不受不施二派の話

 日蓮宗の不受不施派には、二派が現在存在しています。
 一つは、御津郡金川の妙覚寺を本山とする「日蓮宗不受不施派」。
 今一つは、御津郡鹿瀬の本覚寺を本山とする、私たちの「不受不施日蓮講門宗」です。
 特に、この備前地方にだけ残った不思議な宗教でもありまして、幻の宗教と言われる所以(ゆえん)です。
 と言いますのは、キリスト教と同様に、不受不施派にも踏絵のようなものがあり、禁教迫害されたからです。
 不受不施には根本的に、「万民平等思想」があって、士農工商の身分階級を持つ江戸幕府の考え方に、真っ向から対立するものがありました。
 キリシタンでは十字架・マリアでしたが、私たちは、おマンダラを踏絵にされたのです。
 この二つの不受不施が、何故いまだに一緒になれずにいるのかと言いますと、寛文年間の日相上人(泉州さま)と九州宮崎佐土原の日講上人を中心として問題が起こったのが始まりで、後に、津寺派(つでらは)と日指派(ひさしは)に不受不施が分かれたのです。
 津寺と日指は、現在の倉敷市に属し、今でも地名は残っています。
 学問的に言いますと、津寺派を不導師派(ふどうしは)と言い、日指派を導師派と呼びます。
 不導師派(津寺派=つでらは)が私たち講門派であり、導師派(日指派=ひさしは)が金川妙覚寺の不受不施派です。
 なぜ、導師不導師派というのかと云いますと、
 『内信者が、導師を勤めてはいけない(不導師)』
という鉄則が不受不施派内にあります。
 葬式に用意する置き布に”内外倶浄“という句が書いてあるのをご存じだろうと思います。
 これは、”心も身も共に浄い“という意味で、お経の句です。
 内信者は、「内浄外濁=ないじょうげだく」でありました。
 心の中は、不受不施を信仰して浄いのですが、外から見れば他宗他派の信者だったからです。
 これに対して、無宿者となって心の中も外も浄い信仰を守り通したのが、真の不受不施信者なのです。
 この区別をあくまで守ったのが講門派でありました。
 これに対して、心さえ浄い信仰者であれば、例え身が他宗他派に染まっていても構わない───として混同したのが金川不受派です。
 命をかけて不受不施の純潔を守る信者───片や、便宜上とは云え外見は他宗他派を名乗る内信者………。
 これを混同して、『内信者が、導師を勤めてはいけない』という鉄則を破ったのです。
 そういう混同はダメ───と指導した日講上人を
 「流罪とはいえ、命を狙われる心配もなく、安穏な生活をしている日講には、絶えずビクビクして信仰を守っている内信者の気持ちは分かるまい」
と『除講記=じょこうき』まで草し、日講上人を排したのです。
 明治から大正時代にかけて、田中智学(たなかちがく)という仏教学者〔特に不受不施研究の権威〕に、日講上人を祀らなければ不受不施に非ず───と批判され、日講上人を祀るようになった経緯(いきさつ)があります。
 もともとは、そういう訳ですから、講門派の方がガチガチに固かったのです。
 現在では、講門派の方が柔らかくなり、妙覚寺・金川不受派の方がガチガチに固くなっています。
 明治の再興の際、この内外倶浄・導師不導師の問題で、どちらでもよかった人たちは、もともと講門派に属していながら、今の妙覚寺派に入られたケースもあります。
 そういう意味では、妙覚寺派(不受派)は、不受不施系統の派が集まっています。
 江戸中期に消滅した日奥派、日題派などは同じ不受不施の同胞を頼りに、備前に流れてきたものだと云われています。
 ともあれ、私たち先祖が血を流してまで守ってきた宗旨───江戸二五○年の禁制をくぐり脱けてきたその歴史には、大変な重みがあるのだという事を知って頂きたいと思います。
 特に、宗教が時の権力と対峙した時、どう対応すべきかを教えてくれています。