生きるかぎりは四苦八苦
お釈迦さまが説かれた教え「苦諦」、つまり四苦八苦のことについて考えてみよう。生まれた以上は病にもかかるし、老いてやがては死んでいく。 そして、その間には様々な苦しみがある。 この世には、いかにも多くの楽しみが満ち溢れているように思えるのだが、それは錯覚ではないだろうか。 つゐにいく 道とはかねて きゝしかど きのふけふとは おもはざりしを 誰もが同じ気持ちではないだろうか。 自分だけは死なない。 イヤ、死ぬにしても、まだまだ先のことだろう。 こんな錯覚の上に生きているのである。 自分はまだまだ大丈夫だと、誰もが考えるのだが、これが実にあてにならない。 チョットばかり病気になると、これはもう死ぬのではないかと恐れる。 普段は他人のことのように考えている「死」も、フト自分の目の前に現れれば真剣にならざるを得ない。 もっとも、真剣になり過ぎて困る場合もあるが…。 一遍上人が開いた時宗という宗派がある。 なぜ時宗と言うのか、何の時を指すのかと言えば、臨終の時のことに他ならない。 臨終とは、「阿弥陀経」の中に記されている臨命終時の略で、正確には「命終わる時に臨んで」という意味である。 「人間が、とかく真剣に生きられないのは、自分の『死』が、まだ先のことだと思っているためだから、毎日を臨終の時だと思えばいい」 一遍上人は、こう考えて時宗を立てたが、凡人がこれを実行しようとしても、緊張が強すぎる。 朝起きるたびに、自分は「今日死ぬか」それとも「明日」かと考えていたらノイローゼになってしまう。 時宗が大宗派になれなかったのは、その辺に原因があったのかもしれない。 「生老病死」の四苦は、自覚するかしないかで、受けとり方が大きく変わってくるが、八苦の内の残りの四苦、つまり、「愛別離苦」、「怨憎会苦」、「求不得苦」、「五陰盛苦」の四苦のほうは、好むと好まざるとにかかわらず、毎日のように私たちの周りに起こっている。 「愛したその日から苦しみが始まる」という言葉があるように、幸せにも自分が長生きをすれば、周囲の人々と別れ離れていってしまう。 先生や先輩、目上の知人や親族は、歳の順だからと納得できても、ひどい場合には逆縁といって、子供から孫までも亡くなってしまうことだってある。 可愛い子を残して先立つ時に、思い残すことはあっても、まさか子供より長生きしたいと願う親はあるまい。 ある人が一休禅師、つまり一休さんに、何かめでたい言葉を書いて下さいと頼んだ。 一休さんは、さらさらと、 「親死、子死、孫死」 と書いた。 頼んだ人が、なぜ死死死がめでたい言葉なのか、となじると… 一休さんは静かに、 「ほう、ではお前の家では、孫死、子死、親死の順のほうがめでたいのかな」 と言ったという有名な逸話がある。 つまり、私たちが愛する者と死別しても、どうにか耐えていけるのも、やはり歳の順送りが普通だからで、これがすべて逆転してしまったら、たまったものではない。 別れ離れる苦しみも辛いが、反対に会う苦しみもある。 怨み憎む者が、顔を合わせていなければならないというのも苦しいものだ。 サラリーマンなどは、どれほどイヤな上司のもとであっても、食べていくためには毎日出勤して顔を合わせなければならない。 腹の中では、 「あの課長の奴め!」 と思っていても、口ではお世辞の一つも言わなければならない。 部長あたりが定年でやめる時には、みんな一階級昇進を期待して大喜びのくせに、愛惜の辞を述べたりする。 また、向こう三軒両隣に、どんなに嫌いな人がいても、やはり近所付合いというものがある。 朝会えば、「おはよう」の一言ぐらいは言わなければならない煩わしさが付きまとう。 しかも、これを複雑にしているのは、人間にはホンネとタテマエがあるからで、特に日本人はタテマエを重んじるので、苦しみが内向し、ストレスがたまる傾向にある。 ある住職が法話を終えた後、一人の婦人が質問をしたいとやってきた。 「先ほどのお話では、仏教では、自分の力で悟ることが出来ない者のための道として、あの世に極楽という世界が作られているという事でした。それでは、どんな人間でも、みんな極楽へ行けるのですか─?」 「私自身も、まだ経験したことがないので分かりませんが、少なくとも往生成仏といって、極楽に行けることになりますネ」 すると、しばらく考えていたその婦人は、 「どうにかして、その極楽に生まれ替わらずに済む方法はないものでしょうか」 と、尋ねるのであった。 その住職、それには少々驚いたらしい。 どうしたら極楽へ行けるのか、という質問を受けたことは何度かあるが、極楽へ行きたくないという人は初めてだったからだ。 そして、よくよく話を聞いてみると、その婦人は毎日ヒドイ姑にイジメられ通しであるという。 あの姑が極楽へ行けるのならば、そこでもまた顔を合わさなければならないであろう。 それでは、まるで地獄だから、極楽がどんなによい世界であろうとも行きたくないというのである。 女の執念というのは、これほどまでに凄まじいものかとその住職つくづく感じたという。 たとえ、この身は地獄へ堕ちようとも、相手とは決して共に住みたくはない。 同じ屋根の下にいる者同士が、怨み憎む者と会う苦しみというのが、まさにこれである。 2007.4.19_UP |