萬代亀鏡録

断悪生善 下巻【中】(仏性院日奥)

第二十八、九方仏土一乗難
 一、彼の集にいわく、法華方便品にいわく、十方仏土の中には唯一乗の法のみ有り。
 二も無くまた三も無し。
 仏の方便の説をば除く。
 已上
 唯有一乗法とは則ち法華及び諸経の一乗を指す。
 同じく一味の法なるが故に念仏法華ともに一乗にして同一体なり。
 取詮
 已上他難
 弾じていわく、念仏法華ともに一乗にして一体なりと言うか。
 もししかれば汝何ぞ念仏の一門を執し法華経等を捨閉閣抛して機に非ず、時を失うと言うや。
 これ自語相違に非ずや。
 これはしばらく汝が義についてこれを破す。
 今当宗の本義を言わば爾前法華一乗の名同じといえどもその義遙かに異なるなり。
 故に無量義経に「文辞雖一而義各異」と言う。
 例せば王の名同じといえども大王小王大いに不同有るが如し。
 汝が見大に僻めり。
 所以何となれば帯権の一乗には未だ二乗作仏を説かず。
 また未だ久遠実成を顕さず。
 純円の一乗に始めて記小久成の大事を明かす。
 汝が依経すでに未顕真実帯権の一乗なり。
 何ぞ法華純円の一乗に同じからんや。
 汝が義の如くんば明珠と魚目とその異を分かたざるものなり。
 一、彼の集にいわく、無二亦無三とは三乗の中に第二縁覚、第三声聞なり。
 爾前の間は彼の二乗の果を真実と為す。
 今法華に至って皆方便に属す。
 故に除仏方便説と言うか。
 已上他難
 弾じていわく、この解は天台已前の他師が義なり。
 今家は大いに斥けて則ち大倒乱と破す。
 今家の正釈にいわく、仮名の三教を牒して仏慧の一教を顕す。
 その文分明なり。
 またいわく、無有余乗とは別教の中の円入別の余無きなり。
 無二とは通教の中の半満相対の二無きなり。
 無三とは三蔵の中の三無し。
 かくの如き等の二三は皆これ仮の名字を以て諸々の衆生を引導す。
 今は但一仏の円教乗のみなりと。
 汝が義と天台と大いに相違せり。
 汝は只二乗に約す。
 大師は前三教に約して釈したまえり。
 但し前三教に約して釈するもなお一往の義なり。
 再往実義の時は爾前の円をも決して方便に属す。
 故に爾前の諸経は四乗ともに除仏方便の句に摂するなり。
 何ぞ只二乗に約するや。
 疑っていわく、爾前の円を方便に属する義、前代未聞なり。
 但し証文有りや。
 答えていわく、証文一に非ず。
 無量義経にいわく、種々に法を説くこと方便力を以てす。
 四十余年には未だ真実を顕さずと。
 またいわく、次に方等十二部経摩訶般若華厳海空を説いて菩薩の歴劫修行を宣説すと。
 註釈にいわく、釈迦一代四十余年説きたまう所の教に略して四教及び八教有り。
 いわゆる小乗、三蔵教、大乗通教、大乗別教、大乗円教、頓教、漸教、不定教、秘密教、かくの如き等の前四味各々不同なり。
 この故に名付けて種々説法と為す。
 またいわく、「以方便力四十余年未顕真実」と言うは但随他の五種性等門外の方便、差別の権教、帯権の一乗を説いて未だ随自の一仏乗等、露地の真実、平等の直道捨権の一乗を説かず。
 この故に説いて「以方便力四十余年未顕真実」と言うと。
 この経釈の如くんば爾前帯権の円は皆これ方便なり。
 またいわく、この経を聞かざるが故に三乗道に紆廻す。
 二乗の険と権大の径とは留難多きが故なりと。
 この釈の如くんば権大乗の円は険径留難に属す。
 開会の大直道無きが故なり。
 四教義一にいわく、「摩訶般若華厳海空宣説菩薩歴劫修行」とはこれ別門の摂なりと。
 この釈の如くんば爾前の円はまさしく決して別教に属す。
 二乗作仏無きが故なり。
