円珠真偽決 下巻【後】(仏性院日奥)
所詮爾前の円人は未だ開権を聞かず。故に別教の菩薩の摂にして七方便を出でず。 これを以て法華に至って七方便を開する時供に開会せらるるなり。 もし爾前に実に円の菩薩有って無明を断除し、中道を証せばその菩薩疑網有るべからず。 また宝乗に乗ずべし。 今すでに未除疑網と言い、また未乗宝乗と言う。 明らかに知んぬ、爾前に実に円の菩薩なきことを。 但し通別偏傍の釈に至ってはこれも爾前の円を以て別教に属する時は相違無きなり。 玄の七にいわく、粗を帯するの妙は即ち別教なり。 粗を帯せざるの妙は即ち円教なり。 已上玄文 授決集にいわく、収集の日すでに「宣説菩薩歴劫修行」と言う。 まさにこれ別教の菩薩所学の道なり。 已上決集 この釈に収集とは爾前の四味八教を集めて歴劫修行未顕真実と破す。 これらの釈皆爾前の円を以て別教に属するの義最も分明に非ずや。 また他顕戒論の一乗の家にはすべて権を用いずの釈について邪会を構えていわく、今論ずる所は彼此の円を用いて同異を論ず。 権教の用不用を論ぜず。 已上他義 報じていわく、この一乗の家の釈まず立処誤れり。 これ顕戒論には非ず。 守護章の文なり。 義もまた大いに謬乱せり。 汝しばらく三一相対の権実を知るといえども未だ今昔二円相対の権実を弁えず。 故に爾前の円を以て実教の摂と為すは尤も甚だ不覚の至りなり。 何となれば昔の円は前三教に望めてしばらく実の名を得といえども法華独妙の実に対すれば則ち権となるなり。 他問うていわく、三一相対の上に今昔二円相対を立てて爾前の円を以て権となす証文如何。 答えていわく、真実以て秘文なり。 敢えて口外することなかれ。 玄義にいわく、もし総じて教について権実を判ぜばもし三蔵通別の三教はこれ権円教を実となす。 已上玄文 これは三一相対の権実なり。 汝この一辺に執して昔円を以て実となす。 これ一往の義なり。 再往実義を釈する時、また玄義にいわく、諸教の権実未だ融せざるを権となし、既に融し開権顕実するを実となす。 云云。 先徳以此釈尤為秘文 これは今昔二円相対の権実即法華の意なり。 昔円を権とすること文理誠に明白なり。 誰か疑滞を残さんや。 明らかに知んぬ、都不用権の釈は爾前の円を捨つること疑いなし。 なお証文を出さば弘決にいわく、法華は前の権部権教を廃す。 已上弘決 この釈に廃すとは捨の義なり。 爾前の円を捨つることいよいよ炳然なり。 彼の円を権教に属すること次上の玄文の如し。 要決法華論にいわく、一往は蔵通別円の教を廃除し、再往は仏の已今当の経を廃除す。 已上論文 これらの勘文筆端繁に似たりといえども、邪人深重の迷情を破せんが為に重畳して正轍の明文を示す。 たとい汝執権の病いえずといえども何ぞまた後人の薬とならざらんや。 また他のいわく、諸経中の無相と、法華の無相とすべて同じ。 故にねんごろにこれを聞かば無明を断じ中道を証す。 もし実に未顕真実と言わば何ぞ彼の円を開せざる。 また何ぞ彼の益を改めざるや。 已上他義 報じていわく、まず諸経の無相と法華の無相と同じと言うこと大なる誤りなり。 何となれば彼は帯権未開の無相、これは純円開会の無相なり。 いかでか同と言わんや。 故に経には「文辞雖一而義各異」と言い、釈には「雖倶無相前後有殊」と判ず。 次に爾前の円を聞いて無明を断じ中道を証す。 云云。 この義また有名無実なり。 先段に於いて重々にその義を破しおわんぬ。 今また語を加え重ねてこの義を破せん。 