唱題勧発鈔(仏性院日奥)
さて三界輪廻の有様を案ずれば車の庭上にめぐるが如く、六道の流転を思えば繋げる犬の柱をめぐるに似たり。悲しいかな、我等無始よりこのかた苦海に漂流して未だ出離の期を知らず。 いたずらに生じいたずらに死して空しく無辺の劫を送る。 ある時は地獄に生じて百億洞燃の猛火にやかれあるいは獄卒の鉄杖に色身を砕かれて苦痛極まりなし。 ある時は餓鬼道に落ちて飢渇にせめられ五百生の間飲食の名をも聞かず。 故に己れがなづきを砕いて食とし、あるいはまた子を食う。 ある時は畜生道に落ちて山野の獣となっては猟師の為に射られ、江海のうろくずと成っては釣り針を呑み、あるいはまた網にかかる。 その苦しみ如何ばかりぞや。 ある時は修羅道に生まれて日々に三熱の苦しみを受け、あるいは闘諍のために身を破られていささかも安き心なし。 ある時はたまたま人中に生まれて四悪趣をまぬがれたりといえども生老病死の憂いしばらくも休む時無く、あるいは老いて子を先立つる嘆き、あるいは幼くして親に後るる悲しみ、あるいは怨憎会苦、あるいは求不得苦。 かくの如き八苦の火つねに盛んにして片時の程も安穏の思いなし。 あるいはたまたま天上に生まれて一旦快楽を受くといえども五衰退没の苦しみ早く来たって悲しみの思い極まりなし。 然れば帝釈喜見城の栄華梵天高台の楽しみも春の夜の夢の如し。 いわんや閻浮暫時の楽しみは電光の如く、また朝露の如し。 誰か智あらん人ここに執着をとどめん。 されば秦の始皇の奢りをきわめ給いしもついに驪山の塚に埋もれ、漢の武帝の命を惜しみ給いしも空しく杜陵の苔にくちにき。 誰かなめたりし不老不死の薬、 誰か持ちたりし東方朔が齢、生ある者は必ず滅す。 釈尊未だ栴檀の煙りをまぬがれ給わず。 楽しみ尽きて悲しみ来る。 天人なお五衰の日にあえり。 三界は安き事なきことなお火宅の如し。 衆苦充満して甚だ怖るべし。 厭うてもなお厭うべきは輪廻生死の苦しみ、願ってもなお願うべきは寂光無為の楽しみなり。 心あらん人はしばらく世事をさしおいて思いをここに留むべし。 一生空しく過ぎて冥途の旅を思うに闇々と目くらければ日月の光もなく、せめてまた灯火の影もなし。 冥々として独り行く、誰か是非を弔わん。 一生の間たくわえ積みし財宝もいたずらに他の有となって黄泉の旅には一物も資糧とならず。 偕老同穴のかたらいを成せし妻子も空しく娑婆に止まりてこの道には随うことなし。 断金の契りを結びし昔の友も来たって訪わず。 刀山剣樹に身を破り、三途の愛河に独りさまよう。 王位高顕の勢力も閻魔の呵責を悲しみ、将軍強力の武勇も業縛の縄にしばらる。 さらば漢高三尺の剣も獄卒の鉄棒をさえず。 張良が一巻の書も冥官の鉄札に破らる。 阿防羅刹は三鈷のひしほこを提げて邪見の声をあららかにし罪にしたがいて五体身分とりどりに責む。 この時声を天にひびかして泣けども百官万乗も来たって救うことなく、親類も来て扶くる事なし。 ただ独りかなしみ、ただ独りなげく。 昔は名聞の車に乗って栄楽の大道に遊び、今は火燃の車に乗って阿鼻大城に赴く。 誰かこれを悲しまざらんや。 昔の檀王はやく王位を捨てて偏に仏法を求めたまうは兼ねて冥途の有様を悟り給える故なり。 吾朝華山の法皇もまたかくの如く捨てがたき十善の位を捨てなお後世のためにしたまえり。 いわんや捨てやすき身を以て仏道に投ぜんことあに幸いにあらずや。 しかれども皆人暫時の身を養わんがためには万里の海上に風波の難をしのぎ、あるいは千里険難の途に寒暑の苦をかえりみずといえども、永劫の身を扶くる仏法修行の為には未だ一難も忍ばす。 妻子眷属恩愛のためには数行の涙を落とすといえども聞法随喜の為には未だ一滴も落とさず。 頑弊無慚にしていたずらに明かしいたずらに暮す。 これ宿業つたなくして地獄の使の競うものなり。 恐るべし、悲しむべし。 嗚呼いつの時に華火宅の焔をまぬがれ、何れの日にか仏身を成就して寂光無為の宝地に遊ばん。 幸いなるかな、我等如来の現在にもれたりといえども宿善の催す所末法流布に生を受け、千万劫にもあい難き仏法の御名を聞くことを得たり。 多生曠劫の喜び何事かこれに如かん。 来生の昇沈は誠にこの時にあり。 