萬代亀鏡録

宗義制法論 下巻(日奥上人)

 他の会通に就いて重難を加う篇
 一、御講記会通の下
およそ御講記の如くんば不染世間法如蓮華在水の文に就いて謗法供養を禁じ給う。
 向師この御講を筆記して末代に留め給う。
 延山の代々この本文を守りて堅く謗施を受ける事を誡めらる。
 師資の弘伝あに異轍あらんや。
 それ地湧の菩薩心地清浄なること蓮華の淤泥に汚されるが如し。
 淤泥とは御講記の如くんば謗法供養なり。
 故に高祖謗法供養を受けざるをもって不染世間法というと判じたまえり。
 高祖既に地湧の再誕として吾が朝に託生し、託胎の奇瑞には母公霊夢を感じたまうに日天蓮華に乗じて胎内に入ると。
 故に夢の吉瑞によって名を日蓮と号し給う。
 名詮自性なれば本地の清浄を表して蓮をもって自称となし給えり。
 本地垂跡ともに蓮華をもって清浄の行を表す。
 故に世間の法に染せざる事蓮華の水に在るが如し。
 高祖既に蓮華の行者として清浄の妙法を行じ給う。
 いかでか不浄の謗法供養を受け給わんや。
 しかるに日乾等身の不浄を隠さんが為に高祖に於いて無実の咎を毀り付く。
 あに祖師の大怨敵にあらずや。
 不染とは汚れざるの義なり。
 故に字書にいわく、染は染汚なり。云々
 たとえ心染著せずといえどもすでに不浄至極の謗施を受く。
 これあに汚れたる者にあらずや。
 たとえば蓮華の如き無心にして染著の心無しといえどももし糞穢等の不浄を蒙らば誰か愛してこれを玩ばんや。
 外典に言える事有り。
 西子も不潔を蒙らばすなわち人皆鼻を援ってこれを過ぎんと。
 朱子のいわく、西子は美人なり。
 不潔は汚穢の物なり。
 鼻を援うとはその臭を悪むなり。云々
 この意をもって知んぬべし、日乾等既に不潔の謗法供養に汚さる。
 改悔の清水を用いずんば入阿鼻獄の後永く不浄の中に生ぜん。
 悲しいかな、日乾不浄の身をもって清浄の身延山を汚す。
 清涼の池に不潔の糞穢を入れたるが如し。
 池水清浄なりといえどももし不浄を入れれば誰人かこれを用いん。
 延山本来清浄の霊地なりといえども謗法供養に汚れたる人をもって貫主となせばその山いかでか汚れざらんや。
 この道理を弁えざる人空しく歩を運んで還って不浄に身を穢す。
 世間の不浄は水をもってこれを浄む。
 謗法の不浄は改悔をもってこれを雪む。
 しかるに彼の謗供の不浄多年重沓せり。
 誠に深重の改悔にあらずんば一塵も浄まるべからず。
 こいねがわくば無益の慢幢を倒して改悔の寸心をめぐらし阿鼻の苦を免れよ。

 一、他会通していわく、これはこれ供養に貧染して受ける事を制す。
 全く受けざれというにはあらず。云々
 弾じていわく、延山等の先聖貧染の心無しといえども皆謗法供養を受けず。
 代々堅くこれを禁ず。
 日乾に至って初めてこの制禁を破る。
 あに師敵対の人にあらずや。
 いわんや日乾実に貧染を離れたる人なりや。
 偽って無貧の由を称して世間の人を欺誑す。
 それ真実無貧の人は著心無き故に偽って邪義を巧まず。
 もし過ちあれば早くこれを改む。
 日乾等の如くんば天下紛れなき大謗法の過ちあり。
 しかるにこれを改める事を欲せず深くこれを隠さんと欲して誤りの上にいよいよ誤りを重ねる。
 これひとえに貧心強盛の致す所なり。
 あにこれを無貧の人といわんや。
 古書にいえる事あり。
 昔盗人有りて人の家に入り鍋を盗みて頭に戴いて出でぬ。
 その主人跡を追い即時にこれを執らう。
 盗人両手を開き出して我これを盗まずと陳ず。
 これ口に盗まずといい、また手に持たざれどもその鍋頭の上に在りて顕わに人の見ることを知らず。
 あながちにこれを争う。
 路傍の人皆これを笑う。
 これ儚き者の手本なり。
 今日乾が所行を見るにこれに相似たる者か。
 口に貧染なく謗法なき由を称するもその貧染謗法の顕露にして天下の人あまねく知ることを知らず。
 自ら隠さんと欲して種々にこれを争う。
 その咎いよいよ顕わにして人その不明を笑う。
 ああ恥ずべし、恥ずべし。

 一、他会通していわく、高祖等の三菩薩号諸寺諸社の僧正法印等の官位の勅許及び所領等これ国王大臣の供養にあらずや。云々
 弾じていわく、高祖等の三菩薩号の事三祖その菩薩号を望み給うにあらず。
 大覚僧正天下の旱魃によって勅命を蒙って雨を祈るに忽ちに霊験あり。
 天子その奇異を感じ給いて褒美の為に三祖に菩薩号を授け給えり。
 何をもってかこれを供養といわん。
 謗供者身の誤りを隠さんが為に供養にあらざることをもって悉く供養と名づけんと欲す。
 これ大悪義なり。
 世間出世品により物によってその語また異なる事あり。
 例えばよく主君に仕えるをこれを忠といい、よく父母に仕えるをばこれを孝といい、よく兄に仕えるをばこれを弟というが如し。
 仕える身これ一なりといえども所対によってその名悉く異なり。
 また士官職の労ありて君禄を給うをばこれを賜といい、士官職の労なくして君これに与えるをばこれを周という。
 周は救なり。
 無職の士その周と名づけるをばこれを受け、その賜というをばこれを受けず。
 君の賜う所同じといえどもいささか語の品によって或いは受け或いは辞す。
 一宗の制法もまたもってかくの如し。
 国主物を給うに或いは世間の恩賞あり。
 或いは仏事の供養あり或いは勲功の褒美あり。
 何ぞ一概に供養といわんや。
 また諸寺の僧正法印等の官位は皆その役を勤めてその勅許を受く。
 敢えて供養にあらず。
 今たやすき先証をもって謗供者の非義を難ぜん。
 もし僧官の勅許を受けるをもって謗法供養となるといわば古の明匠碩学僧官の勅許を受けてしかも大いに謗施を受ける事を禁じ給えりこれ皆誤りなりや。
 もしこれ誤りなりといわば師敵対なり。
 いわんや祖師以来天下の諸聖これを誤りといわず。
 もしこれによって誤りにあらずといわば今の会通はなはだ非なり。
 次に所領の事前の三義をもって分別すべし。
 世間の恩賞ならばこれを辞するに及ばず。
 仏事の供養ならば謗法となるべし。
 これを受くべからず。

 一、当時天下の信者多く身延山に詣でざる道理先段にこれを述ぶといえども今また重ねてこの義を論ぜん。
 問いていわくその貫主の謗法によってその山その寺共に謗地となる義分明の本文これ有りや。
 答えていわく、これあり。
 本より依正不二なり。故に能居の人清浄なれば所居の土もすなわち清浄なり。
 能居の人不浄なれば所居の土も即ち不浄なり、故に疎にいわく、それ依報の国土は皆正報の所感なり。云々
 記にいわく、およそ諸の依土は皆正報に順ず。云々
 この本文によるに能居の人謗法ならば所居の土あに謗地とならざらんや。
 重ねて問いていわく、天台妙楽の解釈は分明なり。
 高祖御所判の中になおその例証ありや。
 答えていわく、これ有り。
 三大秘法鈔にいわく、叡山の座主を始めて第三第四の慈覚智証存じの外に本師伝教義真に背いて理同事勝の誑言を本とし、我が山の戒法を蔑り戯論と笑いし故に思いのほか延暦寺の戒清浄無染の中道の妙戒なりしがいたずらに土泥と成りぬる事言いても余りあり、嘆いても何かせん。
 彼の摩黎山の瓦礫土となり、栴檀林の荊棘と成りしにも過ぐべし。云々
 この本文の如くんば叡山すでに覚証二人の謗法によって不浄の土となる事その理分明なり。
 身延山またかくの如し。
 日乾等の謗法によってあに謗地と成らざらんや。

