日蓮宗不受不施史料
池上日樹違目之事 日樹今度申立候不受不施之儀者先年権現様邪義与聞召日奥於遠島流罪仁被仰付候然処仁唯今其御宰違背申亦不受不施之儀申出候事不屈被思召付而日樹者信濃国伊奈江被成御預徒党之出家衆者御追放之事 板倉伊賀守折紙有之由此折紙之文言之儀会以不被成御覚候事縦伊賀守一礼有之共権現様被成御宰候処遠飜志申立候儀曲事仁被思召候其上一札之年号月日相違之処不審仁被思召候事 奥儀者伊賀守御詫言申上候仁付而以御慈悲御前江被召出候処仁今度張本人而権現様御宰之旨致違背不受不施之義日樹仁為申立書物以下相渡候再犯之処別而曲事仁被思召候日奥如最前袈裟衣遠剥取対馬江流罪仁被仰付候事 寛永第七年卯月二日 当日池上方六人は酒井雅楽頭の館に召寄せられ、永喜法印が右の違目を読上げ、次に代々の折紙並びに数通の文を取上げて土井大炊助曰く「日樹此の折紙等に加判を致さるべし、何時なりとも所用の節は之れを帰すべし、先々預り置く」云々と、かくして不受の証文を没収したのである。そこで日樹は信州伊奈へ預けられ、日賢は遠州横須賀、日弘は伊豆、日領は奥州相馬、日進は信州上田、日充は奥州岩城に追放と定まり四月五日に江戸を退去する事となった、又妙覚寺の日奥師は再犯として此の時処刑さるべきであったが、裁決の前月即ち三月の十日に己に遷化されたから其の儘不問に措かれた、然るに奥師の門葉と自称する不受不施派に於いて明治十年四月に刊行した龍華新報第九号に掲げてある奥師略伝を見ると奥師が此の三月十日に遷化されたるに同月下旬(裁決は四月上旬なり時日も相違せり)に至り重ねて没後の刑に処せられ対馬に流されたとしてあるがこれはすこぶる奇観である、若し果して此の説が事実であるならば奥師は念仏宗の法然の跡を継いだ邪師と云わねばならぬ、処が実際は没後の刑に処せられたのではなく墓所も儼然京都妙覚寺に存在し幕府でも死屍に鞭つが如き事はしなかったのである、全体此の対論は前にも述べた通り池上方が理分であったから、単に首領株のみを処分して他は一切御咎はなく、却って後に至って不受一派に対して家光公より更に政道仁恩の御朱印を下された程であった。 さて身延方は首尾よく池上方を追放したから、対論に勝ったと詐って記録を偽作し、又門中へ回文を発した、其の文は、 就今般所論之法義種種雑説風聞之由候然者我山之法理於国主之御供養者常恒受之候間不及異論候但平人之施者於中古為息世譏嫌我等専今更不改之候則両隠居与愚意同心候池上日樹並徒党者誤不可受国主之御供養由付而此度令遂対決文理共閉口候故被仰付曲事候以此旨能能可有弘通候 寛永第七庚午四月十五日 日暹在判 身延山末寺中 又日遠も池上比企谷両山の院坊同宿小僧並に末寺の住持院坊同宿新発意等に命令して連判の起請文を書かしめた、其の文は 就今度法理之往復日樹之所立為邪義之段曾以不存候而信仰之処此度仰之趣尤領掌仕候然者総而従国主賜沙門地子地領等者三宝御崇敬之故仁候間悉皆為御布施供養事決然仁候此旨経釈祖師妙判分明也向後右之趣随分弘通教化可仕候若此旨於違犯者蒙三宝諸天祖師大菩薩之御罰可堕在悪趣者也 寛永八辛未卯月二十二日 諸僧在判 於日遠尊師法座下御近習中御披露 前掲の日樹の訴状、幕府の違目、此の回文起請文等を併せて見たらば、当時の情勢が自から会得出来るであろう、かくて身延方は受不施主義を興立し、之に賛同した諸山諸寺は受不施流となった、?に於いて始めて不受不施派と受不施派との両派に分裂したのである、此の時はまだ不受不施派の方が優勢であったから、身延は引続き反抗し四代将軍の代に至って復び邪謀を逞うした為に寛文の不受不施法難が起こり、不受派中より悲田宗という邪徒が出来た、これは表面不受と見せて内実受布施であったので、身延一派に対してこれを新受不施略し新受と名づけ、身延一派を指して古受と称したのである、次には寛文の出来事を述べよう。 ◆寛文法難と悲田新受 身池対論の結果は前述の如く池上方の当事者のみは処分されたが、他の不受主義の者はもっとも御咎なく依然角立して?に始めて不受不施派と受不施派とが分立したのである、その上三代公より不受一派に対して更めて政道仁恩の御朱印を下されたから、不受不施一派の勢力は隆々たるものであった此の時代に彼の真迢の破邪記に対して諫迷論、復宗決、同別記格言、本地義等の破書を著わした日遵、日賢、日領等は、どれも皆不受不施の学僧達であったのである、之に反して身延の一派は却って益々世間より指弾されたから、いよいよ不受一派を嫉視し四代家綱公の代替を機として、また身延山より不受一派を讒訴した、よって平賀日誠小湊日晴、碑文谷日運より「地子寺領は、四恩の中には第三国主の恩、三田の中には悲田にて世間の仁恩に御座候、故に拝領仕候」云云と訴状を捧げた、これは万治元年八月九日付であった、由来身延一派は身池対論の頃より地子寺領は共に供養だと主張したものであるが、全体公儀は法華宗帰依の檀那でもなければ、また布施として賜ったものでもない、即ち地子寺領は敬田供養でないから四恩の中には国主の恩、三田の中には悲田であって世間の仁恩だと弁疎したのである、そこで身延は更に地子寺領は公儀より三宝崇敬の御供養として賜わるとの命令を発せられん事を時の寺社奉行加賀爪甲斐守に請托した、この謀計は遂に成功して寛文五年に至り公儀より諸宗一般に寺領ある寺へ対して「今までは寺領を仁恩の為に下されたが、今より後は三宝への供養として下さるから、その手形を致すべし」と達せられた、この命令の他宗に於いては別に異議はない、又法華宗の中でも受不施派は固より主謀者であるから異議のあるべき筈はない、只一人不受不施一派に取ってはこの命令こそ実に重大な難問題であったのである、その故は凡そ寺領(並びに地子)は別体が有るから、能施の人の心により供養ともなり、仁恩ともなるので、即ち能施の人が三宝崇敬の義ならば供養となるし、