日蓮宗不受不施史料(3)

日蓮宗不受不施史料


諸師印可のせて簡牘にあり、二十七歳日達と共に帰洛をとげ、師の陋室に随逐する事半蔵談筵を白川にかいつくろい講席を堺井にうながす、師聞て感涙滴々たり、其後更に未だ聞さる所を諮詢しおわって同年の冬再関東に趣く、明年癸己、師ほどなく遷化するを聞て駅舎に急を告げて速やかにはせ上る、講筵を開いて師徳を称揚し石碑を立ちて高恵を報酬せり、既にして其書籍を吟味し三旬をへて亦関東に帰る、伝法利他の志確乎としてぬけず、これより後玄文を事とせず、夏臘を積みて止観を探り光陰を惜て内外を校ぶ小部の講釈もの、数ならず三十五歳心漸く洞然として自ら学業の入眼せる事を学ぶ、此冬再び花洛に上て弥儒典の緒余を検へ益々諸宗の章疎を求む、余暇幸に衆中の許容を受けて快く鳥羽実相寺の宝蔵に入り当宗歴代の秘書を概見し奥師一期の心地を領納せり、およそ奥師の所述典師の所伝ないし片言隻宇に至るまで悉く纂記して一巻を成し奥心鑑と題して常に机右に置き生涯の宝鑑後世の明鏡とせり、余かつて著述に志し有り、其一は祖書の細釈、其二は禁義の答目なり、目録の草案速に成れり大抵平日の所業台家を枝葉とし当家を根抵とし余学を緯とし祖判を経として覆読熟覧亦幾許囘という事をしらず、諸寺諸山に求て当家の書籍とさえいえば自らも写し、若は人をしても書しむる事およそ百巻に及べり、およそ近代の学者当家をわすれて名利の広学を表とする故に急に臨て心地惑乱し受不施等の妖恠甚しき事をなげき其弊をのぞかんが為なり源と奥師の厳制を重する故也、翌年関左より頻に招て伴頭職を勤めしむ則玄義全部講成て三十九歳結願の鐘を鳴して談林を快く退く、既にして閑暇を得、著述に便ならん事を欲して江城谷中の深窟に籠て蔵経一覧を企つ、未だ数日を逾さるに又妙興の能化の重職に請待す辞謝再三やむ事を得ずして入院す文句をひもといてここ二歳をこえ未だ幾くならずして公庭の法難頻りに催し邪徒も亦訴う余始終少しも其節を変せず死を譲てさきにおき或は公場に出でて宗義の法威をふるい或は諫状を捧て執権の厳勢をおかず終に四十一歳夏五月二十九日加賀爪甲斐守の亭より日州佐土原の領主島津飛騨守の預かりとなる江府飛州の館舎に滞留し六月二十六日発足して日州の配所に赴く其路次の行難及以佐土原住居のありさま別に筆記あり云云、於戯余若年の昔起す所の大願二箇条共に快く成就せり進では奥師の遺光を輝し習師の徳風を顕し退ては万世の規矩をのこし千戴の指ヒに備ふ、いやしくも其法燈の任を論ぜば天の暦数人の推挙今の世に吾をすてては誰れそこれ自高自負の心を懐て●言を吐くに非ず法滅に臨で系嗣を絶し止む事を得ずして心情の一端を語するのみ三宝照如したまわん、ああ寂々たる清暁つくづく是を思えば宿殖の行因涙を催し深々たる静夜よくよくこれを案ずるに将来の得脱掌を指す何ぞ夕死の恨をのこさん豈冥利なしといわんや今更奥師の金言を引用して不惜身命の指南に備えん
維時寛文第九巳酉暦臘月哉生明
日州佐土原謫客
幼居庵夢遊子
日講四十四歳
さて日講が七十歳の時即ち元禄八年十一月に、関東より良選日珠というが態々日州へ下向して日講に謁し、自から公場へ諫状を上り謗国の与同罪を滅せんとの意を述べたが日講は今更諫状を上るとも無益なりとて、荘子を引いて日出後の灼火、雨沢後の灌漑なりと諭し、法燈相続を計るべき旨を誨えた、よって日珠は遂に日講の付弟となり大坂に上りて東高津に庵室を構え秀妙庵と称し(一説には京都の日相の開基だともいう)清派の本山として不受の法燈を継承することとなった、この外各地に散在して居った主なる庵室は
河内国野崎  光長寺
和泉国新在家 庵(無名)
備前国鹿瀬  妙宣庵
備前国斗有  松光庵
備中国引舟  一鶴庵、知足庵
美作国川口  妙泉庵(これは初め先例派であったが後に清派に帰入したものである)
右の外関東にも在存して居ったものであろうが、記録が逸出した為に不明であるこれ等の庵室は大抵民家の離座敷などを充用したもので、別に構造したものは殊更四囲に林藪などを繞らして態と建物を隠蔽したものである、秀妙庵、妙宣庵等は即ち後者の部類であった。
その頃内信者が庵室へ参会するには毎に夜間に於てしたもので、庵室の近傍の信者は夜間私が住来して翌朝隣人にも知らしめぬように注意し、遠隔のものは所用に托して出掛けて行くが途中で同心の信者に出会うとも互に知らざる為ねをした、又庵室で看経する場合も発声を憚り微かに口の内で唱和したもので、それでさえ深更に声咳が外へ漏れる事を恐れて壮俊を戸外に立たせ厳重に警戒を加え、若し捕吏の影を認めたならば直ちに本尊聖教を奉じて立所に遁逃したので、それ故に会衆は常に旅装を解かずに居ったものである、又清僧が招待に応じて外出する場合には夜間俗装して密行するか、或は武士に仮装して往来したもので、さて内信者の家に到れば必ず納戸に這入って密かに修法して講話をしたから俗に「お納戸坊主」という冷評を受けた、もっともこれ等の僧衆には前節に述べた施主の清者が必ず随伴して居ったもので、又何時捕縛されるかも知れぬから予て奉行所へ上るべき諫状を懐中して居ったものである、かくの如く当時の状態は恰も博徒が法網を潜って賭博に耽っているような風であったので、一面には受不施派の僧徒が鵜の目鷹の目で誘き出そうとするし、一方には狡猾なる捕者が内信者を恐嚇して金品を貪るから、誠に困苦を甞めながら辛うじて信仰を持続し来ったものである、乍併遂に滅亡の日が来ったのである、即ち天保九年七月十九日に至って大坂東高津の庵室は破却された、当時の伝燈者日寛を始め衆徒は敦れも殉難した、元禄十一年に日珠が日講の跡を継承してより(珠より照、鑑、順、鋭、鏡、遠、譲に伝え寛に至る九代)是に至るまで百四十一年間で、明治元年戊辰に先だつ事実に三十年である、これに前後して各地の信教者は夫々斬謫等に処せられた(庵室は破却されたのもあり残りたるものもある)和泉国新在家付近即ち和気、井の口の如きは同年八月十一日氏神八幡祭礼の日にわかに大阪より捕吏が馳せ来たりて大に騒擾を極めたという、その時寺門村阿伽陀山に天和三年京都の日相が石経全部を収めた石碑が在ったが、その碑を破壊し骨を掘出し之を踏みにじったり経石は七俵の俵につめて大津の海浜に投棄し石碑の断片は畦道の橋材等に用いられてあった事が後になって判明したが明治二十七年五月同派信徒にして大阪郵便局在勤中川泰(岡山県赤磐郡瀬戸町出身後東京郵便局を経て三田、芝、甲府等各郵便局長を勤務す)梶木辰之助(大阪の人後不受不施講門派菅長釈日心の弟子となり得度して本成院日種と称し其後顕本法華宗に転ず)の両人は其調査に着手し同地寺田の舊信者辻定治辻仁三郎の援助を得破片の全部を収集し其年九月にこれを修理して舊地(泉北郡郷荘村大字寺門字阿伽陀山)に復建されたその碑を見ると長凡六尺許の花崗石で縦は五つに割られてある、即ち表裏を二分しその表部を三つ割にし、裏部を二つ割にす又碑面の題目御名花押は一々鑿り潰してある、これを見ても如何に当時の処分が苛酷であったかが窺われる。この法難はただ清派のみでなく、いやしくも不受不施をさえいえば悉く滅却されたのであるから、海内の不受不施は残りなく全滅に帰したのである(現在の二派に関しては後に説明をする)因に云う彼の尭了の一派は「駈 訴訟」と称えてその派の小僧が漸く十七八歳に達すると、直ちに奉行所へ不受不施主義の諫状を呈出して、求めて流罪に処せられたものである、彼等はかく謗法の与同罰を免れ不惜身命の立行を完うしたと自覚して居った、併しこれ等は全く宗教学上にいう病的信仰状態に陥ったもので、この事については清派にては奥師が「縦雖苦身行不契正法理徒成虚仮行」といえる訓戒を提示して彼等の無謀を誥責したものである、惟うに彼らが始終政府の手を煩わしつつあった結果遂に自から不受不施の勦滅を促したのではあるまいか。
今や本節を終わるに当り参考の為不受の派内に彼此異義を論じてある書名を紹介しよう、清派の方には尭了派対の論書として、日講著の尭了状能破條目、日念の能破條追加と愍諭盲跛記、日新の石上物語を始め清濁弁明論、折弁評答、復評、覚隆無帰記、破邪顕信録等があり、又日題派に対しては日照の破邪立正記、俗立に対しては日欣の破導勤入記等がある。
尭了派には日通の除講記を始め返答記、流布決、評答記、立施主順正義、破語石上掃除記及び適時信規論等がある。
この外清派には梅花鶯囀記、法水養老記(正続二編)というがあって、受不受の由来とその正邪を平易に述べてあるから、この二種は殊に内信者の読本として大に俗間に流布したものである。

◆不受不施二派の現状
前節に述べたる如く天保法難に由りて不受不施の法燈は断絶したが、その際二三の清法のものが辛うじて残ったので、それ等のものが僧侶なしで壁に曼陀羅という変体な流義を立てて、内信者に頼って伝え来ったものが今日の二派なのである。今の不受不施派の釈日正は天保法難の折には僅かに九歳位の童児で、備前の新保村の尾崎という家に居ったが、手習子であるといって漸くにして縛を免れた、この時分彼は講師派の小僧であったが、その後彼の俗縁の導師派日指方の信者に取引られた結果、遂に尭門流の僧となったという、彼は明治八年に至りて不受不施派の再興を企てたるものである、もっとも該派の師資相承というものを検べると、宗祖より日奥まで二十一世とし、京都妙覚寺の歴代を採用し、日奥、日樹、日遵、日述、日起、日済、日要、日憶、日助、日信、日然、日縁、日珠、日恵、日正に至るまで三十五世嫡々相承し来れりとして居る、併しながら日奥の次の日樹は池上の日樹で、日遵は小湊、日述は平賀であるからこの間に何等の脈絡なく、すこしも師資相承が成立たないのである、又講門派の方は如何であるかというに、妙覚寺日奥の次が日習日講と伝え日珠よりは大阪東高津の秀妙庵の伝燈が日寛まで歴然として相承してあるが日寛の後、日照、日東、日正、日心、日允、及び現代の日心となっているのである、この日照というは作州妙泉庵の僧で、日東は字を智元といって、共に天保法難に召捕られたもので、又日正というは日寛と師弟の契約をしたというが、日心との間には師資の関係がない、即ち日心は元単称日蓮宗の僧で不受へ帰入してから自受警戒をしたのである、この相承の事に就いては両派の間互に争いがあるが、要するに清派の伝燈は天保法難を以て断絶したというのが正当であると思われる、今二派の再興の顛末を述べよう。
