萬代亀鏡録より

石上物語


頃は涼月半過ぎ未だ暑さも夏に変る事なし。盂蘭盆の疲にて少しは心も常ならず、宵よりも寝ねられぬ儘団扇を友と徒然すぐる折しも隣家の小ざかしき人来りて四方山の話に更け行く空を詠むれば山の端に月はさやけく見へにける。彼の人の云ふ様は涼しき夜に宵より寝ぬるも本意なし。いざ野辺へ伴ひ出でんと謂ひけるに、そは最やさしき思附なり。我等も好む所に侍るとて、そよそよ風に誘はれて川の辺に至れば少しひらめきたる石の有り侍る儘腰打ち掛けて休むうち友なる人の云へるは、此の頃反古の中より堯了庭状といふ書を取り出しけり。いぶかしき所も多く侍れば尋ね聞かばやと思ひ懐中せりと目下へ出すまま月の光に押し開き見れば日堯日了の新義建立に日庭邪義の評を附け、木に竹をつぐ如く無理なる法門の立て様見る内にも浅間敷き。一分道徳もある人とこそ常に思ひしに、日講の能破條目にさからはん為か、又智の及ばざる故にや、西と指して東とおしへる如きの了簡なり。此の如き破文は能破條目並びに盲跛記抔に詳なるゆえ更に会合に及ばずと指置きぬ。彼の人の云ふ、此の状に付き不審なる所を尋ね申さんまま夜もすがら慰の為めしめさせ給へと聞いて、我が信心の便にもなりなんと好むにまかせ問に随ひ答へたるものなり。若稚き人の助縁にもと筆まめに書附け侍るまま則ち石上物語と云はせける。予が慍?の言の葉を見て法理の尊きを軽んずることなかれ。
 于時享保十六年辛亥孟秋日
  惠定日新誌

堯了示合せの事
受不施悲田より御経並びに本尊抔開眼を願ひ候共御無用に御座候。一向帰伏の方は別段にて候。一味の内濁法より頼みの開眼等は苦しからず、一度開眼候ひては其の御本尊御経相違有るべからず候。本来他宗とは格別にて一往世制を遁れんため他宗の判をかるといへども、本より内心不受の方は内心かはる事なき故に、其の信心に対し遣す所の御本尊なる故内外清浄の方へ遣す御本尊と同利生之れ有るべく、故に本来他宗とは大いに格別にて候。其の御心得然るべく存じ奉り候。受不悲田等内外共に謗法故其の所持の御本尊御経等開眼すべき道理之れ無く候。此の一段の心を以て万事指引有るべし。以上
堯了より内心注進等へ遣す状に曰く、かかる時節は内心に堅く宗義を信じて動かず、外は世禁に随ひ心ならず宗旨を表向に頼んで苦しからず。心は色相一切の主なる故に心さえ動かず心力内に強ければ、為す事の振舞皆心の如くに帰するものなり。表向はいかに清く宗義を守る様に候とも、内心に謗法の心あって信力弱ければ外の宗義も皆内心の如くに成りて悪道に落ち候。只内心かたくすれば外のふるまひ皆正念の方へ帰して正念と同事に成り候ひてさはりとならず仏道成就す。只内心肝要に候。外相法華宗内心は他宗なれば他宗に落着、外相他宗にして内心は法華なれば法華に落着の道理にて候。再興せん時は内外共清浄にて是れに過ぎたる事はなし。其の内は世禁遁れがたければ暫く時を待って濁りをすくひ、時々に懺悔をなせば得道の障りと成るべからず候。此の心肝要なり矣。
未十一月二日

貴殿おもへらく、内心には法華清浄に守り候へども外は謗法に交り檀那寺抔へ往来すること謗法に成り候半とか常に気の毒に成り候。如何心得候半歟と書附を望まれ候。此の事前にも書附注進へ送り候。先づ外謗法にまじはると身業とて皆身になす業なり。身と心と本体不二なれども、しかも心は主、身は心の使物なり。主の善悪によって身業も善悪と成り、世間の主人と被官とをもって合点あるべし。主人本意を被官に言附けてなさしむる時は、主人の本意の如くなせば主官内事にて少しも相違なく、是れは内外清浄の行者の如し。又主の心に背いても主人より本意を内に密し外偽って被官に言付けてなさしむるは使はるる人に失なし。是は内心清浄の行者外に方便して、謗法人に偽り交るが如く成る故に身の業に失なし。又主官共に悪しきは他宗受不等の如し。此のたとへを以て合点あるべし。同じ法華なれども其の時節に依って修行替るなり。法義繁昌赦免抔の上方便して謗法に交る、是れは大罪となり、今時分は外は国制に随ひ謗法に交り方便して内に実を守り候は信心ぞ立つる方便なる故に謗法とならず、是れに依って悪道に落つることあるべからず。若し然らば内外清浄の行者と何の不同有り哉と不審有るべし。上根清浄の行者と不同之れ無くては叶はざる事に候。たとへば内外清浄の行者は蓮華の泥の中を貫き出でて水の上に有って泥を離るが如し。又内心ばかり清浄に外謗法に交るは蓮華の泥中に有っていまだ貫き出でざるが如し。然れども泥の中に有りながら少しも泥に染まるることなき其の如し。謗法に交れども謗法に染まるる事なしと心得有るべし。然れどもおそい早いの不同あり。先に泥水を貫き出でたる蓮華は早く花開く。後に出づるはおそし。上根清浄は早く仏知見をひらき、内心清浄は少しおそかるべし。此の不同あれども二生三生経ることにてはなし。一感人天華報二感仏道果報と申して題目の仏果未だ熟せざれば次の生に先一度人間か天人かに出生して種子を熟して二度目に成仏すといふ事なり。人天に生るるを華報といふ。物の種子を生長して花開くが如し。仏道果報といふは花の実を結ぶがごとし。内外清浄は直に霊山参詣といふべし中根は二世成仏といはんか、是れは大方の判断なり。内外清浄も過去の業因ひかへたるは一感人天華報もあるべし。内心清浄も過去の業因なき行者は仏道果報直ちに霊山参詣も有るべし。斯様の品々は凡夫の知る事にあらず。一概に申しがたく人天に生るといふも常に凡夫の世間の善にて生るる様なことにあらず、題目の功徳にてしばらくじゆくする間生るる事なれば、勝妙の楽を受くる人天なり。常に法華経を聞いて次生にうたがひなく仏前に開悟得脱するや有難きことなり。諸仏諸天の此の人天をば影の形に随ふが如く守り給ふ。ゆえに重ねて迷ふことなきゆえに一感人天をも不足を思ふべからず。中根の行者不信力も三悪道へ落つる事は有るべからず。一感人天は疑ひなきと存ずるなり。扨法も為め不惜身命と申すは我不愛身命但惜無上道とも不惜身命とも説かれ候。章安大師は身軽法重死身弘法とも釈せられたり。扨流罪の時は檀那方にも法を立てて公儀を恐れず、違背の者は牢に入れ断食して死ぬる人も多し。此の時は皆断絶の時節なる故不惜身命の時に当って法の為めなる不惜身命なり。今時分は又替れり。法義しづかなる故にいかにも謹みて穏密に一人にても表は本の宗旨にして内心帰伏する様に弘め、人の目に立たぬ様にすすめるを以て法の為めをいふ。若し赦免も候へば其の時内外共に外宗するには障ることはなし。先づ内心ばかり調へて本意とする時なり。身命を捨つるは法の為めなる道理の時は捨つべしと常に心底に控へありぬべし。身命を捨つるを願ふべきにあらず。捨つるは法義大難ある時なれば吉事にはあらず。此の如く大旨を能く心得万事に就いて私に吉けれども法の為めに悪しきことあり。法の為めには能くして私に悪しき事有り。私を捨てて法の為めにする、是れ身を惜まぬ一分なり。已上略抄