およそ爾前経に於いては未だかつて成仏の種子を明かさず。 何に依ってか実に無明を破し中道を証せんや。 故に釈箋にいわく、漸及び不定に寄すといえども余経を以て種と為さず。 已上箋文 もし種子無くして妄りに果を得と言わば無因有果の外道なるべし。 王●超高が輩、王種に非ずして王位に居せんとせしが如し。 大逆これより甚だしきはなし。 弘決にいわく、もし正境に非ざればたとい妄偽無くともまた種とならず。 已上決文 この釈の如くんば余経の勧めに依って万行万善を修し、またかつて名利の妄偽無しといえども仏道の種とならず。 譬えば砂を絞るに油無く、石女に子無きが如し。 故に記の四にいわく、たとい宿善あり、恒河沙の如きもついに自ら菩提を成ずるの理なし。 已上記文 誠に法華開会の菩提心を発さずんばなお小乗当分の益を得べからず。 いわんや跨節円実の益を得んや。 故に弘決にいわく、故に知んぬ、心宝渚に赴くこと無くんば化城の路一歩も成ぜず。 云云。 またいわく、今日の声聞禁戒を具することはまことに久遠の初業に常を聞くに由る。 もし昔聞かずんば小すらなお具せず。 いわんやまた大をや。 もし全く未だかつて大乗の常を聞かず、すでに小果なし。 誰か禁戒の具不具を論ぜんや。 已上決文 これらの釈の如くんば他経に於いてはなお小果を許さず。 いわんや円果に於いてをや。 哀れなるかな日月世界を照らせども盲者の前には用無く、経文釈義その理明々たれども執権不了の人はすべてこれを識らず。 悲しむべし、悲しむべし。 次に初後仏慧円頓義齊の事前に会するが如し。 また他のいわく、三説超過の文開顕の円を以て未開顕の権に対して三説超過と説く。 円体に於いて不同有りと言うに非ず。 已上他義 難じていわく、汝が言う所の三説超過の解は前代未聞の悪義なり。 法華経を以て已説の諸経に同ずる故に三説超過の肝をやぶる誠にこれ三聖の怨敵汝に非ずんば誰をか言わん。 三論の嘉祥は今説を以て法華となす。 これなお今家の大いに破する所なり。 汝が解はまたこれに劣り、法華の円を以て已説の経の円に同ずるが故に大いに釈義に乖けり。 今家の正義は法華経を以て三説の外に置く。 今昔の円大いに不同ある故なり。 疏にいわく、法を歎ずることをいわば已今当の説にこの経を最となす。 経は法華を歎じて已今当の外に在けり。 已上疏文 またいわく、今初めに已と言うは大品已上漸頓の諸経なり。 今とは同一座席いわく無量義経なり。 当とはいわく涅槃経なり。 已上 この釈明らかに法華経を以て已今当の三説の中に置かず。 また疏にいわく、大品等の漸頓は皆方便を帯せり。 信を取ること易となす。 今の無量義は一より無量を生ずれども未だ一に還らず。 これまた信じ易し。 今の法華は法を論ずれば一切の差別融通して一法に帰す。 人を論ずれば則ち師弟の本迹供に皆久遠なり。 二門ことごとく昔とそむけり。 難信難解なり。 当鋒の難事は法華にすでに説く。 涅槃は後に在れば則ち信ずべきこと易きなり。 已上 この釈の心昔円は未開の故に二箇の大事を明かさず。 法華の円に劣れること理在絶言なり。 記にいわく、大品より下は三時の法華に及ばざることを明かす。 故に法華の人法を以て永く衆経に異にす。 もししからざればことさらに法華の妙を貶挫して毀り、その中に在らんと欲す。 何ぞ弘讃と成らん。 嘉祥なお然なり。 いわんやまた余の者をや。 当鋒とは法華前に在れば大陣の破り難きが如く、涅槃後にあれば残党の難からざるが如し。 はじめ先鋒に当たる。 ここを易からずとなす。 