能施の人仁恩とあらば世間通用の政道となるので、この度は明らかに三宝供養と定められたのであるから、若しこれを受ければ忽ちに宗義が破れるから誠に受け難い、若しこれを受けなければ上意違背の義でなくても、おのづから違背に似る訳であるから不受一派は実に進退維れ谷まったのである、もっともこの命令が公然と発表されるに先立ち、その年七月末つ方に「三宝供養の御朱印手形致し頂戴せよ」と不受不施派に内命が下った、よって早速八月二日に市ヶ谷自証寺に於いて、同十二日は三田大乗寺に於いて諸山の衆徒が会議を催した、又同月十九日には久世大和守より三談所の能化を呼出し池上日詔の例を引て書き物せよと勧められた、三談所の能化というは下総の野呂妙興寺日講(録内啓蒙の著書で今の講門派の派祖)玉作蓮華寺日浣及び松崎妙講寺日瑤である、その時日講即座に「日詔の書き物は已に一宗の瑕瑾なり」と弁明して一同承諾しなかった、同月二十二日には谷中感応寺にて第三回の会議を開いた、この時碑文谷日禅は鹿悪の言を出して衆を二分せんとしたが平賀日述が調停して事無く済んだ、この時久世和州へ返答すべき使者に日禅が選ばれたが彼は辞退した、然るに翌二十二日当宗勝劣方一同が寺社奉行へ出でて「今度御朱印頂戴仕候儀御供養と奉存候、不受不施の心得とは各別に御座候」と言う文言の書き物を捧げた事を聞いて日禅は急に和州への使となる事を承諾したから、二十三日に日浣と共に同行して和州へ「とにかく書き物になるまじき義」返答をしたが、その折日禅が和州に耳語したから気味悪しと日浣が帰って同志に語った、和州の話では八月中に埒明くとの事であり、又一派内に異議さえなくば無事に事済みとなるべく、若し異議あらば危うしという内意も他より伝えられた、幸にして八九月両月中無事に経過したから日講日浣等は十月上旬夫々帰林した、然るに小湊の日明は御朱印を取らぬことを本意なく思って悲田供養の名を以て御朱印を受けようと企て、又谷中の日純は書き物をして不受不施を立てようと運動したから、十月末に至って書き物の事が再発して勝劣方の如き書き物にて済ます首尾となり日明の悲田供養はこれがため沙汰止みとなった、是によって再び日講日浣等は出府して諸寺の間に奔走し、八月中議定の通り異体同心に覚悟するよう促したから、日禅日純も表面は流罪の覚悟で本尊等を認めて檀家へ与えるなどの状態であった、そこで日講日浣等協議を遂げ止むなくんば上野の宮を頼み施主を立てて御朱印を申し受ける策を講じ、谷中日純等も之に同意してその運に掛かって居る内に、十一月初旬加賀爪甲斐守より平賀碑文谷を呼び出して無味に書き物せよという事になり、また日明は小湊より帰府して和州へ悲田供養の事を請願したが承引せられず、処へ計らずも書き物して不受を立てさせる望みはほぼ調ったという通知が平賀碑文谷両名に宛てて到来した、これより先き平賀日述は明純禅の三人が密かに悲田供養の訴訟を起した証跡を認めたが、この通知を得ていよいよ彼等三人の陰謀誑惑が明白となったから、日述日講日浣等は彼等三人に対して其変節を誡めた、されど到底改心の見込みがないので止むなく二派に分離することとなった即ち一派内に意義あらば危しという内意に当たって来たのである、そこでその筋よりは、却って日述方に対して書き物して不受を立てよと促してきた、これは手形の文言に慈悲の二字を入れたならば日述も同意するし、一派中異議なく書き物をすると言い拵らえて日明等が訴えた為に、久世和州が斡旋して「公儀より三宝供養を仰渡さる上は下にて如何様に名を付けて受くるとも彼の儘にせよ、少も公儀の三宝供養の御仕置の障りにはならざる事なりと、評定一決したからして書き物して不受を許す事となり、したがって日述方に対して書き物を促す事になったのである又この時両者の中に這入て調停を試みた僧衆もあったが日述方は終始強硬で押通したのである。 さて十一月二十二日には小湊、碑文谷等が寺社奉行へ出て手形を書いて出す、翌二十三日には小松原、谷中、村田妙法寺代、依智妙純寺等が同じく手形を書いたが、その時上総興津妙覚寺日尭武州曽司ヶ谷法明寺日了の両僧の手形の文句が 此度御朱印頂戴仕候義難有御慈悲にて候地子寺領悉御供養と奉存候 とあったから、この文体では宗義に違背するから書けないと断って帰った、かくて極月四日(寛文五年也)寺社奉行加賀爪甲州より平賀本土寺日述、大野法蓮寺日浣、並びに日尭日了を召喚して「此の度三宝供養の手形致さざる事上意違背の義に罷成間御預に仰付らる」と申渡し、日述、日浣を、伊予国吉田の領主伊達宮内少輔へ、日尭日了は讃岐国丸亀の領主京極百助へ御預けとなり、同月十日には谷中等の三ケ寺は無事に御朱印を頂戴した。 次に三談所の能化も度々召喚されて取調べを受けたが、談林には寺領がないから不問に措かれることとなり、翌年二月日講は一旦野呂へ帰林した、この時日講は破奠記を著わして身延日奠が受不施の邪義を書き立てたる宜道の十六ヶ条を破折した、凡そ受不受の宗義を研究するには不受の論旨としては、この破奠記と奥師の守護正義論、宗義制法論、禁断謗施論、及び小湊日遵の不受決又新受破斥の分では日講の破鳥鼠論、三田問答詰難などは必読の要書であり(因曰不受の総ての要旨を後に日講が編纂して万代亀鏡録と名く大本六巻あり、絶版せるため現存するもの少し今備前妙覚寺版の同名書あれど、大本の第六の巻を缺く)又受不施の方は破奠記、宜道十六ヶ条及び了義日達の受不受決疑抄等である、彼比対照すると双方共時代と共に議論が進んでいるが、特に受の方では乾遠時代と日奠以後とを比べて見るに矛盾があり相違あることが認められる。 