寛文法難前後

不受不施三大事件の一つ

 不受不施派の弾圧と禁教史の中で、大きな事件と言えば次の三つが挙げられよう。日奥の大坂対論、寛永年間の身延と池上の対論、そして寛文法難である。取り分け寛文法難は、それまでともかくも姿を現わにしていた不受不施者を徹底的に弾圧し、地下潜行の生活に追いやったという点からも重要視されている。また、身延が日蓮宗の中心勢力になっていったのもこの時期である。
 
 この弾圧の理由は何処にあったのだろうか。その理由を一口で言えば、幕府の命に従わなかったことにある。江戸幕府は、最初から仏教教団を自らの権力化におくことを企て、それを実行していった。それは様々な手段をもって行われ、その結果、仏教教団はしだいに権力の下に吸収されていったのである。
 ただ、不受不施者だけが、それに従わなかった。日蓮宗で云う不受不施は、法華経への信仰を持たない者に対して、その供養を受けないし本尊も授けないというものである。日本国で活動する以上、法華未信の幕府との間で、この不受不施が弾圧を呼び起こす種となったことは確かであった。

 慶長17年(1612)、対馬に流されていた日奥は、赦されて京都に帰った。この時、京都の諸寺は、日奥の論説を容れて和解したのである。
 日奥の流罪は、大仏供養への出仕の可否であった。しかし、日奥と対立した出仕派の日重と日乾らは和解の場におらず身延にいた。出仕を唱えた張本人抜きの和解では効力がある筈がない。
 問題はやがて再燃する。

 今度は場所を京都から関東に移し、不受不施の先鋒である池上と、受派の身延が対立することになる。
 当時、池上本門寺は多くの末寺を従えた関東の中心地であった。池上の日樹は、不受不施を捨てた僧が居る身延は汚れていると言い、信者の参詣を停止させたのである。
 これは身延にとって大きな打撃であった。身延は、池上が幕府の催す法要に出仕しない事・故意に信者の参詣を停止させている事などを挙げ、幕府に陳情した。幕府が身延方を支持……いや幕府の命に従わぬ者を弾圧する以上は、その対論の結果は余りにも明白であった。池上日樹らは流罪され、池上本門寺・京都の妙覚寺は受派方へ与えられたのである。

 勝ち誇った身延方は、諸国の寺に対論の結末書を送り、受派が日蓮宗の宗義であることを強調したが……。受派は、関東の中心地である池上を手に入れはしたものの、多くの末寺は不受不施を唱えて離脱し、本寺を孤立させたのである。
 不受不施者たちは、末寺を拠点とし、また新しく草庵を作り、あるいは信者の家に住み込んで活動していた。不受不施者たちは、受派方を宗義に悖るものとして非難攻撃した。
 だが迷惑なのは信者であった。この論争は信者たちを混乱に陥れたらしく、受派不受派を問わず参詣者の数が激減している。

 ところで、身延と池上の対論で、幕府が池上の日樹らを裁断したのを、受派方は不受不施派への裁断と受け止めていた。その判決は、すべての不受不施者にも適用されるものと思っていたのだ。
 しかし、幕府はそうは考えていなかった。だからこそ、不受不施者への弾圧を始めない幕府に対し、身延方(受派)は不受不施の党を断罪するように幾度も幾度も訴状を提出し、日蓮教団における受派の主導権をはからなければならなかったのである(派閥争いですな)。

 度重なる訴状に幕府も応答しなければならなくなった。
 寛文元年(1661)幕府の命によって末寺は本寺に帰属され、本寺が受派なら末寺も受派に転向させられたのである。しかし、この命の中には『不受不施の法理相守るべきの事』という裁決があった。この時点では、幕府が受派と不受派の二派を法的に公認していたのである。これは注目していい。不受不施派が弾圧されるべきものと思っていた受派方にとっては、思いもかけない大敗を喫っしたのであった。

 幕府が不受不施派を公認し、受派からの攻撃が緩んだかに見えた時、事態は意外な方向に発展する……。それは、幕府自身の宗教政策であり、その政策転換にあった。
 
 本寺末寺関係の強化・宗派間の闘争禁止・寺領売買の禁止・新義新説を唱えることの禁止など等である。このほかにも、借家に仏壇を構えてはならぬ・僧侶の路傍での説法禁止・念仏講や題目講と称して民衆を集めることも禁止されたのであった。
 これら一連の禁令は、宗教活動の固定化をはかり、その物質的裏付けとして寺領の再附があった。