 記の一にいわく、正直等とは開権の教なりと。
 この釈の如くんば爾前の円は不正直の教なり。
 開権の円に非ざるが故なり。
 記の七にいわく、もし未だ権を開せず。応にまた実無かるべしと。
 この釈の如くんば爾前の円は虚妄なり。
 未開の円にして実無きが故なり。
 箋の一にいわく、昔の経の円機をまた名付けて失と為す。
 またいわく、彼の本の文に望むれば円なお方便なりと。
 これらの経釈明らかに爾前の円を以て方便に属し過失に属す。
 何ぞ疑いを為さんや。
 一、彼の集にいわく、釈迦は法華を一乗と説き、弥陀は念仏を究竟一乗と定む。
 余の九方の一乗もまたこれ有るべし。
 ここに於いて釈尊法華を一乗と定めたまうとも余の九方の法華なるべき道理如何。
 已上他難
 弾じていわく、まず弥陀は念仏を究竟の一乗と定むと言うことこれ第一の誤りなり。
 この究竟一乗の文は双観経に在り。
 これまさしく釈尊の語なり。
 敢えて弥陀の説に非ず。
 故に上は仏語阿難と言う釈迦の説なること分明なり。
 何ぞ弥陀の説と言わんや。
 その上これは未顕真実の一乗なり。
 何ぞ已顕真実の法華の一乗に同じからんや。
 次に余方に法華の外の一乗有るべしと言うことこれまた大なる誤りなり。
 汝未だ経文の生起を知らず。
 所以何となればこの十方仏土中の文は上の長行の総諸仏の章を頌するなり。
 総諸仏とは三世十方の仏なり。
 およそ五仏の章の所詮は十方の諸仏種々の法を説くといえども実には唯一仏乗の法華経を説きたまわんが為なり。
 浄土の三部経すでに種々説法の内なり。
 今の釈尊も諸仏化導の儀式に違わず四十余年四味の諸経を説きたまうといえども機熟し、時至って正直に念仏等の方便を捨てて唯一仏乗の妙法華経を説いて度生の願満足したまえり。
 然れば十方三世の諸仏は法華経を離れて出世の本懐無きなり。
 しかるに弥陀は三世の仏の中には現在の仏、十方の中には西方安養界の仏なり。
 弥陀もし三世十方の諸仏に与せずして法華経を捨てたまわば外道天魔に与したまうべきか。
 法華已前の諸経は魔王もこれを説くが故なり。
 もし五仏道同の仏ならばいかでか未顕真実の念仏を以て究竟の一乗と為して安養界に弘めたまうべき。
 いわんや「上品浄土不須開漸」と釈して真実の浄土には弥陀経等の権教を説きたまわず。
 唯一仏乗の妙法華経を説きたまう。
 何にいわんや弥陀の本願は「常楽説是妙法蓮華経」と定めたり。
 弥陀もし吾成仏を遂げたる法華経を捨て不成仏の法を以て衆生に与えたまわば無慈悲の仏なるべし。
 我則堕慳貪の咎を脱れ給うべからず。
 いかでかその義有るべき。
 何にいわんや過去の大通仏また二万の灯明仏また二万億の威音王仏等皆出世の本懐を顕したまう時は必ず妙法蓮華の一乗を説きたまう。
 現在の諸仏未来の諸仏もまたまたかくの如し。
 未だ三世の諸仏の中に本懐を宣べ給う時法華経を置いて権の一乗を説きたまうことを聞かず。
 玄義の三にいわく、法華はそうじて衆経を括して事ここに極む。
 仏出世の本意諸々の教法の指帰なり。
 二万の灯明迦葉等の古仏、教を設けたまえる妙ここに極む。
 弥勒当来にまた妙ここに極む。
 釈迦仰いで三世に同ず。
 また妙ここに極むと。
 釈の心明かなり。
 決して知んぬ、一切の諸仏設教の極意偏に法華に在り。
 弥陀豈諸仏に違し、法華経を捨てて権の一乗を説きたまわんや。
 なんじ誤って失無き弥陀に失を懸く。
 豈に弥陀の大怨敵に非ずや。
 一、彼の集にいわく、秘密神呪経にいわく、阿字十方三世仏、弥字一切諸菩薩、陀字八万諸聖教。
 已上