已上 この釈の如くんば汝はこれ毀在其中の人なり。 吉蔵大師なおこの呵を蒙れり。 いわんや汝が権実雑乱の大罪いかでか入阿鼻獄の厳誡を免れん。 かえすがえす示す今経を。 三説超過と言うにすべて二義あり。 一には教門の三説超過、二には観門の三説超過なり。 教門についてまた二有り。 一には二乗作仏、二には久遠実成なり。 この両箇の大事を指して三説超過と言う。 およそ法華経の余経に替わり瑞相甚だ大いに疑請重々せることは所説の法相甚深広大にして皆悉く爾前と大いに異なる故なり。 もししからずんばいかでか三説超過と言わん。 記の三にいわく、もし法華を以て余と同味とせば三説に無き所、その言何か在らん。 已上記文 釈の心明白なり。 所詮釈尊一代五十年の説法、その勝劣浅深を知って信心を決定せんにはただ已今当の三字なり。 法華経より外の諸大乗経に三説の校量全くこれ無き故なり。 ああなんじ昼夜彼の台教をもてあそびながら何ぞ釈疏の正義に乖くや。 孝経を以て父母の頭を打つが如し。 何を以てかこれを治せん。 堅慧菩薩のいわく、過去謗法の障り、不了義に執着す。 云云。 汝強く爾前の不了義に着する、過去謗法の余執なること疑いなし。 すでに経文の規模を破り、釈義の肝膽を割けるものなり。 何ぞ奈落に沈まざらんや。 恐るべし、恐るべし。 次に観門の三説超過とは己心の三千、非常の上の色心因果等なり。 繁き故にこれを略す。 他また若非超八の釈を会していわく、部に約すれば彼の帯権に同じからず。 故に超八の法華と言う。 教に約すれば彼此の円異なること無き故に妙義無殊と言う。 已上他義 答えていわく、この義大なる誤りなり。 所以何となれば若非超八とは彼の八教の中の円をえらぶ。 故に法華の独円を以て超八醍醐と名付くるなり。 不摂八教円の決大意にいわく、およそ八教は供に所開の方便、法華は即ち能開の実理なり。 むしろ能開の絶妙を以て所開の円の中に摂する義これ有るべきや。 もし平等大慧跨節の妙法を以て帯権未開の当分の円教に摂すといわば頗る万乗の天子を庶民の種族なりと言うが如くならん者をや。 およそ円教とは円満円足して一法をも欠かざる義なり。 しかるに爾前の円は三教を隔てて外に別に一箇の教を設く。 すでに四教八教の中のわずかにその一分の教なり。 豈に円満周備せる円の義ならんや。 所以に一家判じて「但為次第三諦所摂」という。 意ここに顕れたる者なり。 故に妙法の純円を以て別教に同ずる帯権の円に摂せざるはその旨極成する者なり。 已上大意 爾前の円を開するの義はなはだ明かなり。 宗義集にいわく、化法の中の円は漸中開四の円なり。 これ所開の円なり。 三教の中の円は八教を開会す。 これ能開の一大円教なり。 已上宗義集 この釈に三教とは通別円の三教に非ず頓漸円の大綱の三教なり。 頓漸の二教は四味の諸経なり。 円の一教は法華にかぎれるなり。 この集の意も爾前の円は所開法華の円は能開なることその文分明にその理つまびらかなり。 明らかに知んぬ、妙義無殊は只これ一往与の義なり。 敢えて正義に非ず。 何を以てかこれに執せん。 もしなお曲意止まずんば阿鼻の焔恐るべし。 他また記の六の縦有経にいわく、諸経の王の釈を会していわく、開顕の円を以て未開顕の権に対して第一と言う。 これ偏円相対してこれを判ずるなり。 円体不同有りと言うに非ず。 彼の円、この円に入り、この円彼の円に入り、彼此相入して義斉し。 云云。 已上他義 報じていわく、この解大いに僻めり。 王臣差別無く、上下これを混乱す。 