備前国御津郡金川村大字金川に在る、不受不施派の本山臥龍山妙覚寺の大法主釈日正が去る明治八年六月二十二日初めて時の教部大輔に不受不施派再興の儀を出願した処が翌七月二十八日付を以て管長上申の旨あるにより「願の趣聞届け難き」旨指令を受け、同年九月九日再願書を出し、同十一月七日三度懇願した結果、遂に翌明治九年四月十日に教部省より布達第三号を以て「日蓮宗中不受不施派の義自今派名再興布教差許す」旨を令達せらるる事となった、その始末は同派が明治九年十一月より刊行した龍華新報に連載してある、又大内青巒居士がこの事件に就いて不受派の為に尽力した事も已に世人の知る所である、又その際日蓮宗一致管派長新居日薩が明治八年九月二十三日及び十二月二日付を以て「不受不施は非宗義で行政上妨害不尠若しこれを許可せば皇国幾許の恥を海外に伝うと」上申した事は、已に明治八年上申書と題して公刊されてあるから、彼此対照すれば当時の状況は判明する、さてこの日正の第一の願書は受不受両派の分立等を述べて許可を請うて居るが、再度の分には、「聊か懺悔の情実も有之」といってその別紙に
 先言の失当る事を覚悟し……
 野衲先に出願せし文面を顧みれば、野衲もまた彼の奉する所を排撃する者多し、此れ彼の管長を咎めんよりは、宜しく先ず自から罪すべき者にして、御省の允可を得ざるは理の当然たりとす。仮令受不受派を異にするも、皆宗祖の末裔に列し共に交愛する兄弟なり、兄弟故なきは天下の楽しみと聞けり、今彼の管長なる者野衲等を見て故なしとする歟、故ありとする歟、必ずその焚溺を水火の中に救い、始めて天下の至楽を受くべし、是非を論ずるは即ち先書の失当にして豈之を再びすべけんや。
そもそも争論の原因一端に非ずと雖も、政府の束縛に苦しみ反動するもの多きに居れり野衲既に自から既往に懲芥し将来を省察す、又その懲芥し省察するところを挙げて之を信徒に勤誘せんと欲す彼の管長もまたその此の如くたるを聞かば定めて鴿原の情あるべし、もしなお異言あらば宗祖在天の血涙を如何せん。
抔とある、これに就いて龍華新報の編者は、今の大法主が深く時と機とを鑑み、請願の結果再興の嘉運を開いたのは、偏に皇恩と大法主の深厚なる法恩とによると、称賛している。
又該派では寛文法難に追放された六人を前六聖人と称え、これに対して寛文の流僧中六人を選んで後、六聖人と称えている、即ち日述日浣日講と日尭日了及び青山日庭を後六聖人と言っている、併しこの六人の内述浣講の三人と他の三人とはその主義を異にして居った事は前に詳述したとおりであるから即ち清濁の両派を混淆して居るのである。
次に備前国御津郡金川村大字鹿瀬に久遠山本覚寺という不受不施講門派の本山がある同派の再興については今の管長釈日心が去る明治十三年四月十七日初めて時の岡山県令に別派独立を請願した其請願書を左に示そう。

法華宗不受不施講門派別派独立之請願
夫我宗門には往古より他宗の供養を受取せざるの制格あり、宗祖より以還代々嗣法の先聖時々之を幕府に訴えて令旨を請い、よって宗規を保守せり、而して元亀三年には足利義昭公、天正五年には織田信長公、同十七年には豊臣秀吉公より各々令旨を下賜せをれ益々宗規をして堅固に保守するを得せしむ、しかるに文禄四年の秋豊臣氏京都東山?法院に於いて千僧供養の大法会を営修せらる、これに因りて我が法華宗もまた其の列に加えらる、しかるに我が中興の開祖京都?覚寺日奥なる者独り舊規を確守して其供養に列し肯せず、これに於いて我宗祖の流を酌むものと雖も日重等の如き彼の供養に列せん事を希う者はしばしば日奥に説き其法会に列するを勤むれども日奥遂に諾せず、これを以て日重等頻りに其幕命を奉せざるの罪を声らす竟に幕府の問う処となり身を対州へ謫せらる、しかして配所に寓するおよそ十三年徳川氏に至て之を召帰し妙覚精舎へ住せしめ、かつ先例の如くなお秀忠公より不受謗施の令旨を賜う(其の令旨数通は寛永七年四月に土井大炊頭池上の日樹より預かる)これに於いて本宗の緇素忻然として愁眉を開き宗風日に栄湍せり、しかるに其後寛文五年に至り率土仁恩の地子寺領より飲水行路に至る迄皆供養信施と改称せらる是に於いて日述日浣日講等しばしば地子寺領などは皆国主の仁恩にして供養信施に非ざる所以を委詳に上言すと雖も幕府更に其言を用いず、終に三僧共に各所に配せられ尋ねて皆謫処に瞑す、是に於いて法華宗皆受不施を以て宗義とするに至れり、我不受不施派に於いても内信の如きに至てはまた陽に受不施を称え陰に本宗の制格を守る、此れに年あり、しかるに我が政府は去る明治九年釈日正等の請を容れ其四月十日教部省第三号を以て独立布教せしむる旨普く全国に布達したまう、まことに有信道俗の怡悦舞踏ただならず、真に幽谷 