関東遊学と・・・
講師は、正保2年(1645)20歳の時、師匠の日習のもとを去って関東に行き、中村と飯高の両檀林いや、檀林に学ぶだけでなく、関東一円の高僧を訪ね歩いて、宗義の研鑽にも努められた。 たとえば、23歳の時に中山法華経寺に日養を訪ねて日蓮聖人の直筆を拝し、不受不施が法華宗の正論であることを確認され、今までの持論に確信を持たれている。 また、25歳の秋には、日蓮聖人生誕の地である小湊の日遵を訪ね、独自の見識と宗義上の問題を質問して教えを受けるところがあったようである。 日遵は、法華宗脱宗者の批判に対する書を述作中であったが、これについても講師は得るところがあったらしい。 このように、修学の合間には各高僧を訪問して宗義の研鑽に励んだのであった。 承応元年(1652)、講師27歳の春に、同僚の日達と共に京都に帰省し、師匠の日習を見舞った。 この時に院号を授かり、安国院日講と称するようになる。 半年ほどの京都帰省の間に、堺白河に講席を開き、関東遊学の成果を披露する。 その講義は素晴らしく博学であったようで、奥師再誕とまで言われたそうである。 「日講」というのも何となく頷けそう・・・。 師匠の日習は、翌年の承応2年の6月に亡くなり、関東に戻っていた講師も急いで帰京 つまり、関東で受不受論が再燃し、平賀・小湊・碑文谷(ひもんや)の不受僧が、当時の役所へ出頭を命じられる事件が起きていた事も一因であろうか。 この前後、講師は寛永不受論で流罪にされた高僧を何人か慰問していた。 この受不受の論争再燃を知り、ますます自らの信念を固められたのである。 このように講師を奮起させたのは、江戸幕府によって宗門が弱体軟化の一途をだどり、ことに不受不施派への弾圧によって法華宗の精神が滅去され、日蓮聖人の教えが絶えようとする危機感に直面していたからである。 こういった状況であったから、承応3年、講師29歳の時に、母の訃報に遭われた際も関東から帰省できなかったようである。 その翌年の明暦元年(1655)の冬に帰省されたのであるが・・・母の墓前に参るのもそこそこに、鳥羽の経蔵(今で言えば、お経などの内外の書籍を保管している専門図書館のようなもの)に入って、あらゆる典籍を読みあさった。 先師の論文を閲覧し、不受不施制の確認と、(将来の)日蓮聖人の御遺文註釈である録内啓蒙の著作編集の下準備のためであったのか・・・。 また、日典・日奥の遺著を編集して「奥心鑑」と名付け、生涯の宝鑑・後世の明鏡として座右に置かれたのである。 法華宗の不受不施が弾圧され、その法灯が危ぶまれている危機感が、ヒシヒシと講師にも伝わっていたのだろう。 いずれ、自らが先頭に立って不受不施を幕府に唱える時が来ることを予期していたに違いない。 『夏冬を積んで真理を探り、年月を惜しんで』、あらゆる書籍を紐解いたのである。 「35歳にして、ようやく学業に入眼できた」と、後年につづられている。 若い時には、しっかりと勉強しておかなければ駄目ということ・・・。 それも、ハッキリとした目標がなければ、なかなか何十年も勉強できないですね。 ともあれ、こうして数年の間、京都に留まり、万治元年(1658)、講師33歳の時、心に決するところがあって、佐渡の霊跡参拝に旅立ち、親しく日蓮聖人が籠もられた地を偲ばれのであった。 あの日奥上人が、京都妙覚寺を退出されて、同じく佐渡島の霊跡を訪れたことがあった。 日蓮聖人が難儀をされた地に足を運び、まさに聖人に会われて、「御聖人ならどうするか」と深く思いを廻らしたに違いない・・・。 翌年の2月、帰京の途中で父・八右衛門の死を知らされる。 講師は、28歳の時に師匠の日習に別れ、29歳の冬に母を失い、34歳にして父の喪に遭われたのである。 今や講師は、日奥の意志を受け継ぎ、佐渡の霊跡を巡拝して、いよいよ不惜身命の決意を固められ、後顧の憂いはなくなったのであった。 ここにおいて講師は、父の喪が明けるのを待たずして、その冬に再び関東に戻り、宗義の研鑽を続けられた。 いずれ、江戸幕府と対決 そして間もなく、不受不施派を窮地に追い込む事件が起こるのであった。 〜つづく |