日講上人略伝 3

教職時代と寛文法難と

 寛文元年(1661)の秋、野呂妙興寺(のろみょうこうじ)の頼みによって、野呂檀林   僧侶育成専門学校の講師となった。講師36歳の時であり、今度は教鞭を振る側になったのである。
 4年間の講義を行って教職を退き、江戸の谷中の感応寺に入り、再び経典の閲覧にふけられている。後年、宗祖の祖述編集書である録内啓蒙の下準備であったと思われる。

 ところで、その間にも野呂檀林から再三の依頼があり、再び教鞭をとることになった。時に、「学徒、講師の学徳を慕って多数集まった」という。
 ただ単に博識であったというだけでなく、教え方も上手かったのだろう。
 しかし、この寛文5年(1665)の春頃から、不受派への弾圧がますます強くなり、ついに幕府は「土水供養令」を発したのであった。

 すべての寺領は、徳川幕府からの供養である   とし、その供養を確かに受け取ったという旨の証書(手形)と、不受不施の党ではありません   という誓状の提出を命じたのである。
 要するに、幕府の命に従わなければ、すべての財産を没収するぞ!   ということです。

 文禄年間に、太閤秀吉の千僧供養に対する日奥、寛永年間の池上本門寺の日樹による不受不施の主張は、権力にものをいわせた強攻策で押さえつけられた。
 不受不施の僧を流罪に処し、寺院を受派方に与え、信者にも圧力をかけた。
 だがしかし、これは不受不施義がなくなったことを意味していない。
 門徒の信仰は、かえってその度を高め、不受不施禁止に反発して結束の勢いを増す事になったのである。
 以来、幕府は不受不施を主張するな!と布告し、不受不施の党ではない!という誓状を宗門に出させ、厳しく監視の眼を光らせていた。
 しかし、一向に不受不施は衰えをみせない。
 それがために、土水供養令を新たに発したのである。

 寺領は、徳川幕府が与えたところの供養なり、「だから言う事を聞けよ」。言う事を聞きたくないなら、寺領は没収すると。
 土水供養令は、不受不施寺院だけでなく、各檀林(学校)にまで及んだ。講師は、同志の日浣・日述・日了らと会合し、その対策を協議した。そして、講師らは、様々な有力者の間を奔走して陳情を企てたのである。
 講師は諸寺を説得して回り、結束を固めて、宗義上からも断じて応じられない旨と、幕府の不法を訴え、一般の信者たちも励まして団結をはかったのである。
 講師らの運動はその功を奏し、時に芸州婦人たちの尽力によって、一時は事なきを得たように見えた。

 芸州婦人(1614〜1700)は、自昌院と言い、前田利長の女で徳川家康から言えば外孫に当たる人で、熱烈な法華信仰家であった。特に、講師の学徳を慕い仰いでいた有力者である。

 ところが、この事件を境にして不受不施派内に不協和音が鳴り始めた。
 小湊の日明らは、
 『たとえ、不受不施が重要な宗制であるといっても、諸寺がことごとく幕府に逆らい、滅びるようなことがあれば、かえって不受不施の教えは断絶し、宗門が滅びる恐れがある』
として、宗門安泰のためという理由で、幕府に妥協することを提案したのである。

 そして、奉行の内意を受けて、「不受不施の党にあらず」の項目を削除し、寺領受領の手形だけ提出したのであった。かくて、不受不施派中に、軟派硬派の分裂が生じ、特に軟派を「悲田派(ひでんは)」と称した。

 講師によれば、
 『寺領・地子は、これを施した者の心によってその意義が異なる。それが信仰上のものであれば、敬田供養となり、世間一般の施し(この場合は政道上の仁恩)であれば恩田供養となる。
 前者は三宝の恩であり、後者は国主の恩である。
 いわんや、飲み水や人が往来する道路まで、みな国主(幕府)の供養であると言うのは甚だしき暴論である。
 天地自然界の恵みは、この世界の主である本仏釈尊からのものであり、その子である衆生は、その恵みを一様に受けているに過ぎない。ただ、慣習にしたがって政道を設け、仮に国主の所有としているだけである。
 この身、道路飲水などは天地の恵みであり、私たちが当然に受けてよい果報である。
 国土・そこに住む民が受けている恵みなどをすべて国主の供養と論ずるのは不当である。
 もし、国中のものすべてが国主の布施供養であると言えば、天地の恩、父母の恩、社会の恩をも認めないというところの理不尽である』
と主張したのであった。

 講師は、一般の寺領地子は、政道の恩であるが故に、国民としてうけるべき権利があると言っています。
 しかし、この「土水供養令」は徳川幕府の宗教政策の一貫として出てきたものであり、仏教に限らず、宗教を政治の傘下に入れようとしたものであった。
 ために、それを拒否すれば武力行使は免れず、勝敗は明らかであった。
 この時、法華宗が一つにまとまり、信仰の自由と幕府の支配欲・宗教政策の間で対話があれば歴史が変わっていたかもしれない。

 時に、芸州婦人は講師の身を案じ、その主張を緩めるように忠告した。
 だが、講師はこれに応ぜず、寛文5年の11月に、同志の日述・日瑤らと共に寺社奉行のもとに赴き、「お上の不法」を訴えて陳情、手形の提出を拒否したのであった。

 講師の行動は、今風に言えば「信仰の自由」を獲得するためのものであったと思う。
 信仰上のものではないのに、布施として寺領をうけよ   という幕府の命に従うことは、信仰の自由を失うことを意味したのだろう。
〜つづく