恵教奥書に曰く、右の状全文有りといへども外は無常道をすすめられたる事にて更に替る文義にあらず。今抜義は堯了新義勧誘の分なり。志学の徒此の邪謬に依憑して宗制を混乱すること勿れ。

享保十六年辛亥 六月十二日巳の刻之れを書く。云云
同七月四日之れを写す。   日新

日庭より理証へ遺す状全文
一、濁法内信の者題目講の砌法立真俗始経導師勤の事
浣師より御申し候は堅くつとめ申間敷、謗法になると申し候事、是れは内信の者兼ねて施主を立て置き候は其の題目講の砌法立の真俗始経をいたし候ひても謗法にはなるまじく、苦しからず。其の子細は既に供養させんの時分施主を立て仏事をいとなみ候へば其の供養に法立の真俗参り候ひて斎を食し布施を受くることに候。たとへば題目講の砌も施主之れ有り候始経導師をいたし候ひても苦しかるまじく候。総じて施主を立つる事を能く心得る事肝要にて、施主を立つる事は濁法の者も内心の信力は不受不施の心にて能く候へ共、外相の身は受不施他宗分にて濁り悪しく候ゆえ、作善題目講を致し度き時に法立の人を頼み候ひて仏事の主に致し候ひて不受不施の僧を頼み仏事善根を相勤むるにて候。左右有る時は内心の者作善の心持をいたす時分は施主の身を借りて執行にて候。又題目講の時分も施主の口を借り題目を唱ふるにて候。斯様の為めに施主を頼み立つる事候。左右有る時は今も昔も施主さへ之れ有り候へ共仏事を不受不施にて執行する事に候。然れば題目の時も施主之れ有り候はば始経導師を勤め候ひても謗法にはならず、苦しからず候。若し施主之れ有りても悪敷と申し候はば、施主立ち候供養施物等も受けまじき事に候。又施主を立つる何の所用に立ち候哉。亦人も詮なき事に頼まるるにて候。但し日浣の看経講の始経無用と御申し候は施主の有る事を聞かれて施主是れなきかと思ひ無用と御申し候歟と存る事に候。日奥聖人も施主之れ有り候へば施物等御受け候ひて仏事を営み作善を執行し給ふ相聞き候。其の後の日樹上人を始め諸上人衆施主之れ有る施物等は御受け候事を以て心得らるべく候。只今施主之れ無きは受けず、施主之れ有り候へば受け候ひて聖霊の回向祈祷抔をも相勤むる事に候。然れば題目講の時分施主之れ有り候は始経勤めても苦しかるまじく候。
濁法内信心の者所持の本尊拝すべき哉の事
是れも施主を立て候ひて頼み入り本尊を申し受け候は、たとへ濁法の手に渡り候とも拝し候ひても苦しかるまじく候。又本尊仏像等の開眼をも施主を頼み候ひて申し請け候は拝し候ひて苦しかるまじく候。子細は其の本尊仏像等も施主の主分にて候故彼の手に渡り候ともけがれず、清浄の本尊にて候。拝し候ひても苦しかるまじく候。其の方達の身上にても申し候はここに濁法内信心の者其の方達も施主を立て供養致し候は其所へ行き食布施をも受くべく候。皆施主の方より受くる故其の方達は何れも不汚清浄の出家にて候。題目講の時も施主立ちて勤むる題目なれば内心の者なれども施主の口を借り唱ふる義なる故に其の題目は不汚清浄の題目にて候。始経導師を勤め候ひても苦しかるまじく候。其の如く濁法所持の本尊なりとも施主を立て申し受け候はば、施主の主分にて候ゆえ本尊も不汚清浄の本尊にて有るべく候。然れば拝し候ひても苦しかるまじく候。讃州より立賢に遣され候書物に、濁法へ本尊を遣す事大いに子細あり。能く授与の根本とは施主のことと見へ候。
問 濁法の者施主の身を借り作善を勤め施主の口を借るも題目を唱ふる義ならば内信心の者の功徳には成るべからず哉。
答 いかにも功徳に成るべく候。其の故は内信心の者年忌等の志之れ有り施主立ち施物を出し、清浄の出家を頼み聖霊に回向を致させ候へば、回向の功徳に依って亡魂の得道疑なきことに候。然れば内信心の者も施主の本主にて候施主を立て清浄の出家を頼み善根を勤めさする功徳広大の儀にて候間功徳に成るべく候。此の事多義あり。
讃州堯了上人より立賢へ遣されし書状に濁法へ本尊を遣すこと大いに子細あり。授与の根本を案ぜば不審はあるべからざる事。又濁法の本尊僧を頼み開眼して遣し、其の後彼の手に渡し候へば不拝の由是亦珍義なりと有る事最前の如し。皆施主ある故苦しからざる儀なり。
日述上人へ春雄院弟子寂照が尋ねに、施主を立て仏事を勤め候時看経の座に濁法も別題目を唱へ候へば紛らはしく候様に存し候と尋ね候へば各心入別なる故にくるしからず。返答のよし是れも法立と濁法と列座なれども濁と不濁と各心入別なる故に紛れ之れ無く、又濁法にも施主之れ有り候へば同座にても苦しからずの返答と見へ候。
春雄院浅嶋助七に看経講の本尊授与書の事
是れは我等も其の地に居り申す時分より聞き及びたることにて候。本尊の内に法立内信心両方を書載せ授与書を助七と致され候由、然れば是れも本尊の主は助七にて候間、法立の者拝み候ひても苦しかるまじく候。
日堯因州看経講の本尊に内信士女に授与すと書かれ候事
是れも施主有って申し受け候ひて有るべく候へば、たとへ施主の名はなく候とも苦しからず候。若し施主之れ無く候はば吟味有るべく候。施主之れ有る上にも本尊不拝始経導師相勤むる事悪敷由申し候はば昔より施主立て之れ有るは苦しからざる事を失念致し候ひて申す事に候。
能破條目の事
先年志賢秀学写し越し候。無理なる事ども書かれ候。いはれざる事にて候。末々我等共不通に致す由書かれ候。不通にても毛頭程も迷惑に存ぜず候。委曲申し遣し度き事共多く候へ共、眼霞み手振ひ書状認め難く候間残し候。猶かさねて便に申し遣すべく候。以上
申三月  佐州 日庭 判

理証殿
私に曰く、武州青山自証寺世罪に依り貞享四卯年佐州へ配流となり如何なる鹿人にて邪偽を筆頭に顕し嘲弄を渡世に逗せらるるや。誠に悪鬼入其身なるべしと痛しき限りなり。仰ぎ願くは後学此の妖妄を摧破して迷類を救助せられよ。
恵教日伝
辛亥六月十二日之れを写す。