芝蘭の始て朝暉に映するの情勢なりき、然り而して我が不受不施派に二種の別あり、いわゆる日講派日尭派是れなる而め現今布教せらるる処の日正は其日尭派なり、又予が信ずる処は日講派なり斯くの如く既に別派角立するものなれば宗制にもまた互いに異義あるや明らかなり、しかれども天和以前に於いては単に同味の宗制にして更に異議なく日奥より属法する処の日講は即ち一門の貫頂にとどめ、衆僧皆是に帰順せざるなし、しかるを天和二年の頃に至て日尭日雅の両僧誤謬の本尊授与の過失に依りて遂に宗義に乖背す(此の本尊は清濁一結にして本宗清濁別船の正意に違う)故を以て一門の衆僧?ち互に異義を生じ、いわゆる清濁一結清濁別結、即ち導師不導師の論忽焉として興り龍蛇刀を角するの争い日一日よりも甚だし、遂に之を貫頂日講に訴う、日講その争論を和融せん歟を謀り、しばしば教戒を加うと雖も、日尭等の徒弟先非を隠さんが為に益々謬誤を曲庇し我情月に?にして啻に其非を改めざるのみならず、還って其非を遂げ、遂に別派独立せん事を欲し強て日講の教誡を用いず故を以て無止、元禄二年三月の頃終に日講より彼日尭等を破除するに至れり、以来彼等は日尭派と称え、のち別派の宗義を創す、今の日正は其余流を汲む者なれば即ち不受不施派中の一派にして我が不受不施派とは全く別異あり、先師の法式に曰く、已情の新義を搆る輩は仏法の重科たるべし云云、又古語に差い一歩なれば謬り千里を致すの謂の如く実に我派と日尭派と水火の異目なき能わず、是れ今日に於いて我が講門派の独立を請願する所以なり、以上演る所は皆奮記の本意にして、すこしも私意を加える者に非ず、ただ恨らくは文拙筆迂にして微志を尽す能はざるを然りと雖も其の別派異論数年間往復弁護の詳悉に至ては副書に書載せり尚御下問を蒙らば審かに尊答する処あらんとす。
且つや不受不施派中に於いて別〆講門派と称する所以のものは彼の日尭派と差異を弁斥せんが為なり、仮令ば日蓮宗中一致派あり勝劣派あり其の一致派にまた不受不施受不施の別称あるが如し、伏して願わば明政府が宗制を諒察せられ速やかに我宗をして往古の如く許可したまい彼日正等の称する処の不受不施派に対し不受不施講門派と称せしめ普く普及する事を採納せらるるを得ば、我々謹て国法を保護し併て宗規を拡張し、よって世教万分の一を裨補し、いささか君恩を報する処あらんとす、請う之を御許容有せられん事を閣下幸に愚意を諒察し其筋へ執達せられよ、誠惶誠恐頓首頓首
明治十三年四月十七日
備前国赤坂郡太田村    釈日心 印
右村戸長       国本徳一郎 印   
岡山県令 高崎五六殿
前書願之趣相違無之に付奥書進達致候也
赤坂郡長       福島太久良 印
書面日蓮宗不受不施講門派々名公称布教被差許候條其旨可相心得事
  明治十五年三月十六日
                      岡山県令 高崎五六 印

副書
一寛文五乙巳年国主従来下賜の寺領の御朱印を廃し更に供養の御朱印を下賜せらる、是に於て我派祖日講等祖師の宗義に乖背するを弁し遂に之を受けず故を以て幕命に背の罪を坐し遠謫に処せられ竟に我不受の宗意陽に廃滅するに至れり、しかりと雖も多くは身を受徒に託して、ひそかに宗義を信じ単々衰運の刻を悲歎するものあり、また身を法林に忍び流僧に給使するものあり、先師(日奥日談等をさす)学海に思惟を揣摩し明らかに清濁両派の由来を弁ず、いわゆる心麁境妙、心妙境麁、心境倶麁、心境倶妙の四句を鑑み、彼の受徒に身を託する者は四句第二の心妙境麁に配し半清半濁とし(又清派に対し弁じて濁派と呼ぶ)また身を受徒に託せずして、ひとえに流僧に随従する者は四句第四の心境倶妙に充るを以て清派という、故に清濁二派の混淆を恐れ同席同唱の看経を許さず、これ宗義に基づき四句の妙文を弘通するものなり、斯の如く化を順逆に結び、格を強弱に振い若暫持者の一分を摂し普く法沢を末代に潤すも我宗今日に至て時に色心倶に宗義を奉し得るの嘉会ある事を未然に示されたる巧便なり
問云不受不施派中に日尭派あり(又導師派)日講派あり(又不導師派)而して斯く両派分岐する所以如何