所以何となれば已今当の三字はまさしく前後の諸大乗経を破して一乗独顕の妙能を顕す。 豈に只未開の権に対して第一となるのみならんや。 汝既に三聖の金言を破り、天台、妙楽の本意を失う。 大謗法の咎、苦果劫を経とも尽きず。 次に偏円相対してこれを判じ円体不同有りと言うには非ずと言う事これ甚だ釈の正義に乖けり。 何となれば荊渓の意は諸部の大乗経も法身を明かす。 辺は分に経王と称すれどもこれ只小衍相対なるが故に諸経の王に非ず。 この法華経は前後の諸大乗経に相対して難思の妙を顕す。 故に已今当第一諸経の中の大王なり。 故に記にいわく、今諸々の小王を廃して唯一主を立つ。 この故に法華を王中の王と名付く。 已上記文 この釈に小王とは爾前の円なり。 大王とは法華の円なり。 しかるに小王となしては必ず大王に帰する習いなり。 諸国の諸侯王万乗の天子に朝するが如し。 明らかに知んぬ、爾前の円の小王法華の円の大王に帰せんことその理必然なり。 故に記にいわく、別しては則ち当界に恩を施し、通じてはすなわちすべからく大国に帰すべし。 故に知んぬ、部教供にすべからく会通すべし。 已上記文 これ爾前の円を開する明証に非ずや。 この釈に須帰大国とは爾前の円を小国に喩うるに対して法華の円を大国と言うなり。 須帰とは爾前の小円法華の大円に帰入する義なり。 故に知んぬ、部教とは部は即ち四味の部なり。 教は即ち爾前の四教なり。倶須会通とは会通は即ち開会の義なり。 然れば華厳等の四味の部も蔵通別円の四教も供に法華の一大円教を以てこれを開会する義、顕了明白なるに非ずや。 かくの如き甚深の義を顕さんが為にまず法華已前の諸部に小衍相対の意を判じ、次に三説の校量を以てこの経の前後の諸大乗経に勝ることを釈す。 かくの如き次第生起を弁えず妄りに釈義を判じ、正法の色香美味を滅除す。 豈に悪魔の比丘に非ずや。 次に彼此の円相入の事汝一途の釈を守ってこの謬解をなす。 今自他の偏党を捨ててまさしく直の金言に付いて汝が彼此相入の義を破せん。 それ薬王品に歎経の十喩あり。 その中の第一は大海の譬えなり。 経にいわく、川流江河諸水の中海これ第一なり、この法華経もまたまたかくの如し。 已上経文 川流江河をば四味の教に喩え、大海をば法華に喩う。 しかるに大海には昼夜川流江河の水をいれども、川流江河には片時も大海をいるることなし。 もし爾前の円に法華最大の円を納ると言わば江河に大海を納るるならん。 理豈にしからんや。 譬喩と法体とよく理の如くこれを合すべし。 しからずんば法譬大いに相違して甚だ仏意に乖かん。 豈に堕獄せざらんや。 文句の十にいわく、別して四を挙ぐることは乳酪生熟四味の教に譬うるなり。 この法華の教は醍醐海に譬うるなり。 本地を説き窮むるを深と為し、一切処に遍ずるを大となし、もっぱら仏法を明かして余法を説かざるを●となす。 已上疏文 汝よくこの経釈を吟味して彼此相入の邪義を知れ。 なおよく重ねて示さん。 法華の独円に於いてはかつて教々相入の義なし。 何となれば彼此相入するは物の体に二有る故なり。 独一法界の円体には別に何なる法有って相入する義有らん。 譬えば虚空湛然としてまた相入すること無きが如し。 一大の虚空にして体に二無き故なり。 問うていわく、この義証文有りや。 答えていわく、証文あり。記にいわく、余有るは皆仮なるを以ての故に相入することを得、余なければまた相入の名無し。 純一を以ての故に。 已上記文 これ明釈なり。 この釈に有余と言うは爾前経なり。 