彼の人の云ふ、根本を差置き枝葉を承り候ひては是非聞分けがたし。違乱の大旨最初よりあらまし示し給へ。答へて云く、此の出入くはしく談ずるときんば時刻移り夜も更け候はまし。要をひろひ其の大綱を申すべし。抑も備前岡山に宗順と云へる道心者あり。和二年戌の秋冬岡山に於て内心の仏前を拝し、或は濁法の始経導師せし等誤之れ有るに付き(仏前拝は栄町萬助の所九月の事。導師は同町丁字屋九郎太夫所十月の事なり。)法中より吟味せられし時宗順申分に、去年酉の十月湯治の為め作州へ参り候節暫く久瀬に逗留仕り候。其の砌浅嶋助七久瀬にて濁法の導師致し候故苦しからずやと存じ候。若し此の儀謗法に成り候はば助七も同じあやまり成るべしと申すに付き、浅嶋助七を呼出し吟味せられし時申分に、是れは宗順偽にて候。我等導師は仕らずと陳報せし故助七宗順は異議になり、天和三亥三月上旬岡山に於て助七宗順対決之れ有り。(下の町木屋八左衛門の所にて)助七たちまち閉口いたし候故此の改悔の義宗順より仲間へ披露せしに付き、法中評定の上にて同年六月十日日指にて改悔相済む。此の時会合の衆覚隆院日通、光林院日晋、本柳院日理、恵雄院日庭、正法院日春、詮量院日松、覚照院日隆、寂照院日玄。此の外顕性覚雄俗法立には井上三右衛門、江田源七等なり。扨宗順二箇條のあやまりに付き改悔は去年戌霜月十二日津寺覚照院手前にて相済む所に此の上誓言の謗法あり。此の改めは覚照院受合なり等と申して日指方より催促せり。津寺方には誓言改悔請合は致さずと争い大いに異議になり、 互に諍論して備前備中美作の信者中へ廻状を以て日指方大謗法なり、津寺方大謗法なりと触れ廻り、爰にては喧嘩をなし、彼処にては口論せし有様偏へに天魔の所為とぞ思はれけり。終に一味の法中を破り日指方津寺方中分立扱方とて四派になり嫉謗雑言致し合ひ誠に浅間しき風情なり。
 津寺方中分立扱方は講師相師に従う。日指方は講相両師に背き、後には又里方奥方と別る。里方の内に制紙不制紙、或いは智法院などなど申して三流と成り、只今日指党すべて四流となって互に我情をつのれり。
日相師へ評定願の事
明くれば天和第四甲子年京都へ上り法燈日相聖人へ是非の御評定願ひ奉る。之れに依って双方召合され六月二十四日対決仰付けらるる。其の上にて相師より仰せに、今法滅の砌一味の内引破り諍論致す事大罪なり。法命相続の道念に任し双方共に我情を捨てて両改悔にて和合すべし。最も是非を了簡する時は一方は理一方は無理なる方あるべし。しかし是れは時に当って一毛一滴のごとし。仏法の大破大山大海の如し。一分の我情を以て仏法の大破をかへり見ざること邪見の至り仏法の大罪なり。と教戒ありし時津寺方は畏り奉り候と領掌す。日指方は覚隆院改悔は畏り候へども、助七には国方一味の者多く候故改悔致させ難しと申すに付き、段々と御異見有りといへ共領掌せず。ゆえに同二十八日迄御評定の上にて日指方謗罪決帰して御不通なさるるなり。此の砌春雄院の本尊を難ずる事あり。其の故は作州久瀬内信の看経講本尊に内信六人の名を列ね、施主浅嶋助七に授与すると云ふ此の本尊は内信一結の本尊なり。然るに法立助七を書き給へる事内信と法立と差別なき故、信謗雑乱誤ありといふ時、春雄院の弟子等より日堯因州へ遣されし本尊を取寄せ、春雄院の本尊誤ならば此の日堯の本尊も誤なるべきか。其の故は法華如説行者内心清浄士女に授与するとあり。内信と如説の行者と一結に書き給ふを見れば、日雅の本尊に法立と内信と一結に書き給ふも苦しからず。若し日雅謗法ならば日堯も謗法なるべしと云へり是れ日堯は流人故謗法といふ者なし。然れば日雅の難も遁るると思ひ謬の類例に出すなり。此の年九月末に讃州日了上人より聞合せの為め惣治郎甚兵衛両人を京都へ登らせらる。春雄院よりも切附屋市右衛門を登らせられ三人一度に相師の御前に出でし時相師より日指方謗罪並びに春雄院本尊の書誤り具に御物語あり。三人退座し両人は讃州へ帰り市右衛門は備前へ帰る。此の時春雄院は大病にて市右衛門帰り候はば相師の仰せを承り謬あらば改めて臨終致し度辛苦せらるる所に十月六日市右衛門門外に帰り候次第衆より市右衛門戻り候と告げられければ、春雄院京の首尾は如何と尋ね給ふ。御心を安めん為めと思ひ謬はなくと申し参り候と云はれければ、春雄院歓喜の笑を含み、嬉しやとの給ひ其のまま臨終せられける。
 日雅は無我にして信心深き人なる故法燈の下知を相待ちける所に弟子衆偽って誤なしと参り候と云はれしこと孝心都べて不孝となれり。父の首を切るは孝にして母の為めに橋を渡すは不孝なりと云へる古語にも同じ。あはれむべし。あはれむべし。
扨日指方我慢の輩京都の首尾散々にて法燈日相上人の御勘気を蒙り、誠に岸の額に根を離れたる艸の如く、江の辺につながる船にも相似たる有様なりし故、讃岐流人日了より状を添へられ貞享二年丑五月逢澤清九郎井上三右衛門を以て日州佐土原日講上人の御下知を願ひ奉る。日向にて色々御思惟あり。日相聖人にも違背せし我慢の者共なれば、今評論を加ふとも用ゆべしと思はれずと猶予ありと雖も、日了より御状も添へ殊に多年御近習相勤め行学積りし田口平六、山下門弥、岡村善介等も達って御すすめ有りし故もだしがたく思召し、先づ両人渡海の者に一札をさせ御対面の時も御経頂戴致させ、其の上にて口上御聞き遊ばさるる時の一札の文に曰く、
去年以来御法燈様達へ違背申し候罪障今度不思議の縁を以て改悔を遂げ御免を蒙り候段有難く存じ奉り候。殊に御才覚を以て諸方和睦候様に御肝煎成さるべく候段具に仰聞けられ本望至極に存じ奉り候。御意の通り随分異見を加へ日指方改悔首尾仕り候様に肝煎申すべく候。日了師へ御状遣され候由、其の意を得奉り候。定めて相違も御座有る間敷と存じ奉り候。萬一日指方改悔の儀合点申さず候はば覚隆院等を捨て尊意の筋目皆相守るべく候。右の旨少しも偽之れ有るに於ては忽に三宝の御罪を罷り蒙るべく一身を捨て候。依って制状の趣件の如し。
貞享二年乙丑五月八日
逢澤清九郎
井上三右衛門
進上 日講上人様
是の如く制状を御取り成され覚隆院へも改悔の本尊並びに一札の案文遣され、本柳院市良太夫は京都日相上人にて真俗総代の改悔致し津寺方と和合し法命相続すべし。二幅の本尊並びに日堯の條目は此方に預るべしとて両人は帰されける。之れに依って覚隆院等日州の首尾具に聞き江田源七に一札持たせ其の年の八月に又日向へ遣す。其の文に曰く、
御本尊頂戴奉り去年以来法燈違背私立制法等の罪障改悔仕る上は向後万端の儀尊師の御指図に任すべき者也。依って後日の為め一札件の如し。
貞享二年乙丑八月十九日     覚隆院判
日講上人様
此の一札を日講上人御披見有り御満足限りなし。凡情人我計り難く心許なき所に早速領掌の段殊勝に存ずる等の称歎有りて源七御戻し成されけり。講師御下知に依って此の年十月の頃本柳院、市良太夫総代改悔の為め京都へ登る所、此の儀故障有りて相師より仰せに、日向へ願書遣し候。定めて近きの内に返書参るべく候。其の内相待たるべし。と仰せらるるに付き、ことがな笛とやらいへる風情の我情の者共なれば其の儘罷り下り覚隆院等に語る。是れ幸を得たりと悪口雑言して(此の故障は日指方相師に背き常に誹謗せる所に日向より催促に付き是非なく改悔に上る故岡山より飛脚を以てたやすく改悔御赦免の事御無用と仕進する故なり。)又々江田源七を日向へ遣し二幅の本尊並びに日堯の條目御返し下され候へ。此の後日相へ随へ申すもなりがたく、津寺方へ和合も致しがたくと。云云