 もししからば始めて法華より十方三世の諸仏の所説の法宝功徳皆陀字に摂す。
 然れば法華とは八万法蔵の中のその随一なるべし。
 然れば法華経を以て念仏の功徳に対するに百分、千分、百千万億分にしてその一にも及ばず。
 如何。
 已上他難
 弾じていわく、秘密神呪経は未顕真実の権教なり。
 何ぞ未説の法華を已説の経の陀字に摂せんや。
 眼前の誤りなり。
 もしまた法華已後の経といわば当説の経は皆法華に劣れり。
 同醍醐味の大涅槃経なお法華に及ばず。
 いわんや一機一縁の小経にいかでか極大乗の経王を摂せんや。
 牛跡に大海を収むと言わんが如し。
 誰かこれを信ずべき。
 但し弥陀讃歎の諸経は皆これ法華已前なり。
 明らかに知んぬ、彼の経も法華の前説と言うことを。
 およそ開経の如くんば漸頓の諸経皆無量義経より出生す。
 然れば則ち彼の神呪経並びに阿弥陀の三字は法華の序分の無量義経の所生なり。
 しかれば無量義経は能生にして親の如く、神呪経、阿弥陀の三字は所生にして子の如し。
 敵対せばまさに子を捨てて親につくべし。
 無量義経と阿弥陀と敵対せば、豈に阿弥陀を捨てて無量義経につかざらんや。
 また開経は必ず合経に帰せるが故に法華経はこれ無量義経の主君なり。
 譬えば臣下の帝王に帰するが如し。
 故に神呪経の阿弥陀の三字は無量義経の下に居す。
 法華経はまた無量義経の上に居す。
 これを以てこれを見れば法華経は彼の経の阿弥陀の為に三重の主君なり。
 念仏法華に劣れること道理歴然たり。
 誰かこれを諍わんや。
 これはなお一往なり。
 再往くわしく論ぜば高下天地なり。
 勝劣雲泥なり。
 梯を立てても及ぶべからず。
 三説の校量十喩の称揚豈に空しく論ぜんや。
 汝また八万法蔵に於いて権実の差別有ることを知らず。
 権教の八万法蔵を以て実教の八万法蔵に混濫す。
 これ大なる誤りに非ずや。
 問うていわく、その証文如何。
 答えていわく、法華経宝塔品にいわく、もし八万四千の法蔵十二部経を持って人の為に演説して諸々の聴かん者をして六神通を得せしめん。
 よくかくの如くすといえどもまた未だこれ難しとせず。
 我が滅後に於いてこの経を聴受しその義趣を問わん。
 これ則ち難しと為すと。
 この文の如くんば法華経は権教の八万法蔵の外に在ることもっとも分明なり。
 故に秀句にいわく、未顕真実の八万法蔵十二部経はこれ妙法ならず。
 この故に易と為すなり。
 注秀句にいわく、十二部経に於いて両種の義有り。
 一には爾前の十二部経、二には法華の十二部経なりと。
 経釈の趣誠に顕然なり。
 しかるを汝誤って、法華は陀字の内の八万法蔵の随一と言う。
 豈に聖教に眼抜けたる者に非ずや。
 あまつさえ法華の大王を持って小民の念仏に対して百千万億分の一にも及ばずと言う前代未聞の悪口、譬えば田夫は帝王に勝り、●猴は帝釈より尊しと言うが如し。
 顛倒なり、
 邪見なり。
 祖師の謗法に超えたること億千万倍なり。
 いかでか阿鼻の焔を免れんや。
 悲しむべし。
 展転無数劫疑い無き者なり。

 第二十九、諸経中王対小難
 一、彼の集にいわく、法華経は二乗を度するを本と為して菩薩を正とせず。
 菩薩は爾前に於いて得益円満するが故なり。
 別して法華を所期とせず。
 故に余の大乗経に勝れたるに非ず。
 二乗の法に超えたる故なり。
 然れば諸経中王の言、十喩の始終、只これ二乗の法に対する意なり。
 法華論にいわく、この無上の義一切声聞辟支仏二乗の法の中にこの義を説かず。
 菩薩の行虚妄と為すに非ず。
 已上
 これ他難の詮を取る
