日蓮宗不受不施史料(1)


 豊太閤の京都妙法院における大仏供養に端を開き、徳川幕府に至り日蓮宗の制格を厳守し、不受不施の正義を高唱するものは、受不施派の讒誣中傷と幕府の弾圧抑圧を蒙ること甚だしく、ついには切支丹宗門と同じく国禁の厄にあい、これを信じこれを説くものは、緇素を問わず等しく流死の刑に処せられ、寺院は幕府の権力をもって受不施派に改宗を強いられ、その命に応ぜざれば直ちこれを破却し寺宝什物は没収せらる、この圧迫政策は三百年間一貫し殊に寛文両度及天保の法難は最残酷を極め、不受不施派伝来の事蹟伝記はほとんど隠滅し、わずかに写本とし坊間に散見するに過ぎず、今においてこれが散見を防遏せざれば終に収捨すべからざるに至らん事を恐れ、前に梶木日種師がその蒐集に腐心せる久し、その熱心ようやく酬いられ不受不施史の沿革を纂集詳述せられ将に完備にたれんとす。
 惜哉日種師に寿を籍さず、今や幽冥境を異にするに至れり、著者は師と多年の親友にしてまた夙に思いを共にする事年あり、よって同師の素志を継ぎ幾部の補遺をなし、日奥上人三百年忌の紀念にあたり法恩報謝の微衷をもって?にこれを発刊せり、ただ蒐めるに従ってこれを選めるに過ぎざれば、桃李艶を衿り蘭菊芳を争うの余芳なしといえども、読者幸いに、日種師が熱烈なる労苦と、著者が真摯なる努力を汲みて、不受不施の史料研鑽に資し結ばば幸い甚だし矣。
昭和四年三月十日  著者識

日蓮宗不受不施史料


梶木日種遺稿

 宗教的歴史研究の一端として予が年来研究したる不受不施の歴史を語ろう、不受不施の語は一双の熟語であって、不受とは謗法供養を受けぬこと、不施とは謗法者に施さぬことで、(謗法者とは釈迦仏の正しき教たる法華経に違背する輩をいい、そのものの供養を指して謗法供養という)これは宗教上の儀制であるから、世間の慈善等の仁義愛礼の行為は少しも禁制しないのである、
 彼の跡門法華宗たる天台宗は、双用権実の立義であるから有受有施の制度であるが、我が本門法華宗たる聖日蓮門下は、廃権立実の宗格であるから不受不施の制度なのである、故に御門下は現に九教団あるが、八教団までが皆不受不施の制度であって、ただ独り一致派と称える単称日蓮宗のみが受不施といって謗法供養を受ける制度を採っているのである、これは畢竟単称日蓮宗の立義が本跡一致といって台当二途不摂であるから、したがって台家流の有受有施ともつかずまた当家流の不受不施ともつかぬ有受不施の新義を主張するに至ったので、現今の不受不施二派はやはり一致主義であるが制度は当家流の正しい不受を固守し来ったのである、それをば日蓮宗綱要などを見ると却って日奥が不受の新義を唱えたとか、異議を主張したとか書いてあるが、これは宗義の正鵠を誤った説である、それらの議論はさておいてこの受と不受との争論が三百有余年以前より盛んに生じたために、結局大いに宗門の衰微を来たしたことは、誠に慨嘆の至りである、内は聖祖に対し奉り実に申訳のない次第である、外は他宗他門に笑を買い不面目の極みである、彼の天文法乱とこの両度の不受不施法難とは、宗門の三大厄だというが、天文法乱の方は所謂外患で、宗義上毫も恥ずかしくない。のみならずむしろ宗史上一大光彩を発揮する立派な事跡である、これに反して不受不施法難は全く内訌で殊にその起因が初度は身延一派の我慢名聞より起こり、再度のは不受一派中の利養に貪著した俗僧が仕出かしたのであるから、獅子身中の虫のために宗門を蠧毒されたわけであるそれらの訳柄は追々記述するが、元来徳川幕府において不受不施を切支丹宗門と同様に禁制したために、その事跡隠滅して材料に乏しいのと、また一方には受不施一派が事実を誣いた為に、今日においてなおこの法難の、真相を明らかに知るものが少ない、現今の歴史家ですら不受不施といえば、一種固陋極まる社会に有害なる制度であると、往々誤解しつつあるように見える、幸いに予は受不受両派の著書記録を始めこの事実に関係あるものは、可及的蒐集抄録して研究を積んだ結果、ようやくこの歴史の真相を知り得たから、いささか大方諸賢の参考までに紹介して宗門史の一部を補いたい、もっとも前に云うが如く材料に乏しいのであるから、不備の点があらばもとより識者の補足を望むのである。

大仏事件と日奥上人


 まず順序として大仏事件より述べよう、豊臣太閤秀吉が天正年中前田徳善院玄以法印を総奉行となし、畿内諸国二十ヶ国に課して卒数万人を使役し、五年間に竣成せしめた京都東山妙法院の盧舎那の木仏に対しては後陽成帝の文禄四年九月より毎月先祖菩提の為として、千僧供養を始めた、これは秀吉が信長の破仏政策の失敗に鑑みて、大仏供養の美名の下に、仏教諸宗の軋轢を調和し人心を収攬しようと計った政策というが、それらはしばらく評論家の見る所に任せておいて、これより千僧供養の招状(実は命令書)を示そう。

於大仏妙法院殿毎日太閤様為御先祖御弔自一宗百人宛彼寺出仕候被有勤一飯可参旨御掟候然者従今月廿二日初而被執行候可被成其意候百人無之寺書付可被申越候 恐恐謹言
 民部卿法印 
九月十日 玄以在判
 法華宗中

 この命令書が九月十二日に京都の諸法華宗に到来した、ところで大仏へ出仕する各宗の順序は、
一、天台 二、真言 三、禅 四、律 五、日蓮 六、浄土 七、遊行 八、一向 という命令であったが、天台宗と真言宗とが順序の先後を争い、かれこれ悶着を生じた為に、二十二日より執行さるべき筈のが二十五日まで延期された有様であった我が法華宗十六本山は右の命令に接して大いに恐慌を来たし、如何に返答すべきかの問題について諸寺と評定を凝らしたが一向決定しない、終に九月二十一日に最後の評議が六條本國寺に開かれたその時の?末は妙覚寺の貫首日奥上人の著書宗議制法論に、次の如く記されてある。

 予参着時僧正日禎並諸聖人従奥座被出容殿対予語曰今度大仏出仕雖一宗不詳今国主機嫌悪時分偏宣制法趣不遂出仕諸寺及破郤儀令出来歟然間只一度応貴命遂彼出仕即翌日経于公儀可立宗旨制法令議定畢云云予報諸聖曰衆義尤雖可然愚意不爾夫公儀重事何時可同然今強制法趣不及上奏従祖師時堅立来制法一度破之永代宗義不可立就之案先例普廣院殿千僧供養時一宗已及此難義雖然当宗一同立不惜身命行強宣其理義教将軍速被聞召分当宗終蒙芳免了従夫已来宗義制法弥堅固立来於今其理強及上奏国主争無御宥免乎萬一雖及大事身軽法重宗義何足痛之於爰本国寺日禎与予粗有同心気色余聖黙然本満寺日重一人驚動不斜日乾其時悪義未強盛師匠倒惑故会一言不被出本法寺日通種種有会釈憶意与日重齊畢竟此座僉議一度為可受謗施雖然永可被制法義敢無一人只一応上意受供養己次日如先規可立宗義所決定畢予一度破制法受謗施事難同心故再三雖令諫暁無同心人間速起座帰日重遥送予破出今暫可有御思案強有異見曾不及承引

 また同師の御難記(これは奥師が対馬の謫所より京都の信徒へ送られた書簡で不受門流では古来御難記と称えている)にも左の一節がある。

本國寺に於いて諸寺の聖人会合有りて僉議区々に候し時某申様一宗年来の鬱訴この時なり、たとえ諸宗の頂上に被置候とも宗義の制法となれば御供養を受けべきにはあらず雖然当宗を第五番に被置候事は余りの御僻事なり、これを幸の次でとして宗旨の法理を天下に披露有るべし、一宗の本意誠にこの時にあらずば何の時をも期せられ候べき、各一同に思召切て被仰達候へと指切て申ししかども同心の方無之云云