扨二幅の本尊の事根本書様宜しからずといへ共、流人日堯上人の疵、春雄院のあやまりに成る事大切に思召し、又日相上人の料簡も非分に成され、かたがた重々の御思案の上既制未制の時節御定め成され、以来内信へ本尊遣す事授与書格式之れ無きに付き銘々存じ寄りに認めし故臨時筆のあやまりも余義無き事なり。此の後は屹度格式相定むべし。此の法式定まり斯様の雑乱の授与書は謗法なり。是れより以前の授与書は未制の時ゆえ苦しからず。例せば阿含経十二年の内始六年は仏弟子戒法定まらざる故放埓も破戒の罪とは成らず。後六年に戒法定まり候ひては女犯肉食飲酒等に至る迄屹度法度成され、若し犯す者は破戒の罪を得しが如しと大悲の与釈善巧方便用ひられ、日了上人へも往復成され、則ち日了よりも返書到来す。其の文に曰く
 五月十九日御尊翰六月初めに到来再三拝し上げ奉り候。春雄院御本尊日堯因州へ授与の本尊と同趣にて信謗同一の授与書にて候事紛れなく候。然れば春雄院を謗法と落居候へば堯師へも難題掛り候。乃至尊師の御料簡にて堯師にも疵附かざる様に成され、日相の落着の一筋をも妨碍なき様に料簡遊ばさるの儀感じ入り申し候。扨又相談の上にて後代迄の格式を定め置き度き料簡の大旨懇に仰越され候。是れは又別して結構なること申宣べ難く等。云云
丑八月二十二日    日了判
日講尊師貴答
かくの如く示し合せ御救い成されし所に今度源七を以て本尊御返し下され候へとの催促千万気の毒に思召し悲愍の涙を流し給ふ。
 右の趣にて未制の時故格式より前の本尊は謗罪にても之れ無しと落居成され日堯を御すくひ成され、又此の後は斯様の本尊は謗罪なりと落居成され不拝の格式御立て成さるべしとあるを以て相師の御料簡の筋も妨碍無きの御判断なり。
又日堯の條目と申すは備中へ日堯より内信濁法と法立と隔てなく同行同拝苦しからざる旨弘通せられし所に、日堯の甥立賢云ふ、此の弘通は遠慮あり。国方の古風に背き日述日浣上人の仰せにも相違せり。諸人猶予をいだき誹謗の端とも成るべきか。との異見を祐甫といへるもの日堯へ物語せり。之れを日堯大いに立腹致され、当時流人は不受不施の随一、何ぞ軽賎するや。内信所持の本尊拝は苦しからずの旨知らすべしとて、清濁混乱の法門長々しく書きて送られし條目なり。若し此の書世間に流布するときは由々敷大事に候へ共、本尊既に講師の御手に入る故隠密に納なられ、堯師の疵にならざる様にとの善巧方便を用ひ給ふ所に、此の度二幅の本尊と一所に源七へ御渡し下され候へとの催促は、堯師不惜身命の行業も泡沫に同じ、末代に至り破法の張本となり、出家、法立、内信の徒に至る迄破法堕獄の大罪を造る事深し。日堯の異途より起る万人の昇沈此の時にありと。根本講師堯師は無二の御入魂、兼ねて志の程も御存じの故、若し存生の時ならば講師より異見せられば早速承引も之れ有る人なり。此の故に死後とても誘引を以て此の事隠密に納め、此の書流布せざる様に鎮められば日堯満足なるべし。殊に奥師の書に大功有る人は小疵を挙げずと有る故、不惜身命の大功ある日堯此の異途の小疵を以て捨つる事有るべからずと思召し、源七にも段々御教戒成され二幅の本尊日堯の條目永く此方預り置くべし。若し破法せしむる時は其の罪日堯に帰し由々敷大事に候間、随分信心道念を以て京都の首尾相済まし津寺方とも和合すべし。相師よりの御状も来り候はば又々様子申し遣すべく候。先々帰れとて源七を御戻し遊ばさるるなり。然るに日指方京都にての総改悔兎や角と延引のよし御聞き成され諸人の口説も如何、且つは与同を防がん為めとて真俗総改悔御催促之れ有り。本柳院、市良太夫は京都の改悔の為めに残し置き両人は相つづきたる一真一俗にて総代改悔の一札御取り成さる。其の文に曰く、
一、去々年以来一派の真俗法燈違背私立制法等の謗罪御座候故我等両人真俗総代と為り貴師の御本尊頂戴改悔作法相勤め申し候。然る上は向後万端貴師の御指図に任すべく候。依って後日の為め一札件の如くに御座候。以上
貞享三年丙寅二月二十八日
総名代
受正院判

石坂加左恵門判

日講上人様
斯の如く日州の首尾は相調ひ候へ共京都にての総改悔を致さず我情日々に興し、邪慢夜々盛なる旨伝へ聞き給ひ、同年寅五月御近習の内岡村善介本行院善了日長の事也を?の為め御帰しなされ、即ち善介讃州へ渡り或は備作二箇国を廻り、又翌年卯の春は二度日向へ渡海して講師の御内意を承り中国へ帰り種々に取持ち給ふといへども、日指方一党我情の業火弥盛にして首尾調ひがたし。之れに依って講師御下知を以て三清、心鏡、竹内清左衛門等又?ありしかども終に調はず。日了日庭等と示し合せ日向に預け置きし二幅の本尊等取返し始経導師の旗印に押立て日堯の條目の通りに弘通すべし。若し背く者は謗法に落すべき由も聞へ苦々敷思召す処に元禄元年辰八月五日日了も死去せられ、翌巳の春讃州須股長兵衛、備前より逢澤清九郎両人渡海して先年預け置く二幅の本尊並びに日堯條目御返し下され候へとの催促せり。覚隆院よりの書状も同じ趣なり。之れに依って両人一両日御留め其の内能破條目抄を著述して二幅の本尊日堯状に御添へ堯了庭雅等謗法に決帰して御返し成されける。世の中に執情ほど恐ろしき物はなし。臭糞に付きたる蒼蝿の追へども追へども立ちさらで終に臭糞の為めに殺さるるといへる諺も宜なるかな。覚隆院等一旦の人我が執情に我が身をも打ち忘れたる有様不便の事なり。初の程は助七宗順導師せしを謗法なりと責め、後には引きかへて導師せざる者を謗法と罵る事、昨日の淵は今日の瀬と成る人心浅間敷とも申す斗り無し。之れに依って彼の我情中間も二つにわかれ、金川より里は導師し玉へ、金川より奥は導師致さずとて、奥方里方と分れて邪偽を興行し互に嫉謗せり。此の罪業は億々万劫を経るとも減ずる期有るべからず。是れ破法の大旨なり。
彼の人の云ふ、違乱の始終具に仰聞かされ日指一党の邪慢我情今目前見聞するより明なり。扨又堯了示し合せの儀体一向受不施より頼み開眼の事詮なき論談なれば尋ねに及ばず。内信所持の本尊同行同拝の了簡講師御立義と違目の段示し聞かせ給へ。