さて又三月下旬に至り谷中等の三箇寺が三談所に反抗して日講等にも手形を書かせようと運動し始めた、前に一寸述べた如く此の度の詮議は寺領なき寺は御構いのない筈だのに、手形の文言中に地子の二字を加えてあったことを聞いた時已に日講は談林まで駆り出すかと想察していったが、案に違わず卯月には日講等が再調を受けることとなり、終に寛文六月五月二十八日寺社奉行より上意違背として御預け仰渡され、去年ならば同じ並もあれど再返なる故遠所へ仰付らるとて、野呂日講は日向国佐土原島津飛騨守へ、玉作日浣は肥後国求麻相良遠江守へ御預けとなったのである、此の折日講は守正護国章と題して一巻の陳情を提出したが彼の松崎の日瑤は遂に三箇寺と一味になって手形を書くに至った、かくして不受一派中の清僧は夫々処分されたから、身延よりは訴訟して不受の明き寺を末寺にするし、奉行甲斐守は上申して、「不受不施の一派は公儀違背の宗旨たる故に天下一同滅亡」と評決したから、余類は続々処分される事となった、この法難で不受不施は表面全滅したのである、丁度大仏事件の起こった年よりこの寛文六年まで七十一年、身池対論よりは三十七年の後に当っている、この時の落首に 不受不施の理を曲物にすることも、皆檜物屋の細工なりけり (碑文谷日禅の事) 日明が臆病がみの書き物は、手形がたがた足もがたがた (小湊日明の事) 加賀爪にかき破られし法華宗いたやかいやというは不受不施 (甲斐守の事) この不受不施全滅の法難は身延と甲斐守と結託して遂行したのであるが(甲斐守は私曲檀横であったから後に水府公に斬殺されて跡は断えたのである)この時もしも不受一派中に臆病で理を曲げ利欲に迷った明純禅の如き輩がなく、終始一致団結して進退を倶にしたならば、或はかく全滅の否運にまでは陥らなかったであろうかと思われる、この法難が宗門に及ぼした厄害を察するに不受一派の寺院は大抵身延が占領したから外形上はさほど衰頽しなかったが宗外より受けた侮蔑と宗門の精神的被害とは誠に名状し得られぬ事で、実に慨歎の極みである、しかもその起因が全く内訌であるから吾人は宜しく之に鑑みて、かかる不祥な歴史を再び繰り返さぬように十分警戒し、庶幾くは一日も早く宗内各派の統一を遂げ以て速やかに四海帰妙の浄業を大成せねばならぬ。さても小湊谷中碑文谷の三箇寺は、前述の如く手形の文言中に慈悲の二字を入れ公儀を掠めて御朱印を受けたが、表面はやはり不受に見せ掛けて檀信徒の輿望を繋いでいったから、幕府及び古受身延方ではなお不受者流だと認めていたが、実際は受不施と異ならぬ邪義の新流であったのである、彼等は三田問答という邪書を著わして悲田供養の義を主張し、慈悲の二字を入れたる上は別時の敬田供養は受けぬ証拠となると言い拵えた、これが即ち新受悲田宗である、この悲田日明等が繁昌の折に江戸の芸州下屋舗に居った不受の僧一樹院日尭等は、日明等を恐れて和睦を申込み相互に施物等の取り遣りをしようと内約して、芸州侯の母堂自昌院を掠め日明等を通用せしむることに取計った、此の自昌院というは家綱公の姉君で大の不受信者であったから、寛文九年の夏日明等は自昌院へ三箇条の書き物を提出して改悔の印とし、その上青山龍土の毒神に参詣して事相の改悔を勤めた、その三箇条の内に 一、往々公儀へ訴え慈悲の一礼取り返すべき事 流人御赦免の訴を三寺より肝煎の事 という箇条を認めた、ところが両三日経ってから彼等は「右の事檀那へ聞え、さては流人衆こそ正義なれ、三箇寺へは参詣を止めんと申者多数あり、今更迷惑に及ぶ間憐み御返しあれ」と申立て自昌院より書き物を取返した、これ等の誑惑が日向の日講に聞えたから、日講は破文を認めて自昌院に不通の旨を申送った、自昌院はなお施主を立ててなりとも日講と通用をしようと望まれたが一樹院が江戸中に施主に立つべきものは一人もないと偽ったから遂に普通に成りおわった、実はこの自昌院の肝煎によって日講は芸州へ預け替になることに取運ばれつつあったのであるが、かかる次第でその事は見合わせになったのである。 かくて延宝八年五月八日、四代巌有院殿薨去の法会の折に悲田宗の徒も上野に諷経を勤めたが、一言の辞退もなく布施五十貫拝領したから、前に慈悲の二字を手形に入れた以上は別時の供養は受けぬ証となるといったことは全く虚妄となった、そこで古受の身延日達池上日現より悲田の邪義なることをしばしば訴えた結果、遂に元禄四年四月二十八日評定所に於いて「近年悲田宗の新義、今般上意に依って永く滅却之条、一同受不施に帰伏すべし」と申渡された三箇寺は天台宗に改宗し度と申立たが許されなかったから、彼等新受の徒は熊野牛王の裏へ血判を加え起請文を書いて身延に帰伏し、あまつさえ末寺を掠め「意業にも不受不施を存間敷」との起請文を徴収して一同古受に帰伏した、此の時より碑文谷法華寺と谷中感応寺は天台宗に属したので、今の谷中天王寺は即ち感応寺の改名である、寛文五年悲田建立より?に至って二十七年新受は遂に全滅したのである、次には不受の分派、内信者の状態等を述べよう。 ◆不受不施禁制後の分派 寛文法難の後不受不施は切支丹宗門と同様に全滅の厄運に陥ったが、信仰は到底政府の抑圧によって滅ぶべきでないから強信のものは不惜身命で、ひそかにその信仰を持続した、即ち僧侶の方では政府の沙汰を受けぬ前に自ら寺を出で、或は信徒の家に隠れ、或は別に庵室を構えた信者の方は脱籍して帳外となり即ち無籍者となって夫々清僧に追従したものである、又心弱き輩は祖師日蓮が「当世の責のおそろしさと申し露の身の消え難きに依りて、或は落ち或は心計りは信じ或はとかうす」と示された如くに、一時は悲田に落ち遂に古受に降ったものもあり、初より古受となり、又これを嫌って天台宗などに改宗したのもある、甚だしきは自殺したものが往々あったその中に心計り信じたものは受不施等に装い内実不受の清僧に帰依して内々信仰を続けた、これが所謂内信者である、その項は別して宗門改めが厳しくあった、田舎などでは毎年宗旨改めの時分には「切支丹宗門御改め書物」と称して 一、先年より被仰付候切支丹宗門御改の儀常に懈怠なく男女共相改め、切支丹宗門並びに不受不施又は悲田不受不施宗門の者も村中に一人も無御座候に付、帳面に銘々判形を仕候云云 と書出して悉く判形をしたものである、故に内信者を假判と称え、又不法立ともいい濁法濁派などと名付けた、之に対して帳外の清信者を法立とも清法ともいい清者の一派を中間とも法中ともいいこの法中と法立とを総括して清派と称えたこの法中は固より謗法者の供養を受けないのみならず内信者は外染内浄の者で即ち濁法のものであるから、その供養をも直ちに受けることは出来ない、そこで法立が内信者より供養物を受けて更に之を清僧に供養したのである、故に法立の事を施主と称えた。 