 一、他会通していわく、日海叡師に対して改悔の事しばらく世の譏嫌を息めんが為に禁じ来るの日その法式また有るべきか。
 ひとえに一隅を守りて令法久住の大倫を失わばむしろ聖旨に契わんや。云々
 重ねて難じていわく、世の譏嫌を息めんが為に日海改悔あること宗義の制法に協わば日乾何ぞまた世の譏嫌を息めんが為に改悔なきや。
 もし日乾に於いて世の譏嫌無しといわば眼前の偽りなり。
 世間の諸人日乾を譏嫌する事その声千百に喧し。
 当宗の貴賤大半に越えて身延山に歩を留める事これあに日乾を譏嫌する現証にあらずや。
 日乾改悔なき故にすでに令法久住の大倫を失う。
 何ぞさかしまに一隅を守るというや。
 また五分律の引証すべて道理に契わず。
 日乾もし改悔あらば天下の諸人皆一同に讃嘆すべし。
 その心清浄ならば何の処にかこれを誹る者あらん。
 またもし謗供を受けて謗法と成らずんば日海いかでか延山に至って新たに改悔有らんや。
 昔の学者は道念有りて我慢なき故に過てば即ち改悔す。
 例えば毒を飲んで忽ちに吐き出すが如し。
 今の日乾等は敢えて道念無く我慢熾盛の故に罪を覆蔵して改悔せんことを欲せず。
 例えば愚人毒を飲んでこれを隠して吐かざるが如し。
 もし毒を吐かざれば身命必ず没す。
 謗法を改悔せざればその災い必ず無間に堕つ。
 日乾日遠たとえ学者の由を称すとも謗供の罪を隠して永く改悔無くんば堕獄疑い無きものなり。

 一、他会通していわく、朝師の撰述謗法供養を誡めること厳然。云々
 右に述べしが如く世の譏嫌を息めんが為にこれを制する事都卑一同の法式なり。
 ここによって年来の風儀を立てんと欲して徳善院僧正に託して数回数に漏れんことを望むといえども固辞し難き厳命の旨有る故に普天の宗門を相続し、諸人の信力を退せざらんが為に広大の慈悲深厚の賢策をもって小節をなげうって大道を建てるものなり。
 これ格を超えて格にかなう。
 最も義道を知る達人と言うべきか。云々
 弾じていわく、この段殊に重々の相違あり。
 また虚妄多し。
 いちいち条を上げてこれを破せん。
 他状) 一にいわく、世の譏嫌を息めんが為に謗施を制する事都卑一同の法式。云々
 自) 難じていわく、謗施を受ける事を制すること都卑一同の法式ならば何ぞその旨に順いて堅くこの制法を立てざる。
 すでに都卑一同の法式を破る。
 その罪あに無間に堕ちざらんや。
 一切世間の中に罪法式を破るより大なるはなし。
 いわんや譏嫌戒を犯すは罪四重と等し。
 何にいわんやこの制法は宗義建立の大節なり。
 故に古の賢哲水火の責に及ぶといえども敢て退転なく堅固にこの大節を建つ。
 何ぞ先師代々の大禁を破って謗法供養を受くるや。
 師敵対の咎最も免れ難きものなり。(是一)
 他状) 次に年来の風儀を立てんと欲して徳善院僧正に託す等。云々
 自) 難じていわく、もし謗施を受けざる年来の風儀を立てんと欲すと言わば何ぞこの風儀を立つる者を讒奏して流罪に行うや。
 自語相違甚だ顕然なり。
 いわんや予諸寺に対して何の非義を作せる。
 遺恨を含まれるべき義すべて一事もなし。
 ただ宗義の法理を立つるを怨んで非理に怨害を加う。
 これあに本化末流の風ならんや。
 若し彼の謗供の咎を呵責するをもって遺恨と為せばこれまた大なる非義なり。
 そもそも法理違背の人を呵責する事は専ら仏陀の諌曉祖師の遺誡なり。
 これあに自讃毀他の己情ならんや。(是二)
   他状) 次に数回数に漏れんことを望むといえども等。云々
   自) 難じていわく、この条前後相違なり。
 然る所以は爾末に於て自ら書していわく、自今以後といえども国主の供養に於ては更に辞退に及ばざる者か。云々
 もしこの義治定にして自今以後謗法供養を辞すべからずといわば、この以前数に漏れんと望むこと非義なり。
 もしまた数に漏れんことを望むこと宗旨の本義ならば最末の文言大なる紕謬なり。如何。(是三)
   他状) 次に固辞し難き厳命の旨有る故に。云々
 自) 難じていわく、先聖の所行の如く身を軽んじ法を重んじて流死の責を恐れずんば何の固辞し難き厳命の旨あらんや。
 日乾等の如き法を軽んじ身を重んじて命を惜しむ臆病人の前には本化の立行更に論ずる所なし。
 御講記にいわく、日蓮が弟子臆病にては叶うべからず等。云々
 それ本化の末流を汲む法華の行者は経を持ち始める日より堅く思い定むべし。
 況滅度後の大難三類の強敵甚だしかるべし。
 しかれば万端をさしおいてまず習うべきは不惜身命の心地なり。
 この心微弱なれば大難に臨んで一世の行学悉く徒然になんぬ。
 当世の学者口に不惜身命と説くといえども心地未だ練せず。
 故に急難すでに来れば俄に倒惑して本心を失い宗旨の恥辱をなす。
 ただ恥辱を成すのみにあらず、大いに邪謂を巧みて世人を惑わす。
 釈氏の夭?といいつべし。(是四)
 他状) 次に普天の宗門を相続し諸人の信力を退せざらんが為に。云々
 自) 難じていわく、実に普天の宗門を相続せんことを欲せば何ぞ先聖の如く法を重んじて不惜身命を立てざる日乾等先聖の行儀に違し、度度に及んで未練を致し身命を惜しむ。
 故に自他宗の嘲りをなす。
 普天の宗門ここに於て皆悉く断絶す。
 何をもってか相続といわん。
 日乾等宗義の制法を破って謗施を受用する故に諸人の信力皆悉く退転す。
 今眼前に世間の体を見よ。
 日乾等の悪き作法に習いて一切の道俗悉く信力を寒し、宗義の作法すべて絶ゆ。
 何をもってか諸人の信力を退せざらんが為というや。(是五)
 他状) 次に広大の慈悲深厚の賢策をもって小節をなげうって大道を建つる者なり。云々
 自) 弾じていわく、この条殊に深き偽りなり。
 然る所以は深重の嫉妬を懐きて還って広大の慈悲を号し浅薄の愚計を回らして還って深厚の賢策と称し、宗義の大節をもって還ってこれを小節といい、宗義の大綱を破って還って大道を建つという。
 誠にこれ転倒の料簡、天を指して地といい、黒をもって白といい、火を見て水と争う者なり。
 そもそも日乾等真実に広大の慈悲有らば高祖等の諸聖の如く何ぞ身命を捨てて宗義を立てざるや。
 師難行の苦労無くして弟子檀那何をもってか法を重んじ信を進めんや。
 天台のいわく、こいねがわくば弟子をして法を宗とし師の如くならしめん。云々
 妙楽のいわく、上人これを行なうは下をして効しめんが故なり。
 釈の如くんば憙見菩薩の焼身焼臂の苦行皆弟子をしてこれを習わしめんとなり。
 これ真の広大の慈悲なり。
 高祖の流罪死罪等の難行苦行またもってかくの如し。
 日乾等の如くんばただその身謗法罪を犯すのみにあらず。
 また強いて人を勧めて謗法罪を犯さしむ。
 結句謗法の同類を求めんが為に他国他郷に至るまで彼の謗供の席に責め出し、力を尽して悪行を興す。
 これひとえに大嫉妬邪慢の致すところにあらずや。
 何をもってか広大の慈悲と言わん。
 高祖は大難に値いて仏法を弘むるをもって広大の慈悲となし給えり。
 録内にいわく、今末法の始め二百余年なり。
 況滅度後の験非理を前とし、濁世の験に召し合わせられずして流罪ないし命にも及ばんとするなり。
 されば日蓮は法華経の智解は天台伝教に千万が一分も及ぶこと無けれども難を忍び慈悲の勝れたること恐れをも抱きぬべし。云々
 また録内にいわく、今度命を惜しむならば何れの世にか仏には成るべき。
 また如何なる世にか父母師匠をも救い奉るべきとひとえに思い切って申し始めしかば案に違わず或いは所を追い、或いは罵り、或いは打たれ、或いは傷を蒙る程に去る弘長元年辛酉五月十二日には御勘気を蒙って伊豆国伊東に流されぬ。
 その後は菩提心強盛にして申せしかばいよいよ大難重なる事大風に大波の起こるが如し。
 昔の不軽菩薩の杖木の責も我が身に積み知られたり。
 覚徳比丘が歓喜仏の末の大難もこれには及ばずと覚ゆ。
 古は二百五十戒を持ちて羅漢の如くなる聖人も、富楼那の如くなる智者も、日蓮に値いぬれば悪口を吐く。
 正直にして魏徴忠仁公の如くなる賢者も日蓮を見れば理を曲げて非を行う。
 いわんや世間の常の人々は犬の猿を見るが如く、猟師の鹿を籠いたるに似たり。
 ないし周の代の七百年は文王の礼孝による。
 秦の世の程無きは始皇の左道によるなり。
 日蓮が慈悲広大ならば南無妙法蓮華経は万年のほか未来までも流布すべし。
 日本国の一切衆生の盲目を開ける功徳有り。
 無間地獄の道を塞ぎぬ。云々(已上御書)
 請う後賢明らかに理非を判ぜよ。
 日乾が義と予が義と何れが道理に契いぬるや。
 日乾等の如く嫉妬邪慢にして仏法を破るをもって広大の慈悲となすこと何の典にこれを載せたるや。(是六)
 また日乾真実の賢策有らばたとえ日重不覚の異見有りともその悪義に従わず。
 高祖道善房を諫め給うが如く師匠を諫暁して天下に宗義を立て、諸人の信力を増進せられば誠の賢策なるべし。
 しかるにかつてその義なく師匠不覚の異見に就いて謗法供養を受け、天下の仏法をして悉く滅せしむ。
 これ愚策の至極にあらずや。
 結句はこの恥辱を隠さんが為に無尽の邪会を設け、天下の道俗をして無間の業を増長せしむ。
 あにこれを賢策といわんや。(是七)
 他状) 次に小節をなげうって大道を建てる者なり。云々
 自) 弾じていわく、謗施を受ける事を制するは宗義第一の大節なり。
 もしこれ小節ならばいかでか上奏の大儀に及ばん。
 しかるを日乾等身の誤りを脱れんが為に曲げて小節という。
 大邪義にあらずや。
 次に大道を建つという。
 この義殊に謬乱せり。
 日乾等謗法供養を受けて既に宗義の大道を破る事眼前の事なり。
 何ぞさかしまに大道を建つというや。(是八) 他状)
 次にこれ格を越えて格にかなう。
 もっとも義道を知る達人と言いつべきなり。云々
 自) 弾じていわく、臆病不覚にして謗法供養を受けるをもって達人といわば世間不仁の輩皆達人なるべし。
 およそ内典に於いて先哲の如く自らよく仏法の正義を明らめ身命を顧みず、国王大臣を諫暁し深く慈悲心に住して謗法謗人を呵責し、人をして正法に帰せしむるこれを達人というなり。
 外典に於いては質直にして義を好む。
 これを達人という。
 日乾等の如くんば邪見熾盛にして宗旨の正義を明らめず。
 巧言令色を事として国主に対し未だかつて一句の諫言を入れず、無慈詐親にして謗法を呵責せず、深く利養に著してあくまで不義を好む。
 不達これより甚だしきはなし。
 しかるに世間を誑惑せんがために自ら称して達人という。
 かくの如き邪義前代にも未だかつて聞かざる所なり。(是九)

