宗教を欠いた科学
日本の仏教学者たちは、科学に歯止めを掛ける役割りを忘れているばかりか、逆に科学に振り廻されている人が多い。「われわれ仏教学者は、科学を知らない。もっと、科学を勉強しなければ…。」 真面目な仏教学者ほど、科学に振り廻されやすい。 科学はまだまだ未熟だ。 進歩中だからこそ、昔の結論が今否定されることもある。 技術的に可能だから作る、行う。 人類には必要のない核爆弾などがそれだろう。 いったい、何を破壊するために作ったのだ?。 『宗教を欠いた科学は、恐ろしい結果を招く』 こんなインド民話がある────。 四人の男が旅をしていた。 ある時、道にライオンの骨が散らばっていた。 四人の中の一人が、骨を拾い集めてライオンの骨格を作りあげた。 「次は、俺の出番だ」と、もう一人の男がそのライオンの骨格に肉をつけ、皮を着せた。 まるで、ライオンは生きているように見えた。 「さて、それではワシが、このライオンに命を吹き込んでやろう」と、第三の男が言った。 第四の男は、「そんなバカなことをしてはいけない」と、彼を諫めた。 しかし彼は、耳をかそうともしない。 慌てて、第四の男は高い木の上に登った。 第三の男が、ライオンに生命を吹き込んだ。 生き返ったライオンは、三人の男たちを食べてしまった。 第四の男だけが、木の上で難をまぬがれた。 この話は、なかなか象徴的である。 三人の男は「科学技術」を象徴し、第四の男が「宗教」を象徴している。 宗教を欠いた科学技術の独走は、時に恐ろしい結果を招いてしまうことを教えている。 これが、この話の教訓である。 例えば、臓器移植である────。 現在、脳死を認めることによって、心臓と肝臓の移植が可能になっている。 心臓や肝臓の移植によって、多くの人の生命が救われる事は間違いない。 そのこと自体は喜ばしいことである。 けれども、私たちは考えておかねばならない。 臓器移植をする為に「脳死」を認めて、まだ息のある人間を「死者」としなければならないことだ。 それをすればいつか近い将来、ヨボヨボの老人は生きている値打ちがないから「死者」である…と科学は言い出さないか。 そこの歯止めは、宗教によってしか付けられないのである。 2007.4.17記 |