 この時は丁度征韓の役中で行長等が講和条件について明主に折衝の最中であり、この年三月に秀吉は伏見城に移り、七月には殺生関白秀次が自殺し、その妻妾三十余人斬に処せられて畜生塚が築かれたのであった、また文中にある普廣院殿というのは足利義教の事で、義教が鹿園院相國故義満の追善に千僧供養を催した時に、法華宗へも出仕を促したが、その時の法華宗が不惜身命で宗義の制法を申し立てて出席は断り遂に出ないことになった先例がある、その以来将軍の代替りには恒例として諸寺一同不受施の制法を上甲して、予め允可を受けることとなった、今参考のために義昭時代の分を示そう。

当宗都卑本末寺衆徒同檀那等事不受施他宗志殊諸勧進以下不被出之儀祖師以来堅制法之段御代代被聞召入御許容之旨去年八月二日被成御下知之上者向後爾可被守宗体之法度之由所被仰下也執達如件
元亀三年十一月二十三日
右馬助在判
左衛門尉在判法華宗中

 また信長時代には天正五年二月朔日付で、秀吉の代には同十七年卯月二十八日付の免状があるが前の分と大同小異であるから略する。
 さても本國寺の評定は妙覚寺の日奥上人を除いて外の本山は皆一度は出仕することに決した、のみならず一度出仕した上は翌日より制法を申立てようと盟約しながら、慶長十九年まで二十年間も引き続いた大仏供養に便々と出仕したのである。
 今からこの当事の状態をよく考えてみると、この時代に我が宗門が振るわなかった近因は、先年信長時代に安土城内で浄土宗と問答した時に法華宗の僧が相手の土僧に誤魔化されて勝負の決しない内に堕負と見做され、あまつさえ法華方の主任僧が臆病であったために奉行に威嚇されて一札を書きその結果全門全体の逼塞を来たし、漸く秀吉の代に前々の如く取り立てられたような始末であるから、老僧達は皆臆病風に吹かれて今度の大仏供養について宗旨の制法を主張する程の勇気はなく、只宗門が大切なりという名の下に、主義も主張も放擲して事勿れ主義を採ったものらしい、それは凡僧の習い一旦の過ちとして恕するとしても甚だ悪むべきことは、元来この千僧供養は京中の諸寺に課して他国には亘らぬ命令であるにもかかわらず、謗法供養を受けに悪僧共は自分共の同類の多からんことを欲して、他国他郷の僧までも駆け出して謗法供養を受けさせた、これを逃れようとするものは守護所に訴えられ、種々に悩まされたから、心の弱いものは遂に出仕する、または還俗するものが多数出来た、堅固に制法を守るものは寺を捨てて遠国に避難する、山林に流離する、或いは毒を飲んで病を発する或いは自害するという状態で、その悲惨は実に名状し得られぬ程であったのである。
 これらの迫害は時の政府から来ったのでもなく、また他宗の所業でもない、みな自宗の悪僧共の所行なのである。この時は己に仏法が吾朝に渡ってから一千五百余年にもなるが、かくのごとき悪行はいまだかつて見聞した事がない、伝教大使が九猴の出家は仏法を隠滅す云々といわれたのは、実にこれらの悪僧共に該当するのである、なんとまた悪むべき所為ではないか、この大仏供養の始まった文禄四年は今?明治三十七年より丁度三百十年前に当たるのである。
 さてまた妙覚寺の日奥上人は本國寺会議において一人も同意者はなく皆大仏供養に出仕することと知ったから、大いに憤慎してこの上は自分一人なりとも宗旨の法理を上聞に達しようと決心して、同月すなわち文禄四年九月二十五日に秀吉に進覧のため一巻の目安を徳善院法印に差し出した、その趣旨は釈尊一代説教の権実を明らかにし執権謗実の咎を糺し殊にもっぱら時刻相応の本尊は法華本門の本尊に限ると論じ、時はすでに法華の代なり国また法華の機なり、しからば天下を守る仏法は一人法華宗に限るべし、仏法を助ける国王はもっぱら法華経を崇むべし、かくて仏法を世法と相応せば天下太平尊体安康ならんという、左に示す諫状であった。
 それ生を人界に受け形を沙門に、かりながら、いかでか国恩を忘れ、仏恩を報せさらんや、然に仏恩を報する要枢妙法を弘通するに過たるは、なく国恩を謝する秘術正法を伝持するにしかず、但経文云今以無上正法付属諸王大臣宰相及四部衆毀正法者大臣四部之衆応当苦治矣、誠に仏法興滅専明王暗君の時代により世法の理乱は必ず正法邪法の得失にあり故に大覚世尊無上の正法をもって滅後末代の国王大臣に付属し給えり、抑仏法は八宗十宗にわかれ、その義まちまちなりといえども源は釈尊一仏の説教なり、随而釈尊一代五十年の説法事ひろしといえども、それ所詮大いに分れて二なり、一に前四十二年は権教、二に後八箇年は実教なり、然に権教の諸経を法華経に至て釈尊みずから正直捨方便と、きらいすて実教の法華をば要当説真実と説いて此経ばかりを信せよと定給いぬ。たとえば法華経は大塔の如く余経は足しろの如し、大塔出来た後は足しろを用る人なし、法華経あらわれて後、余経を信ずる人は大塔を捨て、足しろを拝む人なり、爰を以経云雖示種々道其実為仏乗云云此心は釈尊四十余年の間種々の経々を説給事は法華経をとかせ給はん為の方便なりと申文也塔を、くむ足しろにあらずや、然に余宗の人師は皆釈尊の捨給たる四十余年の権教をもって宗旨を立候間、先釈尊の敵対に罷成候、この釈尊は三界の衆生の為には主君也親也師匠也、故法華経の第二巻譬喩品云今此三界皆是我有(主君之文也)、其中衆生悉是其子(親之文也)、而今此処多諸患難唯我一人能為救護(師匠之文也)、これ三徳有縁の明文也如此主師親の三徳を備て娑婆世界の衆生をたすけ給ふ仏は一切の諸仏の中には釈尊一仏に限り候若弥陀薬師等の仏此界の衆生をたすけ給事あらば唯我一人とは説せ給ふべからず、然は此三徳を備給ふ釈尊の仰を背く人は不忠不孝逆路伽耶陀の大罪人なり而に釈尊の仰を背くというはいかなる事ぞと申に唯法華経を信ぜぬ人を釈尊の仰に背くとは被説候、然は経文に若人不信毀謗此経則断一切世間仏種云云此文の意は法華経を信ぜざる人は三徳重恩の釈尊並びに一切三世の諸仏の御命をたつ者也と申事也抑一仏を殺したらん罪だにおそろしく候に法華経を一偈一句も、謗る人は十方世界の一切の仏を殺し奉る咎になると説れ候然は此人の罪の報を経に説給ふ時其人命終入阿鼻獄云云此意は法華経を信ぜぬ人は無間地獄におつへんと申経文也、又たとえ法華経を、よむとも余経に交てよみ候人は釈尊の教に背く故にまた無間に堕へしとみえて候其故は経文にないし不受余経一偈云云此意は法華経を釈尊の教の如く読まん人は余経を一偈一句も信ぜず皆悉く打ち捨て法華経計りを持てと申文也、たとえば薬の中へ毒を雑えたれば其薬還って人を殺すが如し故に仏は法華経に余法を交える事を、深く嫌い給う也、又法華経を説の如く持つ人の功徳を経に説て云聞我所説法乃至於一偈皆成仏無疑云云若聞法者無一不成仏云云、又云是人於仏道決定無有疑云云、此等の文の意は法華経を一偈一句も信ずる人は仏になる事決定して疑なしと被説候、又余経にては一人も仏になる事なし、其故は経文に終不以小乗済度於衆生矣此意は余経にては、ついに衆生を一人も、助け給わずと申文なり、又重ねて説云若以小乗化乃至於一人我則堕慳貪云云此文の意は余経にて若し衆生を一人も仏になし給う事あらば釈尊妄語の御咎によりて餓鬼道に堕つへしと御誓言を言い給い候、慳貪は餓鬼道の業と定事は仏法の通判也、釈尊これのごとく御誓をもって余経に成仏なしと定させ給う上、多宝如来は宝浄世界より遥々釈尊の御前に来り給いて妙法華経皆是真実と証明を加え一切の諸仏は十方より此土に集て広長舌を大梵天に付て証誠と成給う、此如く釈迦多宝十方の諸仏一処に集て不妄語の御舌をもって定置せ給いたる法華経の金言をば誰人か是を背奉るべき然るに余宗の祖師は皆悉く大小権実に迷いて法華経を信ぜず、あまつさえ多の書を作て法華経を謗す此等の祖師先徳いかに知恵才覚はいみじく候とも釈尊の金言を破り法華経誹謗の咎眼前に候間大道理の押す所は堕獄疑いなく候其流を、くむ今の末弟など