 一、日乾の謗法を責むるに就いて彼謗施を受けるは謗法にあらずと言いて邪会を設ける下。
 この義は大綱の中に於いてこれを破り終わりぬ。
 問いていわく、法度を背く者は即ち謗法なる義前にすでに命を聞く。
 もししかれば謗施を受ける人他宗の始めて受法するが如く、人師の前に於いて改悔すべきや。
 はた密かに仏像に向かって改悔すべきや如何。
 答えていわく、人師なきときは仏像に向かうべし。
 千里の内に人師有らばその師を尋ねて往きて改悔すべし。
 これ懺悔滅罪の定制なり。
 謗施を受けたる人、人師に依らずして仏像に向かう例未だ昔よりこれを聞かず。
 問いていわく、一寺の貫主たる人誤って謗施を受け、人師に向かって改悔せる先蹤これ有りや答えていわく、これ有り。
 遠く外にこれを求むべからず。
 幸に身延山の先規有り。
 問いていわく、その証拠如何。
 答えていわく、延山第七代の貫首叡師常在山の日海誤って謗施を受けることを呵責す。
 謗法の義治定しぬれば日海承伏して自ら身延山に至って叡師に向かって改悔す。
 もし謗施を受ける事謗法とならずんば叡師いかでか日海を呵責し給わんや。
 叡師たとえ呵責ありとも謗法の義落著せずんば日海いかでか承伏して改悔あらんや。
 日海すでに一寺の貫首としてしかも学匠なり。
 しかりといえども改悔の時仏像に向かわずして遠く延山に至って改悔せり。
 これよりなお近き例あり。
 諸人存知の事なれば詳しく記するには及ばず。
 所詮真実道念有る人は誤りを聞いて早く邪見を改める。
 無道の人は誤りを聞いて大いに怒り敢て改めん事を欲せず当世の謗供者これなり。
 こいねがわくば日乾等古鏡に向かって明らかに自過を鑑み、早く慢幢を倒して延山の舊記に帰せよ。
 一生空しく過ぎば後悔何ぞ追わん。
 また問いていわく、謗施を受ける人宗義の制法に背く事は勿論なり。
 ただし謗施を受用して釈尊の内証に背き、正しく謗法となる道理なおよくこれを示すべし。
 答えていわく、およそ宗義に於いてこの制法を立てることはただひとえに釈尊の内証に背く事を忌む故なり。
 さらに別の義なし。問いていわく、その故詳しくこれを聞かん。
 答えていわく、法華誹謗の人は仏母の実相を害する故に三世の諸仏の大怨敵なり。
 その上経に即断仏種と説いて釈尊等の一切の諸仏の命根を断つ咎あり。
 宗祖御判尺にいわく、伝教大師は法華経を讃すといえども還って法華の心を死す等。云々
 文の心は法華経を持ち、読みたてまつり、讃れども法華の心に背けば還って釈尊十方の諸仏を殺すになりぬ。云々(已上御書)
 そもそも釈尊は三界の衆生の為に主師親の三徳を備え給えり。
 しかるに誹謗の人は三徳重恩の釈尊の命根を断つ者なり。
 この人の供養を受けばあに仏意に背かざらんや。
 まず世間の義理をもってこれを案ずるにもし我が父母、主君、師匠を殺したらん者我に財物を与えんにこれを取るべしや。
 たとえ飢えて死すとも人間の義理を知らん者はこれを受くべからず。
 もし人倫の義理を捨ててこれを受けん者はただ人の皮を著たる畜類なり。
 伯夷叔齊が首陽山に飢えしはこの恥を思うが故なり。
 ただし日乾の如く慙愧を知らざる人は如何なる不義の施をも選ぶべからず。
 かくの如き等の人に向かって義理を説くはなお牛に対して琴を鼓くが如し。
 あにその韻の高美なる事を知らんや。
 いささか五常の理を知りて人間の道を弁えん人の為にすべからくこの義理を説くべきのみ。
 他難じていわく、もししかれば普天の下王土にあらずという事無く、山海の万物国王の有にあらざる事なし。
 もし国主の供養を嫌わば須臾も国王の地の上に処すべからず。
 土地所生の物一粒一滴もこれを受くべからず。
 日奥何ぞ伯夷叔齊が如く飢え死せざるや。
 答えていわく、謗施に於いては国主の供養たりといえどもかつてこれを受けざる事祖師以来堅固の制誡なり。この義道理無くんば代々の国主いかでか許容あらんや。
 これ予が始めて立てたる制法にあらず。
 いわんや高祖以来歴代の名匠いかでか道理なきことを立て給わんや。
 汝浅智をもって聖代の制義を非毀する事悪業の洪基堕獄の根源なり。
 問いていわく、もししかればその道理を聞かんと欲す。
 答えていわく、ここに於いて世界一往の義有り。
 出世再往の実義有り。
 まず世界一往の義とはおよそ国王の地上に処する人おのおのその職を勤めてその禄を食むは敢て素餐とせず。
 梓匠輪輿おのおのその職を営んでその価を受用す。
 義に於いて不可なりとせず。
 当宗もまたかくの如し。
 国王の地の上に処せんにその家の行を勤めてその土毛を食む。
 理に於いて何の不可有らんや。
 その行を勤めずしてその地脈を啜る。
 これを国賊というなり。
 問いていわく、当宗の上に於いてその家の行を勤むとはこれ如何なる行ぞや。答えていわく謗国の咎を脱れる行なり。未だ謗国の咎を免れずしてその国の土毛を食むはこれ国賊なり。
 問いていわく如何してか謗国の咎を免れんや。
 答えていわく、国主の謗法を諫暁して流罪等大難に価いぬれば謗国の咎を免れるなり。問いていわく、この事自義か。はた証文ありや。
 答えていわく、明らかに証文有り。
 秋元鈔にいわく、悲しいかな、我等誹謗正法の国に生まれて大苦に価はん事よ。
 たとえ謗身は免れるといえども謗家謗国の失如何せん。
 謗家の失を脱れんと思わば父母兄弟にこの事を語り申せ。或いは悪まるるか、或いは信じさせまいらするか。
 謗国の失を脱がれんと欲せば国主を諫暁し奉って死罪か流罪かに行わるべきなり。
 我不愛身命但惜無上道と説き、身軽法重死身弘法と釈するはこれなり。云々
 これ分明の証文にあらずや。
 当世の学者国土の謗法免れ難しと言いてこの文を悪く依用す。
 誠に顛倒の料簡なり。
 無智の道俗多く誑惑せられていたずらに邪信を催す。悲しいかな。問いていわく、本化の末弟と号して空しく謗施を受け国主を諫暁せずしかも智者の由を称していたずらに一生を送る者如何なる咎あらんや。
 答えていわく、それ経文の如くんばかくの如きの人を名づけて国賊となす。
 誠にこれ盗人の張本なり。
 国王の地の上に処すべき者あらず。
 高祖御禁状にいわく、経文の如くんば末法の法華経の行者は人に悪まるる程に持つを誠の大乗の僧となす。
 また経を弘めて人を利益する法師なり。
 人に吉と思われ人の意に従って貴まれん僧をば法華経の敵、世間の悪知識と思うべし。云々
 またいわく、受け難き人身を得てたまたま出家せる者も仏法を学しながら謗法の者を責めず、いたずらに遊戯雑談のみして明かし暮らさん者は法師の皮を著たる畜生なり。
 法師の名を借りて世を渡り身を助くといえども法師となるの義は一も無し。
 法師といえる名字を盗める盗人なり。
 恥ずべし、恐るべし云々(已上御書)
 問いていわく、この御禁状の如くんば彼の乾公等は法師の皮を著たる畜生、法師の名を盗める盗人の内なるべきや否や。答えていわく、この義宣べ難し。
 実の如く言わんと欲すれば人の非を求めるに似たり。
 もしまた黙止せんとすれば世人邪正を弁えず。
 もし邪師を知らずんば自らその教に従ってはた火坑に堕ちなんとす。進退ここにきわまれり。但し難を忍んで邪師を顕すは仏陀の本意、祖師の遺誡なり。
 よって予二十余年彼らが所行を見聞するに、始めは彼の大仏出仕中心にこれを悲しむといえども悪師の異見に付いて一度彼の席に臨んで謗供を受けしより以来本心を忘失して邪義日々に興じ、悪心月々に増す。
 結句は謗法の身をもって延山清浄の霊地を穢し、とみに謗法の土となしぬ。
 高祖御禁誡の如くんば人の謗法を責めざるすらなお盗賊畜生の内なり。
 いわんや乾公等その身まさに謗供を受けて謗法罪を犯す。
 あまつさえこの制法を立てる者に大いに於いて怨念を生じ昼夜悪義を巧めり。
 ここに至難述しがたければ高祖を謗法に落としてその身の咎を覆わんと欲す。
 かくの如きの非義前代更に比類なし。
 後代いかでか等輩有らんや。乾公本性ならば謗供を受けて後は深く先非を悔い、跡を深谷に隠すべき処に結句延山に攀じ登って貫主の名を汚し、広く党類を求めて宗旨の法義を破らんと欲す。
 ただ口に説くのみにあらず、これを紙面に筆して邪見を後代に留む。
 これ仏祖の大怨敵一切衆生の悪知識にあらずや。
 しかればすなわち日乾等の如くんば盗賊の中の大盗賊、畜生の中の大畜生にあらずや。
 かくの如き不当の人大地の上を行けば五千の大鬼常にその後を発う。
 謗供者の如くんば讒諂面諛を事として国主を諫暁することなし。
 故に国恩を報ずる道すべて欠けぬ。
 仏禁の如くんばかくの如き等の輩は国王の地の上を往く事を得ず。
 国王の水を飲む事を得ず。
 また日乾等の如くんばその身謗法に落ちる故に檀越を福利する事能わず。例えば跛えたる象の深泥の中に堕ちて自ら起つ事能わず、また人の用に能わざるが如し。
 かくの如きの人は一切檀越の一針一草の供養をも受けることを得ざれ。
 これを受ければ国賊なり。
 能施所施二つながら悪道に堕ちんこと金言すでに明らかなり。悲しいかな、当世愚人の輩魔縁に誑かされて真偽を弁えず、無益の財を費やして日乾等の謗供者に施し還って無間の業を結ぶ。
 憐れむべし、悲しむべし。
 謗供者予を難ぜんと欲して末に至って引く所の梵網経同じく天台の疎これ自害の文にあらずや。予(日奥)末代の初学に居して不敏たりといえども幸に宿殖に催されかたじけなくも本化の末流を汲む。
 あまつさえ家伝正嫡の血脈を受けて伝燈の遺付を蒙る。
 ここによって彼の大仏供養の刻宗旨の制法を継がんが為に国主の命を背きたちまち本寺を退出して丹州小泉の巌洞に籠居す。
 しかるに去る文禄年中の大天変地夭前代に超過するに驚いて国恩を報ぜんが為に災難の由来詳しく経論を勘えて一巻を撰し徳善院に付して前の太閤秀吉公に献ず。
 また重ねて一論を造って三伝奏(久我殿中山殿勘修寺殿)に付して天子に奉る。
 しばしば奏聞を遂げ、再三諫暁に及ぶ。これによって怨嫉の巨難しきりに起こり、讒言重畳せり。
 結句御勘気を蒙って西海の遠島に流され十三年の星霜を送る。
 その以前丹州の巌窟に六年都合十八箇年を経てたまたま御赦免を蒙り舊寺に帰る。
 しかりといえどもなお未だ一日片時も安堵の思いに住せず。
 本坊にも移らず、脇坊に住し、門外を出でずして五箇年の春秋を送る。
 しかる処に元和二年(太歳丙辰)三月二十三日公儀より両使をもって本坊に移るべき由懇ろに仰せ出さる。
 再三固辞すといえども両使しきりにすすめ送って本坊に入らしむ。
 これによって同二十五日の暁諸堂を開眼せしめ衆徒一同の懇望によって即ち本堂に於いて満山の大衆悉く改悔せしめ終わりぬ。
 身に於いては謗国の咎を免れぬ。
 国賊の責めまたこれを脱るる者か。
 ただし前業未だ尽きざるなり。
 いよいよ留難に遇いて無始の業障この生に於いて悉くこれを滅せんと願う所なり。
 問いていわく、法華の行者国物を受けるに就いて世界一往の義その理すでに明らかなり。誰か義網を懐かんや。この上再往の実義なおこれを聞かんと欲す。答えていわく、今この世界は悉く教主釈尊の御領なり。
 故に経にいわく、今此三界皆是我有。云々
 また法華の行者は教主釈尊の愛子なり。
 故に経にいわく、読持此経是真仏子。云々 梵王帝釈は仏の左右の臣下なり仮に釈尊の御領を預かって三界を領し、法華の行者を養うべき守護神につけり。
 故に経に諸天昼夜常為法故而衛護之という。
 四天輪王は皆これその眷属なり。
 小国の君王誰か釈尊の御領を横領せんや。十方恒沙の国土なお教主釈尊の領内なり。扶桑国あに法王の御分国にもれんや。
 しかれば即ち法華の行者は釈尊の愛子として釈尊の国土に住し、釈尊の教勅を蒙ってその土地所生の物を受く。
 これ利運の受用なり。
 義に於いて何の不可有らんや。
 例えば天子の太子父王の所領を受けるが如し。
 誰かこれを不義となさんや。
 伯夷叔齊は世間の義理を知るといえども震旦国仏法以前の賢人なり。
 ここをもって未だ三界の本主を知らず。
 故に麻子に難ぜられて空しく首陽に飢えたり。
 仏法漢土に渡って後は何ぞ必ずこの例を引いて難を致さん。
 日乾等の如くんば希に一子の数に入るといえども大いに仏祖に違背して既に重誡を犯す。
 一?一啜を受くとも国賊の咎免れ難きものなり。いわんや謗施の謗法となることを知らず大いに邪会を構う。
 あに頑愚邪見の人にあらずや。