答えて曰く、千丈の堤も螻蟻の穴よりくずれると宜なる哉、今該派の分派するその源もまた小事なり、時に天和二壬戌年備前岡山に宗順という清派の人あり、謬て濁派看経の導師をなす、これ則ち我宗制に背しいわゆる清濁二派をして混濫せしむるなり、故に衆僧(覚隆院日通覚照院日隆其外数輩)僉議し痛く宗順を呵責す、これに於いて宗順我過ちを遁んと欲して其類を索む、ここに作州久世邑に浅島助七という清派の信徒あり、また濁派と同座し看経始経導師するの事跡を得たり、宗順此例を挙げて弁じて曰く、いやしくも我は助七の轍を踏む者なり看経の導師を為したるを我が謬とせば助七も亦同罪にあらずや、と之に因りて又彼助七を呵責す、助七これを弁じて曰く、これ濁法始経と同視すべからず何となれば彼の看経講の本尊には濁派六人の法名を列書し且つ助七法号真立院浄安に授与すと書載せられたり、しかして此の本尊は濁法の講曼茶羅なり、授与書は即ち助七なり、いわゆる清濁二派同致の授与なれば同拝の異論あるべき理なし云云(本尊の論に至りては一宗の大義なり)覚照院日隆之を批判して云う所難ある本尊云云(此本尊春雄院日雅の染、わずか也)覚隆院日通なる者あり日雅の書誤を救済せんと欲し傍例を指示して曰く、日尭(寛文五年に讃州丸亀に謫せらる)の因州へ遺す本尊にもまた書して曰く、授与之因州法華行者内信心如法之清信士女者也と云云(延宝九辛酉年衣更著上旬時正日図焉)是れ清濁二派への授与にして日雅の本尊と同列なり、強ち日雅の本尊をして誤視すべからず云云、日隆再び之を批判して云く是も亦信謗雑乱二幅共に誤りなり云云、是に於いて日通大に憤り異議粉々たり。一彼宗順も右等の謬に依って其の非を悟り直に日隆許に至って改悔す(同年十一月十二日)彼の日通かねがね鬱憤を懐かしくを以て右宗順より助七に誤を云掛たる罪容易ならずとても改悔を望む宗順服せず、日隆これを弁じて云く助七始経導師せざるに宗順より之を為せしと誣言せば、もっとも云掛の過失有るべし、また助七始経する事実ならば云掛の失なし云云、故に止む事を得ず、翌三年癸亥三月法中集会(岡山県下の町木屋八右衛門宅なり)の席に於いて宗順助七をして対決せしむ辰間を移さず助七始経の罪過に服す、故に其六月十日日通許に至り速やかに改悔を成し真俗の会員悉く帰却す、その後日通より日隆は預て宗順云掛の誓言改悔を諾しながら猶今日に至るも其の儀無きは如何云云、日隆敢て諾せずと答え争論止まず(覚照院曰く助七始経せざるを宗順せしと云はば失あり助七始経せば云掛の失なし今既に助七過ち知って自ら改悔す何ぞ宗順に誣言の失あらんや然るを如斯争うは事を好むものと云うべし)之に因りて中国に貫頂たる日相に訴う(日相は備前岡山蓮昌寺を出寺して京都北野に寓居す)日相これを喩して曰く小事を争て以て破法の大事を論発するは双方共に失あり両改悔し互に快く和譁すべし、若し細に理非を尅定せば非なる者我情重●す云云の教誨に任せ日隆等疾く改む日通等未だ諾せず故に日相数日勤誡を加う然りと雖も日通等敢て服せず之に因りて止を得ず除門せらる。
一日相彼の本尊の可否を論じて云春雄院本尊の誤謬とは其正面に題目講一結名帳と書し左右に濁法六人の名を書し且つ助七に授与すと書けり、これ則かつて其例を見ざる者にして誠に新義珍しき本尊なり、既に助七と六人とは清濁の二派にして別結の人なり、何ぞ看経講一結と書や法立不法立の差別なき真に混濫の本尊なり、しかして如此清濁を一結にする未だ傍例を見ざる本尊を書する其の誤の帰する処春雄院たれば春雄院は即ち謗法たるべし云云(此の批判始め日隆●話すると処同き歟)
一日通等日相に棄却せられ自ら其拠無きを知り遂に一門の貫頂日講を(寛文六年六月日州佐土原の流人島津飛騨守御預り)慕い使を(逢沢清九郎・井上三右衛門)日向に遣し右二幅の本尊及び日尭の立賢へ遣りし条目とを齎し、以て其可否の裁可を願望す、しかりと雖も日講容易に対面せず、それ故如何となれば既に貫頂たる日相に違背する程の我情ここぞ我れ之を聞に忍んや、強て依頼あらば先ず法燈乖背の大罪改悔の一証を示し且つ真俗の惣頭日相に謁して改悔すべし其事伏膺なるに至ては本尊の謗否を弁ずべき旨を以て教示されたれば両人も之を諾し直に改悔の一札を呈す(別紙に詳記す)、その外日通制法違背改悔の一札並に真俗惣代の一札あり(受正院石阪嘉右衛門)繁きか故にここに之を略す(別紙に詳記す)此時日講讃州の流人日了への書中に右本尊可否の評判もっとも細密にして底意日相の謂に同じ、しかりと雖も双方をして和融せしめんが為、制未制の方便を以てその誤りを救い後毘清濁雑乱の授与を堅く停止し又此本尊向後不可拝云云書載あり(且らく彼を守護する善巧末制の時なれば只仮に誤りにあらずと誘引するのみ已後の制禁を以て已前の誤なるを知べし)斯く日通等は日講の慈愍を蒙ると雖も未だ我執を翻さず、頻りに日相を嫉謗して止まず、故に未だ改悔に行き肯せず、日講之を催促す無止して日理市郎太夫惣代として改悔に上洛す、日相思う旨有りて速やかに許容せず曰く、今、日州へ書状を遣れり謂う返答書帰るを待って云云、彼等は徼幸とし両輩遂に帰国し、益々悪口をほしいままにし、いよいよ邪義を皇張し其非を掩い、却って自ら別派せん事を希望し江