不受不施思想解説 2

将軍家宗旨の浄土宗から挑戦を受ける」
 「慶長十三年(一六○八)十一月十五日、江戸城において浄土宗増上寺と宗論せよ」
との家康からの命令に、日経もまたこの本意を読み取った。
 「これは容易ならぬことになった。
  家康は、我が不受派を取り潰そうとしている。
  まさしく我らに対する彼の陰謀じゃ。
  油断ならぬぞ。
  いや、いよいよ御法のために一命を捧げる時がきた!」
と決意した。
 日経は目を閉じ、しばし心を静めて黙考した後、傍らに控える一門の師弟たちにこう語った。
 「江戸において、その宗論に勝つことは疑いない。
  しかし、対決の相手は将軍家の宗旨であり、敵陣内での対論である。
  おそらく命はなかろう。
  鷲山浄土で、お目にかかろうぞ。
  さらば、さらば………」
 そして、一同の人々と別れを惜しみつつ、共に死を決っした五人の弟子たちを伴い、江戸に向って日経らは決然と旅立ったのである。
 (対論前夜、幕府役人が日経の宿所を襲う)
 慶長十三年(一六○八)十一月十四日、つまり宗論の前夜のことである。
 いよいよ明日は、江戸城中で浄土宗との対決が行われるという夜のことである。
 理由もなしに、幕府の役人たちが大勢で日経の宿所を襲い、殴る蹴るの乱暴を働いた。
 同行してきた弟子たちは必死になって師の日経を守ったが、何分にも多勢に無勢で、なす術もなく日経は人事不省に陥ってしまった。
 半死半生の日経は、身動きも出来ない。
 付き添いの弟子たちは、宗論の延期を願い出たが案の定許される訳がない。
 やむなく、師の日経を戸板に乗せて城中に入ったのだった。
 宗論に勝ち目がないと暴力に訴え、対論者を半死半生の憂き目にあわせて、宗論そのものを出来なくする手段は、過去にも法華宗は幾度となく合わされている。