 これらは直接間接に不受不施派へ打撃を与えたが、中でも寺領の件は痛撃だった。幕府にとって寺領整理は、旧来のものの再確認を意味し、朱印状を再交付するためのものであった。
 しかし不受不施派にとっては、形式的にせよ寄進される寺領が供養であるか、世の通例である国主の仁恩として与えられるのか……大問題であった。不受不施派は、国主の仁恩として寺領を受け取ることにしていたが、これを察した受派は「幕府は寺領を供養として与える」との文を証書に書き込むことを進言したのである。

 幕府は、その進言を容れ「寺領は供養として奉り候」という証文を出すように命じたのであった。こうなってはもはや、不受不施派を公認するものではなくなっていた。二者択一を迫られた不受不施派は、受派への転向か、不受不施信仰への殉教か……という岐路に直面したのである。

 ついに屈服して証文を出す寺、あくまでも証文提出を拒否する者と分裂していった。
 かくして寛永以来の受派の攻撃にも屈服することのなかった不受不施派も、幕府の寺領整理という宗教政策の前には二者択一の態度を取らざるを得なくなったのである。しかも、この裏には受派が不受不施派の足を引っ張るという愚を犯している。ある者は流され、ある者は寺を出て街路に自派の宗義を説かねばならなかった。

 しかし先のように一連の禁令が出ている為に、不受不施者の宗教活動は著しく制約されていたのである。これが、不受不施派の歴史の中で寛文法難と呼ばれる大きな弾圧である。受派(身延方)はこの機を逃さず進出し、さらに、寺を出た僧が新しく寺を作ることのないように処置すべきである……と幕府に進言した。

 だが、幕府のとった処置はもっと厳しいものであった。
 「先の証文状を出さない寺は寺請を許可せず。また、寺院と同じ宗教活動をする施設も同じ証文状を出すべし」
 これは、寺領問題で痛めつけられた不受不施者にとって、追い討ちをかけたこの上ない痛撃であった。当時の社会生活にとって欠くことの出来ない寺請ができないということは、社会から疎外されることに他ならなかったからである。それは、不受不施を主張する限り、自他共に疎外されて生きて行かねばならぬことを意味した。

 寛文法難の核心は、この寺請禁止にあったと言わねばならないだろう。
 かくして不受不施派の地下潜行が始まり、日蓮教団は受派の色彩によって塗り込められていくのであった。これらは関東における寛文法難の様相であるが、地方でもこの法令の影響は強かった。
 『信者数人が集まっては、自害すべきか、入水すべきか、行き倒れ覚悟で家を出るか、失望の底で、家業を止めてセツセツと談合する姿があちらこちらで見られ……、さりとて思い切って命を捨てることも出来ず、結局は時を待った方がよかろうと、檀那寺だけが頼りなり。その中に、強信の信者は首をくくって死ぬ者もあり』

 不受不施派の禁止は、僧だけでなく、その信仰を抱いていた在家信者にも深刻な影響を与えていたのであった。何故なら、不受不施寺院が寺請を行えないとすれば、不受不施を信仰する限り寺請証文を手に入れることが出来ないからである。
 幕府の法令は、完全に不受不施派の首根っこを締め上げるものであった。

 これらの状態は各地に繰り広げられたのであったが、備前・備中・備後・美作の地方はそれ自体一つの法難の様相を現わしていた。この地方は古くは、京都妙覚寺二祖の大覚大僧正によって法華信仰を結び、以来多くの僧侶と信者を輩出させ、備前を中心とした法華強信の地であった。不受不施派についてみても、京都妙覚寺の教線であった関係からその信仰は強く、さらに日奥の師匠である日典は備前、池上の日惺と日樹は備中、日浣は美作の出身である。しかも、既に日奥の時代から講の存在が知られており、僧侶在家共に強信の土地であった。

