日講上人略伝 4

佐土原流罪

 講師は、翌年の寛文6年(1666)の2月に「破奠記」二巻を草稿して受不施派を批難し、4月には「守正護国章」一篇を著わして奉行所に赴き、諫暁(いさめ諭す)を試みられたのである。ついで、酒井氏・井上氏・板倉氏などの有力者を訪ねて陳情を進言され、駒込の本浄寺に滞在されて回答を待ったのであった。
 
 講師と共に活動してきた同志の、日述・日完・日堯・日了らは既に四国に流罪され、今まさに講師に裁定が下された。5月29日、ついに徳川幕府は講師を奉行所に呼び出して島津飛騨守邸に拘禁し、日向の佐土原へ流罪配流が命じられたのであった。講師は、もとより覚悟の上であったが、ただ不受不施の主張が受入れられなかったことを悲しみ、今後、新義を唱えたり迎合する党が出るであろうことを嘆いたのであった。

 島津邸に拘禁されることほぼ一ヶ月、6月26日に物々しい警固の武士に護られて江戸を立ち、講師は配流の途に着かれたのである。時に、沿道の信徒は講師の籠を追って「再会期し難き」を歎き、号泣して別れを惜しむ者一千人に及んだという。
 講師配流の同日、同志の日浣も今の熊本へ流罪が決まっており、道中、日浣の籠と相い前後したという。講師と日浣は、お互いに遠見して別れを告げられたのであった。
 7月12日大坂を船出し、7月20日に日向の佐土原に着かれたのである。講師、時に41歳の夏のことであった。

 この寛文不受論は、表面的には幕府の宗教政策による弾圧によって引き起こされたものである。しかし、その裏面に流れているものは、日蓮教団内における「身延と関東諸寺との内紛」であったという。
 寛永の不受論、身延山と池上本門寺との論争以来、絶えず受派と不受派の間に抗争が続けられていたのであった。身延側は、執拗に不受派を異端邪説の党として幕府に訴え、官権の力によって弾圧しようとしていたのである。そして、それが表面化したのが「寛文不受論」であり「寛文法難」なのであった。

 もとより初めは、教えこそ大事!とする不受派と、教団を守れ!の受派との立場の相違によって対立していたものであった。そしてそれは共に、教団の発展を憂い、その教えを護るという信念に立脚したものであると言えよう。
 だが、それが次第に感情的になり、派閥的となって、ついには同門相恨み……兄弟まさに相争うの愚を演ずるに至ってしまったのである。何の為の論争なのか、その起点を見失ってしまい、最後には論争のための論争となってしまったのである。受派と不受派、どちらも妥協点を見出せないまま、幕府の宗教政策によって不受派は弾圧されてしまったのである。
 かくして、日奥が慶長不受論で対馬に流されてから、寛永不受論の身延山と池上本門寺の対立に抗争は発展し、さらに寛文不受論となって展開して講師の佐土原流罪となったのである。講師は、信者から遠く切り離され、宗教活動はおろか民心を指導することも不可能な地へ、監視つきで配流されたのであった。
〜つづく