此罪を脱べからず其師の堕る処に弟子堕つと申し仏法の定判之有り故に、いかなる貴僧高僧にてましまし候とも本来の悪道をば、まぬがれ給べからず、故に謗法の僧侶をば悪象毒蛇よりも、深く、恐ろしく思って少しも近づくべからず、たとえ五逆罪の者をば供養すとも謗法の僧侶をば供養すべからずと仏慇懃に法華経の流通たる涅槃経等に深く禁じ給い候、これより法華経は釈尊の御掟を守り申すゆえ、心ならず余宗を隔て申し事、いささか自宗建立の為にもあらず、また我慢偏執の儀にもあらず、ただし経説の掟に任せ奉るまでに候、所詮大仏御建立等の御善根前代にも勝れ後代にも、ためし有まじき御事に間候、諸宗の立行を今よく聞こし召し分け被り何れの宗にても仏説に相叶いたる宗旨を、選び給うべき御事に候歟、その故は大覚世尊滅後末代を誡給ふ御言に依法不依人云云意者現世安穏を祈り後生善処を願い給わん人は仏説を用いて人の言をば用いべからずと定め被り候、然るに法華経は八万法蔵の肝心十二部経の骨髄なり三世の諸仏はこの経を師として正覚を成し十方の仏陀は一乗を眼目として衆生を引導したまう故に一代の諸経に永不成仏と嫌すてられし二乗も法華経に来て皆悉く成仏し三逆罪を造って、生きながら奈落の底に沈みし提婆達多も今の経において天王如来の尊号を蒙り畜生蛇体の八歳の龍女も、わずかに此経を聴聞して即身成仏し、南方無垢世界の主と成る誠に此の如く不思議の力用は余経に都てなし故に法華経の、第四法師品に云我所説諸経而於此経中法華最第一云云、第五巻安楽行品に云於諸経中最在其上云云、第七巻薬王品云諸経中王云云天台云今経則成諸経法王最為第一云云妙薬云法華之外無勝法故云法華無上法王也云云伝教云釈尊立宗法華為極云云経釈顕然の上は私に料簡を加え奉らず、又法華経を持つ人は一切衆生の中に貴き事第一也とみえ候故に経文に有能受持是経典者亦復如是於一切衆生中亦為第一云云文句云法妙故人貴云云秀句云法華宗勝諸宗者據所依経故非自讃毀他云云此等の経釈の意法華の行者は諸宗の頂上に居すべしと釈尊は分明に定置せ給い候然るに余宗の行者として法華宗を軽賤し嘲弄する事大いに仏説に背けり是併野子か師子王を、操り鳥鵠か鸞鳳を笑に異ならず此の如き人は釈迦諸仏の大怨敵一切衆生の悪知識にあらずや、されば西天においては大乗の僧と小乗の僧とは同座を許さず道を分けて同路を行かず、川を隔てて同流をくむ事なし、大唐においては南三北七の十師仏法を様々判ししかども、天台大師出世ありて南北の邪義を悉く難破したまう然るに天台大師は唯一人天下の余宗は皆一同に敵対なれば実に天台の正義立へしども、みえざりしに、陳隋二代の帝王我と聞召し分け給いて、たちどころに南三北七の十宗を捨て天台大使一人を仏法の棟梁となし給う其れに従って以来震且一国智者大師に帰伏せずという事なし、日本においては桓武天皇の御宇に南都の六宗と伝教大師と仏法の争論あり、桓武皇帝高雄寺に行幸有りて六宗と伝教と召合て宗論ありしに六宗皆まけ一言に舌を巻きしかば帝王たちまちに六宗を捨て伝教大師一人を国師と定め給えり爾自以来扶桑一州皆悉く根本大師の門人となる、此如く先例を以て存奉り候に、今も法門の道理をよくよく聞召し分け被り何れにても勝れたる仏法を天下に崇置せ給うべき御事に候歟、およそ一天率土の中には唯一人の主有りて二もなく、また三もなし、その余は皆是臣也民也もし国に二人の主ある時は国乱れ民労て終に刑罰にあたるべし十方仏土の中には唯一乗の法のみ有りて二も無くまた三もなしその余は皆権也小也、然るに権を捨て実に入り、小を嫌いて大を願うは釈迦諸仏の御本懐天台伝教の御所判也余経は無得道今経は皆成仏と者如来の誠言祖師の定判也而して権教執着の輩恣に教門を判し小乗下劣の法を習いて諸経中王の妙典をなげうつ、いかでか諦法罪を脱れんや、そもそも法華経の第七薬王品を拝見仕候へば此経則為閻浮提人病之長薬若人有病得聞是経病即消滅不老不死云云此文の意は法華経は一切衆生を助ける良薬也故に此経を持人は病も悉消滅して寿命長久なるべしと申経文也之に依り過去の不軽菩薩は法華経を持って二百万億耶由陀歳の寿命をのべ在世の阿閻世王は悪瘡いゆる、のみならず現に定業を転じ滅後のけんしんは十五年の齢をのぶ此の如く類章疎伝記に其数際限なし然るは現世安穏の御祈祷にも法華経第一也後生善処の御到来にも此妙典にしくはなし、それ天台伝教は顕密二道の明師西朝無双の大師也然るといえども跡化の衆なるが故に像法千年の御使として、いまだ末法相応の本尊たる本門久成の釈尊ならびに本化の四大菩薩をば造りだし給わず三朝の間に数万の寺々を建立せし人々も本門の数主脇士を作るべき事を知らず上宮太子仏法最初の寺と号し四天王寺を建立ありしかども西方の仏を本尊として脇士に観音等四天王を造り副たり伝教大師延暦寺を立て中堂には東方の如来を本尊として久成の教主脇士をば建立したまわず南京七大寺の中にも、いまだ此事聞こえず田舎の寺以爾也旁不審なりし間委細に経文を勘え奉るに末法に入らざれば此本尊脇士を造るべからざる旨分明也正法像法に出世ありし論師人師の造り書かざる事は仏の御禁を重ねる也もし正法像法の間に久成の教主釈尊ならびに脇士を造り奉らば夜中に日輪出で日中に月輪の出たるが如くなるべし、末法に入りて本化の大士御出世有りて始めてあらわし給うべき本尊なるか故也、龍樹天親は知らせ給いたりしかども、いまだ時至らず付属なきが故に口より外へ出させたまう事なし経文の如き者もっとも今は釈尊の脇士に本化の四大菩薩を造るべき時也経文赫々たり明々たり繁故に之略、爰に吾宗の高祖日蓮大士本化六万恒沙の上首上行菩薩の後身として末法後五百歳の付属を受け人王八十五代後堀川院の御宇貞応元壬午倭国に誕生し釈尊の付属に任せて七宇の要法を広めならびに本門久成の教主脇士を顕し給う故に建長五癸丑三月二十八日午之刻生年三十二歳にして安州清澄山諸仏坊の南面にして一山の大衆を集め念仏は無間地獄の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、戒律は虚妄の国賊、天台は過時古暦と此五箇条の法門を仰立被候金言耳逆道理、或時は流罪、或時頭に疵を蒙り、或時は左の手を打折られ或時は弟子を殺し結句最後に相州龍の口において死罪に行被候然りと雖も仏神の御計をもって前代未聞の物怪出来によりて死罪をば、逃れ給い候、誠に一生の大難小難その数を知らず仏の九横の大難にも勝れ不軽の杖木の責にも越したり若し日蓮大士出世無し者恐くは者釈尊の誠言は虚妄と成り多宝仏の証明は泡沫に同じ、諸仏の舌相は芭蕉の如しなるべしこの功徳は竜樹天親天台伝教も争か及び給うべき、これみな仏勅を重し給う故に身命を的にかけ法華経を弘給い候、それ君の志をば臣のへ、親の志をば子のへ、師の志をば弟子のふると申すは常の習いなり、よりて不肖の身たりといえども無上の妙典を受持し、忝も釈迦法王に仕え奉る爰をもって窃に天長地久の御願を祈奉り鎮に四海太平の懇祈をいたす、法を知り国を思う志、もっとも尊聴に達し奉るべき所に邪法邪教の輩讒奏讒言の間久しく大志を懐て、いまだ微望を達せず是併せて明月狂雲に覆われ白沙汚泥に汚されたる謂歟一宗年来の鬱訴衆僧多歳の胸襟なり、然るに今天下の御政道清廉にして前代にも越え後代にあるべしとも覚えず宗義の素懐この時に開かずんば何の時をか待くん哉、法華経に云後五百歳中広宣流布於閻浮提無令断絶云云伝教大師の云法華一乗桟今正是其時云云、又云尋地唐之東羯之西原人即五濁之生闘争之時云云時既に法華の代也国又法華の機也、然るは則天下を守る仏法は独り法華宗に限るべし仏法を助る国主は専ら法華経を崇給うべし、所以に仏法世法相応せば聖代速やかに唐堯虞舜の栄に越え正法正義を弘通せば尊体久しく不老不死の齢を保ち給わん歟誠惶誠恐頓首頓首
文禄四年乙未九月二十五日                 日奥在判
進上民部卿法印

