不受不施思想解説 8

 受派と不受派の底流には、なお根強く相容れないものが流れ続けていた。
 その危険な発火点となったのが、誰あろう養珠院お万とその実兄・三浦為春の二人であった。
 二人とも先祖代々、熱烈な法華宗の篤信家の相州の名門・三浦氏の血を引く兄妹で、妹のお万は前述のように徳川家康の晩年、その寵愛を一身に集めた側室であり、家康との間に第十子・紀伊頼宣そして第十一子・水戸頼房の二人の男子をもうけている。
 テレビでお馴染みの水戸黄門は、お万の実の孫であり、紀伊家から出て八代将軍を継いだ吉宗もまたお万の曾孫に当たる。
 お万は女性の身でありながら、身延山中興の大檀那として有名でもある。
 一方、兄の為春は対馬流罪を赦されて帰洛した日奥と親交があり、深く帰依して熱心に不受不施義を信奉するに至ってい。
 為春は妹のお万の推挙によって早くから家康に仕え、お万の長男・頼宣を補佐して大坂城の冬夏の陣に従って偉功を立てている。
 家康はそれを褒め、それまで名乗っていた「正木姓」を改め由緒ある「三浦姓」を許したほどである。
 これより先、慶長五年、つまり日奥が対馬へ流された年、頼宣が紀伊藩初代藩主を命ぜられると、為春は国家老として藩の創設に力を尽くしている。
 この間、和歌をたしなみ、仏学の造詣が深く文武両道の達人としてその名を高めていた。
 ある日、為春は日奥からお万宛ての一通の手紙を預かった。
 元和元年十一月一日付けの書状で、この内「身延条」の中に次のようなことが書いてあった。
 「然るに今の日乾は何んぞ。
  先祖代々の御義に違背するや、人の上さえ戒める可しと定め給う。
  何んぞ自身に謗法の供養を受けながら改悔なきおや。
  悲しいかな。
  天竺の霊鷲山を移したまえる名山が、日乾の代に至って謗法の地となるとは。
  信心の真俗、誰か胸をたたいて悲しまざらんや」
と、日奥は日乾の名をあげて攻撃しているのである。
 為春は、駿府に赴いた際それをお万に見せたらしい。
 お万は、平素から信仰深い日乾を攻撃しているその手紙を受け取り、身延の日乾の手に渡したのである。
 日乾は直ちに日遠と合議し、弟子の隆恕(後の身延二十四世)の名で日奥に対する反論一巻を作って発表した。