 弾じていわく、法華は二乗を度するを正と為すと言うこと勿論なり。
 これ諸経に無き所の奇特なり。
 四十余年の間永不成仏と説き、破石●種等の喩えを以て一言も許さず、嫌い捨てられたる人を法華経に於いてまさしく成仏せしむ。
 豈に一代超過の義に非ずや。
 およそ仏法の尊貴なる道理は難成の機をしてよく成仏せしむるを以て無上の義と為し、経王の義と為す。
 しかるに法華経の如く難成の者を以て仏道を成ぜしめたること一代の説の中に何の経にかこれ有る。
 たとい二乗作仏の一を以てこれを言うとも一代超過の義諍い有るべからず。
 いわんや達多の記●、龍女の成仏、諸尼の授記、何にいわんや久遠実成の極談他経に全く無き所なり。
 しかるを只二乗に対して無上義と名付くること大邪見に非ずや。
 その上薬王十喩の始終、二乗の法に対すと言うこと言語道断の誤りなり。
 汝何ぞ経文釈義を見ずしてかくの如き謬義を吐くや。
 拙し拙し。
 これ宿業の所感か。
 はた浅智の致す所か。
 哀れむべし、哀れむべし。
 問うていわく、薬王の十喩諸大乗経に対して法華を歎ずる文理如何。
 答えていわく、十喩の第一は大海の喩えなり。
 経にいわく、譬えば一切の川流江河諸水の中に海これ第一なるが如く、この法華経もまたまたかくの如しと。
 この文の如くんば四味の諸経を以て川流江河に喩え、法華経を以て大海に喩う。
 故に文句の十にいわく、諸水とはそうじて一切の教なり。
 別して四を挙げたるは乳酪生蘇の四味の教に譬うるなり。
 この法華経をば醍醐海に譬うるなりと。
 この経釈明らかに爾前諸大乗経に相対して法華の勝れたることを歎ず。
 何ぞ誤って只二乗の法に対すと言わんや。
 第二は山の喩えなり。
 経にいわく、衆山の中に須弥山これ第一なり。
 この法華経もまたまたかくの如し。諸経の中に於いて最もこれその上なりと。
 秀句の下にいわく、明かに知んぬ、この法華経は乳味の華厳、酪味の阿含、生蘇の方等、熟蘇の般若、四味の教の頂きに在り。
 まさに知るべし、他宗所依の経には須弥の徳有ること無し。
 唯法華宗のみ須弥最高の徳有り。
 云云。
 釈の心明かなり。
 乃至第十の喩えは法王の譬えなり。
 経にいわく、仏これ諸法の王なるが如くこの経もまたまたかくの如し。
 諸経の中の王なり。
 秀句の下にいわく、仏は無上の法王、法華は無上の妙典なり。
 他宗にはすべてこの十喩無し。
 ただ法華のみこの十喩有りと。
 汝何ぞこの経釈に迷い小衍相対を以て法華の妙理を塞ぐや。
 大謗法なり。
 次に菩薩は爾前に於いても得益円満す。
 云云。
 これまた一往を開きて再往の実義を知らず。
 菩薩の得益も実には法華に限るなり。
 但し法華論の文の事仏説すでに分明なる上は何ぞ論文を用いんや。
 いわんや法華論には訳者の誤り有り。
 その証上に出しおわんぬ。
 しかるに天台の釈義は龍樹、天親の義にも勝れ、翻訳の三蔵も羅什一人を除いては未だ智品を究めず。
 問うていわく、龍樹、天親、天台に及ばざる証文如何。
 答えていわく、玄義の第三に章安大師、天台の徳を讃していわく、天竺の大論なおその類に非ず。
 震旦の人師何ぞわずらわしく語るに及ばん。
 これ誇曜に非ず。
 法相の然らしむるのみと。
 従義のいわく、龍樹、天親未だ天台にしかず。
 難じていわく、章安、従義は天台の門人なり。
 他宗に於いては未だその讃を信ぜず、如何。
 答えていわく、たといその門人その師を讃むるとも正しき道理あらば何ぞ信用せざらん。
 孔子の門人皆孔子を讃む。
 子貢がいわく、仲尼は日月の如し。