 此の諫状を呈出した夜中丑の刻に自ら妙覚寺を退去して、遂に丹波国小泉の岩屋に蟄居したその折の実況をば左に御難記を引いて示そう。
 去る文禄四年九月二十五日の夜中に寺を罷出、まず最初に嵯峨の片陰に身を隠し候しかそれをも追われ候間、同月十五日嵯峨を出て栂尾へ罷越し候空坊の有りしを借候わん由内々堅く約束申し候つるか何くより悪く申し成し候やらん遥々罷て候へども頓ちに変改して腰をも懸けさせずそのまま追い出し候、然る間なにとも為し方無く栂尾の門前の小家を借りて中一日逗留せしめ候えばその夜の丑刻計に門を控き候何なる事ぞと耳を欹て候へば地下より使いを立て候、使いの申し様は此の家に宿を借り給える御僧は公儀を背かれたる人にて一段むずかしき身の上の由余処より告知らせ候、暫時も抱置き申しては地下の大事たるべし夜の明かぬ内に疾々出し申さるべし少しも抑留あらば先は所の大事別しては宿の大事たるべしと申して帰り又即ち宿の亭主来て申す様只今地下より此の如く使を付けて候、此一両日の御有様を見まいらせ候へば痛しく存候間、今且く留め申度候へども某か心に任せず、義是非に及ばず候、夜の明けぬ内に疾々御出候へど申し候、問又々そこにも留まらず罷出候き此の如候しかば、何くにも身の置所無く此にたたずみ彼にさまよいて一夜の宿を貸す人もなし、此時心に存する様高祖両度の御流罪あるいは御頸の座種々の大難云う計無りしかども加様に処を防ぎ奉る事は聞かず、一向流罪にも定被て有らば、心易き辺も有るべきと存候、又さて暫くも身の置き所如何有るべき申し候しかば有人申し候は、鶏冠井の寺は御末寺なる間よも追出し申し程の事は候はじと申す予心に存候は是程の体にては鶏冠井とても頼みには成らずと申せしかば忠清と申し同宿申し候は先鶏冠井の方へ御越候へ其先へ罷て暫くの御逗留も成るべき歟、叶うまじき歟を聞き候て即路へ罷向かい申すべし、若鶏冠井も叶うまじきと申し候はば紀伊国の方へ御供仕うべき候と申す、さらばとて鶏冠井の方へ罷越候へば忠清路へ罷向かい申し候は鶏冠井の住持暫しの程なりとも先御腰を懸被れ候へど申被し候、早々御乗物急がれ候へど申す、これにより鶏冠井へ罷越し二十日計滞留す、然るに此の処も京近くにて公儀憚り有とて霜月十五日に鶏冠井を出て丹波の山中に押籠被て六年其間法敵の責め候事、猟師の鹿を籠たるが如し、或いは通ふ人を防ぎ、或いは弟子檀那を悩まし、親類を煩わしなんとせし事は云うもおろかに候へ、何よりも痛みたる大難は末寺末山より日奥に通用を致す事奇怪也とて由無き末寺等を彼謗法供養に駆り出し候、其外の事心言も及ばざる云云
 奥師が鶏冠井に滞留中に妙顕寺貫主日紹より本乗院明伝を使として、大仏の謗法供養を脱れるために今度寺を出られた事はもっとも有難き義である、日紹も今は寺を出ないが聊か存ずる旨があるから妙顕寺出仕の番に当たる時には必ず寺を出ようと云う事を申し遣わした、処が元来本国寺会議の折に主裁者の地位にあったものは本満寺の日重であってその当事の世間の人は日重を大学匠だと信じて居たから出仕すると否との事は偏に日重の意見如何に依って決せられたので、その折彼は心中倒惑し臆病の有様言語道断であったから、日奥が強て諫めたのであるが聞き入れなかった、その時分日重の弟子日乾は此の出仕を迷惑に思い、檀家等に向かってたとえ一命を失うとも出仕しないと言い居ったが、日重は日乾を六條の談所へ呼び付けて強て異見を加え遂に出仕させた、日乾が一度出仕してからは前とは反対の挙動を取り出して頻りに妙顕寺の日紹に出仕を勤めた、日紹は日奥に前約をした程であるから種々遁れようとしたが公儀からは厳しく促される日乾は強く勤め付けるために終に叶わずして出仕した、かの有様を見て他のものも初め一二度一人二人は遁れたが追々に皆出仕するに至ったのである、故に奥師は日重を此の事件に於ける首悪だと言っておる、法華宗がかく法理を破って出仕をした甲斐なき有様を見て、浄土宗より難状を以て法華宗を第六番に下すべき由を公儀に訴えて出た、この時公儀より浄土宗の難状を法華宗へ下渡されて返答せよと命ぜられたが、何と返答を出したものかその時より浄土宗は第五番に上がり法華宗は第六番に下げられた、これを聞いて奥師はすぐ難状の返答七ヶ条を書いて彼宗の邪難の一々これを破り霜月十三日付を以て秀吉に上書した左に其全文を掲げよう。