帯権の余あり。 故に有余と言う。 これ悉く仮説なり。 故に皆仮と言う。 これは教々相入するなり。 次に無余と言うは法華経なり。 帯権の余なし。 故に無余と言う。 純一無雑の法華の円には相入すべき義なし。 故に無復相入の名と言うなり。 経釈の正義を以て深く糺すに汝が相入の義大いに誤れり。 秀句にいわく、明らかに知んぬ。 他宗所依の経には大海の徳有ることなく唯法華宗のみ大海深大の徳あり。 已上秀句 所詮諸河は大海に入れども海水は河に帰入することなし。 法華大海の円理は法界に周遍して横竪無辺なり。 何ぞ更に帰入する所あらんや。 明らかに知んぬ、独一の円は相入の義これ無きことを。 また他のいわく、華厳、般若の融通と、法華の融通と全く不同なし。 箋の三にいわく、般若付財の能を見ず。 般若の融通法華と何ぞ異ならん。 云云。 自のいわく、汝が料簡の如くんば般若法華全く不同なしと言うか。 他のいわく、しかなり。 自のいわく、もし般若、法華相対して不同有りと言わん人は誤りか。 他のいわく、しかなり。 自のいわく、しかれば教主釈尊は誤りの仏なりや。 他のいわく、その故如何。 自のいわく、釈尊すでに無量義経に於いてまさしく摩訶般若の名を挙げこの経の速疾頓成に対して未顕真実と捨て、歴劫修行とえらぶ。 これ釈尊の僻見か。 他のいわく、吾が料簡また私に非ず。 まさしく釈義の指南に任す。 豈誤り有らんや。 自のいわく、仏説と人説と何れを以て本となさんや。 他のいわく、依法不依人の金言を仰ぐ上はいかでか仏説に付かざらんや。 自のいわく、もししかれば般若を捨てて法華を信ずるはまさしくこれ仏説なり。 何ぞ異義を立つるや。 他のいわく、もししかれば今の釈義は妙楽の誤りか。 自のいわく、釈義の意汝如何が心得たるや。 他のいわく、般若の融通法華と何ぞ異ならんと。 云云。 この釈を見るに般若、法華全く不同なし。 如何。 自のいわく、この釈は他師破一往の義なり。 今かえって汝に問う、般若経は已今当の三説の中には何れぞや。 他のいわく、已説の経なり。 自のいわく、已説の経ならば何ぞ法華と同じからんや。 教主釈尊已今当を立て給うことは意法華の三説に勝れたることを顕さんが為なり。 もしそれ二経齊等ならば三説超過の金言空しく戯論となり、多宝の証明諸仏の舌相全く泡沫に同じからんか。 他のいわく、道理極成せり。 然りといえども二経齊等の旨釈義また顕然なり。 如何が会すべきや。 自のいわく、釈義の始末汝くわしく伺わざる故に誤って邪見を生じ過無き妙楽に過を付く。 他のいわく、しからばこの釈義如何が心得べきや。 自のいわく、およそ一家の判釈、存略の妙経を釈成する時他経の例を引いて義を成ずることこれ多し。 只これ一辺を取ってその諸を取るに非ず。 例せば今の経の侍衛眷属等多く華厳の文を引き類同して消釈するが如し。 然りといえども華厳、法華全く齊等なることなし。 彼は未顕真実無得道の経なり。 先にくわしくその義を尽くしおわんぬ。 今般若、法華同等の義を判ずるもまた以てかくの如し。 所以何となれば鹿苑沈空の二乗方等の弾訶を被って六識還って生じ、空有錯乱す。 この機を調べんが為の故に般若経に至って十八空を説いて広く融通の旨を明かせり。 然りといえども未だ開顕の実相を明かさず。 草庵に止宿して一●をも●取する意なし。 これ如来出世の本懐に非ざる故に未だ成仏の実義をのべず。 故に般若の名を挙げて未顕真実とえらぶ。 しかるに法華経は羅什存略の故に唯成仏の大綱を存して網目を事とせず。 