田源七なる者を日州へ遣わし、彼の本尊と条目とを返却あらん事を請う、日講厚く源七を教戒し使を備作に遣わすと雖も日了日通等共に復もず強て清濁不可混乱の法制を破り清濁混濫の流れを創立し遂に元禄二年三月逢沢清九郎須股長兵衛をして再び日向へ遣わし、彼の二幅の本尊及条目を取帰し竟に別派独立たらん事を請う、是に於いて日講能破条目一巻を作り彼等両人に托し以て日通等に贈り全く我不受不施の門葉を除去せられたり(彼の派の誤り能破条目抄に詳記)是に於いて彼等も亦除講記を贈り以て別派独立の意を演う爾来彼の立義を日尭派と唱う今の日正は其流を汲む者なり上来は別派の由来を記する而已其大略斯の如し其紛論を生ずるや始終星霜八年に亘れり、其細論に至ては何ぞ?に詳悉する事を得ん、今繁多を嫌い大●を挙げるのみ
一尭講二派の異義を弁ず
彼問日尭派の信謗混乱何ぞ宗制に背す理あるや
我答今是を細論するを要せずと雖も粗其異格を弁ぜん夫れ彼派中興と崇する日通等始めには宗順助七等の信謗同拝の誤りを呵責し後には之を翻して還って清濁雑乱の本尊を以て同拝を事とするの別派を創立す、これ何ぞ前後相違の責を招かざるを得んや。
また向に四句を弁ずるが如く清法者は色心倶に自宗信者なり、濁法者は既に半清半濁にして色は他宗に従い内心のみ自宗信仰なり、敢て色心倶に信者と云にあらず、祖書云う、当世の責の恐ろしさと申露の身の難消依りて、或は落、或は心計は信じ、或はとかうす云云、啓蒙云う、心計信とは身は他宗と成て心は不轉者也云云、今云う、濁法者即ち心計するに当れり豈に清信者と其隔なからんや、然るに清信者と濁者の同拝を許さば是れ自ら与同罪を招くなり、祖書云う、謗法を責めずして成仏を願わば火の中に水を求め水の中に火を尋るか如なるべし無墓々々(他の謗法を責ずんば尚与同罪を免れず況や同座看経をや)又何に法華経を信じ給うども謗法あらば必ず地獄に堕つ云云(心計信じ身に謗法有るを責むる歟)此文明らかに信謗与同を禁む何ぞ之を思わざるや
また彼曰く講門に云逆縁尭了門に云順縁なり云云、今これを評するに強弱を以す即ち色心謗法なき信者を順縁と云い又色心謗法の者を逆縁と謂う、弱義を以て之を云わば濁派の心計信ずる辺に就いて一向謗者と其隔あるを以て順縁に属す(他派の意に充たる)又強義を以て論ぜば濁派既に受徒に遵託す故に信者の名を許さず是れ逆縁とする所以なり(我が派の意なり)先師法式云う、就法理雖有強弱両偏強義為正とあれば両偏の中には強を以て宗義を立る是れ宗祖の本懐なり何ぞ弱を以て順縁とし清濁無差別の宗義を立んや
また彼云う、講門は事相正意吾門は心法正意なり云云是れ心の正否を論じ事相の格を破斥するものなり、宗祖云う、末法事行云云日奥云当家修行本門立行故立還昆曇心以身口然詮故向顕事一怪三千曼荼羅不抱意地身為合掌礼拝口行唱題以期成仏是豈非当家修行以身口事業為詮乎云云是等の文に因て宗祖事相立行なること明けし、然れば事相の本尊及事行の唱題を専とすべし若し心法正意を専とせば豈に言行乖角の失無しとせんや
また我宗相似謗法を禁ずる其例を挙げれば日奥云悪世末法人根轉鈍故見外儀起謗金石安迷鷹鳩難弁故先聖深誡此儀於一宗古来禁相似謗法皆此故也云云、然るに彼の派信謗同行を許す、もっとも相似遁れかたし、また日奥の曰く仮令中心謗義に与同せずと雖も外儀已に彼に同ぜば争か其咎を免れんや云云
彼また曰く、右等の如きは衰運の時の細瑾なり再興の今日何ぞ之を用いる事をせんや
答万世不易の格何れの世にか之を破らん、たとえ法義衰運の期と雖も祖制徹を異にするの理あらんや、宗祖云う、何かなる乞食には為るとも法華経に瑕をつけ給うべからず云云、法式若有法難堂塔者雖及破卻法理不可著瑕事解曰堂塔雖減以檀越力建立易成著法理瑕永代難愈故云云痛堂塔損込不可破宗義之制法又日奥云堂塔喩如刀?法理如利剣縦雖有金玉荘厳?劍折可存何詮伝聞漢土三尺劍恒蘊筍皮雖然乍居制諸候漢土一天下握掌之内当宗亦如是縦雖無堂塔師檀共無謗法法理堅固仏法盛也又雖有千万仏閣法理雑乱即是仏法破滅也云云縦彼の派に於いては再興の今日にして清濁の別ちなしと雖も従来行為の瑕瑾何ぞ今日に至て愈んや、彼の折刀豈に用を為さんや文に云宗家の広布実に得益を論ずるにあり少しも法水を汚すときは順逆二縁共に途徹を失い且つ鼻祖出興の本意を失し遂に末法下種の要術を損す此一本に迷うときは則ち万善万行いたづらに施と云云、釈に曰く発心僻越万行徒施矣又奥師縦雖苦身行不契正法理徒成虚仮行の厳誡永世仏学者の亀鏡なり
一右の如く項書すと雖も全く私に萃言するものに非ず皆な是れ宗祖派祖の遺書によって其語を引用するものにして彼我別派に基因する当然の法理を演へ宗制の立義を弁ずるのみ所謂以嚢弊不損基金以書拙不廃其理指南に依り筆毫の賤劣を恥ず、また他の誹りを顧みず唯ここに腐文一篇を草す仰ぎ望らくは聖の諒察を賜い幸に理非に明々の裁可を請うと云爾
明治十三年四月十七日