末法相応本化所立之法華宗法門之條々
仏家大綱之掟事

夫仏法之家都不用人言m依仏説互決是非故大覚世尊定言依法不依人云々、又依了義経不依不了義経云々、誠法有権実人有邪正専不先実経文殆紕繆出来歟縦雖為等覚深位大士相違仏説不可用之況其已下論師人師耶但雖為人師言与実経文合者可信用之故天台云与修多羅合者録而用之云々
於仏有縁無縁事
教主釈尊者為此界衆生備三徳故有縁之仏也、弥陀等余仏不備一徳故無縁之仏也雖云諸経所讃多左弥陀是皆随他一往之方便全非如来出世本懐本跡両門阿弥陀等法華信受仏也是亦非権教執著仏陀先一釈尊者為三界衆生主君也経云今此三界皆是我有云々如此文者娑婆世界者教主釈尊本領也全非阿弥陀仏領分殊扶桑一州者大乗有縁地妙法流布国也三朝之典籍其義分明也故自上一人至下万民一乗相応之機而無非教主釈尊之所従二釈尊者為衆生親也経云其中衆生悉是吾子云々三釈尊者為衆生師匠也経云唯我一人能為救護云云如是釈尊備主師親三徳此界衆生重恩深仏也而浄土祖師嫌教主釈尊立礼拝雑行是豈非不忠不孝逆路之人耶
仏法有権教実教差別事
夫釈尊一代五十年、説法尋其所詮大分二也、一前四十二年権教、二後八箇年実教也而四十二年権教、此経序分無量義経説未顕真実一言破之正宗八箇年法華経定要当説真実令信受之加之或説正直捨方便或宣乃至不受余経一偈法華以前諸経皆悉棄捨之畢以此経説之掟云諸宗無得道立法華独成仏也
宗号之事
今法華宗者依諸経中王之文建立之経云如仏為諸法王此経亦復如是諸経中王云云此宗者既蒙法王勅許独秀於諸宗又人王仏許有之然諸宗者非仏自立宗論師人師、私立宗号事甚背仏説尤不足為依用故秀句云論師立宗自見為極云云
当宗相承事
夫於此宗有経巻相承知識相承宗祖立法理事専依経巻説文事日蓮大士弘通之法門均釈尊内証是豈非経巻相承乎次知識相承者一往依天台伝教意有之例如師子尊者時雖付法断絶恵文禅師以龍樹菩薩為高祖也、再往実義者以直授日蓮之内証相承為宗旨之本意故諸宗超過也
法華宗可居諸宗之頂上事
所持法貴故能持人亦貴譬如世王之太子故経云読持此経是真仏子云云如経文者法華之持者釈迦法王之太子也軽毀蔑如之人豈免阿鼻苦耶 又経云於一切衆生中亦為第一云云文句云法妙故人貴云云秀句云持法華者亦衆生中第一已拠仏説豈自歎哉云云夫経釈顕然也誰懐疑網庶幾有智之君子依実経文可定宗旨位階給
法華宗不親近謗法者事
夫謗法者法華不信之事也捨法華経人釈迦諸仏大怨敵一切衆生悪智識也故不親近之譬如不近主君之寇父母之敵故経云捨悪智識親近善友云云大経云於悪衆等心無恐怖於悪智識生怖畏心云云法性論云智者不可畏怨家大毒蛇旃陀羅霹靂刀杖諸悪獣虎狼師子等彼m能断命不能令人入阿鼻獄矣如此文証其数弘博也具不能記之所詮経論之掟専禁謗法罪然浄土宗祖師大謗法華宗撰沢集等其文顕然也爰以吾宗高祖任如来誠諦之金言破彼宗邪義立此宗正義也抑仏法者自他宗雖異翫之本意道俗貴賎倶但為祈離苦楽現当二世也縦雖苦身行不契正法理徒成虚仮行今生者労身心来生者堕阿鼻文明理詳乞願賢哲君子止一時世事明仏法邪正植寸陰善種証丈夫妙果給
文禄四年乙未霜月十三日
釈 日奥記之

 此の年奥師は三十一歳であった、翌文禄五年閏七月十二夜子刻に前代未聞の大地震が起こりその外虚空より土を雨らし毛を雨らし天変地夭が頻りに発動したから、奥師は災難の根元を勘えて一巻を撰び徳善院を以て秀吉に進達しようとした、ところが徳善院の言うには太閤は事務繁忙であるから糺明が成り難かろう幸に御天子様に御隙もあり智徳明らかで在らせられ御糺明下されるであろうから禁裏へ奏聞せらるる方がよかろうと、依て奥師は一と先ず小泉へ帰り更に禁中進覧の一巻を撰び(九月十三日付なり)宗祖上人の立正安国師と安国論の由来記とを添えて、徳善院より三伝奏へ添書を貰って十月十二日に献上をおわった、即日披露あって叡覧に達し御取糺の結果遂に三井山門その外天下の諸宗へ此一巻の返答を差出すべし法門の御糺明あるべしという内命が下ったが諸寺より一言の返答もないから、遂に徳善院に勅使を立てられて「法華宗奏聞の一巻に依って諸宗と法門の御糺明あるべし」と云うことになった、ところが徳善院は勅使に対して「今ま天下は静謐なりと雖も太閤は其の機遺いいまだ止まず此義御糺明に於いては天下の騒動に罷成るべし先ず暫く此沙汰指置かれ候て然るべく存ずる」と申上げた為に御糺明なくそのままになり、さてかく天変地夭で世上が物騒であるからというので此の年慶長と年号を改められたが、其の後三年経ちても地震の災難は止まない、故に奥師は又候諫状を奉った、即ち慶長三年三月二十八日付である、これもそのままに打ち捨て置かれたがその後御天子様が病悩に罹らせられ日を追って御危篤の由聞こえたから又除悩延命表を撰び同年十月十三日で献上した、かく三度まで上書しても用いられず却って自他宗共に奥師を内々怨嫉し諸方より頻りに讒奏讒言が起こり六年間小泉の謫所に在って法敵より種々迫害を加えられたがその中で独り徳善院法印が保護された事と、後に奥師が或人に与えられたる書簡の内に次の如く示されている。
 先御代の御時日奥大仏出仕致さざる事を様々悪しき様に訴を申者候つれども、いささか聞し召し入られず、結局は某に道理を就られ、法華宗は出仕せぬことを本儀よと仰にて候しかば訴えしもの思いの外に覚えて二度言句を罷り退き、徳善院も此の内証を存ぜられしゆえ六年まで知行のうちに拘へ置かれし云云
かく奥師は三度まで諫状を出され身に於いては既に仏法中怨の責を免れたから、此の上は先聖の例に任せて隠遁しようという覚悟で、まず慶弔四年閏三月中旬佐渡ヶ島へ渡り宗祖四ヶ年御艱難の霊地に参籠し三七日昼夜法味を献げて、六月上旬に帰洛された、此の間に京都の信者が奔走して嵯峨に新地を申請け一宇建立したが、其開堂の導師に奥師を屈請した、それが同年八月の事であった、これが為にまたまた大いなる讒奏が起こり、即ちその年霜月二十日に奥師が大阪坂へ召喚された此の前年八月十八日に太閤秀吉は薨去したから此の時は徳川家康が大阪城で政権を執って居ったのである。例の御難記には
去慶長四年霜月二十日大阪の城へ召下被れ種々無尽の難題を仰懸被是非共一度彼謗法供養を受させんと巧み給処に日奥会いて同心せしめす候しかば奉行衆を以て最結句に仰出被るる様此度只一度の出仕は公儀へ対して一往の仕付まてなれば強いて宗旨の疵に成すべからず然れども後日の人口をいかがと思うに於いては宗旨の瑕瑾と成らぬ様に国主の御一行を出さるべし文言をばいか様にも好のままに成被べし其上諸寺の僧と同座を嫌うならば各別に手人数計を以て法事を勤むべし、其上猶一飲を受る事迷惑ならば只膳に向かいて箸を取計にて只一度の出仕を勤むべし、此上に於いて猶同心せしめずば天下御政道の手始め万人見せしめの為に厳重の御成敗あるべし其身の事は云に及ばず、親類檀那等に至るまで悉く厳罰に行うるべし由仰出被云云

と詳細に其時の顛末を記されてあるが長文であるから其中より奥師が出仕を堅く拒絶した結果遂に其の夜家康の御前に召し出され、邪僧共が無尽の僻見を主張する、奥師は家康と対決するという一段を抜粋しよう。