因みに施主立の事を一言しよう、京都妙覚寺九ヶ条の法式の中に 設雖為誘引之方便直不可受謗法供養事 という箇条がある、これは設ひ法華の信仰に引入れる方便になろうとも謗法者の供養を直ちに受けるは違法であるが、一度信者の手に入れ転じて受けるは苦しくないという意義である、古来法華宗は何れの門流を問わず、他宗の者の供養はその者に縁故ある法華宗の信者が施主に立ちその供養を取次いだものである、日奥師はこの施主立の事に就いて多義を以て解釈してあるが、その中の一を取意して示そう。 針ほどの物も直ちに海に入るれば沈むべし、千人引の大石も船に乗せれば自在なり、一紙半銭の小施も施主の舟なき時は針を海に入れるが如く無間に沈むべし、千貫万両の大施も施主の舟に乗せれば志す方へ自在にして大善と成る法華の行者は如渡得船の舟を待つが故なり。 又施主立の一例を学ぶれば、奥師が対馬より赦免されて帰京した後、所司代板倉勝重が天下の諸罪人等の滅悪生善の為め且つは自家の二世を祈らんとて、法華経一千部の読誦を発願し、奥師の徳を慕って妙覚寺にこの事を願い出た、これは寛永元年甲子卯月の事で、その時勝重の臣成田孫右衛門尉が法華宗の信者であったから施主となったのである(これがため不受一派では成田を施主の開山の如くに言い伝えている)さてこの時代に在っては外は政府の目を忍んで信仰を持続すると同時に、内は清法と濁法との区別を厳格に立てて同座同行を禁ずる等のすこぶる煩瑣なる儀制を定め、後には清派式目と称してこれを厳守するに至ったが禁制の最初は各地方区々であったのである、その頃派内の貫主株の高僧連即ち第一流の人物は大抵流罪の身の上であり、その上先例のない法滅の際であったから総ての儀礼格式が一定しないのはもっともな事である、そこで真俗思い思いに帰依の流僧に就いて指導を仰ぐという有様であったが、?に端なく違法の者が出来した、その結果遂に派内に分裂を来たすこととなった、その顛末は少しく煩雑に渉る嫌はあるが、分派の由来であるから一通り述べねばならぬ。 その事実はその頃備前岡山に宗順という法立があって、この宗順が天和二年戌九月に岡山栄町の内信者萬助の仏前を拝し、同年十月に同町の内信者丁子屋九郎太夫方に於いて濁法の看経に導師を勤めたことがあった、これが問題となって法中より宗順を取り調べてみると、あれは「去年酉十月湯治のため作州湯原へ出掛けた折、暫く久世に滞留している内、浅島助七という法立が久世で濁法の導師をしたのを見たから、苦しからぬことと心得て、自分もこれに做ったので、これが謗罪となれば、あれ助七も同罪なり」と弁疎した、そこで一面助七を調査すると、助七は又法中の「春雄院日雅より授与したる久世看経講の本尊を提供して」此本尊には講中の内信者六人の法名を列記して、浅島助七法号真立院浄安授与之と認められ、即ち自分所持の本尊であるから、毎月看経講の砌には此本尊を懸け自分その座へ出でて香華燈明を備える計で、導師は致さぬ、と陳答した、よって又この本尊が清濁混濫の認め方であるという非難が起こった、それがため春雄院の弟子等は讃岐丸亀の流僧日尭が因州へ遣わしたる「授与之因州法華行者内信心如法之清信士女者也、延宝九辛酉年衣更著上旬時正日図焉とある本尊を引証して「これ内信と如法の行者と一結なり、然らば春雄院の本尊に法立と内信とを一結に認めあるも苦しからざるべし、春雄もし謗法ならば日尭も謗法なるべし」と主張した、これはその頃流僧とさえ言えば何人も異論を唱えなかったから、かく日尭の本尊を引証して春雄に対する非難を遁れんとしたものである、然るにこの日尭の本尊も違法だと論ずるに至ったから、宗順は遂に同年十一月十二日津寺の覚照院日隆の許に於いて前記二ヶ条の謬に就いて改悔をした併し宗順と助七との陳述が粗齬しているから、翌天和三年三月上旬岡山下之町木屋八左衛門方に於いて法中立会の上両人の対審を開いた、この時助七は忽ち閉口したから同年六月十日日指に於いて法中覚隆院日通、覚照院日隆等十数名列席の上助七に改悔せしめた、これで両人の処分は済んだのである。 然るに日指方に於いて「宗順は助七に対して謗法を言いかけた罪があるからそれを改悔させねばならぬ、そのことは津寺の覚照院が承諾しながら何故等閑にして置くか」と言い出した、津寺の覚照は「助七が導師をしないものを、宗順がしたと誣たのならば咎はあるが、助七が実際導師したとすれば宗順には咎はない」という見解であった、故に右改悔の事は決して承合はないと主張した、これより日指方と津寺方とが互いに謗法呼ばわりを為し、所々に書を飛ばして是非を争うことになったのである。 この時備前岡山蓮昌寺十一世日相というは備前備中美作を支配する法燈職であって、法難のため寺を出でて京都北野に居ったから、津寺日指の葛藤について翌貞享元年に至り日相に裁定を仰ぐこととなった、よって双方共京都へ召喚し、同年六月二十四日対審の末、日相は「今法滅の砌一味の内引き破り争論致すこと大罪なり、法命相続の道念に住し双方共に我情を捨て両改悔にて和合すべし、もっとも是非を料簡する時は一方は理一方は無理なる方あるべし、併し是は時に当て一毛一滴の如し、仏法の大破は大山大海の如し、一分の感情を以て仏法の大破を顧みざるは邪見の至り仏法の重罪なり」と教戒を加えた、そこで津寺方は了承して謝罪することになったが日指方は「覚隆院は改悔致すべきも、助七は国方一味の者多き故改悔致させ難し」と申立た、日相は種々日指方を諭したが一向承諾しないから、遂に同月二十八日日指方を謗法罪に結帰して不通の旨言渡すこととなった。 