毒矢のたとえ

 仏教は、実にいろいろなたとえを用いますが、その中でも特に有名なのが「毒矢のたとえ」です。
 これは、自己とか世界とかについて、哲学的に満足のいく答えを聞かないうちは修行に励む気がしないという哲学青年に向かって、お釈迦さんが説いたものだとされています。
 『ある時、人が毒矢に射られたとする。
  ところが、もしもその人が、かけつけてくれた医者に対して、
  「この矢を射たのは一体だれであるのか。
   弓はどのようなものであるのか。
   弦(つる)は何でできているのか。
   矢羽は、どんな鳥の羽であるのかが分からないうちは矢を抜くな」
と言ったなら、その人は、それが分かる前に死んでしまうであろう。
 必要なのは、まず毒矢を抜き、応急の手当てをすることである』
 なんだのカンダノと哲学的なことを考えても、この世に現実としてある様ざまの苦しみが消えてなくなるワケではない。
 重要なことは、その苦しみをどうすれば無くすことが出来るかという事だ。
 というのが、お釈迦さんのいわんとするところです。