 有若がいわく、麒麟の走獣に於ける、鳳凰の飛鳥に於ける、泰山の丘垤に於ける、河海の行潦に於ける類なり。
 生民有ってより以来未だ孔子より盛んなるは有らざるなりと。
 子貢、有若ともに孔子の弟子なり。
 しこうしてその師を讃むるかくの如し。
 然りといえども後生誰かこれを用いずと言わんや。
 天台もまたかくの如し。
 智は日月に斉しく、辯は懸河に類す。
 いわんや諸宗の高祖皆天台に帰して、智者の正義を仰ぐ。
 その証依憑集に在り。
 繁き故これを略す。
 一、彼の集にいわく、大経にいわく、無量寿仏の威神の光明最尊第一にして諸仏の光明の及ぶことあたわざる所なりと。
 已上
 既に諸仏の中に弥陀最尊なり。
 ここに知んぬ、法華は小乗に対して王と名付け、第一と為す。
 然れども念仏の望むれば土民の如く、百姓に似たり。
 如何。
 已上他難
 弾じていわく、この義ことに大謗法なり。
 そもそもこの大経とは双観経なり。
 この経の中に弥陀を最尊と讃むるといえども未顕真実と定まる上は何ぞ一定の説と成さん。
 およそ一代聖教その経々に於いてその仏菩薩の功徳余の諸尊に勝れたりと讃むること諸経の常の習いなり。
 ここを以て文殊般涅槃経には文殊の功徳を説いていわく、百千万億那由佗の仏の衆生を利益したまう事文殊師利の一劫の中に於いてなす所の利益には及ばずと。
 また十一面経に観音の功徳を説いていわく、もし百千倶胝那臾多の諸仏の名号を称念すること有らん。
 また暫時も我が名号に於いて心を至して称念すること有らん。
 彼の二の功徳平等平等と。
 已上
 これらの経の如くんば菩薩の功徳を以て諸仏の功徳に勝れたりと説く。
 故に諸経に於いてはその讃歎の語全く一准ならず。
 然れば弥陀の三部経の中に於いて弥陀の功徳を讃むること、何ぞ奇と為すに足らん。
 法華経の如くんばまず序分の無量義経に於いて四十余年の諸大乗経と無量義経とその勝劣を定むる時、四十余年の諸経をば未顕真実歴劫修行と毀り、無量義経をば「文理真正尊無過上」と讃め、或いは「速疾頓成真実甚深」と歎ず。
 この讃歎の語は余経当分の讃歎に似ず。
 直ちに諸大乗経とその文理を引き比べ分明に勝劣を判ず。
 故に無量義経の爾前の諸経に勝れたること天下の公事なり。
 敢えて一機一縁の私の称歎に非ず。
 しこうして法華経の威力はかくの如く、爾前の諸経に勝れたる無量義経をば今説と下し、また後に説くべき同醍醐味の涅槃経をば当説と嫌いてこの三説に秀でたる最上の経王なり。
 かくの如く跨節の讃歎何の経にかこれ有らんや。
 しかるに汝宿業の眼拙くして未顕真実の民経を以て已顕真実の経王を下し、あまつさえ土民の如しと言うこと蛍火が日月を下し、●猴が天帝を笑うが如し。
 大謗法の失責めても余り有り。
 悲しみても極まりなし。
 提婆が悪逆瞿伽梨が誹謗なお比量と為すに足らず。
 たとい劫石は●とも阿鼻の極苦いかでかこれを尽くすことを得ん。
 悲しむべし、悲しむべし。

 第三十、信解功徳多少難
 一、彼の集にいわく、法華経の一念信解の功徳は六波羅密の中に般若波羅密を除き所対と為るなり。
 また勝鬘経の一念信解は般若波羅密を加う。
 故に功徳法華の一念信解に勝れたり。
 已上他難
 弾じていわく、勝鬘経は権教なり。
 法華経は実教なり。
 権は劣り、実は勝ることまさしく釈尊の金言なり。
 何ぞ彼の経の一念信解、法華実経の一念信解に及ばんや。
 およそ能詮の教権なれば所詮の理もまた権なり。
 権の理を縁ずる一念信解いかでか実理に叶わんや。
 六度ともに所校の本に挙ぐといえども彼の経の法体未顕真実ならば、能校所校共に夢中の妄想なり。