答に曰く、堯了等の料簡は濁法不受の流義を尊み内信に相守る故其の内証へ目掛け法義を共に許し同行同拝をゆるし給ふ。講師の御了簡は濁法の徒不受の立義と尊み内証に相守るといへども、外相既に法敵に交わり謗罪顕然なる故彼と与同することを嫌ひ内信所持の本尊を拝せず、始経導師を許し給はず、清濁混乱もなく各別に法義を立て給ふ。是れ講師の立義なり。此の儀下に至って分明に聞ゆべし。扨其の次の注進の状の義体色心の中に心法を正意として色の假判に目を掛けざる決帰なり。又次の状の義勢も同じ趣にして色心二法を主被官にたとへ心法を正意とする義をかき給ふ。このたとへの中に一向の他宗と色心清浄のたとへは今の所論にあらず。第二の又主の心に背いても主人より本意を内に密し外に偽って被官に言附けてなさしむるは彼の使人に失なし。是れは内信清浄の行者外に方便して謗法人に交る如くなる故心業に失なしといへり。此のたとへは心法を主人にたとへ、色法を下人にたとへ、本意を内証に隠密して偽を言付けて下人になさしむる時は、同意に背く義も下人の失とならず。内信の者色法を偽って受不施等に交り、本意内証に隠密するが如しと云ふ義なり。今此の義を評破するに一往再往の両義を以て暁さん。先づ一往此の喩に準じて難ぜば今堯了に問ふべし。爰に被官二人の武士あり。或時此の主人高官の方へ下人を使者に遣す。心には礼儀を正し如何にも敬ひ丁寧にせよと思へ共、口には云はずして引きかへていかにも無礼にして悪口して帰れといふ時、下人主の言付の如く高官に向ひ甚無礼に悪口せば高官何と済ますべし哉。彼の主人は偽って慮外無礼致させ候と云分立つべしや。其の主人下人共に無礼慮外の御咎にて極上の仕合にして棒をいただくべし。又或時主人偽って下人に言付け火を以て自他の家を焼失せり。吟味の時偽に下人に申し付け候と云分立つべきか。火附は定めて格式有る故火あぶりに行はるべし。謗罪は火の如く自他の仏性を焼く事謗法に過ぎたるはなし。若実若不実は正しき如来の金言なれば、偽に謗法致し候と云分更に立つべからず。堯了我儘に無理なる喩をあげて邪義をかざらるる故に一往破心に附準して堯了の弊をあらはすものなり。浅間しきかな、非義の喩をまうけて愚俗を勧誘し、高官に無礼させて棒をいただくが如し。獄卒の鉄杖を蒙り火附の火あぶりに行はるる如く、熱鉄の床に伏し給ふべき事理のゆく所なり。哀れむべし。又再往破する時はいよいよ当家の正義に背けり。先づ当家の立義に背くとは事理の中には事相を正意とし、色心の中には色法肝要なり。台家の理の一念三千を簡異して本門事の一念三千を建立し給ふ事元祖日蓮大菩薩の御立行なり。然るに心法を正意として肝心の色法を方便と云はるる事元祖へ敵対になりぬ。大謗法なり。次に台家の正義にも背くとは色即心心即色にして色心不二なる所法華の妙理なり。故に弘決に云く、即とは広雅に云合すなり。若し此の釈に依らば仍つて二物相合に似たり。其の理猶疎し。今義を以て体を求むるに不二の故に名づけて即と為す。云云智礼指要抄に云く、応に知るべし、今家明に即永く諸師に異り二物相合に非ず。及び背面相翻に非ざるを以て直須当体全方に名づけて即と為す。云云 此の釈は法華の釈の字を一体不二当全是れを以て顕し給ふ。然れば色の二法全一体にして不二なり。然るを主人と被官二物相合して本化の行者の色心に喩へ給ふ事台家の釈義にも背けり。是の如く謬りて法華の妙理を云ひかすむる事根本なり。雖讃法華経還死法華心とは是れなり。謹まずんば有るべからず。今六根の功能を明にす、聞いてよく了納せられよ。夫れ心は能造の根元、此の故に意根は六根の内の王なり。若し心に物を見んと思へば眼根之れを承って能く見る。若し心に物の音を聞かんと思はば耳根之れを承って能く聞く。若し心に香を嗅がんと思へば鼻根之れを承って能く嗅ぐ。若し心に味を知らんと思ひ、又言語せんと思へば舌根之れを承って或は身の立居動静等一切に思ふ事を五根皆承り相叶へる故、意根は王にして五根は所従なり。所従の五根の振舞全く一心より起る故全性修と起用し、修の当体全性に有り。文句十に云く、六品に云く、色浄なる故に般若浄、般若浄なる故に色浄、色浄なる故に般若浄とは意根浄。巳上 此の文の如くんば色の浄即ち心の浄なり。心の浄即ち色の浄にして色心不二なり。故に色の不浄も即ち心の不浄なり。心の不浄も即ち色の不浄にして、奪って論ずる時は色心共に不浄の人と云はずんば叶ふべからず。今堯了庭の首をおさへて諸人に聞かせたき事なり。つらつら内信の心行を案ずるに不受不施正意とは思ひながら流石不惜身命も立つることかなはず、妻子の別れをかなしみ財宝に貪著して謗法と合点の上にて法敵の組下になり、判形を頼み身を全ふする分際なれば、一向の受不施、悲田新受の徒よりは勝ると雖も、色心清浄の行者にははるか劣れり。されば日浣上人より作田市郎右衛門へ遣されし御状に云く、当代受不施の悪僧共悪鬼入其身の故祖師以来の立義を破り、其の上日本国中の法立の寺々を受不施の寺に落し、或は滅却せしめ、信心にて造立し奉る仏像経巻を火に入れ水に入れ、或は衆僧を遠離し、又追放せしめ候。信心の檀那中も退信して余宗になり、不意の改宗の事より斯様の事は余宗も及ばざる重罪にて候。余宗よりも受不施重罪と知るべし。命身捨て難き故大罪人の組下に成り候ひて受不施の名を附けらるること言語道断浅間しき事にて候。已上 此の浣師の御状と堯了の立義天地水火の相違なり。
御書に曰く、日蓮が方々へ強言申すに及ばず。是れ併して強毒の故なり。定んで日蓮が弟子檀那流罪死罪一定ならん耳。各用心有るべし。少しも妻子眷属を憶ひ権威を恐るる莫れ。今度生死の縛を切り仏果を遂げしめ給へ。已上 奥師制法論に曰く、御講記に曰く、日蓮が弟子臆病にては叶ふべからず。云云 夫れ本化末流を汲み、法華の行者持経の始の日より堅く思ひ定むべし。況んや滅度の後の大難三類の強敵甚しかるべし。然れば万端を閣いて先づ習ふべきは不惜身命の心地なり。此の心弱ければ大難に臨み一世の行学悉く徒然と為る。云云 此れ等の掟を守り妻子眷属に拘らず、公儀の権威に恐れず清浄に立て通す人こそ法華如説の行者なり。然るに妻子眷属財宝に拘り公儀の責を堪へ兼ね法敵に組する濁法を罪なき様に云ひなし、仏祖の制禁を破り与同するは仏祖歴代の格式に違背するのみならず、却って正義の方を誹謗せる事獅子心中の虫なり。甚恐るべし、恐るべし。又制法論に曰く、言語の相似者、心に謗法無く亦行跡に謗法無しと雖も、仮初の語にも誤あれば是れを謗法に堕す。此れを言語相似の謗法と謂ふ。今其の大略を言わんに、古京都に一人の檀那有り。其の名を宗圓と号す。備前に下向す、同行皆他宗なり。或人宗圓に向って云く、汝法華宗なりや。此の人同行の前を憚りて他宗なりと答ふ。是れ相似の謗法なるに依り衆僧僉議して改悔せしむ等。