日奥申様各終日の御口入誠に畏入て候然と雖も最前より申つる筋目の外には別に新しく思案の替る事は候まじ只とくとくいかようにも召行被候へど申せしかば奉行衆即日奥をひつ立て奥の座へ召行れ候是何なる所為ともしらず候き日奥に付んとする僧衆をば皆悉く引放て只一人国主の御前へ召出されぬ而して座敷の体を見候べは案の如く彼邪人共御前に竝居たり又其れに指番て芸州の安国寺並学校三要なども列座あり国主は念仏者にて御座す故地体当宗を嫌わせ給う上某重々の御掟を一も御請申さず一一返し候しかば以の外に憤らせ給う御気色申計無く上に随う下なれば御前に有し大名小名皆以一同の怨嫉也彼邪僧は当座吾謗法の恥を隠さんが為に能き味方を設けたりとや思いけん内々心を合せたる事なれば居長高くなり大音声を上げて無尽の僻見を申狂う其有様誠に興醒る事共也或いは妙の重は善悪不二にして謗法も苦しまず由を申し或いは取捨得宣不可一向の釈或いは若深識世法即是仏法の文を引曲て後日の難非をも顧みず散々に申散す余りの物狂わしさに祖師の立義も一往の方便にして実義には非ずと申し、あまつさえ安国論の亀鏡をも只一言に申破り又高祖大士は安国論を以て白楽天か楽府にも越仏の未来記にも劣らず書きたまえども日紹が口に値ぬれば虚妄の事となり又此事は御前に有し大名小名皆悉聞たまへる事なれば争い有べからず悲しい哉悪比丘一旦の名利の為に三寸の舌を振て諸仏の命根を断歎哉暫時の恥辱を補んが為に大妄語を構えて無間地獄の道を開きぬ仏法の苗を食失う大蝗蟲人天の眼を抜取る抜目鳥此国に出現せり恐るべし悲しむべし日奥此等の大僻見を聞に余りの邪義なれば返答に立入べき義にも非ず其上兼て如意論師の遺誡を聞し事なれば強いて争いに及ばず則国主に申して云よくよく当宗として謗法供養を受けぬ事は祖師以来の制法天下争無き義に候、然処に彼邪僧共仏祖の掟を破って謗施を受候、故に身の恥を隠さんが為に無尽の僻見を申す加様の大邪義をば取上げ給て御沙汰に可被及事にも非す其上前代の御教書折紙等を披露せしめ候上は彼邪人等に召合被及ばず事也然れども宗義の道理猶も有体に聞し召んと思召さば判者を被立候へ経文釈義正く紙面に載って申上可候、今口に任せて烏を鶯と申しても判者無ければ理非分可く様なしと申ければ国主嗔らせ給て紙面も用無し只妙の重に於いて他宗の供養を受けぬ-事あらば只今此座にて申可仰被日奥押返して申様妙の重に於いて謗施を嫌う事勿論に候但し昔より対論の法として判者記録者を立被双方の証文を書載て勝負を決被候然間今も有体に邪正を糺さんと思召すは対論の法の如く判者記録者を立被候へ双方の義を紙面に載て理非を決可と申ければ国主仰るに云年来の学問は加様の時の為也只直に申すべし何ぞ紙面と云邪爰に邪僧大に力を得て申様御掟の如く紙面は入らぬ事に候只直に問答致すべし、申す日奥曰汝等道理無し故に紙面を嫌うは大誑惑也、当座の弁口を以て理を云紛らかさんとするは比興至極に非ずや即国主に申して云今邪僧道理を申掠め文釈を引けども本文の心に背き沙汰の限りなる邪義を申す然と雖も記録に載らず判者無ければ邪正分からず候、所詮紙面の勝負は互いに理非紛れなく道理憲法なる者に候是又先例無に非ず昔南都北嶺の法論も紙面を以て致被なる証拠歴然也其上只今御尋は妙の重の御不審也而に妙の重は仏法の極談甚深の理にて天台妙楽の釈義も以の外広博に候へば卒爾に申宣難候而を邪人等道理に詰り候故大いに邪義を巧出め妙の重の義理を申曲げ当座に勝負を決せんと申は大誑惑の心顕はに候畢竟妙の重を委く聞召んと思召さば記録に如事は有べからず候御前に於て高声の争論且は慮外且は尾籠の至に候歟只神妙に紙面を以て聞召るべしと申す国主仰云大仏の出仕を嫌は只一人也衆僧は苦しまずと云汝若輩として衆義に違するは法華宗の魔王也日奥申して言く仏法の邪正は全く人の多には依らず只経文に叶を以て本とせしめ候其上末法に正法の者少しと申事は巳に仏陀の金言に候故に涅槃経に正法の者は爪上の土謗法の者は十方の土の如しと説れて候自讃に似ては候へども経文の正義に任せば某一人こそ正法の者とは見えて候へ爰に国主道理に泥被深く憤らせ給いてかように強義をいう者は天下の大事を起すべし、ただ流罪に行うべしと仰被日奥押返め申様五年以前寺を罷出し時より身命をば已に仏法に奉り候流罪死罪の義今更驚かぬ事に候と申して座を立候き日奥一言の錯りあらば断頭にも及ぶべかりしかさすが道理極成せし故に死罪をば免れぬ。親類檀那も大難に及ぶ事なくただ予一人流罪に定められ又爰に邪人共国主の強く悪み給者なればいか様の僻事を致したりとも御咎も有るべからずと存するに依りて大勢の中に取籠悪僧とも立懸て予か袈裟衣を奪い候其時予心に存する様吾朝に仏法始めて渡りし此守屋等の大悪人仏法を嫌い僧を悪み豊国法師等の三衣を剥取て策を加えたり高祖大聖人は数百人の謗法者に取籠られ給て岩瀬の少輔房に懐中の法華経を奪われ第五の巻を以て面を三度打れ給う昔と今は替れども仏法に付いて大難に値い悪人に責めらるる事は少しも替る事なし某下賤の身として末代に生を受といえども祖師の絶たる跡を継てかるる大難に値事生々世々の悦び何事か之の如く余りに嬉しく候し間諸人に向て宏言を放ちし事共繋げれば註さず

かく奥師は大坂城にて流罪と定まったが、すぐには処刑されず一旦小泉へ帰ることになった、そこで極月の雪中に守護正議論を著わされた、此の書は大坂城中にて邪僧共が主張した邪義を一々摧破し宗制の正義を唱道したもので、元より遠島に朽ちる覚悟であるから此の書を遺弟の形見としたのである、然るに邪僧共はこの時大坂城内で日奥と問答して勝ったから其の三衣を剥ぎ取ったと言いふらし、また虚偽の問答記録を作為して世間を瞞着した、よって奥師の弟子の日芸というが、直ちに其の偽書を破折したる著書を公にしたのである、而して奥師は翌慶長五年六月にいよいよ対馬へ流罪されることとなった、其の間の消息をまた御難記を引いて示そう。
四箇年以前大坂に於いて御勘気を蒙りし時直ちに流被候はば一向一思にて少は心易き辺も候はんに又々丹州へ押帰被候小泉へ罷帰て見候へば弟子同宿等も皆々失せいと散り、最寥たる山中に御勘気の身と成て召使候者一人も候はず物哀れなる有様殊に大雪降て路を埋み候へば問来る人も候はず今日流さる明日流さると申しやすらい候し程に年も明け候へば又流罪御赦免の由方々より申来り候実は過ぎぬ身にて候間さもや候らんと存候へば又一方よりは流罪一定たるべしと申す往きもせず留りもせず中有に懸りて中々心苦しく候し事心も言も及ばず候き本より流死の二罪は覚悟の前に候ひし間一身の事はいかように成候とも此段は驚かず候しか某に同心の僧衆並びに弟子などの行末いかが成行候はしすらんと是のみ心煩わしく候き其間敵方より夜討にせんと申す沙汰もあり又人の通いを止めんが為に忍々に人を付け置きて窺い候程にたまさか見舞の人々にも参詣の旁にも見参申事も叶い候はずこれに依り遠国より遥々来たり給える人々にも対面を遂げず空しく帰し候き誠に剣の上を越え薄氷を踏む心地して一日一日と罷過候程に五月の末方有方より公儀の御掟として明日必小泉の住所を破却せらるべき由慥の沙汰承り候とて立文持て来り候然る間内々其覚悟を致し待居候し処に同晦日大坂より流罪の上使到来候又やや有りて新在家より清水紹務松田よりの内状を持て走り来て曰く、さても御流罪の儀今迄相延候間よもと存候し処に昨夜大坂より此如く折紙到来候と云うも敢すはらはらと落涙せり日奥申様年来願い申つる事此事に候はすや是程の大願成就の喜を何とて歎かれ候や其懶惰懈怠の身たるに於いて父母師匠等の大恩徳末夕一塵も報せず今仏法の御為に遠流の身と成候大功徳を以て自身の罪障消滅せしむるのみならず父母師匠親類檀那等の之恩処一一に是を報し候はん事大なる幸に非ずやと申して帰し候き則六月朔日丹州を罷出へきに候つるに大雨降て候故に朔日は逗留し二日に小泉を立て其日大坂へ罷付同六日に大坂を立て四百八十余里の大海を凌ぎ同二十六日対馬へ罷付候路次の間の難堪思召し遣れ候へ地体暑気に侵か被所労気に候し上へ纔なる小船に大勢の者一に乗り込み六月土用炎天の最中に照日と焼く火とに責められしかば所労弥重く成り露命已に危き体に成り候き余りに心苦しく候し時はただ一思に海へ飛び入らんと存候しか此年此数度の大難を凌ぎ今と成りて心短き事を致し候ては還て甲斐無く名を取り仏法の名折にや成候はんすらんと思返して留り候き偶々島に著て候へば本より無仏世界の島にて候上知たる人は一人も候はず府中より七八町の奥人倫離れたる山陰の荒れたる小家に指入て一日一日と年月を送り候程に云云
常楽院日経上人が上洛して妙満寺に董されたのが丁度奥師流罪の年で、経師は大の折伏家であったから、大に在京の邪僧共を強折された経師の法難が大に奥師の身の上に影響したそれは彼の経師の江戸問答の彼家康が念仏無間の法門を経文に証拠ありや否や等の問を諸法華宗に下した時に、やはり対馬の奥師へも下問したのである、奥師が答書を認めたのが翌慶長十四年三月のことで(関東の諸寺は其年極月京都よりはやはり翌年即ち慶長十四年三月に答書を提出)
念仏者無間地獄堕経文証拠事
天台六十巻中念仏無間法門之有否乎事
日蓮上人宗旨建立者私之義歟将経文証拠有歟事