 敢えて悟りの実理に非ず。
 所詮勝鬘経の一乗は三一相対の一乗なり全く独妙絶対の一乗に非ず。
 故に宗義集にいわく、勝鬘等の経の一乗は方便を帯するが故に、法華の一乗は方便を捨つるが故に義異なるなりと。
 法華の行者縁ずる所の一念信解は三世の諸仏証得の奥蔵実相甚深の妙理なり。
 これ一念なりといえども一切の仏法を含じ広く万徳の理を具す。
 故に「権教極果尚法華」の一念信解の初心に及ばず。
 いわんやその以下に於いてをや。
 ただし別教地前の五波羅密を以て円の一念信解に校量して般若を除く意、別教地上の般若は担不但の異有れども諸道同円の義を以て所校の本に除くなり。
 所詮彼の勝鬘経は四十余年の内、方等部の経なり。
 なお華厳般若に及ばず。
 一機一縁の権教なり。
 いかでか三説超過の一乗妙典に及ばんや。
 しかるに汝還って勝鬘経に劣ると言う。
 豈に大僻見に非ずや。
 一、彼の集にいわく、大経にいわく、それ彼の仏の名号を聞くことを得ること有って歓喜踊躍し乃至一念もせん。
 まさに知るべし、この人は大利を得と為す。
 即ちこれ無上の功徳を具足す。
 已上
 この一念信解は得大利とも説き、また無上功徳とも説く。
 勝鬘の一念信解は、恒沙劫の六波羅密に類す。
 功徳に分限有り。
 然れば法華より勝鬘は勝れ、勝鬘より念仏の一念信解は勝れたるなり。
 功徳の勝劣天地なり。
 已上他難
 弾じていわく、双観経と勝鬘経とは共に方等部の経なり。
 法華経に対すれば皆これ未顕真実無得道の法なり。
 これを以て法華に勝れりと言うは悪見なり。
 邪見なり。
 もし勝鬘経と双観経とその勝劣を論ぜば理更に互いなるべし。
 これ同部の経なるが故なり。
 然りといえども何位は念仏を執するが故に双観経勝れたりと言う。
 もし上宮太子鎮護国家の三部の内に勝鬘経を取りたまうに依らば勝鬘経勝るる辺有るべし。
 然る間二経の勝劣一辺に定め難し。
 但し大利と無上功徳の文に至ってはこれ当分の大利、当分の無上なり。
 何れの経にかかくの如きの称歎これ無けん。
 汝これを以て双観経、勝鬘経に勝れたりと言はんは無下に弱き義なり。
 それ中阿含五十六には無上法輪の文有り。
 大乗十法経には無上乗の文有り。
 解深密経には無上無容の文有り。
 華厳経には上乗無上乗の文有り。
 かくの如く諸経に無上の語有れども法華の無上に対すれば皆これ有上と為るなり。
 今智者大師の正義に依って分明の証文を出し一代説教の有上無上の実義を示さん。
 玄義の第二にいわく、乳教には菩薩界仏界の両の性相を説いて中に入れば無上なれども、しかも一の方便を帯すれば未だ全く無上ならず。
 酪経には但二乗の相性を明かしてなお即空等に入ることを明かさず。
 いわんやまた余をや。
 故に無上に非ず。
 生蘇には四種の相性を明かす。
 しかも三方便を帯せるが故に、故に無上に非ず。
 熟蘇には三種の相性を明かす。
 しかも二の方便を帯す。
 故に無上に非ず。
 この法華経には九種の性相皆即空即仮即中に入ることを明かす。
 汝は実に我が子なり。
 我は実に汝が父なり。
 一色一味もっぱらこれ仏法にして更に余法無し。
 この故に如来慇懃にこの法華経を称歎して最と為し上と為す意ここに在るなり。
 云云。
 この釈の如くんば最初頓説の華厳なお無上に非ず。
 いわんや方等部の双観経、法華経の極無上に相対してむしろ高下を論ぜんや。
 何にいわんや双観経を以て法華経に勝ると言わんは、大邪見謗法の咎誠に論ずべきに足らず。
 無間地獄の業豈にこれに過ぎんや。