この年九月末に讃州丸亀の流僧日了より両名の使を上京せしめて裁決の模様を聞合わせ、又春雄院よりも岡山の切附屋市右衛門を使とし自己が認めたる本尊謬なりや否伺わせた、恰も好し使者三人同時に日相の許に会し、日相より日指方謗罪不通の始末遂に春雄の本尊謬なる事を聞き夫々帰途に就いた、この時春雄は備前山崎村庄右衛門方に病臥して次第に危篤に陥り、京の返事を待ちつつあった、十月三日使が帰ったから看病の者は直ぐ知らせると「京の首尾如何」と尋ねた心を安めんと「謬はなし」と答えたから「やれ嬉しや」とて、使が未だ結束を解かぬ間に彼はそのまま臨終した、これがため彼は死後遂に謗徒に引入れられたのである。 さても日指方一派は京都日相の裁決に服せぬ為め日相より勘当されることとなったから更に讃州の日了より添書を得て、翌貞享二年五月逢沢清九郎井上三右衛門を使とし、前顕日尭春雄二幅の本尊と日尭より立賢に与えたる条目とを齎し、日向左土原の日講に再審を願い出た(是より先き伊予国吉田御預の日述は天和元年九月に又肥後国求麻の日浣は延宝四年七月に、敦れも逝去したから、第一流の高僧はこの時日講一人であった)その時の状況は鶴城叢書と題する日講の日記中(貞享二乙丑六十歳の條下)より抄録しよう。 五月朔日従備前逢澤清九郎井上三右衛門渡海、閲諸方之状見日了之状方知日尭死期病苦痛悩為体感傷不些八日入夜清九三右密來対談移時比來見彼持來日尭春雄院本尊及日尭状委了与日相書出違却之趣且告野僧欲企和融手段之旨及向後可任予指図趣出起請之案文処、両人能諾認越起請、故今夜方対談、且為改悔令戴御経及令拝金泥銀泥経累日認遣諸方本尊等附与両俗至二十一日帰駕 そこで日講は五月二十一日付を以て京都の日相へ本件に対し居中調停の紹介状を発し、又日了へは次の如き返書を与えた(この書面は当時の状態を知る便があるから、長文を厭わず揚げることとした) 如来意備中わずかの信者の内又々両派に相分かれ他宗の嘲弄新受等の笑種兎角絶言語事に候大段の宗義破立の義に付祖師以来終に無之天下惣滅の巨難に相当数々公庭へ罷出宗義の筋目申立殊に後代の亀鏡ともかなり諫状を捧候て遠流の身と成候上に童いさかいの様なる小事に取付何かと言葉を費し候事如何敷存候へ共法滅の時分内信の者一人も大切の砌に候えば何とも野僧以才覚和融させ申度念願に而不顧遠慮廻思慮候其段別書に認進候間能々御納得日指方へも随分御異見専一に存事に候両人へ対顔の義も遠慮に存候へ共貴札に其趣委曲示給候故不能黙止則先一札を書せ候て改悔の印とし其後対面の時も御経頂戴法燈違背の罪障懺悔させ申候両人遥々渡海の志寄得に存事に候夫故今度和融の相談も興行候事に候へば一段の義に存候 一、去々年御両所より野僧への状に拝不拝の義問訊の砌惣滅の時に候故常と格をかえ拝候ても苦かるまじき、かの由申進候是は早爰元へ苦かるまじき由被仰付候て己後の尋に候へば法滅の砌殊に小事に付て意義に罷成候事も如何敷存候人により密に拝しても苦しかるまじき歟の趣を以て一途申進し候、その上了遠施物を可有御返施義に付此方よりは弱の辺を以て誘引の義申進し候時の事にて候へば此本尊拝不拝の義も暫く弱の辺に随い候て法滅の時に候へば拝も苦かるまじきかと申候勿論内証心得の為に種々通局とも野僧存寄の通申進し候他宗へまれに本尊授与の義も法滅の時に候故以制途法施を許し且は末代の為の義に候へば押出し不苦と披露申程の事にてはあるまじき候、尋常法義繁昌の時に候へば一派の内少し濁候ても其者には義絶して本尊をも不浄の者に以別途本尊令授与候義勢にて他宗へも希には苦かるまじき歟の旨乍次手申進し候夫故其時の状には万端内証示合後代迄の支証に成候故、格式定置候申度所存に候間少も無覆蔵御内証ごもっともに存候と書進し候内談の中の事にて候へば未決定の事も可有之候條能々御心得専一に存候されども信謗致与同同行仕候ては金石迷い安く候はん歟その上筆跡に顕わし信謗混同の授与は尤可有遠慮候委曲如別紙に候恐惶謹言 五月十九日 日講判 日了貴尊師貴答 猶以若此日指方改悔の義不相調候へば永く二つに分れ彼方も我に成候て日尭共謗法抔々申立候へば大事に候條随分改悔の義御異見専一に候本尊も始より苦しからずと題を出す義に而は無之候條未制以前なる故に面々の思入不同の分にては謗法には成まじきと救い申程の事に候尋常一味の時にて候へば加様の小事は相談の上にて弱の辺へ随い候ても妨碍なき事に候へとも既に意義に成候上は寛正年中一宗通同の法式のごとく強義為正の格式宗旨の大法にて候故其段難背候殊に信謗雑乱の授与並同音の勤等は十人に八人は結局不審を立候者可有之様に存候然は同行謗法の増上縁にも可罷成候條此義相済候はば向後は授与書も信謗各別に致し不拝の義を格式と可定覚悟に候以上 又別紙に左の通りの文言がある。 