 一、他妙法院門跡の仏前に向って合掌礼拝会通の事。
   自いわく、他の会通深く宗旨の本義に背けり。
 およそ一宗の行者として他宗の仏前に合掌礼拝する、最も禁忌あるべき事なり。
 しかる所以は悪世末法は人の根転た鈍なる故に外義を見て謗りを起こす。
 金石迷いやすく鷹鳩弁え難き故に先聖深くこの義を誡む。
 一宗に於いて古来相似の謗法を禁ずる事皆この故なり。
 外典なお瓜田に履を取らざる誡有り。
 仏法あにこの誡をゆるがせにせんや。
 大乗の制法意地をもって本となすこと上代の制義なり。
 像法千年なお破戒の時なり。
 末法無戒の時に於いて何ぞ意地の正否を論ぜん。
 これ時機を知らずして無益の語を費やす。
 いわんや大乗意地の制はなおこれ爾前の大乗或いは跡門の意なり。本門の修行は還って身口の事相をもって本となす。
 所以何となれば毘曇有門をもって本門の下地となす。
 故に当家の修行は本門の立行なる故に毘曇の心に立ち還って身口をもって詮となす。
 故に事の一念三千を顕す曼荼羅に向って意地に拘らず身に合掌礼拝をなし、口に唱題を行じてもって成仏を期す。
 これあに当家の修行、身口の事業をもって詮となすにあらずや。
 これ胸臆の説にあらず。
 証文はなはだ明白なり。
 謗供者この義を弁えず妄りに意地の正否を語して宗義の大倫を乱さんと欲す。
 たとえ机上に法華一部を安置すといえども他宗謗法の仏前に向って合掌礼拝せばあに世の譏嫌無からんや。
 もし実に世の譏嫌を息めん事を欲はば礼盤の前に高く自宗の曼荼羅を懸ぐべし。
 たとえ意地は自の本尊を念ずといえども眼前に見る所はこれ他宗謗法の仏前なり。
 世間の誹謗良に故あるかな。
 最も自の曼荼羅を懸げて世の譏嫌を息むべし。
 新宗なおこの作法を行なう。
 当宗何ぞこの方規を緩くせんや。
 また葬送風経等の事は時の宜しきに従うべし。
 これは山野暫時の化義、かつて施を受ける事無ければ古より制禁の旨なし。
 ここに於いて論ずる所にあらず。
 今実をもってこれを言わばたとえ自の本尊を懸ぐといえども謗施を受けんに於いては謗法堕獄決定疑い無きものなり。
 日乾等の如くんばただ他宗の本尊に向かって機嫌戒を破るのみにあらず、また謗施を受用して実の謗法罪を犯す。
 いかでか無間に堕ちざらんや。

