合掌の由来は
梵語(インドの古い言語)でアンジャリと言い、古くからインドで行われてきた礼法であります。いうまでもなく両方の手の掌と指をそろえて合わせ、挨拶します。 インド人は右手を清浄、左手を不浄として使い分けますが、両手を合体すると、心に、人間の中にある浄と不浄を止揚する真実の心が現れると信ずるのである。浄い心と汚い心が顕わになる。 ある宗派では合掌法を十二種に分けて、それぞれの意味を説いている。 しかし専門的なことはともかくとして、たしかに手を握ったり、頭をさげたり、頬にキスをするよりも、はるかに深々とした心のふれあいを感ずるのが合掌である。 ある高僧が、 「しあわせになりたいのなら、ちゃんと両手を合わせなさい。両手のシワとシワとが出あってこそ、しあわせになる」 と言われています。 このシャレた説法に聴衆はどっと笑ったそうですが…。 しかし、笑ったあとに……、「たしかにそうだなあ」と、自分の両手を見つめる人も少なくなかったとか。 老人や、子供たちにも良くわかる『合掌のこころ』である。 仏像の多くは合掌しておられる。 釈尊が悟られた「純粋な人間性」を象徴されているのである。 釈尊は、この純粋な人間性を自分だけでなく、誰もが、いつ、どこでも必ず持っている、ただ気づかぬだけだ───という事実を発見されたのでありました。 この純粋な人間性を古来、 「ほとけのこころ、如来のいのち」 と、言っています。 大人の感覚でいえば、自分の中に埋めこまれている純粋な人間性を自覚するがよい、開発するがよい、それが本当の救いであり、こころの安らぎであると教えられているのである。 仏教とは、人間がホトケを拝むとともに、それよりはるか以前から、人間をホトケが拝みどおしに拝んでいてくださる宗教であると云う。 人間が人間になってくれよ、との願いを実感することである。 合掌がもしも恥ずかしかったら、心の中で手を合わせ、そして行動したならば、人間関係は今よりもっと正しくなり楽しくなるであろう。 |