備前国赤坂郡大田村  釈日心 印
右村戸長     国本徳一郎 印
岡山県令 高崎五六 殿

続いて明治十三年十一月九日追願書を岡山県令に提出し速やかに布教公許せられんことを懇請し岡山県令は直ちに時の内務卿松方正義に執達せられたるが内務省は釈日心請願の主旨は是認したるも凡そ不受不施を以て派名を称するものは先ず其派称名を公有するものの承認を求めねば公許し難き官府の成規あり此成規如何ともするなく明治十五年一月重て左の請願書に不受不施派管長釈日正の奥書を得これを呈出した。
日蓮宗不受不施講門派布教公許請願
日蓮宗中に不受不施の一派ある事はかつて釈日正の上言する所に於いて已に政府の公認する所となれり、然り而して其派中に主唱する所の法義の如き決して政治に妨害なき事もまた明治九年四月教部省第三号の布達を以て釈日正の布教を公許せられたるを以て知る、然るに不受不施派中更に二派あり、則日正の奉する所の者と予が奉する所の者と其祖宗は固より同一なりと雖も中世以来すこぶる其系統を異にして之に帰属する所の信徒もまた自ら二点となる事已に久し、故にかつて釈日正はその信者と共に已に政府の公許を受け、多年抑屈の寃抂を脱離し明治至治の下に其派を汪洋たらしる事を得ると雖も、予及び信徒はなお抑屈の下に呻吟して未だ明治の徳沢に浴する事能わず、信徒檀越の日夜に●嗟して止まざる者予に於いて之を黙視するに忍びず、これに於いてかつて再応上書して不受不施講門派の布教公許を請願すと雖も請願の次序いまだ成規に適はざる者有るを以て許されず、今や更にその次序を正し敢て不受不施講門派の布教公許を請願す、賢明幸に予及び信徒等抑屈中に呻吟する憂苦を愍み速やかに裁可の令旨を下し釈日正及び其信徒等と同じく明治至治の徳沢に浴する事を得せしめたまえ謹て白す
明治十五年一月
岡山県備前国赤磐郡大田村百五十番地  附籍日講門末弟  釈日心 印
    同国同郡同村四十七番地        平民信者惣代 国本徳一郎 印
内務卿 山田顕義殿
前書釈日心請願之趣事実相違無之且つ当派に於いて支吾の筋無きのみならず至急御許可を蒙り日心並びに同信徒明治の徳沢に浴し積年の鬱屈を伸候様深く希望仕候依て奥書進達仕候也
明治十五年一月十九日
 日蓮宗不受不施派管長      権少教正 釈日正 印

右に因り政府に対する行政上請願の手続具備したるを以て同年三月十日内務省乙第十六号を以て「日蓮宗不受不施講門派之義自今派名公称布教差許候條此旨相達候事」と達せられ岡山県令高崎五六は同年同月十六日付を以て釈日心より提出の第一請願書の末尾に掲げたる如く其請願書に「書面日蓮宗不受不施講門派々名公称布教被差許候條其旨可相心得事」と指令ありたり、?に三百年来幕府抑圧の下に呻吟せし講門派を再興せしが其年釈日心は権大講義に補せられ管長事務取扱を命ぜられ続いて大僧正に昇叙し管長となり明治二十一年小庵の跡に本堂を建立し久遠山本覚寺と称し今日に至れり。
上来数節に分ちて不受不施の来歴を紹介しおわったが数次の法難の為記録の多くは湮滅に帰したるに依り其事蹟に就いても其一半を記せしに過ぎず何れ後日改めて詳記する処あるべし読者幸に諒せよ。
    追加             中川古鑑述
講門派が派名公称布教差許されたる後請願事件というがあった、それは釈日心が去る明治十三年四月十七日初めて時の岡山県令高崎五六に別派独立を請願したが、内務省は釈日心請願の主旨と是認したるも、およそ不受不施を以て派名を称するものは先ず派称名を公有するものの承認を求めねば公許し難き官府の成規あり、これ成規如何ともするなく、已むなく明治十五年一月極めて簡単なる第二請願書に不受不施派管長釈日正の奥書を得重て之を提出し、?に政府に対する請願の手続具備したるを以て同年三月十日内務省乙第十六号を以て「派名公称布教差許す」旨達せられ岡山県令高崎五六は同年同月十六日付を以て釈日心より提出の第一請願書に「書面日蓮宗不受不施講門派派名公称布教被差許候條其旨可相心得事」と指令ありたり、然り而して第二請願書に不受不施派管長の奥書を求むるに当たりては内務当局も好意を以て不受不施派管長釈日正にその奥書を慫慂せられ、同派管長もまた之を諒とせられ遂に奥書するに至れりと聴く、ところがこの不受不施派管長の奥書に就き一の説がある、それは日心等が上京中即ち明治十五年一月中不受不施派管長釈日正への宛て左の如き依頼書があったから奥書をしてやった故許されたのであると言い出した、その依頼書というを示そうなれば。

講門遺弟釈日心謹て白す