 一、朝師撰述に謗施を受けば歯を研くべしという誡めに就いて他会通していわく、およそかくの如きの制法時の便宜に従って用否あるべきなり。
 聖人は物に凝滞せず。
 何ぞ局情を存せん。
 これによって嚢祖判釈にいわく、天台のいわく、適時而已。章安のいわく、取捨得宜不可一向等。云々(已上他の会通)
 弾じていわく、日乾臆病不覚の恥を隠さんが為節々に適時而已取捨得宜不可一向の釈を引いて大いに邪会を構う。
 この義はなはだ謬乱せり。
 高祖この釈を引証したまうこと日乾等の意と天地水火の相違なり。
 今いささか祖意の正義を述べて謗供者の邪誑を糾さん。
 そもそも高祖以来身延山を始めとして諸寺諸山代々の先聖は嚢祖厳誡の如く謗施に於いて洋銅鉄丸の想いを成して敢て一紙をも受けられず。
 もし会通の如くんばこれらの先哲皆局情を存せる愚人なりや。未だ日乾これらの先哲に勝れる徳行ある事を聞かず。
 何ぞ猥らわしく妄語を吐きて世間を誑惑するや。
 また他の状に聖人は物に凝滞せずという。
 今の世に誰人を指して真実の聖人といわん。
 およそ賢人聖人の名は内典外典に通ず賢人は五百年に一たび出で、聖人は千年に一度出づ。
 外典にいわく、生まれながらにしてこれを知る者は上なり(上者聖人名也)学んでこれを知る者は次なり。(賢人名也)内典またかくの如し。摩訶止観にいわく。我が行師保無し。云々 仲尼のいわく、我生まれながらにして知る者にあらず。
 古を好んで敏にしてこれを求めたる者なり。云々
 孔子なお自ら聖人と称する事を恐れて西方の真人を指してこれを聖人という。
 仏滅後には像法に当って二人の聖人世に出づ。
 いわゆる天台伝教これなり。
 この二師内鑑冷然の時はこれ聖人なりといえども時機に随順して位賢位に居して像季の衆生を利益す。
 しかるに末法に於いては賢師なお無し。
 いかにいわんや聖師をや。
 ここをもって吾が祖本地最も高しといえども位名字に下って末法極悪の衆生を利益し給う。
 ただし師無くして三大秘法を悟り三類の強敵を忍んで刀杖等の大難に値うは天台伝教に超えたる極聖なり。
 録内にいわく、月氏一千年の間仏法を弘通する人伝記に載せて隠れなし。
 漢土一千年日本七百年また目録に載せて有りしかども仏説の如く大難に値える人々少なし。
 我も賢人我も聖人とはいえども況滅度後の記文に値える人無し。
 龍樹菩薩、天台、伝教こそ仏法の大難に値う人々にては有りしかどもこれらも仏説に及ぶことなし。
 麒麟出でしかば孔子を聖人と知る。
 仏には栴檀の木生じて聖人と知る。
 老子は二五の文を踏みて聖人と知る。
 末代法華経の聖人をば何をもってか知るべき。
 経には能持此経能説此経の人が即ち如来の使なり。
 八巻一巻一品一偈の人ないし題目を唱える人如来の使なり。
 始中終捨てずして大難を徹す人如来の使なり。云々(已上御書)
 今これらの本拠をもって他の会通を究めるに日乾等身の謗罪を隠さんが為に偽って聖人の所行に比すること大虚誑なり例えば五扇提羅が利養を貪らんがために世間を誑惑して自ら阿羅漢と称せしが如し。
 外典をもってこれを勘がえれば孔子没して後聖人世に起こらず。
 物に凝滞せざる聖人誰をもってかこれに課せん。
 内典をもってこれを勘えれば末法はすべて凡師なり。
 誰をもってか聖師と仰がん。
 もし宗祖に順じて大難に値うをもって聖人となせば今の世に誰人か大難を徹せる。
 経にいわく、数々見擯出遠離於塔寺。云々
 当代誰か身に当ってこの経文を読める。
 また未萌を勘えるを名づけて聖人となす。
 前太閤秀吉公大仏建立時刻不相応の本尊亡家亡国の基たるべき旨度々に及んで諫状を捧ぐ。
 讒人道を塞いで叙用なしといえども勘文少しも違わず、後に皆もって符合しぬ。
 眼前の事にあらずや。
 予聖にあらずといえども聖の語をもって鏡となしてこれを勘えれば寸分も相違なし。
 日乾等の如くんば不義の卑心未だ外典の人に及ばず。
 中心臆病にして度々非計を致し、この恥辱を隠さんがために偽って聖人と称し、また物に凝滞せずという。
 ああ虚妄の誑言甚だ笑うべきか。
 それ世に似て非なる者あり。
 莠と稲と見分け難く、佞人と聖人と識り難し。
 哀れなるかな、当世の諸人この邪師に誑かされて真偽を弁えず。
 いたずらに邪心を催しまさに火途に堕ちんとす。
 悲しむべし、悲しむべし。
 次に適時而已取捨得宜の釈の事ほぼ前にこれを弁ずといえどもなお重ねて他の引証の非義を破せん。
 しかるに適時而已の釈は立処文句の第八に在り。
 この釈は涅槃と法華と摂折の異を論ず。
 日乾引証の意はなはだ誤れり。
 疎にいわく、大経はひとえに折伏を論ずれども一子地に住す。
 何ぞかつて摂受無からん。
 この経にはひとえに摂受を明かせども頭破七分という折伏無きにあらず、各一端を挙げて時に適うのみと。
 所詮法華涅槃ともに同じく摂折二門を説いて用否時に適うなり。
 しかればすなわち摂折の時節を勘え適時の二字をもって正像末の行相に配当せよ。この釈あに末法折伏の誠証にあらずや。
 次に取捨得宜不可一向の釈は涅槃疎第四にあり。
 この義前に弁ずるが如し。
 問いていわく、天台伝教の時は謗施を受ける事を禁ぜず。
 日蓮聖人の時これを禁じ給う。
 その道理如何。
 答えていわく、天台伝教の時は人の謗法強盛ならず。
 故に摂受を行じて謗施を受けることを禁ぜず。
 日蓮聖人の時は極悪の衆生世界に充満して法華を誹謗する事最も強盛なり。
 故に折伏を行じて謗施を受ける事を禁じ給うなり。
 問いていわく、謗施を受ける事を禁ずる義折伏に当る道理如何。
 答えていわく、最も道理有る事なり。
 例えば父子の悪念の軽重に従って教訓折檻の不同有るが如し。
 子の悪念強盛ならざるには父軟語をもってこれを教訓しまたその贈る所の肴膳等を受く。
 また子の悪念強盛なるには父強言をもってこれを折檻し或いはしばらく義絶をなしまたその贈る所の肴膳等をもこれを受けず。
 これに由るが故にその子深く父の勘当を痛んで忽ち悪念を改めよく善心に住す。
 父の慈悲異ならずといえども子の悪念の軽重によって或いは軟語を用いて教訓し、或いは強言を用いて折檻し、或いはその贈る所を受け、或いは贈る所を受けず。
 強軟辞受その趣異なりといえども共に悪を改め善心に住せしめんが為なり。
 天台伝教の修行と当宗高祖の修行の不同これをもって知んぬべし。これを適時而已といい、また取捨得宜不可一向というなり。
 しかれば即ち末法当今謗法強盛の時はもっぱら折伏を行じて謗人の施を受けざるはこれ時に適う修行なり。
 これを適時而已という。
 日乾得解大いにもって顛倒せり。
 彼の謗人の施を受けるは謗人と全く同心なり。
 すでに呵責の勢いを失う。
 何をもってか折伏となさん。
 父悪子の養を受けては折檻の便を失うが如し。
 この意を知らずして当世の学者この釈の元意を失い僻みて義を取る。悲しむべし。
 次に取捨得宜の事前にほぼこれを弁ず。
 かえすがえす取捨の二字によく心を留むべし。
 所詮末法当今はもっぱら題目の一行を取って檀戒等の余行を捨て、もっぱら本化折伏の行を取って天台摂受の行を捨て、ひとえに信者の供養を取って謗者の施を捨つ。
 これ取捨の二字の正義なり。
 諸鈔にこの釈を引証したまう皆これこの意なり。
 日乾等当家の立行に背いて謗法供養を受く。
 故にこの誤りを隠さんがためにさかしまにこの釈を料簡す。
 あに諂誑にあらずや。
 問いていわく、他引く所の御書にこの経の為に杖木を被りないし精進すれども成仏せざる時あり。云々
 この義如何が心得べきや。
 答えていわく、摂受門の時刻に折伏を行じて杖木を被らば時に適わざる行なる故に成仏すべからず。
 不軽と高祖とは折伏の時刻に当って杖木の難に値い給う。
 これよく時に適える行なる故に仏に成り給えり。
 謗法供養またかくの如し。
 謗施を禁ぜざる時にこれを禁ぜば無益の行なるべし。
 謗施を禁ずる時にまたこれを禁ぜずんば堕獄脱るる事なからん。
 末法当今は謗施を禁ずる時なり。
 高祖以来何れの時にか天下に於いて顕露に謗施を受けたる例有る。
 宗旨建立以来三百余年日乾等始めてこの制法を破る。
 あまつさえこの紕繆を隠さんが為に適時而已等の釈を引いて大いに邪会を構う。
 一盲衆盲を引いて深坑に墜堕す。
 誰か胸を叩いて悲しまざらんや。
 問いていわく、他引く所の御書に末法に於いて摂受折伏有るべし等といいて適時而已取捨得宜等の釈を引証し給えり。云々
 この義如何が心得べきや。
 答えていわく、他引く所の意はなはだ誤れり。
 所以何となれば国に悪国有り。
 謗国有り。
 悪国に於いては摂受を行じ、謗国に於いては折伏を行ず。
 今日本国の当世は悪国にあらずこれ謗国なり。
 もしこの時に於いて摂受を行ぜば深く仏意に背いて悪道に堕つべし。
 また末法摂受の一義有り。
 天下一同に広宣流布して謗法謗人国に一人も無からん時は山林に交わって読誦の行をなし、或いは解説書写等意に任すべし。
 謗法謗人有るを見ながら摂受の行をなすべき義全く無し。
 今天下の体を見るに三分にして一分も未だ流布せず。
 いわんや三大秘法の中に二はほぼ弘むといえども本門の戒壇は未だかつて建立せず。
 誹謗の輩国中に充満し四海に弥淪して仏祖の本懐未だ開けず。
 この時に当って摂受の行を致さばいかでか仏意に契わんや。
 いわんや日乾等の所行は接受にもあらず。
 折伏にもあらず。
 もし折伏の行といわんとすれば不惜身命の掟に背いて国主の謗施を受け、身軽法重の行すべて欠けぬ。
 三類の強敵未だ一類も忍ばず。
 何をもってか折伏の行といわん。
 また摂受の行といわんとすれば安楽行品の方規に背いて十悩乱を離れず。
 好んで他人の好悪長短を説く。
 誠に摂折二途に脱れてすこぶる辺幅の如し。
 獅子身中の虫日乾にあらずんば誰をかいわんや。

