正義の叫び15

大阪高津の衆妙庵

 不受不施の法脈は、日習・日講と継承され、寛文法難を経てから京都妙覚寺系は日珠上人より大阪高津の衆妙庵に移っていた。 
 外観は旅館であったが、その実、内部は本尊をお祀りしてあり、不受不施の寺であった。
 この衆妙庵は、天満の与力であった大塩平八郎が不受不施の熱心な信者であった事もあって、彼の保護を受けて長く存続した。
 豊臣・徳川は、いずれも念仏宗の信者であったから不受不施主義を嫌い、見付け次第、かたっ端から縛っていた時代である。

 頃は、天保九年七月十九日。
 大阪高津の衆妙庵では、時の頭目、日寛・日照・日東の三上人が、折しも密かに折伏布教運動の協議ををこらしていた。
 そこへ突然、数名の与力がドヤドヤと踏み込んできて、三上人をふん縛ってしまった。
 何処でどうバレたのか諸説があるが、ともかく衆妙庵の存在が幕府に知れたのである。
 そして直ちに、大阪より籠に乗せて江戸に護送した。
 もちろん、法度を犯した大罪人ゆえに飲み食いは一切ない。
 箱根を越すまでに、大抵の者は倒れてしまう。
 そうなれば、どこかの山中に死体を放り出しておいて、籠は帰ってしまうのである。
 死んでしまえば、籠が軽くなる訳である。
 だから捕らえられたら百年目、その日が命日となる。
 日寛・日照・日東の三上人の他にも、このような惨状に遭われた上人は沢山あるが、この三上人の命日が皆同じ年月日になっているのは、こういった理由からである。
 かく悲絶壮絶の迫害史を続けて現在に至り、日蓮聖人から連綿として継承してきている。