云云 然れば世間を憚り不受不施にては之れ無しと当分云ふばかりも謗罪なり。況んや一生の間他宗の判形を以て身を全ふし、しかも其の身謗法に交る者と何ぞ同行同拝を許す義あらんや。重き罪を軽く云ひなし、次生成仏、二生成仏の増上慢を起し、信謗混同潜上のおもひをなし、堕獄を急がしむること諺に云へる引立てんとて引倒すが如し。浅間しき事にあらずや。又堯了状の譬言に、内外清浄の行者は蓮華の泥の中に貫出でて水の上に有って泥を離るるが如し。又内心計り清浄に外相謗法に交るは蓮華の泥中に有っていまだ貫出でざるが如し。然れども泥中に有りながら少しも泥に染めらるる事なし。其の如し。謗法に交れども謗法に染めらるる事なしと心得あるべしと。云云 此の評破盲跛記に詳なり。此の故に唯大格を示し堯了の心得違を顕すべし。蓮華の泥に染められざるが如く謗法に交りても罪にならずと云はるること甚いはれなし。身延山日朝聖人の曰く、謗法の言を聞かば正しく耳を洗ふべし。若し知らずして謗法の施を受けなば歯を研くべし。云云 此の禁は不慮に謗法の言を聞く等の微縁を制し給ふ義なり。然るに堯了の如く一生謗法に交るとも罪にならずと云ふ義ならば、此の日朝聖人の御義もいたづら事となり、謗法同座必堕無間の祖制もむなしく塗炭に堕ちなん。仏祖歴代の格式を云ひ破らるる事如何なるてんだうなりや。又次の提婆品の一因五果の文を引いて内信濁徒に擬せらるる事、浄心信敬不生疑惑者の文を何と見られて斯様に乱階せらるるや。今内心の者実には色心共に不浄なる故、浄心信敬の人にあらず。半信半疑のゆえ不生疑惑者の人にあらず。若し浄心信敬の人なりと云はば何ぞ不惜躯命の文を守って法義を堅固に立てざるや。今此の文を引いて内信に擬せらるることは受不施坊主の談義にして心をたぶらかすも同じ。
是れより日庭状の評破
日庭状の趣も堯了の非を追ふ故に義勢同趣にして、内信濁法施主を立つる時んば濁法の色心即清浄と成る故同行同拝苦しからず。作善の時施主の身を借り勤むる故、題目唱ふる時も施主の口を借るといふ義なり。此の義を評せば日庭施主立の義に迷ひ給へる故清濁混同せらるるものか。根本施主立の義は九箇條御法式には、仮令誘引の方便為りと雖も、直に謗法の供養を受くべからざる事と有る文より立って謗法供養直に受くるは謗法なり。一度信者の手に入り転じて受くるは苦しからずといふ古来の義勢なり。何程施主を立てても本罪は替る事なし。謗者は謗者にして信者は信者なり。施主を立つれば謗法人即法華の信者となるといふ義曾つて之れ無し。奧師多義を以て料簡し給ふ中に、針程の物も直に海へ入るれば沈むべし。千人引の大石も船に乗すれば自在なり。一紙半銭の小施も施主の船なき時は針を海へ入るるが如く無間に沈むべし。千貫万両の大施も施主の船に乗すれば志す方へ自在にして大善と成る。法華の行者は如渡得船の舟を持つ故なり。此の外譬の中にも施主立つ時は他宗も法華宗となると云ふ事之れ無し。唯謗施の大毒施主の前にて信施良薬と転ずる義なり。然るに日庭の料簡にては施主は謗法人の内信の罪を引受け身替りに立つ故濁法導師しても苦しからざる様に書かれしは古来の義に相違せり。日庭の了簡の如くならば施主に立つ法立内信の身替りに地獄へ堕つるなるべし。自業自得果の習なれば罪を外へゆづり軽んずる事もあるべからず。世間の財宝は人に依って転ずること自在なり。然るに行者の善悪の業、殊に謗法罪何程人代りする共其の体転ずる事之れ無し。信謗混乱する故に出家も法立も与同罪と成って罪を重ぬべし。哀れむべし、悲しむべし。又日浣聖人作内半三郎導師制し給ふ事も施主立ち候上の始経導師を留め玉ふ事盲跛記に詳なり。法滅引きつづき佐伯六人の内河本花房の妻子作州へ立退き施主に立ち、或は小児を帳面にはづし法義を改め施主に立つる等の義も浣師の御指図なり。述浣両師堅く与同相似に至るまで制禁し給ふ事諸人能く知れり。何ぞ猥りに浣師施主ある事を御存じなく無用と御指図候かなどと評せらるるや。作州は別けて浣師御生国にて御縁深き故、法義の立様万端浣師の御指図を承り津山檀那中或は石本河島作内等の御親類へ遣され候御状等此方法中に留って舊記となれり。疑はしくば来って拝見せられよ。
此の浣師への尋の義は法滅の砌家を捨て妻子を離れ法義を守る法立所々へ行き信心をすすめ導師して題目を唱ふ時、或人此の義を心得がたしと難ずるに付き、作内市郎右衛門より同苗半三郎を日浣聖人へ遣し施主立は内信へ法立のもの廻り導師いたし信心すすめ申し候。此の義如何御座有るべし哉と御尋ね申す時、浣師仰せに、不愍なる事かな、出家共はかくいのかふに衣を着せたる如く浅まし。法立の身として濁法の導師なるべき筋なし。急ぎ帰国して差し留めよと仰付けらる故、半三郎急ぎ帰り此の事を留めけりと。云云 此の事矢原連中斗有蓮養物語なり。
又日庭の了簡に看経講の時は施主の口を借りて唱ふる故苦しからずと云へり。此れ等の義は二三歳の童子も云ふまじき事也。先づ施主に立つ人に問ふて見らるべし。題目唱ふる時法立の口を切って貸す事か、又は法立の口へ内信の生霊を祈り付けて貸す事か、定んでかし様有るべし。不審なり。若し口を貸すにしても内信の身にて唱へば導師なるべからず。又法立の口へ内信の生霊乗り移りて借るとはいはば、法力の身口を以て唱ふ故内信と同行するといふ義に成らず。得道の羅漢或は狐狸は人の身に入替り口を借るといふ事あれども、内信の者法立の口を借るといふ事古今珍しき義なり。斯様の珍説の源は意業を本意とし心法を肝要とする天台過時の法門を習ひて唱へ、当宗本化の流儀は末法相応の色法本意事相肝要の弘法なる事を忘失せらるるあやまりより起れるものなり。手を打って一笑するに堪へたり。浅間しきかな。日指方の俗男俗女かようの筆端をも天子の一言の如く敬う事、悲しむべし。哀れむべし。