万事をなげうちて頭燃を払うが如くすべし。この度もだしてまたまた何れの時を待たんや。 一度人身を失えば万劫にもかえらず。 古賢の禹王は一寸の陰、半寸の暇を惜しみて一生空しく過ぎん事を悲しみ、法王牟尼は大地の針妙高の糸を仮りて人身の得がたきに譬えたまえり。 またまれに人身を受くるといえども仏法にあいたてまつること難し。 また仏法の中に於いて余経にあうは難きことにあらず。 故に法華経第四宝塔品にいわく、諸余の経典数恒沙の如し、これらを説くといえども未だ難しとなすに足らず云云。 四十余年の諸経は数多しといえども未顕真実にして成仏の法にあらざる故に釈尊自らかくの如く嫌い給えり。 されば一代聖教の中には法華経にあい奉ること最も難し。 法華経の中にはまた題目を以て肝心という。 例えば人の身に魂魄を肝要とするが如し。 五体五根具足せりといえども魂神なければ人にあらず。 仏法もまたかくの如く題目を以て魂神とす。 されば白楽天も経には題目たり。 仏には眼たりとのべたり。 殊にこの経の題目は八万聖教の精神はたまた一部八巻二十八品の魂魄なり。 三世の諸仏は題目を師として正覚を成じ、十方の薩捶は五字を眼目として仏道を行じたまえり。 それ如意宝珠は天上の勝宝なり。 かたち芥粟の如くして大いなる功能あり。 ここを以てあまねく七宝を降らし、広く万宝を降らす。 題目の功能もまた以てかくの如し。 十界三千無量の宝を収めたり。 彼の如意宝珠は現世の身を養うといえども未だ後世を扶けざれば宝にして宝にあらず。 この経の題目は現世を扶くるのみにあらず、未来永劫の身を扶く。 これ誠に宝の中の宝なり。 されば彼の不軽菩薩は一句作仏の文を唱えて現に六根清浄を得給えり。 これ現世を扶くるにあらずや。 不軽菩薩未来に釈迦仏と成り給えり。 これ後世を扶くるにあらずや。 彼の二十四字とこの五字とは意同じ。 しかるに当代の行者は五濁さかんなる故に現に六根浄を得ずといえども謗法なくして題目を行ずれば必ず諸天の供養を受く。 これ現世を扶くるなり。 未来の成仏は決定無有疑と定めたり。 また後世を扶くる義疑いなし。 故に経に現世安穏後生善処と云云。 されば題目の五字は現当二世の至宝なり。 また水火盗賊の恐れもなし。 これ真の神宝なり。 彼の驪龍頷下の珠海に求めて何かせん。 身滅すればすなわち共に滅するが故にただこの妙法蓮華の珠を持つべし。 この珠光を放ちて冥途の闇を照らし、三途の川にては船となり、死出の山にては龍馬となりて虚空を飛び、飢えたる時は醍醐味の食となり、渇せるときは八功徳水となり、暑き時は涼風となり、寒きときは衣服となり、霊山浄土の道には七宝荘厳の大白牛車となりて行者を乗せ速やかに寂光の宝土に至る。 これ不可思議の珠にあらずや。 凡夫は智慧の眼くらくしてこの珠を知らず。 ただいたずらに世欲に著す。 例えば狗の枯骨を集めて宝とし金玉を願わざるが如し。 智人は世欲を捨てて偏にこの珠を求む。 されば喜見菩薩は身を以て灯火となしてこの珠の恩にかえ、須頭檀王は万乗の国を捨て千歳給使してこの珠を求めたまえり。 そもそもこの宝珠はいかなる処にかこれある。 竜宮城にや尋ぬべき。 蓬莱山にや求むべき。 全く他処に求むべからず。 我等衆生の心の中に本来不思議の珠あり。 これを妙法蓮華と名づけたり。 法華経にあらざればこの珠を知らず。 三世の諸仏ともに守護してみだりに開示したまわず。 久しゅうして後にこれを説く。 されば釈迦如来も四十余年時を待って始めてこの珠をあらわしたまえり。 我等が胸の間に本よりこの珠ありといえども煩悩の土泥に埋もれて未だこれを顕さず。 十方の諸仏はこの珠をみがきて仏になりたまえり。 卞和が璞玉みがかざれば光無し。 されば怠らずこの珠をみがくべし。 いかようにしてか磨くべき。 ただ信心を起こして南無妙法蓮華経と唱えたてまつる。 これを磨くとは言うなり。 されば天台大師も毎日一万遍唱えたまえり。 故に大師行法の記にいわく、一切経の総要毎日一万遍と。 玄師伝にいわく、一切経の総要とは妙法蓮華経の五字を言うなりと。 南岳大師もこの宝号を唱えたまえり。 故に法華懺法に南無妙法蓮華経と云云。 