不受不施思想解説 3
これが慶長の法難 江戸城中の宗論の場には、正面に家康と将軍の秀忠が座り、一段下がった左右に老中ら幕閣の諸役が居並び………、 浄土宗側は、対論者である廊山と彼の師であり増上寺の源誉ら高僧が付き添って座っていた。 宗論の判定者である高野山・頼慶は正面に、その後には天台・真言・禅など各宗の傍聴僧十数人が列席する中を日経は引き出されたのである。 家康は宗論開始を命じた。 しかし、仮死状態からやっと意識を取り戻した日経は口もきけない有様で、廊山の問いに答えるべくもなかった。 判定者の頼慶は、 「日経は廊山の問いに答えられない。 ゆえに、浄土宗の勝ち」 と宣した。 「不言の法問は、脱衣に及ばず」という問答規則も無視され、日経は付き添いの弟子もろとも袈裟・衣を剥ぎ取られたのであった。 陰謀によって負けとされ、袈裟・衣を剥ぎ取られた上に、さらに家康は 「念仏は無間地獄に堕ちるということは経文にないこと、及び、今後は宗論がましいこ とは申さぬ………という詫び状を差し出せ!」 と迫った。 だが、日経はきっぱりと拒絶したのである。 怒った家康は、 「権威を恐れぬ不逞(ふてい)の輩(やから)、重罪に処せ」 と命じたのであった。 こうして翌年二月、京都に送り帰された日経ら師弟の六人は見せしめのため、京都の町々を引き回されたあげく六条河原で、日経は耳と鼻を削がれ、五人の弟子たちは鼻を落とされるという酷刑に処せられた。 そればかりでなく、家康の命令によって法華宗の諸本山に対し、浄土宗側に詫び状を出させる という事件が起こったのであった。 これが世に言う「慶長の法難」である。 |