己上三箇条であって、奥師は諸法華宗の軟骨漢とは大反対で経師と同じく、一々証文を挙げて返答を書いた、奥師自身は此の時心竊に宗義の邪正を糺明せらるる時期が到来したことと喜んで居られたが、案に相違した此の書の成る前月已に経師の師弟は処刑を受けられたのであるから、この返答書は空しく与安法印の手許に抑留されることとなった、のみならず常楽院法印法難の後は法華宗の事とし云えば、一言も申出ることが出来ない為体となった、それが為に奥師の在島も長引くこととなり終に十三ヶ年間も艱苦を甞められた師は在島中に大に内地より書籍を集めて著述に尽碎された、中にも浄土宗の学者実慧の「摧邪興正集」に対しては「断悪生善」と題する三巻の破書を造り、又当家の悪僧練意が今昔の円を混同せる邪義を破する為に「円珠真偽決」上下二巻を著わし其他諫暁神明記、研心鏡等の著作はいずれも有益な著書であるから序に紹介をする。
さて奥師の赦免は慶長十七年の春であって、其の年六月八日に妙覚寺脇坊延蔵院へ還帰された、其の前後の顛末は神秘的な話もあり随分面白いが兀長に渉る恐れもあり録内啓蒙二十九の七十一丁以下に「奥師一代行業記」を引いて載せられてあるから?には略することとした、翌慶長十八年には所司代板倉伊州が駿府へ下向する時に奥師も同行して家康に見参した、さて又京都大仏は彼の文禄五年閏七月の大地震の折に仏体悉く破損したから、信州善光寺の如来を其の跡へ安置したが慶長三年八月将軍塚が鳴動し、又この如来の住処には災難が起こると世間で言触らした為に頓かに信州へ帰へし更に金銅の大仏を造立したが、仏体漸く成らんとして仏身より出火し仏体は勿論大殿まで悉く灰燼となった、これは慶長七年十二月四日の事で、其の後同十五年六月(或云十四年春)また大仏を再建し始め同十九年四月落成して堂供養の一段に至り、鐘銘の一件より俄かに天下の大乱起こり、即ち十一月には大阪冬の役となり十二月中旬僅かに媾和した。翌年(此年七月元和と改元)三月大坂方再学を企て四月夏の役となり、五月八日遂に豊臣氏は滅亡し七月豊公の廟を毀った、是に於いて奥師が豊公に出された亡家亡国の禁書は全く符合し、随って大仏供養も慶長十九年限り止ったのである、奥師は帰洛しても大仏供養の止まぬ内は妙覚寺の本坊へは移られなんだので、漸く元和二年三月二十三日に至り本坊へ帰られ、同月二十五日満山の衆徒は本堂に於いて一同改悔をし、奥師より久成院外二僧を使いとして懺悔以後更不作の義を一同に仰渡された、同年卯月の比に筑前博多問答山勝立寺の唯心院日忠が上洛して、奥師と諸寺との間に入り和睦の扱をした結果、同年六月二十一日妙顕寺日紹が諸寺の総名代として妙覚寺へ出向して改悔を済ませ、同月二十七日妙顕寺に於いて諸寺の貫主会合し、奥師も臨席して?にめでたき宗内の紛憂が全く鎮静したのである是より先慶長二年に池上の日惺師態々上洛して奥師と諸寺との中に入り調和を計り公儀へも上書されたが成功せず、また関白の母公瑞龍院も手を尽くされ、他の貴顕達も数度尽力されたが、何時も不調に終わった、それが為め奥師は前後十八年艱難されたので、幸に今度は時刻到来して円満に調停されたのは、誠に結構な事である次で同九年十月十三日付で秀忠将軍より不受の折紙を賜った、その文は次の如くである。
 法華宗中之事依為祖師以来之制法不受施他宗之志殊者諸勧進以下不出之儀尤得其意候向後京中江勧進之儀申出旨雖有之当宗之儀者任先規例可相除状如件
元和九年癸亥十月十三日
板倉伊賀守  勝重在判
法華宗真俗中

依って同月二十日京都諸寺が会合して法理一統の連判状を次の如く調整した。
(京都諸寺法理一統之連署)

此度板倉伊賀守殿継目之御折紙に付而遂衆会重々談合仕任先規申請之上者可為諸寺一統候於此儀毛頭私之異儀有間敷候為其連署如此候已上
元和九年癸亥十月二十日

遠島十八年の間難行苦行をいたしながら、高祖の御敵と成給う御人の御音信など受申候へば、某が年月の難行苦行も湯をわかして水に入たるが如くに成候へば加様の迷惑無之候所詮かほどの御信力御威勢を以て日乾日遠にきっと御異見被成、二人の人々改悔をいたされ身延も昔の如く法水清く成申候はば、日奥も即身延へ参詣いたし人々をも又々申候て参詣いたさせ候はば、高祖大聖人もいかにうれしく思召され候はん、若も今の分にて身延の法水濁り天下の参留り候はば、ただ養珠院殿御一人の御咎にて候べし云云。

 かく京都と身延との間不和となり、延山の法義乱墜したに付いて、関東池上の日樹上人は大に之を悲しみ乾遠二人を度々諫められたが聴き入れない、其の上或る年日遠が延山から年賀に江戸へ登った帰りに、例の如く池上に滞留し其の帰山の日に日樹が川崎駅まで見送った折、日遠が一冊の書を日樹に渡したから輿中で之を見ると即ち破奥記であった、此れより先き已に再三檀家より日樹に破奥記を呈出したが其の儘秘蔵して不問に措いたので、それは大仏供養は已に慶長の末年に止まり、又江戸で臨時の仏事が執行されても吾宗だけは只諷経を勤めるのみでいつも供養を免除されて最早宗制に就いては異議はなかったからである、然るに日遠が破奥記を手渡してから後は彼等の邪見が愈よ盛になったから、やむを得ず日樹など正義の人々には彼等の非道を糺す事になった、随って都鄙の真俗は彼等の染濁を厭って遂に延山に参詣する者が年々稀少になった、日遠が延山を退いて後、日祝日要日深の三代僅かに過ぎて日暹の代に至り乾遠等相誘いて頻りに讒訴を構えたので、これが身池対論の興りである。或は寛永三年九月秀忠公夫人崇源院殿のの法会の折日樹のみが施物を受ずして身延一派が施物を受けたのを無間の業人と罵り身延を無間山だと斥けたから、延山より訴えるに至ったのだと云う説もあるが、延山謗地の事は巳に崇源院法事の前より都鄙の真俗が一同に唱え立てて居るし、又此の法会の折には池上日樹身延日深関東諸寺諸山、京都諸寺の代妙顕寺当住日饒等が増上寺に諷経して皆一同に供施を受けなかったので、この事実は已に討論の折にも一問題となったほどであって延山の日深も供養を受けなかったことは明白である、のみならず討論の翌月即ち寛永七年三月に秀忠公の妃君家光将軍の御姉たる京極若狭守の北の方興安院殿の法会に池上日樹身延日暹関東の諸山が小石川伝通院に諷経した折にも、已に前月討論の結果不受の宗制いよいよ明白となったから、此の時は一同に供養を免ぜられた、して見れば崇源院の法会の時より事が起こったという説は非である。