 日乾自過を脱れんが為に歴代の明匠をもって末学と下す罪科の事。
 およそ本門寺日現聖人の助顕鈔、本立寺日澄法印の啓運鈔、正行院日源法印の四宗問答鈔殊に身延山日朝聖人の撰述、このほか諸門流の法式等経文を本拠とし祖師の妙判を受けて謗施を受ける事を禁じ給えり敢て自義の私にあらず。
 もしこれらの諸義を背かば汝経文を用いざるべしや。
 師敵対の咎最も免れ難し。
 いわんやこれらの碩学は高祖以来中興の明宿なり。
 一宗の学者古より誰かこれらの碩徳を軽んずる。
 乾公身の罪過免れ難き故に僻んで誹謗を起こして末学の私鈔という。
 これらの先哲を指して末学と下さば日乾等は実に人の数にも入るべからず。
 麁言の至り言いても比無く、悪口の咎責めても余りあり。
 それ伝教大師は六宗の学匠を指して六蟲と名づけ、祖師聖人は覚証然の三師を指して三蟲と書き給えり。
 予は日乾を指して蝗虫比丘と名づく。
 延山歴代の仏法の苗を食み失い霊地を汚して謗法の土となす。
 道理の押すところ誰かこれを麁言といわんや。
 それ宗旨を立てる法は経説に於いて正しくその文無しといえども義有るを以てこれを立てる事仏法常途の儀式なり。
 高祖以来歴代の先聖経文の義をもってこの制法を立つ。
 義ある事を知らずしてひとえにその文を尋ねるはこれ愚者の所行なり。
 故に天台のいわく、明者はその理を貴び、暗者はその文を守ると。
 またいわく。
 ただし義をして符わしむ。経論に文無しといいて何ぞ疑いを致すに足らんと。
 妙楽のいわく、文無くして義有るをば智人これを用い、文有りて義無きをば暗者これを用うと。
 天台妙楽の釈の如くんば日乾等暗者なり。
 愚人なり。
 経文に於いて謗施を受けざる義理ある事を知らず。
 高祖ならびに代々の明師は智人の故に義についてこの制法を立て給えり。
 天台の一念三千、当家の三大秘法皆これ義立なり、ひとえに文を執せばこれらの最大の法門を破らんか。
 次に論釈の尋ねの事これ龍樹天親天台妙楽等の論釈を尋ねるか。
 彼は摂受門の行なる故にその時機に適って論釈を造り給う。
 いかでか正像の時に於いて明らかに末法本化の行相を釈せんや。
 ただし分明ならずといえどもその理無きにあらず。(非伝授恐難知者也)
 次に高祖御真記の尋ねの事歴代当家の学者宗祖の御真記を勘えてもってこの制法を立つ。
 もし高祖御制止無くんば諸門一同して申し請ける御下知にいかでか祖師以来堅き制法と書き載せんや。
 先聖は身の誤りなき故に正直に真記を勘う。
 日乾等は身の誤り深き故に邪義を巧んで真記を隠さんと欲す。
 例せば秦の始皇ほしいままに悪行を作さんと欲して天下の儒書を焼き失い、賢人を坑にせしが如し。
 中山門流相承の事分明の会通無き故に重難に及ばず。

 一、義教将軍御代の事天下の沙汰その隠れ無き上にたしかに証拠あり。
 ただし会通の如くんば今の本法寺の衆徒開山日親を背いて大仏供養を受ける故に師敵対の咎を脱れんと欲して日乾等に与力して親師の徳義を隠して虚妄を構えるか。

