の名言経文にこれ無くんば、所立の義はなお不審に似たり。
 如何。
 答えていわく、汝甚だ愚なり。
 所詮仏法は義を以て本と為してこれを立つ。
 あながちに名言の有無に拘らず。
 例せば法華経に一念三千の名言無しといえども天台大師義を以て一念三千を立て給うに三国の諸宗すべて諍い無く皆一同にこれを用ゆるが如し。
 これを以て知るべし、法華経並びに六十巻の中に念仏無間の明言無しといえども義を以てこれを立てんに何の不可有らんや。
 この道理を弁えざる輩空しく名言に拘ってその義を尋ねず。
 種々に邪会を構えて只己が宗の邪義を隠さんと欲す。
 所詮我慢を捨てて仏道を願わん人は名言の有無に拘わらず、ただ念仏無間の義法華経に在ることを聞くべきなり。
 已上略して天台六十巻の中法然所立念仏無間に堕つべき道理これ有ることを明かす

第三、日蓮聖人宗旨建立は私の義か経文の証拠有りやの事。
 およそ日蓮聖人の法門は専ら経文を本としてこれを建立し給う。
 何ぞ私の義有らんや。
 問うていわく、如何なる証文を以て、日蓮聖人の法門は私の義に非ずとこれを知るや。
 答えていわく、日蓮聖人の法門は塔中付属の明文に依ってこれを建立し給う事経文赫々たり。
 釈義明々たり。
 然らば則ち当宗の立義は久遠実成の釈尊霊山会上に於いて塔中直伝の宗旨なり。
 誠にこれ諸宗独歩の重、他人不共の伝なり。
 経文釈義繁なるが故にこれを略す
 問うていわく、塔中付属とはその義如何。
 答えていわく、およそ法華弘通の大師先徳は皆悉く仏の付属を蒙って世に出で給う。
 しかるに弘法の師に於いて本化有り、迹化有り。
 いわゆる南岳、天台、妙楽、伝教等は迹化の一類なり。
 日蓮聖人は本化の薩捶なり。
 しかるに迹化の菩薩には法華経の迹門の分を塔外に於いてこれを付属し給えり。
 観音薬王等の大士像法の半ばに南岳、天台と再誕して、震旦国に於いて法華経を弘通し給えるこれなり。
 本化の薩捶には本門の肝心たる是好良薬の妙法蓮華経の五字を塔中に於いてこれを付属し給えり。
 これ偏に末法極悪の衆生の煩悩の重病を治せんが為なり。
 ここを以て本化の菩薩すでに日蓮聖人と顕れて仏の付属に任せて法華経一部の骨髄たる妙法首題を一天四海に弘めて断善の一切衆生に仏果の種子を殖えしむ。
 よって祖師聖人は進んでその本地を尋ぬればかたじけなくも釈迦如来久遠成道最初第一の御弟子本化上行菩薩となして鷲峰説法の砌まのあたり多宝塔中の遺付を蒙り給えり。
 退いてその垂跡を訪えば、法王の勅宣を帯してこの土に出世有りて法華経の肝心を弘通せり。
 いかでか一句一言私の義有らんや。
 およそ宗々に於いて祖師の徳を讃すること常の習いなり。
 然りといえども師に於いて正師有り、邪師あり、また小乗の師有り、大乗の師有り、大乗の中に於いて権大乗の師有り、実大乗の師有り、実大乗に於いてまた迹門の師有り、本門の師有り。
 明らかに経論を以てこれを糺せば諸師の高下たやすくこれを知らん。
 謹んで三時弘経の次第を案ずるに、初め正法一千年の間には迦葉阿難等小乗経を弘めて大乗経を弘めず、馬鳴菩薩龍樹菩薩等権大乗を弘めて実大乗を弘めず。
 已上正法一千年
 次に像法千年の間には南岳大師、天台大師等出世して実大乗を弘め給う。
 然りといえどもただ迹門を弘通して本門の三大秘法は名字すらなお隠し給えり。
 いわんやこれを弘通せんをや。
 これ内証は知らざるには非ず。
 仏の付属無く、時もまた至らざるが故なり。
 已上像法一千年
 三に末法一万年は法華本門流布の時刻なり。
 本化の菩薩仏の付属を蒙って、末法に出現有るべき旨経文に顕然なり。
 しかるに三国伝灯の大師先徳弘経の趣は、ことごとく伝記に載せて隠れ無し。
 然れども本門の三大秘法を弘めて、経文の如く大難にあい給える行者一人もこれ無し。
 また大難にあわざれば真の法華経の行者に非ず。
 況滅度後の記文に合わざるが故に天台、妙楽、伝教等の聖人も未だ一切世間多怨難信の経文をば読み給わず。
 所以如何となれば一切世間信受して、刀杖瓦石等の怨害を加えざる故に、所詮これらの大師は迹化の衆なる故に、時機を鑑みて未だ経文の如く説き究めず。
 故に大難も強く起こらざるか。
 それ況滅度後の大難は法華の義理を説き究め、三大秘法を弘むるの聖人出現の時起こるべき難なり。
 天台、伝教等の大権の聖師なおその人に非ず。
 いわんやその外の凡師に於いてをや。
 しかるに祖師日蓮大士は、まさしく第五の五百歳末法の時を得て、和国に於いて誕生し、釈尊付属の三大秘法を以て日本国に弘通し給えり。
 然れば則ち経文の如く大難しきりに起こる。
 これに依って或いは悪口罵詈の怨嫉、或いは及加刀杖の頭の疵、或いは数々見擯出の両度の流罪、その外の大難小難一分も如来の金口の記文違わず。
 恐らくは三国の間に祖師聖人を除きて上行菩薩の再誕と名乗るべき人一人もこれ無し。
 明らかに知んぬ、結要付属の大薩捶如来に遣わされ如来の事を行ずるなりと。
 讃めん者は福を安明に積み、謗らん者は罪を無間に開く。
 今もまたかくの如し。
 たまたま如来の遺誡を守る者は罵詈誹謗の難を受け、結句は御勘気を蒙って遠島の重科に沈む。
 経文の如くんばこれ如来使者の一分なり。
 大難いよいよ重なるともいかでかこれを悦ばざらんや。
 彼の卞和が璞は成王の世に至ってついにその光を顕す。
 法王髻中の明珠いかでか一度その威徳を顕さざらんや。
 経にいわく、我が滅度の後、後の五百歳の中に広宣流布すと。
 云云。
 金言豈に虚しからんや。
 乞い願わくばこの時に当たって両方の是非を決し、諸人の疑いを散ぜば、上一人笑みを含み、下万民喜悦の眉を開かん。
 よって宗旨の中懐九牛が一毛、要を取って言上せしむる所なり。
 誠恐誠惶謹言。

慶長十四年己酉三月日

三箇條尊答 終