不受不施派管長釈権少教正閣下日心かつて聞く、兄弟牆に鬩げども外其侮を禦くと世俗親戚の情なお然り況や和合を以て主義となす僧侶社会に於てをや其宗を一にし其派源を同じくするに於てをや日心不肖と雖もかつて講門の法流を継ぎ閣下と同じく奥祖の遺旨を奉じ信徒と共に講師の垂示に服す、実に是れ閣下と兄弟のよしみあり、閣下あにまた鶺鴒の情なからんや蓋し往事は説くべからず、敢て之を説んと擬すればただH涙の衣襟を浴するあるのみ、そもそも今や万機一新し明世至治の清世に遭遇して二百年来抑屈の寃抂を脱離し自由に派流を拡張して宇内に汪洋たらしむる事を得るの佳期至れり、いやしくも奥祖の遺徳に身心を委する者誰か争て此佳期を迎ひ曇花の再敷を希はざる者あらんや、閣下早く此期を察し嚮に本派の再興を請願し已に公許を得て盛んに弘経伝道せらる、実に祖門の慶幸何を以てか之に加んや、然るに日心不敏にして其機を失し其時を誤り進て官府に請願する事能はず、退て貴派に服従する事を欲せず、怏々としてなお抑屈の下に起居する事、?に四年其間信徒の嗟歎憂悩殆ど昔時に勝る者あり、日心あにこれを黙視するに忍びんや、此に於て乎奮然書を載して将に官府に上請する所あらんと、然るに官府成規あり、およそ不受不施を以て派称となす者は必ず先ず己に其派称を公有する者に就き承認証印を求むべしと成規已に然り而して日心の閣下に於ける固より兄弟のよしみあり、事に臨み其兄の承認を求む誠に弟たる分なり、乃ち其書を選んで閣下の証印を請う、伏て望みらくば閣下慈悲速やかに之を印可して日心が宿志を達せしめたまえ、そもそも日心が退て貴派に服従する事能わず、進て特許を請願する所以の者蓋し異図あるに非ず、万々止むを得ざるの義あり、特許を得るの後は勉めて信徒を勧誘し必ず貴派と合従しを同胞一味の源泉に溯り共に大孝を祖先に尽くし初めて本派再興の素懐を完了せん事を欲するの外他事なし豈長く貴派と角立して鶺鴒の情に背くべけんや、これ日心があらかじめ心に誓い、つとに閣下に望む所なり、閣下それ諒察を垂れ給え、臨書氷淵心事を尽くさず時これ秋凉幸に自重したまえ不宣
明治十五年一月十一日
日心頓首 印
徳一郎  印
釈権少教正閣下

ところが講門派はそんな依頼書をやった覚えはないと争った、その結果明治十五年六月二日金川妙覚寺へ日心、徳一郎等出向して、日正等に面談し両派信徒立会の上で該依頼書を検閲して、該書はすこしも日心等に於いて覚えがない、全く何者かが偽造したものだと論定した、もっともこの依頼書は郵便を以て日正の許に届いたというのであるが、本来云えばかかる重要な事柄は日正みずからが、その当時日心と面議した上で為すべき筈であるのに、それ等の手順を缺いで居る所は日正派の手落ちと言わねばならぬ、のみならず日心よりの依頼書の日付は明治十五年一月十一日にして日正が奥書の日付は同年同月十九日にて東京よりの郵送日時を三日とする時は僅か四日の期間に奥書したるものとなる、いかにも日正軽率の感あり、かつ依頼書の文意を熟読するに日正が再興公許に付き再び政府に提出した請願書中の用語文体と酷似せるは甚だ疑うべく或は日正が講門派の請願書に奥書したるは講門派の教義を是認したのであるといって派内に紛擾を醸した故日正の立場を考慮して誰人かが日心の依頼書を作為したのではないかと疑えり。
政府に於いても斯かる紛擾を持続するは社会政策上放任を赦さずとし双方管長に対し左の如き通達を発せられ?にこの事件も鎮静を告ぐる至れり。
日蓮宗不受不施講門派布教之儀過般公許相成候処右者本県を経由差出し候願書の外貴下より願人書面へ奥書進達の分も有之方々布教出願の手数具備せるを以て公許相成候筋に有之旨其筋より通知有之候條御心得の為め此段御内報に及び候也
明治十五年七月四日
岡山県令 高崎五六 印
日蓮宗不受不施派管長
権少教正 釈日正殿
過般貴派布教之儀公許相成候処右者本県を経由御差出の願書の外単称不受不施派管長より御願書面へ奥書進達の分も有之方々布教出願の手数具備せるを以て公許相成候筋に有之旨今回其筋より通達有之候條信徒等に於いて心得違之なき様御説示有之度此段申進候也
明治十五年七月五日
岡山県令 高崎五六 印
日蓮宗不受不施講門派管長心得
権大講義 釈日心殿
因みに不受不施派中にも請願に当たり第二請願書の文意及び之に単称日蓮宗管長の奥書を得たのは不受不施主義を軟化せしめ雑乱に陥りたとて其門中より別派したものがある、それは浅沼日諦といって、今は備前国上道郡平井村に居るという、現に少数の信徒は随従して居るのである、また講門派派内に在りても不受不施師管長の奥書を受けたのは宗門上の瑕瑾であると唱えるものありたれども、この奥書は政府に於ける請願上の成規手続にして即ち各種の願書に市郡長町村長の奥書を要するに等しく、これを以て直ちに宗義上の瑕瑾というはその誤りなりと思えり。
擱筆に臨み、いささか本派の気節ある真俗諸子に告ぐ諸子にしても、いやしくも先師先哲の遺風を憶はば、すべからく内信時代の陋習を抛し偏僻煩瑣の形式に泥まず分立割拠の頑夢を破って速やかに一天四海皆帰妙法広宣流布の聖業に従事するが宜しい、然らずんば何の面目あって古人に面ゆることが出来よう諸子それ九思三省せよ。