一、覚隆院覚照院出入の義両人より紙面差越候へ共水火の違目遠境是非の評判難成候故不能返書候内京都日相師両方御呼上せ対決の上、始め是非に御構い無之、唯法滅の時分両派に成候罪障並法燈へも不窺候て私に謗法の儀落居致し両方共に廻状触廻し候咎を以て双方改悔させ始の段も是非落居なしに双方改悔と御申付候処に、津寺方は領掌致し改悔令し候へども日指方異義申に付、日相師より日指方へは世出不通と御申渡の由示給候 始の儀互に誓文の上は是非難付候故此趣向尤に存、野僧より内証為平六善助より覚隆、覚照へ改悔相勤可然旨申遣し候へ共、終に返事無き候ゆえ自然に不通に罷成候覚悟にて居申候処に今度貴僧より委曲示給「此方の指図次第可仕」由両人も領掌申候故一段の儀に存、則「去年以来法燈違背の儀罪障懺悔の一札」を取候て其上には対面令委曲様子承候 もっとも津寺方にも不実なる事多有之様に聞え候得共、それは世罪に落畢竟最前申候最後の二ヶ条謗法と申に付ての吟味に候得ば其筋目以日指方へ日相師に帰伏令改悔可然旨異見令候條、貴師も随分異見を御加え候て首尾申様に御思案専一に存候 覚隆も覚照も日來不和ゆえ日相をも津寺贔屓の様に思いなし候推察令段候故、今更日相へ随遂の儀成難可様に存候に付此方より改悔の本尊遣候、則一札を取其上に日相へ前々如随逐致候筈に分別令候 さて日指方より僧中の惣名代として本柳院一人、俗衆の総代として六人連判の内源七歟市郎太夫歟一人、京都へ参改悔の作法勤る筈に致、則日相へ添状仕、津寺方へ日相より本尊謗法等の落居の書付参候故、日指方殊の外立腹令日相の本尊等も巻き、その上互に悪口雑言苦々しき由に承候へば、すなわち改悔の儀領掌あるまじきも難計候へ共、所詮法滅の砌小義以相分れ候事然可不の趣重々申達候間、談合に立棄被可歟の様に存候 若亦日指方改悔の儀異義申候はば、此方よりも不通被可由申越候、貴師より不通被成候事ごもっともに存候、此方へも「日指方へ異見を加え領掌申被不候はば日指方と不通いたし野僧下知に可随」由書物にも載させ候、右の趣は本尊の儀に少も不搆、其後の義に付落居の趣向に御座候 一、本尊の事、日指よりは春雄院本尊謗法に落居致被其元尭師因州へ授与の本尊と其義をわけ、尭師は濁法計への授与に候條混乱あるまじき由に決帰候へ共、今両人持参候書物の内に立賢へ遣被候尭師の書中見申候へば、春雄院のと同じ趣にて信謗同一の授与書にて候事無紛候然ば春雄院を謗法と落居候得ば尭師へも難題懸り候 さて日相より此方へも相談無、春雄院の本尊謗法と落居致被候事も理不尽の義に存候 それについて野僧才覚にて尭師へも疵不付様にいたし、亦日相の落居の筋をも妨碍無様に料簡令相談の上にて後代迄も格式を定置度候 其料簡の大旨は、天下惣滅の義祖師以来終に無之事に候故、今度別儀をもって内心清浄の族不惜身命をも立てず然も不受不施にて有之一類を憐愍令故、本尊を押置授与令の新義出来申候、本尊授与新義に候へば拝不拝与同不与同の儀も面々の心入にて分別替り候事無余儀事に候尭師は内心清浄の方を詮に御座候て僻判の儀を方便と御心得候故拝しても苦しからざる了簡出来申候、また日相は外相仮判の不浄の儀を定規として与同謗法と落居致被候されども是は一分一分の思入にて衆議の儀にて之無く、格式未制以前の儀に候へば何れも妨あるまじき候、然らば向後は一向清浄と内浄外染の者と別段に定置度候、譬を以申候はば一向清浄の所感の本尊は満月体用円満なるが如く、外染内浄の者所持の本尊は半くもるが如く、一向他宗新古の受不施へ渡し候へば体は不改に候へども光用は一向にかくれたる如にて候、既に半清半濁の者に候へば本尊の感応も半ば隠れ候て一向清法の力用にはその隔り之有るべき儀に存候へば、格別の筈に落居申候はば一向清法も気味悪敷狐疑無之、半濁の者も分離相当候て所感の本尊の応用を遂べき事に候得とも、面々利益有之上に信謗混乱の疑惑無之候條、此儀に治定致すべき覚悟に候 一、若常途の格式を以難を加候はば、濁法へ本尊授与の師与同罪の妨難可来候、其故は珍しき新法を出し濁法へ本尊授与令候故未々に至て拝不拝与同不与同の異儀事発り区々分れ候へば与同の根本は能勘に本尊授与の所に可有之候、本尊を遣し候は体の如く、拝不拝等の異論は用分の上の詮議にて候へば功の帰する所能授の人に懸り可申と強難来り候はん歟、然れども上に申候ごとく法滅の砌故止事を不得慈悲の余り此機嫌を顧みず内心清浄の者を摂取して現未の実益を得令義に候へば、本尊授与苦不儀に可罷成候、其上是は一度本尊を渡し候て二度此方より彼等と法義与同の事之無く、施物をも堅く受けず候へば妨碍無之候 其上彼等本尊頂戴の時一旦改悔の験ともなり後にも此本尊に向て随犯随懺の作法を勤候へば滅罪生善の妙術にて候拝不拝の儀は用の上とは申しながら拝を許し同行与同の作法を致させ候へば公儀に従い法義宥免之無き内は子孫の代迄も信謗混同の妨難相残候故向後は信謗一列の授与の義を停止令不拝の義を以定置度候左候へば後代迄諸人の疑惑之無く其上人々の心持も潔白に御坐有るべく候 一、右の日尭日相の両義只今法滅の時に候へば法義繁昌の時とは少違目も之有可候へ共則宗家強弱の二義に相当り候妙覧寺九ヶ条の法式にも次に「異体同心者繁栄之洪基於立破者思強弱」と御坐候へば一宗大義の外少々の破立候時分は必ず強弱の分別之有可事に候され共寛正年中一宗通同の格式に日蓮宗の法義強弱有雖も強をもって正をなすと御坐候得は既に両義に分れ候上は法燈の批判には強き方に従い候が本意にて之有可候此砌強て拝の義を募り候得へば異義に成候て諸人疑惑の基にて其上弱の義を申立候は権実雑乱の潤色にかなり様に存候へば法滅の時にても一向清法の徒少分にても世上に之有る内は信謗混乱せぬ様に掟を定め候事仏祖の本意に契当申すべき様に存候然れば野僧非器之身の為と雖も時に当て法燈の一分に候へば此義を興行致し、貴師ならびに相師も野僧と相談の趣にて向後不拝不与同の義を正義に定置申度候此義相整候はば行々は江戸日庭日養へも申通都鄙一同の格式に成候様に令念願事に候然ば尭師の料簡も御存生にて野僧より其趣談合申候はば異議有まじく存候へば没後とても此如く料簡申事日尭も結句満足なるべきと存候、さて日相落居をも未制以前の義にて春雄院の本尊も謗法に不成義に致し和融させ可申と存候此段道理遮難など勘へ短章一篇認置候尭師の書面一々の難も試に会通令候是は此談合調候て以後御目懸かるべく候、貴師も弥右の旨御同心に候哉日相へも其趣申遣し返書待入候由申越候此落居に致し候はねば当世の嘲弄後代の瑕瑾になり候事必然の義に候間能々御工夫成被可候以上 丑五月十九日 日講判 日了貴師 