不受不施思想解説 5

流罪先の藩主たちは日奥に敬恭の念
 慶長四年(一五九九)十一月二十日の大坂対論で、家康の激怒をかい対馬流罪を申し渡された日奥は、初め丹波の山奥・小泉に監禁された。
 幸か不幸か、罪は日奥一人だけに止まり、弟子や檀那、親類などには及ばず難を逃れたので、日奥の喜びは一方ではなかった。
 翌五年五月末、いよいよ上使尾池清佐衛門が小泉に来て、対馬流罪を執行した。
 日奥は六月二日に小泉を立ち、同六日には大坂を出帆し、同二十六日に対馬に着くと、領主・宗義智に預けられたのであった。
 初めは、山蔭の竜女院の配所にあって暫らくそこに止まっていたが、その後に藩臣・長田掃部の邸宅に移り、さらに領主の父親の隠居所に住むようになった。
 有り難いことに、領主をはじめ老臣たちが日奥に敬恭の念を寄せ、殊に藩の家老・柳川豊前守は日奥と面識があった。
 柳川は、対明・対韓外交の顧問として秀吉の側近にあり、永く京都に居住したことがあった。
 その時、日奥と交友し、柳川は日奥の主張に共鳴して妻子共々深く帰依していたのである。
 それが幸いしてか、日奥の対馬における日常生活はさほど事を欠く事もなく、厚遇されたようである。
 ちょうど、日奥が対馬に流されて間もない慶長五年(一六○○)七月十五日、関ケ原の
役が起こり、対馬の領主・宗義智が石田三成が率いる西軍に味方したため、流罪人の日奥と領主の宗氏とは計らずも同じ反徳川方の立場に立った。
 初めは、それも日奥に幸いしたのである。