伝教大師もまたかくの如し。 故に臨終十生願記に南無妙法蓮華経と云云。 これらの大師皆題目を唱えて以て己心仏性の珠を磨きたまえり。 然りといえども内証の自行ばかりにして広く他のために説きたまわず。 これ時至らず付属なき事をはばかってなり。 当世の学者は唱題の行を以て初心の行と思えり。 これ返って浅智のいたす所なり。 南岳天台等を以て初心の行者といわんや。 能くよく思惟すべし。 然れば三世の諸仏因位の万行多しといえども内証真実の正行は題目なり。 然るに世間の諸人仏の本意を知らず。 法華経以前の方等部に説ける未顕真実の念仏を本として法華経の題目を捨つるは宝珠を捨てて瓦礫を取る者にあらずや。 ここに知んぬ、過去の大善根にあらずんばいかでか法華経の題目にあいたてまつる事を得ん。 されば第五巻安楽行品に『於無量国中乃至名字不可得聞』といえり。 この経文誠なるかな。 それ一大三千界には百億の須弥、百億の日月有り。 一々の須弥に四天下有り。 一々の四天下にまた無量の国有り。 かくの如き無量無辺の国の中にも仏法の弘まることはこの閻浮提に限れり。 また閻浮提にも八万四千の国有り。 このもろもろの国の中に法華経の題目の弘まりたまわんことはこの日本国に限れり。 震旦高麗等の諸国にも法華経をば読めども未だ八軸の肝心たる題目を唱える事を知らず。 例えば仏を造って眼を入れざるが如し。 さればこの国は粟散辺地の小国といえども仏法の縁深く大乗の機熟せることは月氏震旦にも勝れたり。 故に天竺よりこの日本国を指して大乗の妙国とほめたり。 さればこの日本に生を受けたる人は深く喜びの思いをなすべし。 かくの如き生まれ難き国に生まれ、あい難き仏法にあいながら空しく世事にたずさわりて一念の信心も発さず、一生いたずらに明かし暮らさんは宝の山に入りて手を空しくして帰らんが如し。 いかでか後悔せざらんや。 畜類なお後世を恐る。 されば釈尊説法のみぎりに臨み鸚鵡鳥は聞法の恩を報ぜんがために樹下に仏を請じたてまつりて供養し、勤操僧正の前に現ぜし小龍は後世を扶からんがために身をくだきぬ。 越州三島の山に栖みし?猴は法華経を写さんことを願って菓を拾って沙門に供養す。 禽獣なお後世のために身を捨てあるいは供養をなせり。 いわんや人間として後世を思わざらんや。 誠に畜類にも劣れり。 つらつら世間の有様を見るに齢七旬にたけ、頭の白髪は雪の如く、額の皺は四海の波の如く、腰のかがめる貌は梓弓を張るが如くなる人もなお後世を思わず。 いよいよ名利を貪りていたずらに明かし暮らす。 果敢なき事にあらずや。 老人なお然なり。 いわんや若き人は身の盛んなるを頼ってすべて無情を覚らず、色に染み、名を求め、永く百年のたくわえをなす。 然りといえども閻浮不定の習いは老少を隔てず、無常の殺鬼は若き人をえらぶこと無し。 老いたる親は止まりて盛んなる子の先立つためし目前の境界なり。 何ぞ若きを頼んで後世をゆるがせにせんや。 さらば人間に生を受けて仏法を聞かざる人を仏は人身の牛と名づけたまえり。 また後世を知らざる人の咎を大論にのべていわく、四重五逆に過ぎて深重の罪あり。 受け難き人身を得て仏法を学ばざるこれなり云云。 形を人界に受けたらん人この文を聞いていかでか驚かざらんや。 されば前の経文の心を案ずるにかりそめにも、法華経の名を聞き奉ることは三千年に一度花開く優曇華を見るよりも珍しく、一眼の亀の栴檀の浮木にあうよりも喜ばしきことにあらずや。 されば不軽品に仏説いてのたまわく、億々万劫より不可議に至り時にすなわちこの法華経を聞くことを得て億々万劫より不可議に至り諸仏世尊時にこの経を説くといえり。 かくの如きあい難き法にあい、聞き難き法を聞くことを得たり。 宿習よろこぶべし。 いわんや一念も信心を起こして南無妙法蓮華経と唱えたてまつらん人は三途八難の恐れなく、十方浄土に生じて微妙の快楽を受けんこと疑いなし。 誰かこれを聞いていさみの心をなさざらんや。 もしここに於いて一念も疑いをなさば必ず三悪道に堕つべし。 故に『生疑不信者即当堕悪道』といえり。 たとい悪業煩悩は須弥山の如くなれども、この経の題目を唱えたてまつればその罪みな悉く消滅す。 