故に記小久成の大事を説いて融通の網目を明かすことこれ少なし。 然りといえども実相の語十界三千をつくして法として収めざることなし。 譬えば摩尼宝殊その形小といえどもよく一切の宝を降らすが如し。 もし多に従って少を捨てば頭破れて七分となること阿梨樹の枝の如くならん。 他師法華独顕の妙理を了せず。 般若の融通無碍なるに及ばずと言えり。 この誤りを破せんが為に融通の旨一往彼の経に同ず。 この一辺を見て般若、法華全く同じと思わん者は舌爛れんこと疑いなし。 汝よく今釈の始終を見よ。 般若、法華の勝劣甚だ分明なり。 所以何となれば既に法華を指して一代独顕の妙と称す。 般若経に勝ること明かなり。 次に般若付財の能と言うは仏意の辺に於いては密に付財すといえども顕露の付財はまさしくこれ法華の時なり。 何となれば般若の時はゆだぬるに家業を以てすれども機劣なれば未だ付財にあたわず。 故に而無●取一●の意と言う。 それ般若経には法開会を明かせども未だ人開会を明かさず。 何ぞ実に財を付せん。 法華の時に至って人開会を明かして父子の天性を定めあまねく親族を集めてまさしく家業を付す。 故に「●子歓喜得未曾有」と言う。 記の六にいわく、付は即ち付財法華の中に在りと。 已上記文 明らかに知んぬ、まさしき付財はこれ法華の時なり。 いわんや已説の般若いかでか三説超過の妙典に及ばんや。 かくの如き義を弁えず妄りに法を説く者を名付けて謗法となす。 故に天台は異解して説く者を皆名付けて謗となすなりと釈し、妙楽は已今当の妙ここに於いて固く迷いと破す。 もししかればこの諫暁はまさしく汝が身に当たれり。 謗法の罪苦、流長劫の責め、胸を叩いて悲しむべし。 また他のいわく、未顕真実の八万法蔵十二部経はこれ妙法ならずと。 この釈は部部相対して法華を歎ず。 何ぞ諸部の円に於いて不同を弁ぜんや。 自のいわく、この義しからず。 所詮妙法とは果分の内証なり。 しかるに法華已前の八万法蔵はただ菩薩の因分を明かして未だ仏智果分の内証を明かさず。 故に不是妙法と言う。 故に十地論にいわく、因分説くべく、果分説くべからず。 已上論文 秀句にいわく、それ華厳経は但、住上、地上の因分を説いて未だ如来内証の果分を説かず。 まさに知るべし、果分の経は因分に勝れたり。 已上秀句 爾前の中には華厳経第一なり。 この華厳経なお因分なり。 いわんやそれ已下の諸経にいかでか果分を明かさんや。 それ仏知見の内証とは、開権開迹の妙法なり。 爾前の諸部の円に於いて何れの処にかこの義を明かすや。 汝何ぞ誤りの甚だしき。 釈箋にいわく、これ開権の円なり。 諸部の中の円に同じからず。 已上箋文 これらの明文に驚いて汝いささか盲瞽を開け。 邪執もし翻らずんば何ぞ生盲に異らん。 いわんや後世の堕苦を悲しまざらんや。 次に他能生、所生を以てす。 約部は総釈の故にこれ実義に非ずと言う。 その義重々さきにこれを破しおわんぬ。 大文第三譬喩の下 他譬喩を以ていよいよ上の邪義を扶け愚痴の道俗を惑わす。 この義総別に約して難破を加えん。 まず総じてこれを破せばそれ仏法を弘通するに時有り、国有り、能化の師に凡師あり、聖師あり、所化の衆生に已謗あり未謗あり。 これらの義を弁えざれば仏法還って苦道の種子と成る。 譬えば神農の本方を用いて当時の人の病を治するに未だ必ずしもことごとく験あらず。 国に寒熱あり、人に強弱あり、薬に濃淡あり、病に軽重あり、時を知り、薬を観、病を識って方れを制すれば病すなわち癒ゆることを得。 