この時日講は二幅の本尊ならびに日尭の条目を手許に留置いた、日尭の条目というは尭了状とも称へて、先に日尭より内信濁法と法立とは隔なく同行同拝して苦しからぬ旨を備前備中へ指示した処が、日尭の甥で弟子である立賢というものが、この指教は国方古風に背き日述、日浣の命にも相違する故、諸人なお予を懐き誹謗の端にもなるべきかという意見を祐甫という者を以て日尭に告げしめた、その時日尭は「当時流僧は不受の随一なり、若しその指教と国方の法式と相違ならば此の方の理由を尋ね究めたる上にて取捨すべし、何ぞ直ちに国元の法式を信敬して、この方の義を軽賎するや」と内信者所持の本尊を拝して苦しからぬ等清濁混乱の法門を認め、日尭日了連判して立賢に与えたものである、この条目を書いたのが天和三年の事で、翌貞享元年二月十日に日尭は死去した、元来この日尭日了等は流僧ではあるが派内では二流以下の人物で流罪に就いて漸く世間に名を知られた位の人であるから、かく法義に誤謬を来たすに至った、日講はこの条目が世間に流布すれば日尭が折角不惜身命の行為も水泡に帰する事を惜しみ、永く手許に条目等を留置き、前顕日了へ与えた書面に縷述する通り、日尭の疵の付かぬよう又日相の裁決にも妨なきように取扱ったものである」されば日了は日講の配意を大に悦んで同年八月左の返簡を差出した。 五月十九日の御尊翰六月初に到来再三奉拝上候 最前は覚隆院一派之義に付御六ヶ敷事共申進候処に御懇に御料簡被遊早々尊書給誠以不浅忝奉存候然ば両人の者共対顔の義遠慮に思召候段御尤に存候へ共垂御慈悲御助被成下候段両人の者に許改悔御経頂戴仕法燈違背罪障懺悔の一札仕生々世々難有忝奉存候誠以難有義何とも可申上様も無御坐候乍憚私に御礼を被仰上可被下候と申候 覚隆院並一派の真俗御料簡被遊候通私異見仕候はば如何にも諸事奉任上意領掌可申上由にて御坐候合点仕候誠に久敷義に御坐候処に尊師の御懇に御料簡被遊候由早速領掌仕偏に御厚思難申宜忝奉存候覚隆院義も御両尊師様御料簡の上は何角と私義申立候事憚多奉存候間万端御請可申由に御坐候領掌能仕候可安御心候委細に可申上候処に野子病気故遅り無心元思召候半と存早々申上候扨又日相へも二三日中に書札を遣し申候 覚隆院方へ改悔の御本尊被遣被入御念候 春雄院御本尊日尭因州へ授与の本尊と同じ趣にて信謗同一に授与書にて候事無紛候然ば春雄院を謗法と落居候へば尭師へも難題懸り候扨日相より此方へも無談合春雄院の本尊謗法と被致落居候事も理不尽の儀と存候本尊の御料簡にて尭師にも疵不付様に被成亦日相の落居の一筋をも無妨碍様に料簡被遊候儀感入申候扨又相談の上にて後代迄の格式を定置度料簡の大旨御懇に被仰越候是は又結構なる事難申宣候委細に可申上候へ共急使に御坐候故乍恐令略候如何にも別紙の通合点仕候此方の一義相済候て重て可被仰越之段御尤に奉存候殊に亦拝不拝与同不与同の義も面々心入にて分別替り申事無余義御坐候と被仰下候段一々領掌仕候 右の日尭日相の両義只今法滅の時に候へば法義繁昌の時とは少違目も可有之候へ共宗家強弱の二義に相当り候妙覚寺九ヶ条の法式の次に異体同心者繁栄の洪基於立破者思強弱と御坐候へば一宗大義の外少々の破立候時分必強弱の分別可有之事に候され共寛正年中一宗通同の格式に日蓮宗の法義雖有強弱以強為正と御坐候へば既に両義に分れ候上は法燈の批判には強き方に従い候が本意にて可有之候此文言深重の義殊勝難有感歎仕候委細は重て可申候恐惶謹言 八月二十二日 日了判 日講尊師 貴答 かくて日指の覚隆院は日講の扱いといい日了の勤めもあり、旁々同年八月十九日にて法燈違背私立制法等の改悔状を認め、江田源七を使として日講に謝罪した、依って日講は覚隆の志を嘉みし即ち日指方真俗総代として本柳院及び市郎太夫の両人を早速上京せしめて日相へ改悔すべき旨を命じた、然るに日指方は日相に対して尚悪口誹謗しつつあったから岡山の日相の信者より容易に改悔を赦されぬよう日相に申告した、処へ日指方より、同年十月二十二日に前記両名が総代改悔に上京した、すると日相は「今日講へ願書を遣わしたければその返事来るまで相待つべし」と申聞けたから、両人はそのまま帰国してその趣きを覚隆院などに語り、これ幸いとしてますます日相を悪口誹謗することとなった、のみならず同年十一月九日に江田を再び日向に使わし「二幅の本尊並に日尭の条目返されたし、この後日相へ従うこと成り難く、津寺方へ和合も致し難し」と申立てた。 そこで日講は「本尊と条目は永く此方に預かり置くべし、若し破法せしむるときはその罪日尭に帰し由々しき大事なれば、随分信心道念を以て京都の首尾を済ませ津寺方とも和合すべし相師より来状あらばその様子申遣わすべし、先々帰れ」と種々教誡を加えて源七を帰国させたが、日指は一向平気で京都への運びをしない、かくては日講が却て日指方に与同する姿になるから日講は翌貞享三寅年二月二十八日日指方より本柳院等に続いての人物二名を選ばしめ、即ち受正院及び石坂嘉右衛門を日指方真俗総代として改悔の一札を徴し日講の指揮に従うべく誓わしめた。 然るに日指方は我情日日に加わるのみで一向埒が明かないから、同年五月日講は侍者の内備前出身の岡村善助に帰国を命じ親しく旨を諭さしめた、岡村は即ち先ず讃州に渡り夫より備作三ヶ国を巡り、翌卯年春三回まで日向に往来して日講の内意を聞き種々尽力したが纏まらない、よって尚三清、心鏡竹内清左衛門等有数の人物に旨を伝えて百方暁諭を加えたが結局不調に終わったのである」この頃江戸の日庭という邪僧が日尭の立義に同意したから、日指方は加勢を得ていよいよ我情を募り、終に日了日庭等と示合せ「日向より二幅の本尊等取戻し、これを始経導師の旗印に押立て日尭の条目の通りに弘通すべし、若し背く者は謗法に落さん」と確定した、この事が元禄二年正月に日向に聞えた、その前年八月五日に日了は死去したから、日講が折角数年尽力した事も水泡に帰した、よって日講は断然尭了庭及び春雄院共いよいよ謗法と決帰して日相等へその趣を通報した、その年三月に覚隆より書面を添えて讃州の須股長兵衛備前の逢沢清九郎を使とし二幅の本尊及び条目の返戻方を催促し来たったから、日講は即ち「尭了状能破条目」を認め又二幅の本尊いよいよ謗法の旨添状して返却した?