例えば日天の大光明に雪霜の消ゆるが如し。 されば提婆達多が身に造りし三逆罪は須弥山よりもなお重くして堅牢地神の力も叶わず。 王舎城の北門の大地たちまち破れて生きながら無間地獄に沈みしかども法華経の功力に依って仏に成りぬ。 畜生蛇体の八歳の龍女も文殊龍宮に入って妙法蓮華経を説きたまいしかばたちまちに覚りを開いて三十二相紫磨黄金の仏と成り、南方無垢世界に往いて七宝の蓮座に坐し現に法を説いて無量の衆生を利益せり。 智積菩薩舎利弗尊者は余経の例を引いて、龍女仏になるべからずと難じしかども、ついにかなわずして口を閉じ舌を巻き無垢世界に向かって歓喜の涙を浮かべ掌を合わせたり。 誠にかくの如きの不思議は余経にすべてなし。 されば法華経の不思議あらあら申すべし。霊水の力は木を玉となす。 阿伽陀薬は毒を変じて薬となす。 法華経の題目もまたまたかくの如し。 悪を変じて善となす。 提婆が悪逆たちまち変じて天王如来となるこれなり。 龍門の滝に登れる魚は必ず龍となる。 法華経の不思議もまたかくの如し。 凡夫を仏になしたまう天龍八部みな悉く成仏す。 輪王に随える劣夫は須臾に四天下をめぐる。 法華経の不思議もまたかくの如し。 極鈍の者を仏になしたまう。 我名を忘れたりし周利槃特すでに普明如来となりぬ。 金粟王の掌の内には砂変じて金となり、釈摩男と申せし人は石を玉となしたまえり。 法華経の題目もまたかくの如し。 一切衆生を仏になしたまう。 『化一切衆生皆令入仏道』と説くこれなり。 されば天台大師は『一称妙法蓮華経決定消滅無間業』と釈したまえり。 深く頼もしきことにあらずや。 我等罪業の身たりといえども提婆が如き三逆を作らず。 また畜生蛇体の身にもあらず。 法華経を信じて仏にならんこと何の疑いかあるべき。 かくの如くありがたき題目なれば二千余回の当初霊山浄土にして文殊薬王等のもろもろの大菩薩付属を望みたまいしかども仏これを許したまわず、ここに釈迦如来久遠の昔より第一の御弟子たりし上行大薩捶を寂土の空中より召し出し、神力品にして十種の大神通を現じ十方の諸仏を証人としてこれを付属したまえり。 これ末代悪世の一切衆生悪業煩悩の病の良薬となさしめんとなり。 故に寿量品にいわく、この好き良薬を今留めてここに在く、汝取って服すべし、差えじと憂うることなかれ。 と云云。 ここを以て上行菩薩教主釈尊の御譲りを受けたまいて末法五百年の半この扶桑国に出現したまいて建長五年三月二十八日朝日に向かい始めて南無妙法蓮華経と唱え出したまいてより以来微塵積もりて山となり、一滴集まりて大海となるが如く、一人二人十人百人唱え伝わる程に今は日本六十余州島二つに至るまで題目の弘まらざる処もなし。 誠に高祖大薩捶の大慈大悲の御化導にあらずんば誰かこの法華経の御名を唱うべき。 たとい香城に骨を砕き、雪嶺に身を投ぐるとも何を以て恩を報ずるに足らん。 そもそも法華経の宝塔品を拝見したてまつれば末法に於いてこの題目を弘めん行者は釈迦多宝十方の諸仏を悉く見奉り、または供養し、または喜ばしめたてまつる功徳なりと説きたまえり。 然ればすなわち一人のためにも題目を進めん行者は僧俗男女みなことごとく如来の使なり。 如来につかわされて如来の事を行ずる者なり。 一人のためにするなお然り。 いわんや十人百人をや。 何にいわんや日本国にあまねく弘めん行者をや。 これ真の如来の使なり。 これ大菩薩なり。 これ真の仏子なり。 一切の天人みな供養すべし。 讃めん者は福を安明につみ、謗らん者は罪を無間に開かん。 恐るべし。 貴むべし。 然らばすなわちもしは曠野、もしは山谷、もしは田里、もしは樹下、時処所縁をえらばず力にしたがって一句一偈を演説し、もしは一人のためもしは多人のために万徳所帰の宝号上行所伝の妙法を弘むべし。 もししからばこの行功に依って現世には共に不祥の災難を払って寿福増長の笑をふくみ、来生には霊山浄土に詣でて釈迦如来を見たてまつり、本有の覚月を詠じて四徳常住の栄華にほこるべし。 南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経 日奥在御判 唱題勧発鈔 終 |