ただ旧法に任せて病性を弁えず、妄りに良薬を授与すれば病還って増長するが如し。 仏法もまたしかなり。 時を見て国を知り、機の熟否を察してよろしく法薬を授くべし。 但し凡智を以てはたやすく時機を知るべからず。 幸いに世尊自ら滅後弘経の方規を定め給えり。 まず仏法を習う法には必ず時を知るべし。 時はいわく正像末なり。 問う、正法千年には何なる法を弘通すべきや。 答う、まず正法千年、前の五百年には小乗経を弘む。 迦葉阿難等の弘通これなり。 後の五百年には権大乗を弘む。 馬鳴龍樹等の弘法これなり。 已上正法一千年間は小乗権大乗の時なり 二に像法千年は法華経の迹門弘通の時なり。 南岳、天台、妙楽、伝教等像法に出世して法華経を弘め給うこれなり。 三に末法万年は法華経の本門弘通の時なり。 上行菩薩の後身末法二百余年のころ日本に出現して結要の五字を弘め給うこれなり。 今この義を弁ずるは時を知るものなり。 しかるに彼の邪師時刻を知らず。 前代流布の権法を以て末法今の衆生に授与せんと欲す。 例せば赤子に甲冑を着せ、老人に大石を負わせたるが如し。 豈に損害を招かざらんや。 鶏鳥は暁を待ち、郭公は春を過ぐ。 畜類なお時を知る。 いわんや仏法者と号して時刻を知らざるは畜生よりも劣れり。 現世には国を亡ぼし、身を喪い、来世には阿鼻に堕在せんこと疑い無き者なり。 二に仏法を弘むる者は国を知るべきなり。 国に於いて一向小乗の国、一向大乗の国、大小兼学の国これ有り。 この日本国は一向小乗の国か、一向大乗の国か、大小兼学の国か、よくよくこれを勘うべし。 然るに瑜伽論肇公の記、上宮太子、伝教大師、安然和尚等の記文を見るに日本国は一向大乗の国なり。 大乗の中にも殊に法華一乗機感相応の国なり。 今この義を弁えるは国を知る者なり。 しかるに彼の邪師この義を知らず。 実大乗の国に生まれながら還って権教に執着す。 例せば宝山によじ登って瓦礫を尋ね求め、栴檀の林に歩み入って伊蘭を懐き採るが如し。 愚痴の至りに非ずや。 三に弘通の師に於いて凡師有り聖師あり。 聖師は慧眼の力有り、明らかに法薬に於いて法眼力有って病障を識り、化導力有って病に応じて薬を授く、これは初住已上の化導なり。 かくの如き聖師は末代にいかでかこれを得ん。 六根浄の位なお凡師に属す。 いわんや五品乃至初品をや。 何にいわんや末法今の名字即をや。 かくの如く凡師は衆生の機を知り難し。 智慧第一の舎利弗なお機を知らず。 所化の衆生を一闡提となす。 いわんや当世の凡僧いかでか機を知ること有らんや。 但し機を知らざるの凡師は所化の弟子に一向に法華経を教ゆべきなり。 問うていわく、証文有りや。 答えていわく、妙楽のいわく、もし始行の者は小を以て答えざれ。 已上記文 天台のいわく、等しくこれ見ざるはただ、大を説くに咎なし。 已上疏文 これ明証に非ずや。 疑っていわく、「無智人中莫説此経」の文如何。 答えていわく、これは機を知る聖師の説法なり。 凡師を以てこれに例すべからず。 問うていわく、証文如何。 答えていわく、妙楽のいわく、もし深位の人は始末に法を弘むるに必ず生滅等の三を以てよく円教を顕す。 云云。 疑っていわく、無智の人の為に法華経を説かば必ず誹謗を為して無間に堕つべし。 これ説者の咎と成らざるべけんや。 答えていわく、誹謗の咎に依り一往悪道に堕るといえどもまた謗縁に依ってついに成仏することを得るなり。 問うていわく、証文如何。