 さていよいよ身延方が幕府へ訴状を提出したのは寛永六年二月二十六日付であって上訴の主旨は
「池上日樹は日奥が大仏供養を受けざる邪義を救わんとして、延山に対し妄りに謗言を加え、延山の前住日乾が大仏供養を受けたる故延山は謗法の地と成り参詣の輩は地獄に堕つべしとて、延山の参詣を抑止し供養を停留し速に延山を滅却せんとす、故に巳むを得ず高聴を驚かし奉つる、彼れ日樹は国主の供養は謗法の施なる故受くべからずと唱え乍ら国主所施の田園を受用し、又身延は謗者なりと云い乍ら延山信仰の緇素より施物を貪る、心口相違し自家撞着の者なり、つつしんで裁断を仰ぐ」というのであった、此の訴訟の翌月備前岡山蓮昌寺より池上へ見舞状を送ったに対して池上より発した返書の本文を次に掲げて訴訟前後の実況の一端を示そう。

閏二月十九日之御飛札具令拝読候如仰従延山以目安被致言上候偖舊冬二十六日従賀州御袋様同二十九日迄毎日両度ずつ使札被下候て御扱成被候、先一味和談し御袋様に於盆取替計りも仕候へど仰被候て、何共迷惑に存入候き、当正月八日御城へ直仕候次に参候て御礼申上候へば、座著より和睦仕候へど御扱御出被其終日同言にて仰被候、野僧も、能々御扱成被て宗旨筋目さえ能候はば異儀無候由、終日同様に返答申上候、延山前代も宗旨法理穢染致被先師は改悔懺悔御座候間其作法如にて候はば先一味可仕候由強々と申上候き其就御袋様仰被候は何事も仏法之筋目存不候女人之事に候間平に平に無味に和睦仕候由仰被候左様に候はば先年日富様日瑞と京都於日奥日乾和睦え扱候つれ共無味にて候故、又加様之六ヶ敷事出来候間手形を日暹致被候はば和睦申可由候処に、尤手形致可之由仰被候間左様に案文を此方より之進可由申て
案文
宗旨法理如先規不受不施之義堅守而不可存新義為永代一札如此候
年月日 日暹

と案文を書進候処に、彼写「新義」之二字をこれ除く様にと相好被候、一字もこれ除く事罷成不候由強申候き、これに依り賀州御袋様御扱事切候、其後法華宗之御侍且那衆重て御扱被成候半と被仰候間、先度賀州御扱之時者御女儀之事に候間、少し柔かに案文を好申候き、歴々之御侍中之扱にて候間弥々永代堅剛皆々様之亀鏡にも罷成候間「為改悔為後代一札如此に候」と書被給候はば一味和合申候由申候故彼方弥々無念に念被候哉言上被致候、是は紀伊御袋女性にて候故出頭衆を頼入候はば御所存すなわち罷成可と存入被候故にて候へども、江戸中御城方町方取沙汰方は先規之宗旨の法理、彼方は新義邪儀と一同に風聞仕候故此方に勝手に罷成候はやはや正月より久々の事に候故彼方弱申被候、此方は於今毎日造営普請計にて候、況延山目安彼上より此方へは於今御裏判も下被不候故返答書も不仕候安閑無事にて候、乍去往き往きては御尋も可有之かと存候て此四五日は油断無談合申事に候、殊更彼方には色々怪異計打続候に此方には一事も何事無候、僻見邪義之現罰競来候へども無慚愧之人にて候間其験も存不わ浅間布不便之至にて候、猶近々其隠有間敷候、恐々謹言
三月二十三日
池上
日樹有判

備前岡山
蓮昌寺 貴報
かく身延より訴出てたが漸く翌年に至っていよいよ対論となったその時池上よりの答書は「不受不施の法制は祖師以来殆ど三百有余年に及んで一宗の諸門徒更に異議なかりき然るに身延先住日乾誤て新義を立て他宗の供養を受ける事を許し、恣に宗旨の法理を破し衆人をして謗法の業因を結ばしめ未来の苦果を招かしむ、依て或は人の便りに寄せ或は対談して諫むれども敢て許諾せず、重ねて抄を作り上代の明匠を毀滅しあまつさえ上聞に達す宗門の歎き之れに過ぎず日奥は千僧供養の時堅く祖制を守りて貴命に応ぜざりしかば遠謫せられたるも後赦免を蒙りて舊寺に召還され已に当御代には折紙を下され爾来数度御供養ありしも当宗には供養を免さる、文証現証不受布施の法理顕然たり、其の上延山の先師は不受の所立なるに末学として新義を企つ其の罪科恐るべし、日暹は国主賜う所の田園を供養なりと云うも是れ世法と仏法と仁恩と供養と帰依と不帰依とを混乱せる謬なり」とて其区別を弁じたのであった。
此の対論は家光公の代寛永七年二月二十一日(今明治三十八年より二百七十六年前に当たる)江戸城酒井雅楽頭の館に於いて午の刻より始まった、列座の面々は
判者 台家 天海大僧正 南光坊
   輝家 本元国師 南禅寺伝長老
   台家 厳海春日岡 常陸国佐野
   台家 弁海月山寺 常陸国水戸
   台家 竹与三途台 上総国長南
   台家 俊海寂光院 常陸国江戸崎不動院
池上方 武州 池上日樹
    中山隠居日賢
    下総 平賀日弘
    小湊前住 小西能化日領
    碑文谷日進
    中村能化日充
奉行 酒井雅楽頭
   土井大炊助
   島田弾正忠
   外数多列座
   道春法印
   永喜法印
身延方 身延前住日乾
    身延前住日遠
    身延当住日暹
    上総藻原日東
    逗州玉沢日遵
    鶏冠井心了院
 対論は未の刻の終に終って奉行衆より「今日は理非決断の沙汰は之れなく、重ねて御披露に及び御意を請うべし、まず双方罷立たるべし」と依って池上方まず御座敷を起ち広間に控えたる所へ良ありて永喜法印使者として「双方対論の口上具に聞召し入らる、猶此の上三問三答の記録を呈示せらるべし」と言渡した、此の時の対論は受と不受との事、寺領と供養との同異を論じたので、当宗が不受の立義となる事は元より明らかであるが、寺領と供養との同異に付いて池上方では、日向記の不染世間法の下「国王大臣により所領を給わり官位を給う共夫には染せられず、謗法供養を受けず、よって世間法という也」の文を引いて国主賜う所の田園は世法で即ち仁恩であるから供養とは異なると論じたが、身延方は正真の本には「謗法供養不受以」の語は無い不染の染は染著の義だと曲解している。已に対論の時版行の本を持参して出たと言うから之は邪義を募らんとて新に開版して古紙に模写したものかと思われる、此の時の対論の記録は身延方のと池上方(池上の分は現に不受不施講門派に日樹自筆の本が保存されている)のと二様ある、また江城年録にもあるが身延贔屓のもので世の歴史家が己に信を措き難いと云って居る要するに身延方は此の対論に負けたのである、かくて身延より即日付で池上へ問難書を発した、池上よりは同月二十三日付で其の返答書を出し同時に身延誤の箇条十二ヶ條の問状を提出した、ところが月を越えてもその返答が出ないから翌月池上より左の訴状を提出した
謹言上去二十一日遂対決其上双方以記録可致三問三答之旨被仰付候條依之一問一答互相渡候於中従此方数多問難申懸候処身延衆重而不被致返答候自古任問答之作法記録之返答無之候得者負仕候間其旨急度被仰付可被下候
今度之儀者於一宗中祖師之立義被相破候間相論申事仁候曾奉対御公儀非違背申候然処従身延宗旨之立義被申曲候間尤迷惑奉存候乍恐以双方記録被遂御糾明可被下候
大仏供養之後度度御供養雖有之於日蓮宗者被成御宥免候其上権現様御所様以御下知不受不施之御折紙被下置候上弥宗旨之作法如先規永代無相違様偏奉仰上意候以此旨宜預御披露候誠惶頓首
寛永第七庚午三月二十一日
池上本門寺
日樹在判
進上御奉行所

そこで本来は身延方が非理であるから御咎を蒙るべき筈であるのに養珠夫人が身に替えて身延方を救ったからにして、遂にその翌月次の如く議決されたが、さすがに幕府も池上方を問答に負けたと誣ゆる訳にも行かぬから公命違背の名の下に処断した所は注目すべき点である。