 一、富士門流方式に就いて他会していわく、謗義に与同して同座せばこれを禁ずべき事論に及ばず等。云々
 難じていわく、大仏出仕の諸宗これ謗者にあらずや。
 この供養また世間の遊宴、親族の礼儀に非ず。
 高祖以来禁じ来る所の謗法供養の同座なり。
 たとえ中心謗義に与同せずといえども外儀すでに彼に同ぜばいかでかその咎を免れんや。
 高祖以来ついにかくの如く諸宗の謗者と同座の供養を受けたる例なし。
 およそ大乗の制誡の如くんば小乗の人となお同座同路同井等を許さず。
 いわんや謗法の人に於いてをや。
 また他会通していわく、以往一宗の学者名を天台宗に仮りて学問の時その席を一にし供養供給所須を同じうす。云々
 難じていわく、これ何ぞ彼の大仏供養の謗施を受けるに同じからんや。
 彼は学業をなさんが為にしてこれは学業の為にあらず。(是一)
 彼は名を天台宗に仮る故に宗義の瑕瑾とならず。
 これは法華宗と名乗って彼の席に赴く故に大いに宗義の瑕瑾となる。(是二)
 彼は一旦宗義に背くといえども終に我が宗の法義を興す。
 これはただ我が宗義を背くのみにあらず、また大いに我が宗の滅亡を致す。(是三)
 かくの如きの相違それ誠に尽し難し。
 次に日興聖人謗法供養禁断の条目会通これなし
 日像門流謗施禁断の条目に就いて他誤って大覚僧正の事を引く。
 およそ宗義の大綱を按ずるに依法不依人の文を守って一宗を建立す。何ぞ人の所行によって宗義の大倫を紊らんや。
 いわんや大覚僧正は有徳効験の明哲なり。
 その徳行称計すべからず。
 いかでか猥りに仏祖に背いて謗施を受けたまわんや。
 深く根源を尋ねれば全く誤り有るべからず。
 末学の輩身の誤りを隠さんがために先師を欺いて無実の咎をつく。
 いわんや勅願の鳳書将軍家の内書委しくその趣を見るに国恩報謝のため祈請有りといえども全くその施を受けることなし。
 大覚もし実に謗施を受けたまわばその末弟いかでか謗施を受けざる将軍家の御下知を申し請けんや。
 いわんや普広院殿千僧供養の時大覚の門人の中に誤って彼の謗施を受けしかば諸門徒よりこれを謗法に落とし悉く通用を絶す。
 これに依って後妙覚寺立本寺に対し改悔の状これあり。
 この時よりまた通用を許す。
 もし大覚謗施を受け給うこと必定ならばその門弟謗供を受けて後にいかでか改悔を致さんや。
 明らかに知りぬ、大覚僧正謗施を受けざることを。
 いわんや鳳書御教書の面、眼前の証拠なり。
 何ぞ邪義を構えて明師を謗法に落とすや。
 言語道断の悪義言いても比無く責めても余りあり。
 大論にいわく、師の過を見ん者はもしは実にも不実にもその心自ら法の勝利を壊り失う。云々
 この文の如くんば師実に失有りともこれを言わん者は法の勝利を破り失う大罪人なり。
 謗供者の如くんば僻んで明師に於いて非理の咎を求む。
 あに大邪人にあらずや。
 また弘決にいわく、師功徳あらば称揚し流布せよと。
 日乾等の如くんば先聖の明徳を隠して還って傷を求めんと欲す。
 大逆人にあらずや。
 かくの如きの邪人いかでか無間に堕ちざらんや。

 高祖六老僧に対し謗法供養を誡め給う事。
 日乾等の当世の学者本文未だこれを勘えず知らずんば我慢を倒してこれを習うべき処に還って悪義を巧み高祖に於いて自受禁他の咎を毀り付く。
 大逆路の罪科後報最も恐るべきか。
 新池鈔の事。
 この御書は弘安三年にこれを註し給う。
 最も宗祖の御本意を顕し給うなり。
 先聖皆悉くこの鈔を本拠として諸聖教にこれを引かれぬ。
 何の誤り有って偽書といわんや。
 いわんやこの鈔の始終皆経文によってこれを書き給えり。
 源経文に由らばいかでか誤り有らんや。
 日乾等の末学何ぞ我慢を倒して先師を仰がざるや。
 もし新池鈔をもって実に偽書と思わば何ぞ大仏供養以前よりその旨を言わざる。
 日乾等彼の謗供を受けて後罪過脱れ難き故に始めてこれを偽書と号す。
 明らかに知んぬ、身の咎を隠さんが為大いに偽って邪義を巧む事を。
 およそ偽書に於いては古よりその沙汰有り。
 釘抜鈔、万法一如鈔、十王讃歎鈔、本寺参詣鈔等の如き或いは経の名を出すといえども経にその拠所無き故に、或いは文質の勢いその風儀にあらざる故に、或いは年号の時代相違有る故に先哲これを評して真書にあらずという。
 新池鈔に於いては先達仰いで信用して敢て偽贋の思い無し。
 いわんや文勢明著にして宗旨の本懐を顕す。
 何をもってかこれを偽書といわん。
 およそ御書に於いて文質の高下有り。
 これ人の智品に浅深有る故なり。
 常忍鈔、太田鈔、大学鈔等の如きこれらの衆、俗の学匠たるによってその文法最も高し。
 或いは無智の俗男俗女等に於いて賜う所はその文言やや卑し。
 大聖の説教ただ機に逗して益有るをもって貴しとなす。
 文言卑野の難すべて道理に契わず。(是一、他状)
 次に所述の義意諸鈔に異なる事有り。云々
 これ甚だ悪見なり。
 謗供者新池鈔を嫌って偽書といわんと欲する所詮はこの御書に謗施を受ける人は如何なる智者聖人も無間地獄を遁るるべからずといいたまえる禁文深くこれを痛んで無尽の邪計を回らす。
 しかりといえどもこの義全く高祖の自義にあらず。
 経文と神託とこれを引証して判じ給えり。何をもってか諸鈔と義意異なる事有らん。
 もしこの鈔をもって猥りに偽書といわば神託と経文を破る者なり。
 神託と経文を破らばいかでか無間に堕ちざらんや。
 この鈔真偽の争論千言万句ただこの一言に究まる。
 余の義は枝葉なり。
 強いて論ずるに足らず。
 かえすがえすいわく、この御書に諸仏も諸神も謗法供養をば全く請け取り給わず。
 いわんや人間としてこれを受くべきや。
 ないし如何なる智者聖人も無間地獄を遁るべからずと誡め給えるこの義神託と経文に符合して宗義に相契える事深くこれを習い得ば何の争いかあらんや。
 神託は顕露にその文を出し、経文は第五の巻を指してその文をば出し給わず。
 当世の学者この拠所を知らざる故に謗法供養を禁ずる事経文にその義無しといい、また高祖御制止にあらずと言いてこの鈔を偽書と号し身の誤りを脱れんと欲す。
 ああ浅智の致す所か。邪義の興する故か。
 悲しむべし、悲しむべし。
 一端人を掠むといえども冥の照覧如何せん。恥ずべし、恥ずべし。問いていわく、新池鈔をもって真書と称する事真筆の正本これありや。
 答えていわく、この御書を真書と称する事義理能く経文に契うをもって肝心の拠所となす。
 宗義の所詮依法不依人の金言に依らば真筆の有無をもって必ずしも詮とせず。
 たとえ真筆の御書たりといえどもその義経文に相違せば用い難し。
 世人理に暗くしてこの鈔真筆を尋ぬ。
 もし真筆無くんば用い難しといわば録内の御書も真筆は多く紛失せり。
 しかれば録内も正本紛失せるをば用いずといわんや。
 所詮この鈔の真偽を知らんと欲せば経文の合否を勘えてもって指南とせよ。
 余の才学は皆もって不可なり。
 しかれば即ち当世の謗供者大いに仏説を破りまた祖師の掟に背く。
 道理の指す所いかでか泥梨を免れんや。
 新池鈔の所詮これなり。

 一、他古徳の語を引いていわく、真偽相形はなお莠の相違するが如し。
 耕に善き者鍬を存して莠を去つ。
 道を求める者また真によって義を捨つと。
 自いわく、日乾等もしこの語によって偽を捨て真によらば天下率いて誰か善に帰せざらん。
 ただし仲尼言える事有り、似て非なる者を悪む。
 莠を悪むはその苗を乱さん事を恐れてなり。
 佞を悪むはその義を乱さん事を恐れてなり。
 利口を悪むはその信を乱さん事を恐れてなり。云々
 日乾等内に貧嫉を懐いて外に慈悲の相を現じ佞人にして聖人と号し、頑愚にして達人と称しあくまで宗旨の正義を乱る。
 無智の道俗真偽を弁えず多くその邪説を信ずる者有り。
 仲尼の悪む所の佞人日乾にあらずんば誰をか言わんや。
 次に他の状自問自答の段に問いていわく、謗者の施を選ばずこれを受用せばこれ天台宗と何の別有らんや。
 答えていわく、それ両宗を分かつ事受不受の異なりに由るというは僻案の極みなり。
 宗旨宗教八箇の伝未だこれを受けざるや。云々(已上御書)
 自いわく、この義世間の俗難か。
 予が言う所にあらず。
 ただしこの義一理無きにあらず。
 当家台家同じく法華宗と号すといえども彼は摂受の行なる故に本化立行の如く強く謗者を責めず。
 また謗施を選ばずこの宗は折伏の行なる故に強く謗人を責めまた彼の施を受けず。
 両宗の違目この一義に限るというにはあらず。
 しかれどもこの一条また両宗差別の随一なり。
 宗旨宗教の伝俗人としてこれを知らずといえども難勢の旨最もまた理に当たれるか。