 だが、寛文年間に池田光政は寺院整理を断行し、不受不施寺院は淘汰されてしまった。世に言う矢田部六人衆・二十八人衆の殉教は、そうした中に生じたものである。

 寛文8年(1668)5月、備前佐伯本久寺の日閑は池田藩の役人に捕えられた。この時、信者五人が日閑に従い、また彼ら一族の者二十余名も後に続いて牢獄に投ぜられたのである。日閑以下六名は斬首の刑に処せられ、二十八名が流罪された。流罪人の中には、一・二歳の子供も含まれていたという。
 また、日閑と同じく本久寺を出寺した日勢は、その身を津山市福田の洞窟に入れた。飲み水、道路にいたるまで供養であると言い張るなら、この世に望みなしと観念し、彼はただお題目を唱えることに専念した。

 やがて不受不施の信者、妙勢・妙現・妙意・妙定ら四人の女性が加わり、唱題に勤しみ食を断って死んでいったという。これを世に「福田五人衆」と言い、建部町太田の比丘尼塚に供養塔が祀られている。
 このような断食や自殺は、必ずしも特殊なものではなく、内信者に転向した者を除けばかなりの人々がこうした行動に出ているのである。不受不施禁止によって、もはや現実への希望がなくなり、来世意識が強くなってくるのも当然ではあった。
 
 出寺・自害・逮捕・投獄・流罪……、寛文年間の法難は、それまでの不受不施問題について善しにつけ悪しきにつけ、一応の結論を出した。
 当初、他教団に向けられていた不受不施義が、秀吉の大仏供養によって日蓮宗自身に向けられ、受不受論をめぐってさらに内向化し、不受不施派自身も内信と清法とに分裂していったのである。不受不施精神は、他者に向けられれば折伏となり、自分自身に向けられれば自己反省を促すものである。どちらも邪を退け、善を指向するものであるが、一方に過ぎると良くないらしい。

 寛文年間に幕府によってその活動を禁じられた不受不施派のその後の歴史は、極めて多難なものであり、多くの殉教をもって色どられている。その歩みを決定的なものにした最初の事件は、悲田派の禁止である。
 寺領は国主が慈悲をもって下附する悲田であるとして手形を提出した……これを悲田派と言う……は、元禄4年(1691)に受派から不受不施派として訴えられた。そして幕府は、悲田派も邪義と裁定して禁止したのである。悲田派は、不受不施派からも邪義として非難され、今また受派からも攻撃され、幕府の禁圧という事態を呼び起こしたのであった。

 悲田派に転向して生き延びようとした不受不施者の一群も、もはやそれが不可能となってしまった。つまり、悲田派というような中間的な存在も許されず、日蓮教団は受派と不受派に別れ、後者は地下に潜伏しなければならなくなった事を、この悲田派禁止は物語っている。
 
 不受不施派にとって、寛文以後における信仰の継続は、二つの形をとらざるを得なくなった。純粋に不受不施の信仰を生かそうとするか、……他宗他派に転向しながらも心の内に不受不施の信仰を再興の時まで保っていくかのどちらかである。前者の信仰生活を貫こうとすれば、経済的基盤である寺領供養を拒否し、逮捕の危険に身をさらしながら、しかも寺請を得ることもできない帳外の者・無国籍人とならざるを得なかった。この場合、僧を清僧・法中と言い、信者を清者・法立・清法と言って、両者合わせて清派と呼んだ。

 後者の場合、外見上からは受派の僧侶・信者と何ら変わるところがなく、内信・濁法・濁派と呼んで前者とは区別したのである。
 
 経済的基盤のない不受僧は、内信者の供養を受けて生きていくのであるが、内信者は直接に不受僧へ供養物を捧げることが、宗義上出来なかった。そのため、不受僧と内信者の間に不受の信者である法立を立てて施主とし、施主を回して供養を捧げたのである。
 こうして供養における「法中……法立……内信者」という図式が、寛文法難以後間もなく形成されたのである。

 この関係は、それ以後の禁制不受不施の歴史を一貫するものであるが、より重要な問題が別にあった。それは、法難の結果輩出した内信者の指導と統制を、どのようにして行っていくかである。内信者自身にしても、今後の自分の信仰をどのように保っていくか、また、受派との附合いも含めた日常生活と、心の内の信仰とを、どう調整していくかが大きな問題であった。
 そう……寛文法難の打撃を受けたからとは言え、不受不施派が内信を許容することは、二歩も三歩も譲ったものである。しかも、内信を許容したといっても清派と濁派の区別は判然としており、その中間に法立の位置があった。
 講門派の信者として、このことはハッキリと覚えておかなければならない。

