日講上人略伝 10

悲田派壊滅と分派と晩年

 貞享の初め頃、岡山において津寺と日指の間で論争が起こった。これが、今の金川妙覚寺の不受不施派と我が講門派と、不受不施派が二派に分裂するもととなった事件である。
 日指方は日相の和融案を退け、講師の調定も拒否して「除講記」を著わして分裂した。これと時を同じくして、幕府の不受不施派弾圧は激化し、その手は悲田派にも伸びたのである。悲田派禁止の命が下されて、日起ら70名余りは伊豆に配流され、これに抗議して断食自害する者もあった。

 このように講師の晩年にあっては、寛文法難以後における最も強烈な不受不施壊滅の弾圧が下され、その余波が講師の身の上にも及んだのである。つまり、法華経万部の読誦成就を記念してその万部の塔を建立しようとしたが許されず、前述した日相からの忠告で、録内啓蒙の出版を断念せざるを得なかったのがそれである。

 講師は配流以来、絶えず自分の精神生活を反省され、驕ることを戒め、流人としての心構えを工夫されたようである。人の忠告に耳を傾け、自分の身分を弁えることは、何時の時代の人にとっても大切な事と言えるだろう。

 ところで、一度は断念していた録内啓蒙の刊行も元禄6年頃から希望が与えられ、翌年には法華経万部読誦の記念碑である万部の塔が、はるばる大坂から石をとりよせて建設され、最も難関であった題目と日講の記入の件も許可されたので心から感謝され……。また、講師の墓地も、その心のままに設計されて満足されているのである。

 講師は、佐土原に配流になってからも、御会式・彼岸会・盆会・先師諸聖・縁者の命日には法要を営まれ、多い時には50余名の関係者を招待されている。また、便りに至っては、大阪・京都・岡山・関東から絶えず交換されており、その近況などは手に取るがごとく知られていた。

 講師は、世間的な交際については一切の差別を超えて接しられたが、一度び信仰上の問題になると厳として不受不施精神を乱すことがなかった。例えば、藩士の娘が難産で死去した時、その依頼で葬儀を出しているが、お礼は一切受けられなかった。また、領主飛騨守の七回忌には配所で法要を営んだのみで、招請を辞退されて城には登らなかったのである。

 講師は、配流されて3年目に病気で温泉に療養されたことがあったが、それから8年後の延宝4年・講師51歳の時にはハリとキュウを用いられるまで悪くなっていた。どんな病気だったのか……胃腸を患っていたのか、今となっては分からない……。
 59歳の時には医師の診察を受け、数年後には一進一退の様子で、「後どれくらい生きられるか……」と、もらされている。この頃から痔を併発され、70歳の年には、これで苦しまれたようである。
 そして元禄11年(1698)の3月8日風邪で病状が悪化し一時は危ぶまれたが、医者の処置で静まり、翌日は寝床で読書をされて過ごされたが、夜になって胸の痛みを訴え、容体が急変したのである。持病で体力が低下しているところに風邪をひいて、肺炎を起こしたのだろうか。夜半過ぎに、息をひきとったのです。

 講師、配所にあること32年……ついに赦されずして73歳の生涯を静かに閉じたのでありました。
 その間、歴代の領主をはじめ家老・出入りの奉行・藩士らに至るまで講師の感化を受け、また法華信仰の縁を結んだ者も少なくなかった。またこれら藩士・神主・禅僧・真言宗の学僧らに、国書・漢籍・神典などを講議し、講学の師と仰がれたのである。しかもこれらの人たちとの交際は、僧俗を問わず宗派を超えて接しられたのであった。

 講師が遷化された年には悲田派は壊滅し、僧は遠島、寺院は改宗改派されている。
 講師が主張された不受不施の精神は、まぎれもなく宗祖以来のものであったし、また宗門活動の基盤でなければならなかったのである。そして、幕府への訴えは、信仰の自由を獲得せんとする叫びであったのである。

 江戸幕府の対宗教政策……それは、宗教を政治の傘下に入れることであった。一国の主を頂点として、すべてをその支配下に入れることである。
 寺院・僧はもとより、信仰も主の許す範囲内でなければならない。新たな信者を得るための伝道や布教活動、宗派間の論争は規制され、あるいは禁止された。各宗派が自らの教理に基づいた自由な宗教活動は否定され、信仰の自由も著しく阻害されたのである。

 現在の政教分離の立場から言えば、不受不施派のとった行動は、一面から見れば確かに信仰の自由を獲得するためのものであった。それは、例え相手が強大な権力と武力を持つ者であっても、自らの教理に基づいた純粋な信仰の顕れであったと言えよう。
 受不施派の言うように、不受不施をあくまでも貫けば権力との真向うからの衝突は避けられず、武力にものを言わせる幕府との対決は賢明なものではないかもしれない。ここは一先ず幕府と妥協し、悪く言えば長いものに巻かれて、不受不施義が認められそうな時代が来るまで待とう……というのもある程度分かる気がするが……。

 しかし残念ながら、受不施派のとった行動は、不受不施派を壊滅することにあった。
 最初、受不施派の主張は、教団を守ることが不受不施義を守ることであった。不受不施派は、教団も大切だが教団を守ることが不受不施義を存続させることにイコールでないことを主張したのである。
 結果は、歴史が証明した……。
 不受不施義は、寺を持たぬ僧と少数の不受不施信者、そして内信者によって守られた。長い長い弾圧の中で、ともかくも守りぬいたのである。その道は、苦難と辛抱の険しい道であった。
〜つづく