 一、他状にいわく、それ仏説の如くんば大地を遊行し、井水を飲用する等皆国王の布施にして広大の供養なり。
 しかるに暫時一飯の小施をばこれを施といい昼夜四義の大施を施にあらずというか。
 ああ甚だ顛倒せり。云々
 難じていわく、これ高祖以来代々の明匠碩徳を難ずるか。
 はたまた予を難ずるか。もし予を難ずといわば古来の明匠碩学大地を遊行し、井水を飲用する事を禁ぜず。
 謗施に於いては堅くこれを禁じて敢て一飯をも受けられず。
 予が所行全く新義の私無し。
 所難の如くんばこれらの古の智人皆これ顛倒の人なりや。
 もし先聖を難ずといわば汝師敵対の人なり。
 いわんや延山代々の明哲謗施に於いては一飯をもこれを禁じ国土の池水井水に於いてはこれを飲用する事を未だ禁ぜず。
 日乾等末学として何ぞ先師に違背し僻んで異義を存するや。
 暫時身の咎を脱れんが為に大いに放蕩の語を吐いて人倫を迷惑し世間を誑惑す。
 これ一切衆生の大悪知識仏祖の大怨敵にあらずや。
 問いていわく、祖師以来立て来る所の制法所答の旨最も爾なり。
 しかりといえども国土の井水を飲用する等皆国王の供養なり。
 これ謗施とならざる道理未だ明らかならず。
 如何。答えていわく、制法といえる上はたとえ道理明らかならずといえどもこれを用いること内外典の式法なり。
 故に古語にいわく、理を破る法有れども法を破る理無しと。云々
 いわんやこの制法は委細に分別するにもっとも道理有る事なり。
 問いていわく、その道理如何。
 答えていわく、それ総じていう時は井水等を飲用する皆国王の布施にして広大の供養なりというといえども別していう時は爾らず。
 およそ世間仏法に就いて総別の二有り。
 その義必ずしも一概ならず。
 今余の例を引いて自他の問答を設けいささかその差異を弁ぜん。
 自今他に問う世人父母兄弟を選ばず妻となし夫と憑まば如何。
 他答えていわく、これ人倫の道にあらず、ひとえに畜類の所行なり。
 自また問う、ある経にいうが如くんば故六道衆生皆是我父母。云々
 法華経にいわく、一切衆生皆是吾子。云々
 これらの文の如くんば一切の世人皆父母兄弟なり。
 しかるを世人皆夫婦の語らいをなす。
 これ皆畜類の所行というべしや。
 他答えていわく、総じていう時は一切衆生皆父母兄弟なりといえども別していう時は爾らず。
 今生眼前の父母兄弟至親を除いてその余の婚姻は畜類の所行と成らず、これ人倫の道なり。既に親疎の別有るをもっての故なり。
 自いわく、もししかれば宗義の制法に総別の二義を立つ。
 総じて大地を遊行し井水等を飲用するをばこれを禁ぜず。
 別して謗法供養に至ってはこれを禁ずる事その道理何ぞ立たざらんや。
 自また他に問う、現に仏像の前に向かい、ほしいままに無礼をなし、或いは足を指し伸べ、或いは大小便利を致さん者は功徳を得んや。
 はた罰を蒙らんや。
 他答えていわく、かくの如く仏に対して無礼を成さん者は罰を蒙ること何の疑いか有るべき。
 自また問う、仏像の前にあらずしてただ余方に向かって佞りに足を指し伸べ、大小便利を致さん者は罰を蒙らんや否や。
 他答えていわく、仏像の前にあらざれば何をもってか罰を蒙らんや自不審していわく、経に十方仏土中というが如くんば東西南北四維上下皆生身の仏まします。
 何の方に向かうとも仏前を脱づるべからず。
 もししかれば何ぞ罰を蒙らざらんや。
 他答えていわく、たとえ小さき木像なりといえども現にその前に向かって無礼を致す者は罪を得ん。
 生身の仏なりといえども現にその前に向かわずんば罪とならざるなり。
 自問う、しかる所以は如何。
 他答えていわく、総じて言う時は十方皆仏前なりといえども別していう時はしからず。
 これ遠近の不同有るをもっての故なり。
 自いわく、もししかれば宗義の制法汝何ぞ不審をなすや。
 およそ天下所生の万物同じく国王の所有なりといえども大地を遊行し井水を飲用する等はただこれ総相の世恩なる故に謗法供養とならず。
 たとえ一飯といえども別して先祖等の弔いと号してこれを施せば謗法供養となるなり。
 この義あに道理明白にあらずや。
 この理を破らん者いかでか無間に堕ちざらんや。
 東春にいわく、理に順ずれば万悪長く消え、理に違すれば衆苦並び集まる。
 故に仏は法華を説いて人の罪福を示すのみ。云々
 これ尽理の釈なり。
 学者膚に受けて深く吟味せば苦海の船筏長夜の燈光といいつべし。
 請う道心有らん人深く心肝に銘せよ。
 誠に寂光の快楽は理に順ずるより起こり、地獄の極苦は理に違するより生ず。
 諸仏の説教無量なりといえども詮はただこの一事を示すのみ。
 この理に順ぜん人は常楽の台に登り、この理に違わん者は阿鼻の炎に沈まんこと自爾天然の道理なり。
 もししかれば日乾等宗義の大節を破って大いに理に違す。
 無間に堕在せん事理実に極成せり。
 悲しむべし、恐るべし。
 次に大仏供養をもって暫時一飯の小施をいうか。
 たとえ暫時の一飯をいえども謗法供養たらんに於いてはその罪何ぞ軽からん。
 例えば毒薬の如き芥子許りの如しといえども必ず五尺の身を喪す。
 謗施の罪障もまたもってかくの如し。
 暫時の一飯といえども甚深の改悔無くんば阿鼻に堕在せんこと疑い無き者なり。
 いわんや大仏出仕二十年の間なり。
 暫時の一飯とは言い難きものなり。
 そもそも世間の毒を飲んでは消毒の薬を服して身命を助けん事を求む。
 日乾等何ぞ謗法供養の大毒を飲んでこれを消すべき計り無きや。
 ただし毒気深入の輩は本心を忘失して消毒の妙楽を求めず。
 妙薬とはいわく改悔懺悔なり。
 予日乾等の堕獄を悲しむ故に改悔の薬を勧むといえども毒気深く入る故に敢て叙用無く還って怨嫉を懐いてしきりに讒奏を企て、或いは責め罵り、或いは度々処を追い、或いは遠島に流し、或いは弟子檀那を煩わし結句は前代未聞の悪書を造っていよいよ邪義を興さんと欲す。
 しかりといえども予日乾等に於いて一念も怨念を懐かず、悲心いよいよ増長す。
 たとえ無数劫を経歴すとも彼の邪見を改めて阿鼻の苦を救わんと欲す。

 来難に就いて得意条々
 およそ当宗の制法として謗施を禁断する事は他宗の謗者に於いてなり。
 当宗の檀越たるに於いては自然不信謗法の誤り有りといえどもしばらく誘引を立つる義有り。
 よって他宗の供養に於いては古よりかつて誘引を立つる事無し。
 故に法式にいわく、たとえ誘引の方便たりといえども直ちに謗法供養を受くべからず。云々
 しかるに彼の大仏供養は他宗の施なる故にこれを受けず。
 当宗たる人に於いては少しく法度に背く義有りといえどもまず誘引を立て彼の施を受ける事古来都卑一同の義なり。
 敢て新義の私にあらず。
 土壇たやすき進退に於いてなおその誘引あり。
 いわんや大名高家の貴人に於いてをや。ただしここに於いてまた通屈の義有り。

 備前蓮昌寺の領地に就いて難来る。
 彼の施主当宗たらん上は蓮昌寺いかでか誘引の義なからんや。
 池田三左衛門殿御簾中未だ信力を改め給わざる時なり。
 本圀寺に於いて加藤肥後守万部経に就いて難来る。
 これも彼の施主他宗にあらず。
 蓮昌寺の衆徒誘引を立つる事強いてその咎なきか。
 嵯峨の屋敷に就いて難来る。
 これは一向所以を知らずして無益の難を致す。
 追ってその義を聞くべきなり。
 彼の母公信力雑乱の後は少しの義も妙寿院覚精(菊亭右府御簾中)施主に立ち給う。
 秀頼謀反の後はかつて供養の施物を受けず。
 地子を免ず寺庵に就いて難来る。
 これは世間の恩賞なり。
 敢て謗法供養にあらず。
 いわんやこれ一箇寺の免許にあらず王城一同の免許なり。
 これあに世恩にあらずや。
 先師の廟所不参に就いて難来る。
 これまた一向子細を知らずして非理の難を致す。
 先年予大仏の謗供を脱れんが為に退寺せしむる時師の廟所に至って誓願の旨有り。
 この願満ぜざる間は参詣を遂げざるなり問う誓願の旨これ何事ぞや。
 答う満山一同の改悔なり。
 しかるに元和二年(丙辰)三月二十五日朝満山の衆徒本堂に於いて一同の改悔なり。
 この時始めて立願の義成就す。
 故にこの日より廟所に参詣す。
 これ不参をもって法理の利生を募るなり。
 誠に感応新たなる事響きの声に応ずるが如し。
 所願不虚の金言すべて唐捐ならず。
 後生誰か志を励まざらんや。

元和二年(丙辰)三月二十六日 記之 宗義制法論 下巻 終