答えていわく、文句の十にいわく、謗の故に悪に堕れども仏性の名を聞く。 毒鼓の力善の果報を獲。 已上疏文 記の十にいわく、或いは順、或いは違ついにここに因って脱す。 已上記文 依憑集にいわく、「信謗彼此決定成仏」云云。 已上これらの義を弁えるは凡師聖師の化導の趣を知る者なり。 しかるに彼の邪師この義を知らず。 実大乗の機に猥しく権法を授く。 例せば身子機に迷うて所化の衆を一闡提と成せしが如し。 師弟共にいかでか悪道を免れんや。 四に所化の機に於いて未謗有り已謗あり。 未謗の機の為にはしばらく実経を授けず、まず小乗、権大乗経を以て漸々に誘引し機根熟して後法華を説くべし。 例せば世尊在世の化導の如し。 已謗の機の為には最初より只法華を説くべし。 例せば過去の不軽菩薩の如し。 信謗共に下種結縁となる故なり。 しかるに当世の為体、已謗の衆生国中に充満せり。 この機に向かっては偏えに法華経を弘むべし。 法華経の中にも広略をえらんで専ら結要の首題を授くべき時なり。 法華経の中に於いてなお広略をえらぶ。 いわんや権経等を与えんをや。 これらの義を弁ずるは機法相応の理を知る者なり。 しかるに彼の邪師この義を知らず。 当世の衆生の為妄りに権法を説き余経を讃歎す。 例せば空生が一夏の説法に大乗の機を小乗の機と為せしが如し。 三世の諸仏の掟を破り、四依弘経の次第を乱る。 豈に諸仏衆聖の大怨敵一切衆生の悪知識に非ずや。 已上是総破也 次に別して譬喩当体についてこれを難ぜば邪師金銀銅鉄を以て四教に喩え今昔の円を混乱す。 今また譬喩について以て彼の義を破すべし。 それ金に真金あり、偽金あり。 同じく金と名付くといえどもその体大いに不同なり。 何となれば、まず世間常途の金になお重々の差品あり。 いわんや余の一切の金は閻浮檀金に及ばず。 一切の閻浮檀金はまた梵天の金に及ばず。 いかでか一種の金を以て一切の金斉しと言わん。 仏説もまたかくの如く同じく円と名付くるといえども円に重々の差別あり。 何となれば爾前の円は未開の円なり。 故に無量義経の円に及ばず。 故に経に「行於険径多留難故」と言う。 また無量義経の円は未合の円なるが故に法華泯合の円に及ばず。 故に今説と定めて法華よりこれをえらぶ。 また涅槃経の円は同醍醐味と言うといえども●拾の円なるが故に法華大収の円に及ばず。 故に当説と定めてまた法華よりこれをえらぶ。 箋の一に、「謂二部同味然涅槃尚劣」と釈するこれなり。 もししからざれば法師の三説、薬王の十喩空しく戯論に同ぜんか。 また法華経の中になお不同を立つは迹門は始覚の円なる故本門久成の円に及ばず。 故に記にいわく、彼の本文に望むれば円なお方便なり。 いわんやまた偏をや。 云云。 道理文証明々たり、赫々たり。 何ぞ一種の円を以て諸部の円斉しと言わん。 たとい他経の一章にもっぱら円教を説くといえどもこれ未だ開権の円にあらず。 何を以てか法華の円に同ぜんや。 ここに知んぬ、爾前の円理は金に似たる黄石なり。 未だ一念三千の極理を詮とせず。 故に当代の学者広く台教を学ぶといえども未だその淵底を究めず。 いわんや本化の法門を知らんや。 只自ら痴闇に迷うのみにあらず、また一切衆生をして成仏の種子を断ち、阿鼻の業を造らしむ。 意有らん人誰か傷嗟せざらんや。 涅槃経にいわく、悪象等に於いて心惧怖すること無し。 悪知識に於いて怖畏の心を生ぜよと。 乞う願わくば有智の道俗、悪師を遠離して仏説に依憑せよ。 誤って邪義を信じ、苦報を招くことなかれ。 円珠真偽決 下巻 終 |