寺報コラムから

民主主義と多数決

 皇帝は諸侯に、絶対王政は市民革命に、ブルジョワは労働者にひっくり返された。
 少数の支配者が多数の被支配者を圧迫する社会はまっとうとは云えないという理由からだ。
 古代インドの国々は君主制であったが民主的機関もあったらしい。
 古代ギリシアの都市国家においては、一部の扇動的政治家によって大衆が流され、衆愚政治化して民主政は衰退した。
 近代の民主主義は議会制民主主義であり、西欧の市民革命を通して広まったもの。
 現代の民主主義または民主政・民主制(デモクラシー)とは、諸個人の意思の集合をもって物事を決める意思決定の原則・政治体制をいう。
 しかし、人民主権・三権分立を基調としながらも国々において一様ではない。
 ところで、民主主義は多数決で物事を決めていく。
 だが、「多くの人が正しいと思っていること」が必ずしも正しいとは云えない。
 正しいこともあるかもしれないが間違っていることもある。
 真実であるか否か、物事が正しいか否かは本来、多数決とは無関係であることを知っている人は少ない。
 少なくとも、専門的な分野についてきちんと判断が下せるのは専門家のみである。
 それを*敷演すれば、前述した愚衆政治が顕れる。
 余談だが、多数決は、好みや感情を計測するのには最良の手段なのだ。
 それにしても、数や力・金・利益誘導・反利益阻害といった力学で動く政治は間違っていると思うのだがいかがだろうか。

 *敷演
 意味や趣旨を押し広げて説明すること。
 (例)小さい部署の問題を会社全体に押し広げて論ずる。

寺報175号から転載