又濁法所持の本尊拝不拝の事施主の手に有る内はもちろん清浄なり。内信の手に渡れば半信半疑の曇かかる故、色心清浄の人は是れを拝せざること人法一致定まれる格式なり。日堯、日了、日庭の了簡は人をへだて施主を立つる歟と思へば法において同行同拝を許す。是れ人法一致の格式に背けり。評破能破條目に具悉なり。若し導師苦しからず、所持の本尊も汚れざる程慥に法義を相守らば、仏事作善の時施主を立つること之れ無き筈なり。若し直に供養を受けざる程法義不慥ならば、本尊同拝始経導師も成らざる道理なり。本筈の合はざる了簡、日庭其の意を得られざる事は有るまじき事なれども、堯了の心得違ひおさめ様なく、無理立てに我情を以て了簡せられたるものか。信謗雑乱して同行同拝を勧め一派建立せし覚隆院等に一味して迷路の大将となり、誹りを後代に招かるる筆端浅ましき事なり。日述、日浣、日相、日養等の御了簡は右にもしるすが如く、内信の功徳受不施等には勝るといへ共、又色心清浄の出家法立にははるか劣れり。故に清派濁派のへだてをして面々分々等修行する時は、濁派内信も清派を穢す科なく、清派も与同の罪を蒙らず面々分々に功徳を感得するといふ義なり。又述師問文の事寂照院より施主を立てて仏事を勤め候時、看経の座へ亡魂の親類等来り信心殊勝におもひ、後より共に題目を唱へ候事無用とも申し難き旨尋ねし時、述師仰せに、内信と法立の心入各別なる故、其の儘捨て置き唱へさすべしと仰せられたる義なり。然るに日庭此の問と答と挙げ畢って、又濁法も施主之れ有り候へば同座にても苦しからずとの義なりと非義の評を加へ、正直正師の日述聖人をも己が邪見の謗家に引入れんと思ふより智あらんもの誰か是れを実と思はんや。若し日述聖人も日庭の如く思召さば、寂照へ答に、施主ある内信ならばいかにも列座同音苦しからず。随分強盛に信心はげみ打込んで相唱ふべしと有るべきに、問答共に其の義相見へず。法立の看経に濁法乗り懸り信心催し末座にて題目唱ふる義紛れ申すべきかの問なり。述師仰せに、心入別なる故紛らはせざる義なり。日庭の義は紛れて苦しからざるも、述師は紛れざる故苦しからざる儀にして其の違同水火の違なり。譬を挙げて此の異同を暁さんに、爰に大家あり、或時乞食非人門前へ来る。下人主人に告げて云ふ。外より見分も見苦しく追立てん哉といふ時、主人の云く、捨て置くべし。門前へ来っても入る者にあらず。少しも妨にならずといふが如し。是れ述師苦しからずと御許しの義なり。又日庭の義にては非人乞食不浄の人門前へ来るを家内へ呼込み同座して食呑苦しからずと評す義なり。外相不浄の人を心のかきより外に置くと内へ呼込むとの差別なり。是れはしばらく一往の異目を顕す迄の事なり。同行同拝は家内の罪をかうむる故、彼の乞食を内へ呼込み共に乞食仲間となるが如し。不審して云く、内信を乞食非人に喩ふる事は如何。答ふ、内信の人を乞食に喩ふるにあらず。仮令ば不浄の謗法罪を不浄人にたとふるなり。色心清浄の人は忝くも是真仏子の行者、受勝妙楽の人なり。軽賤すること勿れ。又二幅の本尊に付き日了も信謗同一の授与書紛れなく候と云はれしを日庭無義の評を付け、根本施主の本尊故法立の名書加へ苦しからず。又一幅の本尊も施主の名なきとても施主を目がけ授与せらるる故妨げなしと云へり。若し法立の本尊ならば何ぞ内信六人の名書連ね、或は内信浄信士に授与すると書かれしや。途方もなき了簡一笑に堪へたり。此の本尊に限らず内信より本尊所望する時は施主を以てもらひ内信の所持と成る事皆一同なり。殊に看経講の一結の本尊なれば猶以て内信講中の所持なり。何ぞ本尊の主は法立なるべけんや。曲らぬ所を曲げ無理なる評論なり。又日庭の了簡に施主之有る上にも本尊不拝導師相勤むる事あしき由申し候は、昔より施主の立之れ有るは苦しからざる事を失念致し候ひて申す事に候。云云 今云く、此の了簡別けて傍若無人の新義我意なり。昔より施主は謗法人に立て来れり。施主立て候へば他宗も法華宗の行者に成るといふ事祖師以来何れの師仰せられたるや、跡かたもなき偽なり。かくのごとく偽りかざって俗男俗女を悪道へ引入せらるる事、智者の身に魔の入り替りたるなるべし。恐るべし。悲しむべし。日庭根本法義に立入り深き事之れ無き故、日相聖人、日養聖人共不和の節此の事出来せし故、幸と思ひ邪義に組し給へり。佐州へ流罪にあはれしも法義の咎にては之れ無く、余り身の自由なるに任せ国法に背きし世間罪なり。途方もなき不覚の人なり。道を同一に語るべき人体にあらず。日指方講師は違背候はば三宝の御罰を蒙るべしと誓状書きながら何のしるしもなく背き奉る。我意を以て破法せし謗法罪提婆も及ばざる大罪なり。日指方のあやまりの條数挙げて数へがたし。能々理非邪正をあきらめ未来の得脱を祈られよと語る内や声の鳥も鳴き渡りけり。
彼の人軒渠して云く、仮初の尋ねに委しき御示しにあづかり常々不審に思ひつる事も能々合点参り、御立義いよいよ殊勝に存ずるなり。最早夜も五更末に及び候ままいざらせ給へ帰らんと礼を為して去りにき。

追記
内信の徒に堯了庭のすすめを聞かば一旦うち聞く耳はたのもしかるべし。併ら二度考へ見たれば手を引いて地獄へ行く大怨敵なり。世話にいへる甘毒をなめさする如く、たとへば下郎をとらへて上ろうと誉むるに似たり。是れ誉むるにあらず、そしるにあるなり。又今内信の者を清派と同じ不受不施といへるは大誑惑なれば、誉められて嬉しからざる事なり。だしぬきあふが如く成るべし。又斯様の偽を請け不受不施の顔をして人を勤めるは誠に売僧の皮と云はんもむべなり。世間仏法共に道理は有体にいふこそ本義なるべし。殊に只今の内信は不思議の縁に取付きたる物なれば、随分いたはり謗法罪の重き事を有体に説き聞かせ、慚愧さするこそ慈悲のいたりならん。あはれなる哉、日指党の者共は我が執情に目もくれけるか、かくの如き等のすすめにあふて未来をたすからんと思ふことのはかなさよ。人は唯無常の身にせまりぬることを心にひしとかけて、わづかの間も忘るまじきなりと云へるを、人の筆もいとおかしき世の有様なれば、一時の世話をとどめて思ひを後世に懸けたる人こそ目出度けれ。只今日指方の人々にもせよ世の塵埃を離れて不惜身命を志すものに名聞名利のあるべきはずはなし。然るに人欲の離れがたきに付いて法理の邪正をわきまふる事こそうだてけれ。法に依って人によらざれとは我も人も常に云ふ如来の金言なり。我慢偏執をはなれ耳目を天下の物にして義の明なる所をたづね、人師に著する事なかれ。同じ辛苦して後世を願はんに、とてもの事に益ある方を願はまほしき事と思ふも慈悲の寸志かと、善悪もわからぬ水茎を加ふるのみ。



夫れ堯了法難のむかしは諸聖と共に勇猛精進の行者たり。日庭又大地の化城を捨てて制法を汲めり。然るにはるか日往き月去って後いかなる天魔の狂ひしにや新義を建立して迷路の大将と成り辺鄙の野僧薄信の眷属を迷はせる事悲しむに堪へたり。爰恵定先醒撰石上物語といへるに彼の新義を評破せられたることあたれる哉。宗制の中生是れ又同門の資益なり。今此の書を仮名書にして他をひろくのべんとの心ばせ寛仁めぐみならずや。凡そ法理は幽微深遠にして薄智短識の及ぶ所にあらず。髪筋の相違も地獄極楽に立ち別るるとは明聖の筆記。危き事若し毫釐もせば謬るに千里を以てすとは儒訓朱文子の語なり。知有らん後生枕をかたむけて正義を案ぜられよ。一旦の人我情にかかはって永劫の苦果を求むることなかれ。仮令党類非を追ひ情を張るとも朽ちたる木は生へ得べからず。糞土の墻をばなだらかになすべからずと知れ。舌柔にして永く存す。歯堅くして先づ折るる事は常従が戒しめにして老?能く此の心を得たり。早く邪を避けて速に正に帰せよと又禿筆を添ふ事しかなり。