に至て日指方は全く清流より除門されたのである。 是より日指方では除講記を著わして日講の「能破条目」を斥け、尭了状の通り濁法と同座同行して、始経導師する事となった故に日指一点を導師流と称えたのである、顧ればこの争論の起りは濁法の始経導師を糺明したのであるが結局日指の一点が我情を張りて終に導師を唱導するに至った、してみれば日指の一点こそ真に矛盾である、自家憧着である、自立廃忘である、破法である、謗法である、実に愍むべきものである、この道師派に又奥方、里方という二派がある、これは備前の金川より奥を奥方と言い金川より里を里方を称えたもので奥方は一名先例派と言い、先例を守りて濁法の導師を勤めない、しかも覚隆等とは一味であった、即ち導師派中の不導師派で、所謂二途不摂の鳥鼠であった、併し後に至て不導師派に帰入した一類もある、又里方の中には制紙、不制紙、或は智法院方という三派があったから、日指一点は四派より成立った各々互に我慢を募ったものである、又この導師派を庭門流とも尭門派とも称えた、これが今の金川の不受不施派の前身である、又江戸の日庭というは寛文法難の折青山自証寺を出でて不受を立てたが、清濁の同行同音を勤めたもので、後に世罪に依って佐渡に遠島された、彼は世出共邪謬に陥ったが、尭了等と同じく導師派の首領と仰がれた、その頃同じく佐渡阿仏房を出寺して江戸に居った日養というが日庭の邪義を認め京都日相に通知し、日相と共に日庭方の謗法を改めさせた、それ故江戸でも日養日庭の両派に別れて居ったのである、この日養は日述日浣日講日相等と同志の清派である備作地方では清派たる津寺方と導師日指方に区別して不導師派と称えた、又日講の支配を受けて居ったから講師派とも称えて居った、今の講門派は即ちこの津寺不導師派の末流である。 以上は導師不導師の分派を述べたのであるが、尚右の外に日題派というのがある、即ち中正論等の著者京白川心性寺の日題の一流である、これは京妙覚寺の僧善学院というものが九州へ下った後に「筑紫法義物語」と題して、寛永法難の折に九州へ追放された小湊日延が筑紫にて謗法の所行があったと書き立てた、この善学は伊予吉田の流僧大野法蓮寺日完とは無二の入魂であって、この法蓮寺は流僧でありながら人に知られた謗法人で、日延の事を非議したが、善学は軽率にそれを信用した、又日題は派内では第二流の人物で高慢の質であったがよくも取糺さずに善学の語を容易く納れ、第一流の僧が日延を呵責しないのは謗法だと称えて、自から別派したのである、これは日指事件よりは前の事でこれにも種々の話はあるが、この一派はただ岡山県下に僅少の信徒のみが現存しているという計りで、殆ど消滅したようなものであるから委しくは述べぬ。 次に清派の伝燈、天保法難及び現在二派に関する事を述べよう。 ◆清派の伝燈と天保法難 不受不施禁制後派内に分裂を生じた事はすでに前節に述べたがその中の正統ともいうべき清派は、日向佐土原の日講を中心として法燈を承伝したこの日講は配所に在る事三十三年、その間に他の同心の高僧達は漸次寂去し、一人日講のみが最後の法燈として海内の清派を統督したのである、殊に日講は佐土原の領主飛弾守式部少輔の三代に渉りて大に優待を受け、閑室を結び園地を構え侍者両三輩常に左右に給仕し家士を始め領内の緇素は来たって内外の典籍を講習したので一藩の師父と仰がれて大に尊敬せられた、祖書録内啓蒙の大著述及び万代亀鏡録の編著等は実にこの間に成功したのである、これらの事柄は配所三十三年間の日記に細大録されてある、その日記を見ると看経、接客、上は玄妙を論じ下世話に及び当時国家の元気、風俗の美悪、人物の賢否等概見する事が出来る、これは鶴城叢書(四巻)と題し東鑑風の文体で、実に好箇の歴史材料である(巳に東京帝国大学史料編纂掛へ写本が寄納されてある)日講はかく悠々としてその余生を送り七十三歳を以て寂去した、その時の辞世二三を示そう。 白妙の法の蓮の華開け経諸共に帰る寂光 嬉敷ぞ大白牛車に乗の道火の車をば余所に見做して 言い置かんことこそなけれ覚めて後昔の夢の跡を思えば また日講の自叙伝をその著書嚥言問答の中より抄出して参考に供しよう 余十歳にして尊師に陪従し初て剃髪染衣の身となりしより以来宿縁のいたす処か志求法に在り法華を覆読する時已に其部敷を記録して三宝の霊前に捧げ以て学道能成の祈願に擬せり外は柔順の質たりといえども内には至剛の心をいだき、かつて普天の法燈たらん事を期す漸く奥師の筆跡を見るに及んで中心深く天下諫暁の微望をふくみ死身弘法の憤志を催す吾師に従遂十年の星霜を経たり其間常に法沢に浴して勤励のはたへをみがき鎮に恩光を蒙て修練の窓を照らせり台学の綱格当家の骨目識に納め心に熏す二十歳に及んで師の膝下を辞し学海を広せんか為に遥に関左に趣く両談経歴して鑚仰数年其の間或は岩城相馬に行脚し領充二師にまみえて教観の旨帰を決し古今異論を明し兼て安心を受け又忝地を伝う或中山古湊に行て霊宝を比決し諫論を並難して法門を論談し精義を決択す(中山日養親類たるに依って世間儀を以て見舞袈裟をとり衣はかりにして霊宝を披覧す録内金珠女抄御直筆一覧の時日養と受不受の問答を起して往復数回遂に彼をして閉口せしむるのみならず還って深く感じ京都立本寺日審へ書札を遣して余か学問秀発の趣を告げ類族にも語り伝うべしといえり、これより余学道のほまれ受不施の談林にもひびくこれは二十三歳の冬也二十五歳の秋古湊日遵の座下に伺候し諫迷述る処の義旨を決断す) |