日講上人略伝 6

芸州夫人との訣別

 配流3年目の寛文9年(1669)は、悲田派の策謀によって、長年にわたり厚遇を受けた芸州夫人との附合いを断たざるを得なくり、講師は心を痛めた年であった。

 講師が佐土原へ配流となって後、江戸での不受不施派への弾圧の手は、ますます厳しさを増していた。強信の信者は、悲田一派の変説にイヤ気をさし、配流された諸師への同情が高まりつつあった。立場をなくした悲田派は、事の改悔を整えて配流の不受不施諸師と和解することを画策したのである。その為に、幕府に提出した寺領の受領証である手形を取り戻すことと、流罪された不受派諸師の赦免運動を起こすことなどを約束し、誓約書を芸州夫人に托して、その斡旋を頼んだのであった。芸州夫人は、その願いを容れて斡旋に努めたので不受一派と悲田派は妥協するに至った。

 講師は、佐土原の地で9月頃この報を聞き、「寺を退出した不受僧もついに悲田派に転じた」との知らせに、嘆き悲しんでいる。
 芸州夫人は、配流のきっかけとなった寛文不受論の時に、講師の身を案じて夫人自ら、その主張を緩めるように説得された経緯があった。講師配流の後は、一早く書籍をはじめ衣服寝具などを佐土原の配所へ送り、その後も夫人の厚志に変わりはなかったのである。講師も度々感謝されており、配所にあっても正月五月九月には必ず芸州屋敷のお日待ちの読経を捧げられていたのである。

 また、芸州夫人には信仰の不退転を励まされ、夫人も講師に不惜身命を誓われている。そして、夫人は老中に訴えて講師の赦免運動も試みられており、赦免が許されないと知ると、芸州広島への預かり替えを願い出て、この年の暮れにはそれが実現する運びにまでなっていたのである。
 ところが、かねて信仰不退を誓われた夫人も、ついに不受不施の強義をはばかって悲田派との和融に応じないわけにはいかなくなったのであった。

 ここにおいて講師は、夫人をはじめ悲田派と和融した不受僧たちに不通状を送りつけ、9月には恒例の芸州屋敷へのお日待ち祈祷を停止したのである。そして、いままでに夫人から送られてきた衣服や寝具を返納したのであった。
 芸州夫人からはその後も、たびたび手紙が届けられ、世間的な通用を望まれたようであるが、講師は断っている。長年の厚遇を思うにつけ、講師の内心には悲痛極まりないものがあったろう。表面には一女性のために法義を乱すことは出来ない旨を誇張され、つとめて夫人の存在を忘れようとしている。それだけ講師の心中には、苦しいものがあったのである。
 当然、準備が整っていた広島への預かり替えも拒否され、講師は夫人と訣別されたのであった。
〜つづく