法華経の世界 1

文字でない文字

 白隠ほどの高僧でも、法華経が本当に読めるには、十六歳から四十二歳までの、実に二十七年間の年輪が必要でした。
 白隠は、自分の学問的知識のみで法華経を読み、これを批判した自らの驕りを思い知らされて、思わず声を放って号泣したといいます。
 文字を読みながら、文字の底にある真理を読破することが出来るだけの素地が二十七年の間に養われていたのも、白隠にとっては幸運でありました。
 白隠は、コオロギの声を聞いて、心の中に静かな爆発が起こり、目前のあらゆる事実の底に、深い仏教思想が潜んでいる事実が具体的に読み取れたのです。
 世間に出ている一般の書籍・雑誌の内容も、自分の読み方の心の角度を転じてみるなら、すべて真実を理解させてくれる素晴らしい比喩であると、白隠は文字を読みながら、文字を超えた高次の〃文字でない文字〃を読み取る読経眼が開けたのでした。
 後の事ではありますが、白隠は晩年に「坐禅和讃」を著します。
 和文で綴られた僅か四十四句の短いもので、禅の心をうたいあげた格調の高い作品です。
 ある日蓮宗の僧侶がこれを読んで、「まるで法華経の概論を読んでいるようだ」と語ったほどです。
 「坐禅和讃」の中には、法華経の比喩が引用してあったり、法華経思想の大眼目である「人間は皆、仏性を持っている」との思想を「衆生本来仏なり」と端的に表現しています。
 比喩を借りなくては、大乗の仏教思想も法華経も、具体的には理解できない事実を改めて教えてくれています。
 日蓮聖人も、法華経の文字を単なる文字として読んだのではありません。
 聖人は、文字をも比喩であるとして、「今の法華経の文字は、皆生身の仏なり。我らは肉眼なれば、文字として見るなり」と言っています。
 文字は生身の如来だが、我々は人間だから、人間の眼で見るから、文字が文字としか見えないのだ───と言うのです。