 天和2年(1682)美作で法立の宗順が内信者の仏壇を拝し、不受僧の代わりに看経の導師を勤め、日雅が本尊曼荼羅に内信者の名前を列記していたことから、備前日指庵の日通と同じく津寺庵の日隆が対立した。
 さらに、讃岐に流罪の日堯日了の書状の中に、内信者と純粋な不受不施信者の混同が述べられていたことが論争の発端となった。日指と津寺の対立は、単に備前地方にとどまらず不受不施派全体を覆い、この問題をめぐって日堯派と日講派とに分裂したのである。

 禍根は、内信者の指導の仕方にあった。そしてその一因は、不受不施再興の時が来るまで……という思いから出た内信者への緩やかな統制にあったとも言えるだろう。
 しかしどんな理由にせよ、命をかけて帳外の者となった純粋な不受不施信者と、外見上は他宗他派を装う内信者との区別はハッキリとしている。緩いのは結構だが、混同はよくない。
 寛文法難で二歩も三歩も譲って内信者を許容し、今また内信者と純粋な不受不施信者を同一に並べることは、さらなる後退であるし、第一、純粋な不受の信者に申し訳なかろう。日講日相らにとっては、そこの線は越えてはならないものと判断していたのである。
 ともあれ、不受不施派は日堯と日講の二派に別れ、さらに幾つかに分派した。

 この統制なく分裂した不受不施派を、もう一度強固に組織化しようとした活動が、寛政年間(1790前後)に本妙院日珠の手で行われるのである。
 これについては、また別の機会に解説することとして、一応「寛文法難前後」の講を終わることにします。

◆まとめとして

 寛文以降、不受不施派は秘密結社的存在として明治の再興まで至る。そうした過程の中で、清僧は幕府に不受不施義を訴え出て流罪に処せられるという形を生じていく。やがて、その行動すら一種のマンネリとなっていった。
 不受不施禁止以来、日蓮教団の中心は受派という形をとることになる。それは、宗教の政権への妥協とも屈服とも言えるものである。その妥協も、教団を維持することが不受不施義を守ることである……という名目が受派にはあった筈である。
 だが、受派がハッキリと権力を批判したかどうか疑わしい。
 不受不施派とても幕府に不受不施義を訴え出るだけで事足り……として、流罪生活に沈潜していくのが後期の歴史であった。明治に不受不施が再興を遂げても、活発な宗教活動をとり得なかった一因もここにあると思う。受派も不受派も、その主張が公儀に受け入れられることを望んでいたはずである。

 不受不施義を継続するということで教団を守ることに熱心であった受派も、国家に不受不施義を認めさせようという行動は起こしていない。不受不施義を守ることには熱心であった不受不施派も、国家に不受不施義を認めさせることにおいては消極的であった。

 だがしかし、ここに不受派についての一つの逸話がある。
 
 文政2年(1819)清僧の日受は、備前益原(現:和気町)の大樹庵を中心に布教していたが密告された。逮捕の役人が日受のもとに押し寄せた時、急を聞いた信者数十人が集まり、妨害行為に出たのである。役人の一人が『三十二万石のお役人だ。無礼者は切り捨てるぞ』と脅かしたが……。信者は『おれも三十二万石の百姓だ。斬れるもんなら斬ってみろ!』と、かえって信者たちが役人たちを縛って、日受を逃がしたという話がある。

 そこには弾圧を弾圧として受け取らず、それを跳ね返していく態度が出ている。この益原の内信者の姿が、当時の不受不施信者全般の姿かどうかは分からないが……。権力によって信仰……人の心までは操作できないことを物語っているようでもある。

◆権力者は支配しようと

 江戸幕府は、仏教擁護という名目でキリシタン禁教の方針を立て、朱印状を与え、主要な寺院に格式を付けた。また、寺請証文が定められるに及んで、寺院は事実上、戸籍管理権を持つことになり、僧侶の肉食妻帯を禁じたのであった。これらは多くの優れた人材を集める結果ともなったが、仏教は完全に権力の傘下に収められたことを意味する。
 幕府の打ち出した「土水供養令」は、寺領はすべて国主の信仰上からの供養であることを強いたものであることは明白。日講師日浣師らは『寺領は為政者が国民に与える世間一般の恩(仁恩)であって孤児病老者を哀れんで施すものでもなく、むろん信仰による供養というべきものではない』と申上したのである。
 寛文法難は、ここから始まる。
〜おわり