干時享保第十六歳    清閑亭
重炎大淵献一半秋    日講門人 愚久子書焉

或る人此の書を見て曰く、覚隆院等の我僧初めは導師せしを謗法とせめ、後には導師せざるものを謗法と云ひ、我意を以て法義を狂はせる事仏法大罪是れに過ぐべからず。其の内奥方不導師方は先例を守り導師せざる故罪なきにあらずや。答へて曰く、此の奥方と云ふは別けて義筋立たざる立義なり。其の故は導師建立し給ふ日堯日了を信仰して不導師と云へる故日堯日了の立義に背けり。又日講日相聖人立義の不導師を信仰するといへども日講日相聖人の御本尊用ひず。此の故に導師にもあらず、不導師にもあらず。中有迷惑人非人なり。此の根本は初は覚隆院に巻きこまれ万事覚隆任せの所、覚隆院彼の日堯日了日雅の二幅の本尊並びに日堯の條目おさめようなく、横車を押す如く導師方と打出でて修行する故、俄に?倒して昨日今日迄違背せし日講日相上人を信仰も得せず、導師ともならず、打寄り談合して金川より里は導師し給ふ。金川より奥方は不導師なりと云ひし故、奥方里方と別れたるなり。導師建立の日堯日了等を用ゆる故不導師の義立ちがたし。譬へばなべ盗人が鍋を隠す所なく、天窓に鍋をかつぎ手を叩き鍋は盗まぬと云ひしが如く、此の近き事四箇條の難問出し候へども、いまだ返答是れなし。其の状に曰く、

啓白
夫れ本化弘経の時至るといへども五濁倍増して闘諍堅固なり。之れに依って正法の光弱く衆生業力の悪風嵐よりきびし。終に一宗の正法滅して五十余年に及べり。たまたま正法を志す者も我情の業火盛にして一派種々に分破せり。他宗の嘲り高山も此の類に足らず。素緇一統の悲涙蒼海却って浅し。故に談話の上にて用捨し和合せんことを志し法中先達数度諫暁及ぶといへ共敢て頓着なく、却って悪口ありしとかや。今一二の大綱を問ふ、正路に答へ給へ。
先例方と名乗り給ふよし経疏に所依有りや。其の所以を聞かん。名詮自性は世出通同の義なり。故に名は必ず其の体を顕す。爰を以て自他共に是れを許容す。徳なくして分に過ぎたる名を付くれば則ち他是れを許さず。たとへば民の子として我は是れ王子なりといはんには人随わざるが如し。今の先例の云如何なる先例なり哉。徳用あらば答へ給へ。会釈不正ならば先例名言改むべし。
講師は日奧聖人祖師へ三年万燈を捧げ乞請け給ふ一宗制法血脈相承の聖人なり。いかなる所以有って用ひざるや。返報あらはし給へ。総べて如来他益の儀式随他意随自意と大集謗正破立自在等あきらめ其の上にて津寺日指の諍論、講師御了簡よくよく工夫あらば疑氷あるべからず。
州より因州へ授与の本尊、春雄院久瀬へ授与の本尊授与書可なり哉、不可なり哉。若し不可なりと云はば今難ずべし。清濁不分、信謗莫弁の授与書此の本書故に事発る。不可なりと云はば何ぞ此れ等の師に依用するや。本尊の可否を論ぜず了簡の師を悪口するは、世話に云ふ盗みする子はにくからで縄かくる人を悪むと云へるに同じ。依法不依人の金言に任せ執情を離れ邪正を弁じ給へ。今生は夢の世、急いでも早く急ぐべきは出離、解脱の計、忌みても尚忌むべきは虚妄邪執のあやまりなり。一度火杭に入りなば出づる期あるべからず。将来悲しむべし、誹謗おそれあり。
日堯日了聖人等は清濁一致、同行同拝を建立し給ふや、建立し給はざるや。若し清浄の行者濁法と同行同拝を建立し給はずと云はば立賢へ遣さるる條目会通如何。)日堯同行同拝の條目本尊と一所に日向へ到来、後に本尊と一所に破文を添へ御返しなり。(若し又同行同拝の師なりと云はば何ぞ尊敬し信用するや。中有迷惑誠に人非人なり。水上濁らば何程不導師といふ共失脱れがたし。師は針、弟子檀那は糸の如しと有る故なり。
右四箇條綱要を問ひ、正路に貴報願入り候。日指津寺二派に分れし時百五十里海上を隔て日向にて御了簡成され紙面を以て仰せ遣され候事を銘々執情に義を取り世間に偽難多し。此の條目御返書に依って講師の正義を顕し御目に掛くべく候。あへて我まんなし。護惜正法の道念に任し、謗者呵責の一分を志す 以上 
享保九辰年十月日 日講門人 
恵定 日 新判 
堯了師門派不導師方衆中
右の通認め作州はが村北山藤四郎と云ふ人より児玉義兵衛といふ彼の派内信へ渡され候へ共早速出家中へ披露是れ有るよし。其の後何の噂も是れなきゆえ北山藤四郎より両三度も返答催促致され候へ共、一言の返答も之れ無きよし物語にて候。執情にこりかたまり、我慢の淵に落入り、諌の綱に取付かざるは浅間しき事にあらずや。彼の人又云ふ、日堯日雅の本尊は筆の誤なり。其の外に別に悪しき事是れなしといふは道理にて候哉。答へて曰く、日堯より立賢へやられし同行同拝の條目本尊と一所に日向へ持参せし故、日講聖人彼の條目に破文御作加御返しなり。又此の書に見へたる如く日堯、日了、日庭同行同拝の立義明なり。奥方不導師派誠の先例を立つるならば、不導師の筋を以て導師を破して見るべし。日堯、日了、日庭の首に綱をつけ利刀を以て瓜を切る如くなるべし。浅間しき事にあらずや。東西愚俗の先例方といへばよき事かと思ひ、自讃毀他して正法正師を悪口せること億々万劫にも其の罪消ゆる事なし。是れ悪しく聞くべからず、悲愍の余りに一言示すものなり。仰ぎ願くば双方の書物を並べて邪を捨て正に帰せよ。人師の口伝を用ゆる事あらば誤有るべし。依法不依人の金言に任せ、人に執着することなかれ。以上此立義取りし出家は講樹とて出寺の行者あり。元禄五申の年京都上鳥羽廓全死去に付き其の跡続に日相聖人講樹へ仰付けらる。即ち御請け申上げ備作へくだり庵室造作の奉加せし処に作にて壱貫七百匁、備前備中にて弐貫五百匁、以上四貫弐百匁集り、京都へ帰り遊女野良に遣し捨て造作には少しも入れず。其の後津山安立院浄信院より書状上り、奉加の儀日相聖人御知り成され御吟味なされ候へば、右の首尾あらはれ候に付き即ち講樹へ御勘当仰付けられしゆえ、講樹美作に下り寺地村智善院坊、笹岡村寿仙坊かたの仙林房、福渡智円、学円坊、川口村了正院、湯次村りゆうぜい、鹿瀬村善教等へすすめ候へば、内々覚隆院導師の立様無理なる事を見限る折節故、講樹日相聖人を悪口するに一味して奥方不導師派を建立せしなり。此の立義にて生死を離れんと思ひ、いかのぼりの尾に取付き天上せんと思ふより危し。相師家代堺屋文右衛門事を悪口すること是れ亦大なる邪見なり。此の文右衛門と申す人は根本尾張妙伝。云云 文隆と申して寺持の出家なり。
 石上物語 終